ポトフ 美食家と料理人のレビュー・感想・評価
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目と心を満たす、滴るような味わいを宿した秀作
『青いパパイヤの香り』『夏至』で人々を魅了したトラン・アン・ユン監督が、あれから20年以上経って、かつての滴るような味わいを宿しつつ、さらなる次元へ進化を遂げている。時代は19世紀。ここには料理に情熱を注ぐ男女の弛むことのない究道があり、美食家たちの文化や様式に関する興味深い描写の数々、そして決して止まることなく巡りゆく季節と生命がある。時間を割いて織りなされる調理シーンは、まさに言葉を超えた吐息と滴る汗と所作の連続。香りや味わいと相まって男女の間でほのかに交わされる感情すらも繊細に沁み入ってくるのがとても感慨深い。依存し合うわけでも、甘い言葉を囁き合うわけでもなく、ただひたすら至高の一皿を求め続ける。その真剣な眼差し、信頼しきった表情、その果てにたどり着く感情が美しい。食して終わりではなく、永遠にも等しい理想を生涯かけて求め合うかのような、二人にしか表現し得ない愛がそこには刻まれていた。
料理が紡ぐ人間関係が行き着くところは
代表的なイメージショットは、今年9月に公開された同じフランス発のグルメ映画『デリシュ!』と同じなのだが、描くテーマはほぼ正反対。『デリシュ!』は宮廷を退いたシェフが謎めいた女性料理人の助けを借りて、それまで貴族のためにのみ存在したフランス料理を民衆に解放する物語。その過程でシェフと料理人の間には愛が芽生えていく、という展開だったが、本作『ポトフ』は同じフランスの定番料理の名前をタイトルにはしているが、主人公の美食家と、彼の希望を具現化していく料理人は、もっとクールで、だからこそ強い絆で結ばれている。見ていてそこにぶっ飛んだ。食を介して人間関係を描くと、どうしても情緒に傾きがちだが、トラン・アン・ユンの演出は最終的にその種の傾向とは無縁なのだ。
しかし、次々と登場するフランス料理の完成度は『デリシュ!』以上。東京でもフレンチレストランを経営する三つ星シェフ、ピエール・ガニェールが監修した舌平目のクリームソース、子牛のポワレ、アイスクリームが中に入ったノルウェー風オムレツは、映画の後味はどうであれ、視覚から食するに値するもの。このシーズンに打って付けの作品だ。
繊細で深みのある愛情表現は元パートナー同士ゆえか。調理を流麗にとらえる映像に引き込まれる
優れたダンス/ミュージカル映画が冒頭に素晴らしいパフォーマンスのシークエンスを配して観客の心をがっちりつかむのと同じように、「ポトフ 美食家と料理人」も始まって早々、美食家ドダン(ブノワ・マジメル)と料理人ウージェニー(ジュリエット・ビノシュ)がアシスタントのヴィオレットを指示しつつ手際よく食材をさばいて加熱し仕上げていく過程を、流れるようなカメラワークで躍動感いっぱいに撮影している。トラン・アン・ユン監督の演出意図を体現した俳優たちの演技と、彼らの表情、手や調理器具の動き、そして調理が進むにつれ音を発しながら色と形を変えていく食材を優雅に踊るようにカメラのフレームに収めた、撮影監督ジョナタン・リッケブールの貢献も大きい。
マジメルとビノシュは1999年に『年下のひと』で共演した縁でパートナーになり女児をもうけたが、2003年に別れている。彼らが演じるドダンとウージェニーも公私にわたるパートナーでありながら長年結婚しないままだったという設定であり、互いを想う繊細な感情の表現はそうした私生活の過去の経験がプラスに働いた印象を受ける。
ズアオホオジロのローストを食べる時に皿の真上に寄せた頭の上からナプキンをすっぽりかぶるという、変てこでユーモラスなマナーも描かれている(美食家でない評者は今回初めて知った)。ネットで理由を調べたら、香りを保つため、恥ずべき行為を神の目から隠すため、骨を吐き出す姿を他人に見られないようにするためなど、諸説あるらしい。
