「宗教に翻弄された一人の少年の人生を通して見えてくるもの」エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命 レントさんの映画レビュー(感想・評価)
宗教に翻弄された一人の少年の人生を通して見えてくるもの
時代はまさに19世紀の近代、教会法から世俗法の時代。時の教皇ピウス9世はイタリア統一運動が巻き起こるさなか中世来の教会の権威保持のため洗礼を受けたユダヤ人エドガルドのキリスト教への改宗を迫り、彼の身を断固として手放さなかった。ヨーロッパやアメリカのユダヤ人社会をも巻き込んでの救出活動も実を結ぶことなく、教皇の手厚い庇護下で育てられた彼は敬虔なカトリック信者へと成長する。
統一運動のさなか、連れ戻しに来た兄に対して自分の人生は自分のものだと言い放つエドガルド。もはや手遅れだった。人生を奪われ、その奪った元凶であるカトリックに身を託した弟に対して返す言葉もなかった。
カトリックに傾倒し教皇に心酔、尊敬していたが、粗相をした自分への容赦ない教皇の仕打ち。敬愛しながらもどこかで彼を憎んでいる。信仰しながらも自分と家族を引き裂いた宗教を憎んでいる。
教皇の遺体に群がる暴徒から身を挺して守りながら、次の瞬間にはこんな教皇は河に放り投げろと言い放つ。このエドガルドの抱える自己矛盾。これは信仰する誰もが持つものではないのだろうか。いくら信心深い者でも心のどこかで常に信仰への疑念を抱いている、その疑念を打ち消すためにさらに信仰に没頭する、それこそが信仰の持つ罠なのではないか。自己欺瞞の沼にはまり込めばもはや容易には抜け出すことはできない。自分の中に疑念がわくたびにそれを打ち消そうと己をだまし続ける。信心と疑念が常に交互に訪れる。その疑念を打ち消すためにだけ人生は費やされる。
自分と家族を引き裂いた洗礼をエドガルドは今際の際の母に施そうとする。盲信の末の純粋な信仰心からなのか、そのあまりに純粋で無神経なエドガルドの姿に母は絶望して死んでゆく。信仰は何を信じようが自由だ、ユダヤ教徒として生まれたエドガルドが改宗することもそれが自己の自由意思で行われたのなら。しかしこのキリスト教への改宗で明らかだったのはこの家族に悲劇をもたらしたことだけだった。
幼き頃のエドガルドが夢の中でキリストを十字架から開放する。キリストはそのエドガルドに憐みのまなざしを向けて立ち去る。彼の境遇を憐れんでいるのか、あるいは歪曲された教義にただただ踊らされ翻弄されて、いまだ世界中で宗教に端を発した争いをやめれない人々を憐れんでの表情だったのか。
激動の時代、宗教に翻弄されたエドガルド。一人のその少年の姿を通して、今も宗教に端を発した争いを続ける世界の姿を垣間見た気がした。