「日々の繰り返しとは何か」PERFECT DAYS かかしさんの映画レビュー(感想・評価)
日々の繰り返しとは何か
平山の1日が始まる、箒をはく音と目覚めのシーンの2回目以降から、日々の繰り返しとは喜びも悲しみも全てそのままに、何事も無かったように引き受けていくことだと感じた。言葉にすると当然のことではある。
その象徴がラストの平山の長いアップの表情だと思う。
あのシーンはこれまでの車内で音楽を聴くのと違い、唯一無二の音楽体験をしたという、この映画のテーマを表現しているが、私には実際の表情というより、象徴的に作られた表現に見えた。踊りと同じような。
人は他人に窺い知れない喜びや悲しみを心に秘めて日々の生活を送っている。
この映画はハリウッドの三幕構成ではなく、独立したエピソードの連作のようになっていて、エピソードごとの感情が、平山の夢のようなモノクロモンタージュや目覚めのシーンで一旦リセットされているように見える。その積み重ねが実際の日々の繰り返しを強く感じさせる。
日々の繰り返しは「儀式」だ。
仕事に向かう、飲み屋に向かう。そのため布団を上げ、身支度する。自販機で飲み物を調達する。
私と世界の意味を形として表している儀式なのだ。
この儀式は生活者として粛々と行われなければならない。
心の込められた儀式を通して私たちは奇跡を見ることができる。もし世界に意味が無いのなら、奇跡も無い。
木漏れ日に決して同じ形の無いことに感動することはないだろう。全ては虚無、偶然の産物だ。
生活の喜びや悲しみも無く、耐えられずに狂って死んでしまうか、あるいは大きな悲しみに遭った時、受け入れられず、立ち直れないだろう。
平山は彼の儀式を通して、奇跡を見ていたのだ。
それが監督の言う、商品ではないプロセス、経験なのかもしれない。
このような面白い映画を身近な浅草でとってもらえたことがとても嬉しい。
トイレ清掃の綺麗な面だけしか描かれていないという指摘があるが、私はそうは思わない。
同僚のセリフや周囲からの扱いの描かれ方だけで充分に思われる。そして、このストーリーをよく企画者が了承したと思う。この映画は偏見や差別も否定していない。
仮にそうした描写が無くても、私たちはトイレ清掃の大変さについて容易に想像がつくのではないか。
そうでなければ、どうして平山の苦しみに感情移入できるのだろう、あるいは彼の修行者のような笑みに感心できるだろう。
彼は言わば出家したシッダールタなのであって、ワーキングプアや独身を肯定するものではない。
コピーのこのように生きれたらという意味はこのように生きれないことを言っている。
ただ、ある一瞬とか、心持ちとしてそうあろうとすることは可能なのではないか。そういう道を示している。
もしこの映画に反物質主義の非現実的な欺瞞とかもやもやを感じるなら、それが私たちが精神と物質のある娑婆世界に生きている証なのだ。
そのような矛盾の中で目に見えない大切なものを求めて生きるのがこの世に生まれた修行なのである。