絶対味覚を持つ少女ポーリーヌを演じたボニー・シャニョー=ラヴォワールの無垢な魅力もいい。作中では料理の職人技の継承を担う役どころだが、フランスを代表する大女優ビノシュから未来のスターへバトンが渡されたような気にさえなる。本作が映画初出演のようで、今後の成長と活躍が楽しみだ。
お腹空いてきてなんか食べたくなる、そんな映画です
ストーリーは浅く正直どうでもいい内容だが、
料理シーンのカメラワークが結構ダイナミックで
ただただ食欲が湧く映画である。
料理もデザートも美味しそうでめちゃくちゃ食べたくなる。
あと、姪っ子?役の女の子の所作に品があって可愛くて、ちよっと見習おうと思った。
やはりフランス映画は料理ものに限るかもしれんな。
どの映画も食欲がわく。
全幅の信頼が置けるシェフ
19世紀フランスの田舎で穏やかに暮らす美食家とそれを支える女性シェフの物語。光の回り方が優しく、物語に落ち着きが醸し出されます。そして、出来上がる料理以上に、それを作り上げるまでの丁寧で流麗な過程が見ていて気持ちよかったなぁ。先だって『ショコラ』を観たばかりジュリエット・ビノシュは全幅の信頼が置けるシェフです。次々出来上がるお料理に、まるで上級ミステリーを観る様な緊張感がありました。
でも、ポトフは結局どうなったのかの決着と、下働きの少女ポーリーヌが次代のシェフを継ぐ未来の予感を見せてほしかったかな。
目と耳、そして心へのごちそう。
青いパパイヤの香りの監督、繊細で豊か、一瞬一瞬を慈しむように見つめてしまう、余計なものがない作品でした。
余計なものとはなにか。
無理なドラマ展開や
過剰な音楽、オーバーな演技がない。
画面の外を感じられるような、
虫の音や鳥の囀り、
見えないものが重層的に、あたかもパイの生地のように仕組まれていました。ちょっと例えがヤボですが。
冒頭から圧巻の調理行程のスペクタクル。
バベットの晩餐会のクライマックスを先にたっぷりと見せる。
俳優たちは、ドキュメンタリーのようにただひたすらに手を動かす。
そとからさし込む陽光、厨房の薄明かり、蝋燭のランプの灯火。
作る、作る、食べる、食べる。
セリフも極力排され、食べる場面なんぞ。芝居で一番難しい。俳優の人間の素がばれてしまうから。
あのレオスカラックス作品で世に出た美少女ビノシュが、見事に歳を重ね、いまや世界の大女優だ。
しかし、それを全く見せない。
いちばん弱い立場の後ろに隠れるようにして生きてきた人間として、
一品一品をたいせつにたいせつにたいらげていく佇まい。
それまでの人生や、現在の状況、作ってくれる人への感謝、愛情、見つめ合う、凝縮された名場面でありました。
ブノワも、仕事しているだけなのに、背中に男の色気というものが現れて。
この表現!
白黒かつてあったフランス映画の伝統、映画らしさを継承した。
大胆なカメラワーク、動くところがちょっと他に見られないようだったり、音では、音響が雄弁で、かつ寡黙でもあるという、一度では観尽くせない魅力に溢れていました。
思いは胸に秘めて、
言葉は口にするならばとっておきのものに、
まなざしは優しいものにして。
こうするしかなかった、しかし悲嘆に暮れる事なく、また明日から
毎日毎日毎日を最善を尽くして生きていくのでしょう。
出会いと別れ、愛すること、泣くこと、笑うこと、そして、大好きなものへのひたむきさ、情熱。
それだけあればいいのだ、と。
美と食と愛を嗜んで
グルメ映画は数あれど、これは至高の美食映画だ。全ての工程が美しい。
まず特筆すべきは、長回し多用の調理シーン。本物のプロのようなジュリエット・ビノシュの手際の良さに魅せられる。
