墓泥棒と失われた女神のレビュー・感想・評価
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豊かで独創的なイメージの連続に酔いしれる
傑作と評された前作『幸福なラザロ』に比べればやや取っつきにくいかもしれないが、しかし主人公の不機嫌さの表層をめくると、途端に眩いばかりの表現性の渦に飲み込まれる。かくなるイメージの連鎖を泳ぎつつ、観客が自ずとストーリー、状況、登場人物の心境をつかまえていく映画とでも言おうか。難解なことは何ひとつない。我々はただ、あの列車のコンパートメントから乗客がひょっこり顔を出すシーンのおかしさ、フェリーニ的な狂騒と祝祭、イタリアという名の女性の調子っぱずれの歌声、唐突な電子音楽へ包まれゆく奇想天外な味わいを受け入れるだけでいい。そうやってあらゆる描写が記憶となり、131分の愛すべきキメラ(幻想)を崇高に織り成していく。掘って、掘って、掘り続けた先にたどり着く結末も、もはや言葉では説明不要。あくまで映画的な言語として提示されるからこそ、心掴まれ、胸にすとんと落ちる。糸はまるで暗闇に射す一筋の光のようだ。
赤い糸の先には
1980年代のイタリア・トスカーナで、考古学愛好家のイギリス人・アーサーは、古代エトルリア人の遺跡を見つける事が出来る不思議な能力を持っていた。アーサーはその能力を利用して墓泥棒の仲間たちと埋葬品を掘り起こしては売りさばき金を稼いでいた。そんなある日、アーサーたちは希少価値を持つ美しい女神像を発見したが、その像は闇アート市場へ持ち込まれ・・・さてどうなる、という話。
エトルリアという都市国家群が現イタリアのトスカーナ州あたりにあったんだと鑑賞後調べてわかった。
墓泥棒、って題だから近代の墓かと思ってたら、紀元前の事だから完全に古墳だね。日本だと弥生時代頃の墓だから、考古学的に貴重な資料だったんじゃないかと思ったが。
そしてあの女神の像はミケランジェロのチョイ前くらいかと思ってたのだけど、エトルリアのものだとしたら、1000年くらい前なので完全に勘違いでした。
アーサーが二股の木の枝で遺跡の場所を探すのが、昔流行ったコックリさんそっくり、って思った。
地下で入り口が塞がった時、天から降りてた赤い糸が、彼女のスカートほどけた赤い糸だった、というファンタジーだったのかな?
イマイチ良くわからなかったし、長くて少しダレた。
音痴でドジなイタリアが可愛かったし、アーサーが彼女に惹かれたのもわかる気がする。
アーサー役のジョシュ・オコナーの口を開かないおちょぼ口の笑顔が良かった。
マジックリアリズムの逸品
確かに地続きの人たちがいる。
ファンタジーじゃない。
アーサーは、3割くらいこの世界線にいなかったよね。
宝物を見つけるのは、その3割かもしれないけど、現実の7割が、それを後押ししてる、と思った。
[幸福なラザロ]でも感じたけど、丁寧で無頓着な風景描写が、深遠なテーマを際立たせる。
イングリッシュマン・イン・トスカーナ
ダウジングと言えば、ビクトル・エリセの「エル・スール」でオメロ・アントヌッティが演じた主人公の少女の父親を思い出す。その寡黙で謎めいた佇まいといい、この映画の主人公にも通じるものがあるように思う。ジョシュ・オコナーというのは寡聞にして私の知らない役者だったが、どことなく憂いを帯びた風情に惹かれる。
エトルリア文明の発掘の話は確か浦沢直樹の「MASTERキートン」のエピソードにも出てきた覚えがある。外気が流れ込んだ途端壁画が色褪せていく場面は「フェリーニのローマ」でもとりわけ印象的だった。海に投げ込まれた女神像の頭部は、それなりの装備で潜れば回収できるのでは?文化遺産としてぜひ元どおりに修復しないともったいないです(サモトラケのニケは首がないままなので)。
最近ちょくちょく見かける無理やり説明的な(かつての「土曜ワイド劇場」のような)邦題は何とかならないものか。この映画の原題も単に“キマイラ”だし、「鑑定士と顔のない依頼人」は“最高の出品”だし、「ゴヤの名画と優しい泥棒」は“公爵”だ。
イザベラ・ロッセリーニも70代か。記憶の中では「ブルーベルベット」あたりの印象で止まっていたので、ちょっとびっくりした。
【”幻想を探す。”今作は墓に隠された財宝を見つける”幻想”に憑りつかれた墓泥棒達の物語であり、ダウジング能力を持つイギリス男の喪失と再生の物語である。】
ー アリーチェ・ロルバケス監督は「幸福なラザロ」を鑑賞して瞠目した監督である。そして、今作もどこかファンタジックでノスタルジックな作品であった。-
■英国人のアーサー(ジョシュ・オコーナー)は、地下に眠る古代エルトリア人の墓を木の枝で見つけるダウジングの能力を持っており、墓泥棒仲間から一目置かれている。
そして、彼は刑務所から出所した後、行方知れずのべニアミーナの事が忘れられず、彼女の母フローラ夫人(イザベラ・ロッセリーニ)の邸宅を訪ねる。
