「2度目の鑑賞後の思い・・・あなたの生き方は?と問われれば答えは「No」」PERFECT DAYS みなとのジジイさんの映画レビュー(感想・評価)
2度目の鑑賞後の思い・・・あなたの生き方は?と問われれば答えは「No」
先ずは1回目の鑑賞後のレビュー
perfectDaysという映画を私なりに読み取ってみて・・・素直に感動はできなかった。
どうしてフォークナー?どうしてルーリード?どうしてアート作品然としたトイレ?
日常の一瞬に見いだせる美や人生のささやかな喜び、そのメイン素材にこれら小道具がどうにも微妙に作用している気がします。
フォークナー?京都の大学で出来の悪い英文学専攻の学生だった自分にとって、ジョイス、ナボコフ、ピンチョンとならんでunreadable(解読不能)な作家の代表だったフォークナー。「野生の棕櫚」?読みましたよ、もちろん翻訳文庫本で。(原書で読むほど頭も時間もなかったです。あ、ついでに金もね)
そういうことですか。事件らしい事件も起こらない、主人公の淡々とした日常描写が連なるこの映画、実は「野生の棕櫚」で並行して描かれた2つの物語を平山という一人の人物の物語に再構築したものなのか。
モノクロームの映像から伝わってくる不穏な感じはハリーとシャーロットの物語とリンクし、平山の凄惨な過去を想起させる。
そして、現在の平山の淡々とルーティンをこなす日々の描写。それはまさに過去を償う囚人の生活。冒頭のHouse of the Rising Sunは足にball and chainの囚人の歌であり、Lou ReedのPerfect Dayも執拗に過去の行いの清算をリフレインして終わる曲。家出した姪っ子をかくまい数日を共にして、結局母親に引き渡すエピソードは、「野生の棕櫚」のもう一人の主人公である囚人が、洪水から妊婦を助ける物語と重なり・・。テレビもスマホもない部屋は囚人が暮らす監獄の部屋のイメージ。けれど、本と音楽に守られた平山にとって、その部屋は監獄でもあるけれど唯一の安寧を得られる温室でもある。
「野生の棕櫚」の囚人が、一旦得られそうになった自由を捨て、あえて監獄に戻ったように、平山もまた壁のない監獄(温室)での生活をこれからも続けていく。平山がラストシーンで流した涙、それは凄惨な過去を「別の世界」でのことと切り離し、今の新しい世界での生活にようやく平安を見いだせた喜びから流した涙のように見えました。
・・・とまあ、フォークナーの作品やら劇中に平山がかける音楽やら、あれこれ周到に配置された仕掛けをひっくるめて、Perfect Daysという映画を読み解いてみて・・・
でもやっぱり素直に感動はできなかった。
だってね、フォークナーとルーリードで武装した役所広司の「ただものでない感」。人生のささやかな、本当の喜び、豊かさ、美しさ・・・それが、選ばれた特別な人種のものになってしまう感じ。既にピカピカに見えるトイレを更に磨き上げる平山は、引退した美学部教授が骨董の青磁を愛でているようにも見えてしまう。
現代アートのようなトイレ?60年代70年代を想起させる文学作品や音楽を取り上げるなら、まさにその時代全盛を誇った(?)落書きだらけのトイレをなぜ登場させない?人々の欲望や哀しみ、得体のしれない熱情が書きつけられたトイレの落書きがなぜ映し出されない?私の暮らす街には今だそんな落書きだらけの公衆トイレがありますよ、東京にだってまだあるんでしょ?
写真現像屋の親父・・・柴田元幸氏ですよね。東大名誉教授、米文学研究者にしてMason &Dixonなど多くの英米文学作品の翻訳家。ここで彼を写真屋の親父に起用する理由って?
フォークナーのパスティーシュとしてのサイン?
そんなこんなで、皆さんそれなりに感動できる映画にしております、でも隠し味が本当に判る人にはもっと、ね・・・
というのが鼻についてどうしても感動できなかった。何より、歴史のひずみや世の中の矛盾が多くの人々の血を流させている現代の事象を己の「関心領域」の外に置き、監獄=温室に引きこもっている主人公のその閉塞性にどうしてももどかしさを感じてしまった。
社会から孤立したうらぶれた老掃除夫が、トイレの落書きに書きなぐられた様々な言葉に自分の過去を重ねながら、それを消していく行為を通して少しずつ世の中に、未来に向きあう自分を取り戻していく、そんな物語なら感動できたかも、なんて思ってしまう自分はつくづくひねくれ者なのかな・・・
あ、平山さん、あなたにぴったりの曲、I Am A Rock なんてどう?
そして2回目の鑑賞後の今の思い・・・
もし、ヴェンダース監督が、この映画を通して私たちそれぞれに、「で、平山のperfect daysは、あなたの生き方としてあり?」と問うているなら、答えはやっぱりNoです。
「世の中には繋がっているようで繋がっていない、別の世界がある」という平山さんの言葉、それの言い換えに過ぎないのだけどやっぱり私は「世の中は繋がっていないようで繋がっている世界でできている」と、特にニコ、あなたのような若い人に言いたい。「変わらないはずがない」と平山さんが言う「変わる」とは「過去と現在の分断」ではなく「過去と現在、そして未来を繋ぐ」意味にとらえたい。テレビや新聞を通して見る世の中の様々な出来事はどうしても自分の関心領域を侵食し、それ故に心をざわつかせたりオロオロしたり・・・そのくせ、大した行動に出れるわけでもなく(せいぜいやや顔をうつむき加減にしながら、反核や反戦のデモに恐る恐る参加したり、ほんのわずかな小銭を募金箱に入れたり・・・)。選びたい候補者がいないなどと言いながら選挙会場に足を運ぶけど、それは要するに選ぶ明確なビジョンを自分自身が持ち合わせていないことに他ならないわけで・・・
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の中の一節、
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
だけを実践するような私の日々です・・・やれやれ。
そんな私には、平山さんのような生き方はできない。「今は今、今度は今度」と言い切れず、「今に引きずる過去は、そのまま未来に繋がっていく」し、木漏れ日の美しさは、スナップショットに切り取った一瞬だけでなく、むしろ時の流れの中、光や色の移ろいの中に見出したい。(まあ、さすがに部屋はもう少し整頓したいですけど・・・あ、作りかけのガンプラのパーツどこいった?)
私自身の生き方を見つめ直した上で、あえてこの映画の評価を2度目の鑑賞後は★一つに下げます。
皆さんはどうなのかしら・・・