そこに奏でられるのは、音楽ではなく、音のみ。食材を切る音、煮る音、沸騰する音、包丁と台が出す音さえ心地よい。
そうして作り出された見た事もない独創性溢れる料理の数々…。食べた事もないのに、その味が伝わってくる。
映像美、美術や衣装、外から聞こえる小鳥のさえずりや雰囲気までがこの料理の一つ。
料理は時に芸術だ。料理人は詩人だ。食で謳う。
トラン・アン・ユン監督は名料理人。創り出し、提供する美食の数々に終始舌鼓。
紡がれるは、食で繋がれた愛。
美食家ドダンと料理人ウージェニー。
ドダンが閃いた料理の数々を、ウージェニーが作る。
二人の作り出す料理を求めて、多くの美食家が訪れる。
その評判はヨーロッパ中に。皇室からも晩餐会のオファー。
ドダンはその晩餐会に豪華な料理でなく、フランスの家庭料理の一つであるシンプルなポトフを提供する事を提案。
その矢先、ウージェニーが倒れてしまう…。
ドダンとウージェニーは公私共にパートナー。
そして男と女。
お互い惹かれ合ってはいるが、結婚はしていない。
自立心あるウージェニーはドダンのプロポーズを断り続けている。
ウージェニーが倒れ…。ドダンは彼女の為に料理を作る。
食のプロ同士。愛を伝えるのに言葉は要らない。その想いを形にして心を満たす。何と素敵だ。
想いに応え、遂に結婚。美味しい料理、友人知人、祝福に包まれ、大きな仕事も。
料理は甘美なだけじゃない。酸味、辛味、苦味も。それらがさらに旨味を引き出す。
人生もそうだ。幸せだけじゃない。
突然の悲劇。永遠の別れ。
悲しみ、苦しみもあって。人生を深くする。
自暴自棄にもなる。人生を捧げてきた料理にも手が付かなくなる。
そこからまた新たな美食を作り出す。
ある美食家が一人の料理人に捧げた食と美と愛。ブノワ・マジメルが体現。
アシスタントのヴィオレット、料理の才がある姪のポーリーヌもスパイス。
ポーリーヌの才の為に尽力。
美食家の務めであり、愛した味を残す為に。
人から人へ、舌から舌へ、心に受け継がれていく。
ラストシーンは在りし日の二人。
あなたにとって私は料理人? 妻?
料理人だ。
そう応えた中に、その言葉以上のどれほどの美と食、愛が込められているか。
嗜み、味わい、満たされる。
「食」で繋がる二人の関係性が素敵な一本。
映画の世界でも、撮影機器の小型化・軽量化が進み、カメラが直接に厨房に入ることができるようになったと言われますが、その「フットワーク」を活かして映し出される料理の数々も、本作に華を添えます。
総じて、映画作品として、画面の配色が美しい一本でもありました。
料理人としての技量にドダンから全幅の信頼を置かれているウージェニーと、病をおしても、ドダンのその信頼に応えようとするウージェニー。
その二人の関係性の、何と美しかったことか。その美しさがスクリーンを通じて輝くようにも思われました。評論子には。
(実社会で、この世の中の誰かと、こんな関係性をもし築けたとしたら、それはそれは、どんなに素晴しいことでしょうか!)
「美食」をモチーフとして取り上げながらも、ドダンとウージェニーとの関係性に焦点が据えられているので、違和感(普段は貧食のやっかみ?)もなく、ストーリーの中に入っていくことができた一本でもありました。
「美食」にも「料理人」にも、とんとご縁がなく、食品スーパーでは閉店間際の半額シールから目が放せず、見切り品のカゴの中に野菜類の調達を頼っている評論子にも。
充分に佳作としての評価が可能な一本と思います。
(追記)
最後の厨房での長回しのワン・シーン。
ドダンの回想を表現するのもでしたけれども。
作品上の時間を短時間で遡るという意味では、これも一種の「省略法」と称して差し支えないかと思いますけれども。
映画として、こういう撮影の撮影技法もあったのかと驚きました。
そんなことも印象に残った一本になりました。評論子には。
愛に溢れた映画だった!
日差しが差し込むキッチンの中で、料理するシーンから始まる。肉や野菜が焼ける音、キッチン用具がぶつかる音…映像と音が相まって、ずっと見ていたいくらい美しいシーンだ。
ドダンがウージェニーだけのためにもてなすフランス料理、ドダンをベッド待つウージェニーの後ろ姿、散歩や食事をしながらの2人の語らい、愛が痛いほど伝わってくる。
一方で、ウージェニーを女と愛しつつ、料理人としてのリスペクトを忘れない、ドダンの気遣いが素晴らしい。
ウージェニー役のジュリエット・ビノシュは、今年60歳になっても美しいボディ。後ろ姿だけで、男をその気にさせるセクシーさがある。
「愛している」という直接的な言葉ではなく、料理や会話を通して愛を語る。この愛の表現を描かせたら、フランス映画はピカイチだなと思う。
フランス料理の深さがわかる
フランス料理ってこんなに手がかかってるんだ、というのが第一の感想。料理を作る過程をとても丁寧に描いていて、だからこそ、彼らが「芸術家」であるという表現に納得感が出る気がする。日本料理だとまたちょっと違う表現になる気がするし、フランス料理ならでは描けた世界だと思う。
美食家の男性がいつも何度も「ウージェニーは??」とぶれずに彼女を追いかけていて、なんだか可愛かった。
幸せなまま終わってほしかったと思うけれど、不幸というわけでもないと思う。描かれたのはほんの短い期間だったけれど、彼等はそこに至るまで20年以上も一緒に、美食家と、彼を満たす料理人という関係性でいられたわけだから。
【”ガストロノミー、そして美味礼賛。”今作は料理への情熱で強く結ばれた美食家の男性と女性の料理人の愛と人生を味わい、劇中供される美味そうな料理を目で愛でる作品なのである。】
■19世紀末の仏蘭西郊外に住む、美食家・ドダン(ブノワ・マジメル)と、彼がひらめいたメニューを完璧に再現する料理人・ウージェニー(ジュリエット・ビノシュ)。
2人が生み出した極上の料理は人々を驚かせ、類まれなる才能への熱狂はヨーロッパ各国にまで広がっていた。
ある時、ドダンはユーラシア皇太子から晩餐会に招待されるが、ボリュームはありながらワインを出す順番も含め、満足出来なかったと漏らす。
そして、ユーラシア皇太子に対して、仏蘭西の庶民食であるポトフを提供しようとウージェニーに提案する。
◆感想
・序盤20分の、ドダンの友人達を招いた昼餐会のためにドダンとウージェニーが協力して料理を作るシーンが圧巻である。
言葉は少ないが、2人の料理への愛、お互いを大切に思う気持ちが凝縮されているように思えるからである。
・更に二人は、近所で農家を営む夫婦の娘で、味覚の鋭いポーリーヌにも料理を教えつつ、料理を食べさせ感想を聞くのである。
取分け私の興味を引いた料理はデザートで出された”ノルウエー風オムレツ”である。
・贅を尽くした料理を食べながら会話は、カレームの話に移って行く。外交官タレーランの料理人としてウィーン会議で度々晩餐会を開き、仏蘭西の存在感を高めたと言われる伝説の料理人である。
ドダンの友人達が、単なるグルマンではなく知性と教養がある人である事が分かる。
■秋になり、ウージェニーは漸くドダンの求婚を受け入れるが、虚弱だった彼女はある日、早逝してしまう。
食欲もなく、項垂れて暮らすドダン。
友人達は、彼を励ますために様々な女性料理人をよこすが、ドダンの口には合わない。序でにポーリーヌも・・。
<だが、ある日友人が料理を持ってドダンの家に掛けこんで来る。
その料理を口にしたドダンは、友人からその料理を作った料理人の名を聞き、家を駆けだして行くのである。勿論、ポーリーヌを連れて。
今作は、料理への愛や思入れが凝縮された、トラン・アン・ユン監督が、“食”の深さと楽しさを堪能させてくれる作品なのである。>
料理という芸術、たゆたう様な心地よい映画
料理は芸術だというが料理という芸術が映画という芸術と見事に相乗効果をなしている。
食に少しでも興味のある人はあのめくるめく調理シーンに惹き込まれて時間を忘れるのではないだろうか…
この映画は大きく3つの料理シーンで成り立っている。「料理人」ウージェニーが圧巻の腕を振るう冒頭40分あまりの友人との夕食シーン、逆に「美食家」ドダンがウージェニーを饗するシーン、そして「その後」ドダンがもがき苦しみ再生する調理シーン。そのいずれもが息を呑む。
特に最後の再生のシーンは厳密に計算された無駄と冗長を極限まで省いた感嘆すべき演出。
どん底に喘ぎ料理に関するあらゆる関与を拒否していたドダンが次のシーンでは何の「説明」もなく少女ポーリーヌとチームプレイで料理人のオーディションを行っているというあの見事な省略には心を揺さぶられうならされる。
逆光を意識した照明は終始素晴らしいが、最後ポーリーヌとドダンの「再生の料理」シーンでは明かりが時を追うごとに生気を帯びてくる!
効果音も素晴らしい。
とにかく非常に繊細でドラマティックな映画。
『青いパパイヤの香り』のあのたゆたう様な心地よいテンポを思い出した。
女装映画鑑賞第5回 貧乏がアカンねんで…貧乏が…
女装映画鑑賞も、もう5回目になりました。
「もう止める!」とか言ってませんでしたっけ?知らんがなそんなもん。スカート穿いて映画観るの楽しぇもん。
そんな準備をするため、しばらく.com様をお休みしていました。
「いつもこんな恰好で観に来て申し訳ありません」とのテンプレ謝罪対して「いえいえ、楽しんでいってくださいね」と、とても優しいアンサーをいただきまして。
そのお言葉に、大福餅をハチミツで三日三晩煮締めたほど、甘えに甘えて観てきましたよ。あまり困らせたらアカンぞ。
以前にこちらも女装で観てきた『秘密の森の、その向こう』と同じく、インテリ向きのおフランスの映画なので、さっぱり楽しめないかも…と危惧していましたが、そんなことはありませんでした。
相も変わらず起・承・転・結がわかりにくかったのですが。
それでも2時間ちょいを、十分に楽しませていただきました。
物語が始まって早々に参ってしまったんですよね。SEが思いっきりいい仕事していると感じたの。
農園の野菜を根元から刈る「ザクっ…サクっ…」という音だとか、汲み上げる井戸水の「ザバザバ…ビチャビチャ」の音だとか、スゲー臨場感あったの。
鍋を火にかけ、「コトコト」と煮込む音やら、肉を焼く「ジュワー!」って音とかも。
見てると、お腹空いてきたの。
その逆に、咀嚼音の一切はカットされてたのね。このあたり、おフランスのマナーを徹底させていたのね。
刃牙でのジャック・ハンマーがステーキ食べる時の「ガプ…ギュイーン…ナポ…」みたいな音は出ないのよね。
???ってなって強烈に印象に残ったーシーンがあるんですよ。
ウズラ?か何かの小鳥の丸ごと煮込みみたいな料理を食べる時、頭からナプキン被ってた例のあのシーン。
あれ、何ぞや?と思って調べてみたです。どうやら「オルトラン」という料理らしくて。
食べる時に香りを逃がさないようにするためだとか、神聖な食事を行う際の敬意を表すためだとか、この料理は一部で非難されているから、その行為を隠す意味合いもあるだとか。←禁じ手かよ!
などの理由で、ナプキンで頭を覆うらしいですね。ただ単に咀嚼音をシャットアウトするためかと思ってました。
フランス料理のマナーって小うるさい!中華みたいにドババーっと盛って、ガガガガガ―っと一気に食すスタイルの方が好きなの。ごめんなさい、また本筋から外れちゃったですよね。
そのお話なんですが、料理人のウージェニーが病で逝っちゃたじゃないですか。てっきり主人公だと思い込んでたのに。
「こんなんでお話どう続くねん!」と思っていたら、美食家のドダンが主人公だったのですね。タイトルからして、こちらもてっきり海原雄山みたいなわがままオヤジなんかなーって思っていたら、わりと優しい人っぽくて安心しました。新しい料理人の選抜試験では、結構辛辣でしたけれど。
その場所に同席していた女の子がウージェニーの後を継ぐのかな?と思ったら、投げっぱなし。
そして、最も肝心のポトフの件も投げっぱなしですやん。そこまで描くんかなーと、勝手に思い込んでたんですよ。
思い込み激しいぞ自分。
そして、料理人の腕前がどうとか、グルメがどうとかじゃなくて、この物語って、純粋なラブストーリーだったことに最後の最後に気づかされたの。
ラストシーンでウージェニーの「私はあなたの妻だったの?それとも料理人?」みたいな問いかけにドダンは、きっぱりと「料理人だ」と答えたじゃないですか。病床の妻を前に、どんだけ雄山やねん!と思っちゃったんですよ。そこがどうにも引っかかって。
鑑賞後にあれこれと考えてみたです。ドダンにとってのウージェニーは、最も大切な舌を満足させてくれた人だったと思って。なのでウージェニーこそ自らが全幅の信頼を寄せていた人だったと思って。
そんな期待の全てに応えてくれた彼女こそ、彼の人生を一番彩どってくれた人だと思って。
「愛する妻だ」と言っちゃうのは、とても簡単で、当然のことで。そこをあえて「調理人だ」と万感の思いを込めて、言い切ったんだと思って。
何言ってんだか自分でもよくわからないんですが。
でもね…フランス料理って、やっぱり苦手なの。
美味しそうではあるんだけれど、余白の方が多いお皿をちまちまと小出しにされたり「なんでそんなややこしいねん!」っていうカラトリーの使い方に「しゃらくせぇ!」って思っちゃうの。外側から順に使うって基本中の基本しか知らないの。
やっぱり中華みたいにドババーっと盛って、ガガガガガ―っと一気に食すスタイルの方が好きなの。
和食みたいに箸一膳で完結される料理の方が好きなの。
貧乏がアカンねんで…貧乏が…
牛丼の食べ比べ程度しかできん財布の事情がアカンねんで。
ちなみに牛丼は、さっぱり味の松屋推しです。お味噌汁付いてるし。
そして、評価の印象に“美味しい”って項目がないのが惜しいです。
食を芸術まで高めた美食家と天才料理人
19世紀末のフランスの田舎で、食を追求した美食家ドダンと、彼のメニューを再現する天才料理人ウージェニーの評判はヨーロッパ中に広まっていた。ある日、ユーラシア皇太子から晩餐会に招かれたドダンは、ただ豪華で品数の多いだけで統一性のない退屈な料理にうんざりして帰ってきた。お返しとして、最もシンプルな料理・ポトフで皇太子をもてなすことを決めたドダンだったが、そんな矢先、ウージェニーが倒れてしまった。ドダンはすべて自分で料理を作り、愛するウージェニーを元気づけようとしたが・・・さてどうなる、という話。
スタートからしばらく、料理を作って出すだけのシーンが続き、そんな単調な作品かと思ってたら、なかなか奥深かった。
ウージェニーとドダンの関係がなかなかわからなかったが、籍を入れてない夫婦みたいなのかな、って思ってたら、当たらずとも遠からず、だった。お互いを大切に思い、深く愛し合ってたのがよくわかった。
しかし、なんの病気だったのかな?心筋梗塞みたいな急に息を引き取るような病気だったのだろうけど。
素晴らしい感性と味覚を持ってた少女・ポーリーヌだが、やはりまだ若すぎて苦味の奥深さやワインの良さまで教えるのは幼すぎて難しいよね、って思った。あと10年くらい経てばウージェニーの後継者になれるかも、なんて観てた。
住み込みで使えていたヴィオレットは食の才能がなかったようで気の毒だった。
まるで印象派の絵画のような美しさ
途中の森の中での会食場面など、まるで印象派の画家たちがモチーフにしてきたような世界だなぁと思って観ていたら、どうやら、描かれている年代が19世紀後半ということで、そりゃそうかだった。
「料理界のナポレオン」と呼ばれる美食家のドダンと、そのドダンの考えたレシピを20年以上に渡って実現し、時にはそれを超えた料理を創り出してきたウージェニー。その2人の物語なので、映画の大半が調理場面や食事場面なのだが、どの場面をとっても、文句のつけようがないほど美しい。そして、何よりどの料理も美味しそう。
最初、「美食家」と「料理人」との関係が、今一つつかめなかった。もっと言うと、観終わってからやっとわかった(ドダンは海原雄山なのか!)くらいなので、互いに求めあっていながら20年も結婚しなかった理由がよく分からなかった。けれど、その関係がつかめると、そこにあった彼女自身の揺るぎないプロとしてのプライドとか、彼女自身の映画の中での振る舞いの意味とかがだんだんとわかってくる。
映画のあまりの穏やかさに、近くの方から寝息も聞こえてきたが、それは、「ノーナレ」のドキュメンタリーのように、余計なナレーションや音楽を入れない演出によるものだろう。それが観ていて、とても自然で心地よかった。(ラストにタイスの瞑想曲が流れて初めて、そういえばBGMがなかったことに気がついた)
もう一つ、パンフレットがよくできていて、映画に登場する料理のレシピもついているのでおすすめ。
人間関係が希薄なこの映画は、監督の意向に反して、1/3くらい編集カットされてしまったのか?
SLが好きで、グルメな先輩の勧めで、鑑賞してきました。
現代では珍しくもないが、映画中の"ノルウェイオムレツ"は食べてみたいと思った。
まず、とにかく"カメラに落ち着きがない" いじり過ぎ!
僕達 観客は、料理している最中や、サービス(運んでもらう)時の"手先がみたい"のに、
カメラは人物の顔を追い過ぎて、肝心な手元はうつさない。
暖炉や蝋燭の火はきちんんと映し、たまに木漏れ日までは映すのだが。。。
重要な時に、診さなければいけない"美食家の顔の表情"の露出が足りなかったり
暗い廊下と階段を、あてもなく無神経に暗く映し続けたり、撮影したカメラが安物かもしれないが
撮影には、まったくセンスの欠片がなく ド級の下手カメラ であった。
映画の中で、使われたコンロは、焚火での釜戸なのだが、
カメラが廻っている最中は、カメラが熱や水蒸気で、故障したり、レンズが曇ることを危惧し
撮影時は すべて釜戸に蓋をして撮影している"リアル感のない"ところは強く興ざめした。
中華料理でなくても、火を魅せる事は、調理映画なら重要なファクターな筈だ。
まして、フランス料理では、15㎝から30㎝クラスのフライパンを多用するのだが、
映画では、軽い焦げ目をつけたりすることもなく、油の代わりにワインを使う事もなく、
垂れにもこだわりが薄く、そのくせ英国料理の様に、皿の置き方や盛りつけに注視したり。。。
この映画のような 煮込み中心でしかないフランス料理は16世紀後半の昔であっても、チャンチャラおかしい。
よって、たまに 申し訳程度の湯気は映りこむが、調理時に温度や熱を感じる事もなく、効果音で誤魔化しているのは、料理映画として失格である。
舞台はプロバンス地方の田舎の様だが、映画の地勢を表現したり、映画の魅力を増す為に、
ただの畑や庭ではなく、周囲に広がっている筈の 田園風景 を写す場面が必要であった。
普通の監督は、そのカットを 映画のどこに差し込むか、悩むのだが
本作の監督は、そんなことに悩む以前の問題であった。
新人料理人の成長や、彼女の実家の工夫は? 新技術をポトフに使わないのか?
不採用だった新人料理人との展開は どうでもいのか?
美食家はオーナープロデューサーではあったが、職業は。。。貴族なのか?
結局、最高の料理は、完成せずに、投げ出して他の料理家のファンになったのか?
この映画に、ポトフ(おでん)は関係なかった。
オスマントルコ(ユーラシア国)皇太子との結末は?
この映画のストーリーは解らなかったし、何も残らなかった。
僕は20代中盤から10余年「東京会館」で毎月2回
この映画の様に、オーナー的である 常務・総料理長が属するクラブで、
この映画の"サロン"の様にオーナーと共にコース料理を食していたが、
この映画では、フランス料理の良さである"緊張感"が、何も伝わってこない残念な映画だった。
ただ、主人公:ドダンは、僕らが認識する"フランス男子"として、最高のカッコ良さだったので、ドダンを観る為と
調理と食事のシーンが長く、映画を観ていると、100%お腹がすくので、食前映画としては、最高の出来だった。
料理人の話では、新人調理人を扱った 日本のドラマ「バンビーノ」が好きです。
ウージェニーの肖像
ほぼ全編にわたって料理を作っているか、食べている映画だ。冒頭の延々と続く調理シーンは無駄のない動きが心地よく、感嘆する。時代背景も違うし、フランス人が皆あんなに凝った料理を毎日食しているわけではないだろうが、まさに“豊潤”という言葉がふさわしい。足し算もしくは掛け算の料理というか、ちょっと過剰にも思えるほどだ(日本料理は引き算?)。
ドダン✕ウージェニーの料理を味わうために足しげく集まる紳士たちは、ルイス・ブニュエルの「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」を彷彿させ、少しく滑稽でもある。
ジュリエット・ビノシュも「汚れた血」からもう37年も経ったのかと、感慨深いものがある。時の流れは速いものだ。歳月はそれなりの痕跡を残しているものの、佇まいは健在だ。
そのうち“厨房のポーリーヌ”で続編が作れそうな気もする。
映画のあと、感化されていつになく贅沢なランチにしてしまった。
佇まい
カンヌで賞を獲ったらしいのでかなり迷ったが、予告編に惹かれて観賞。
ポトフというシンプルな料理で至福の時を演出する痛快さを期待したが、
さにあらず。想定とは違ったが、心に響くものがあった。
ストーリーに奇を衒ったところはなく、延々と調理と食事の場面が続く。
単調でウトウトする場面もあったが、調理には結構興味を惹かれた。
結構粗雑で美しさも感じられなかった。
食べ方も私がイメージするフランス料理の作法よりはかなり汚く、
興味をそそられた。
他人に厳しく自分に甘いフランスらしい(あくまでも私のイメージ)し、
2人の生き方も含めてナチュラルに描写されていた。
だからこそ2人の絆にはある種のシンパシーを感じたし、心に疼痛も残った。
2人の佇まいは魅力的だった。
但し、やっぱりラストはゲージツでわかりにくかった。
才能溢れる娘の必然性も最後に霞んでしまった。
わかりやすいラストではゲージツにならないのだろうか。
主役は料理
「デリシュ!」と似ているようだがぜんぜん違う話。
「デリシュ!」は料理を介して幸せになった男女の話、「ポトフ」は、美食に命をかけたふたりの「同志」の話、だと思う、というか主役は料理のほう。
やたら大げさで詩的な形容で言葉を尽くす人々、女性にひたすら愛を語るオトコ、ミステリアスなオンナ、そして美食の追求、という、外国人が想像するベタなフランス映画のようなフランス映画。フランス人男性以外がこれだったらキザすぎてコメディーになるの必然、とちょっと思った。
冒頭から確信犯的に延々続く料理のシーンから目が離せない。
なにこれ、美味しそう、とずっと見ていたい。
キッチンを行き交う靴音、食器やカトラリーの当たる音、焼く音、煮る音、注ぐ音、音が脳内味覚を全開にして、料理の臨場感で胃袋直撃、作る様と、出来上がった料理と、それをざくざくと切り分けて、大ぶりに取り分けて、フォークで、スプーンで、掬って口に運ぶ、ストーリーはすでにどうでもよく、それだけを見ていれば至福、と思った。
「私はあなたの妻?それとも料理人?」と亡きウージェニーの幻に聞かれて、「料理人」と答えるドタン、これはドタンがウージェニーを料理人と「しか」思っていない、ということではなく、夫婦というより料理という共通の目的に命を掛けたプロフェッショナルな「同志」という認識、それぞれの役割を完璧に果たす、二人で一つの、得難い「相棒」、という認識と受け取りました。それに気づいたドタンはすぐに、目的を果たすための、欠けた部分を得る行動、新しい料理人獲得に出たんだと思います。
突然現れた天才少女の影で浮かばれない体の助手のヴィオレットが気の毒
で、皇太子に出すポトフはどうなっちゃったんでしょうね。
レシピを作る美食家と、それをキッチンで完成させる料理人。 実際の料...
レシピを作る美食家と、それをキッチンで完成させる料理人。
実際の料理シーンが凄くて…肉や魚をさばく、下ごしらえ、ソース作り、盛り付け、など、具体的に臨場感たっぷりに映されて。
食への追究、お二人の信頼に満ちた、最初から最後まで食欲をそそる映画でした。
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