・・という粗筋だが、序盤は詳しくは語られないのでやや混乱するが、身を任せて鑑賞する。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・徐々に、英国人のアーサーが刑務所から出所しても浮かない顔である理由がぼんやりと分かって来る。
いづれにしても、何処かノスタルジックな雰囲気が漂う。
・アーサーは、掘立小屋の様な所に住みながら、二股に別れた木の枝を使ってダウンサイジング能力により古代エルトリア人の墓を見つけ、残された葬送品を掘り出し財宝販売で富豪になっているスパルタコ(アルバ・ロルヴァケル)に買って貰い日々を過ごすが、どの墓も暴かれたモノばかりで大した金額にはならない。
ー 子供の頃に読んだ「ツタンカーメン」の物語のカーター博士をふと思い出す。が、アーサーとその仲間は、カーター博士のように学術のために墓を掘っているのではない。-
・そして、徐々に彼が行方不明になったべニアミーナに思いを馳せている事が分かる。警察と鼬ごっこをしながら、墓を探すアーサー達。
序でに、フローラ夫人の元で下働きする”イタリア”と、アーサーとの関係が最初は良くは分からないが、”イタリア”が実は子供を二人密かに育てている事も分かって来る。
■ある晩、アーサー達は未盗掘の墓に出会い、その墓の中に会ったビーナス像の首を持ち帰る。だが、警察に通報されそのビーナス像はスパルタコの手にわたり、彼女は陽光降り注ぐ海の上のクルーザーの中でその像をオークションにかけるのだが、そこにアーサー達がやって来て、スパルタコの前でその首を海に投げ込んでしまう。何とも、寓話的だなあ。
<そして、アーサー達は再び墓を探し始め、墓を見つけるのだが最初に入ったアーサーは土砂崩れにより真っ暗になった墓の中を這い進むと、そこにスルスルと赤い紐が降りて来て陽光が差し込む穴を見上げると、アーサーとべニアミーナが楽しそうに糸を降ろしているのである。
今作は、ノスタルジックで神話性を漂わせた詩情あふれる作品なのである。
ラストのシーンの解釈は色々有るよなあ、と思いながら劇場を後にした作品でもある。>
<2024年9月1日 刈谷日劇にて観賞>
墓泥棒は悪くない
Twitterで信頼しているレビュアーの方が大絶賛していたから結構期待してたんだけど、尽く自分の趣味には合わなかった。
邦題とポスターからするに、ポップで陽気などんでん返し系コメディが想像できたんだけど、全くと言っていいほどその逆で、かなり静かかつ行間の多い、寂しい雰囲気の漂う作品だった。空気感は自分好みではあったものの、序盤のゆったりしたテンポ感とか特に、The・自分の苦手な映画って感じで、正直受け付けられなかった。これって、ジャンルなに?現実?フィクション?現代?未来?なんだかしっくり来なくて、居心地が悪い。
「チャレンジャーズ」での熱演が記憶に新しい、主演のジョシュ・オコナーが醸し出すオーラには自然と惹かれてしまう。色気というか、なんというか、身から出る独特な何かに魅了されてしまう。彼が心を開いたり閉じたり、恋心を抱いたり抱かれたり、そんな様はずっと見ていられる。
個人的にはラブストーリーに展開していったのは、完全に想定外で求めていないなぁと思っちゃったけど、ジョシュの好演をまた見れたという意味では儲けもんだった。この映画は、彼いてこその映画だと思う。
優しくて穏やかで小綺麗な映画ではあるんだけど、それ故に敷居が高くて、フランスやイタリア映画を普段から嗜んでいる人じゃないと存分に楽しむのはなかなか難しい。自分もまだまだ映画知らないんだなぁって思わされるそんな作品だった。こういうのも好きになりたいんだけどね。どうしても脳内を刺激するシーンや劇的なオチを求めてしまう病なもんで、、、。
不思議な良さ
墓泥棒は、個人的に仏さまを冒涜する行為で、
非常にムカつきましたし、
正直、途中、何が言いたいんだろう…って思ってしまったし、
長いなぁ…って、あくび出ちゃったところもあるんですが、
最後の“赤い糸”の
ところで、すべてがOKになるような、
不思議な良さがある独特な作品でした。
ある意味、純愛なのだけど…
少し悲しい気分にもなってしまいました…。
お盆に観るのに良いですね。
キメラ
不思議なダウジング能力で地中の古代遺物を見つけ出す事が出来る男のどこかとぼけた不思議なお話です。
「この映画は一体どこに向かってるの?」と戸惑い、彼のダウジング能力の意味は分からず、失われた婚約者の物語も一定点から深まらず、歌の先生も訳が分からず、新しい恋も進むような立ち止まる様な、お話はひっくり返ったり裏返ったりを続けます。本作自体が、原題の「Chimera」(頭と胴体がライオンで背中にヤギの頭がついており蛇の尾を持つギリシャ神話の妖獣)の様な多面性を次々繰り広げるのです。でも、一つ一つの場面に惹かれている内に物語は振り出しに戻り、結局何だか幸せな気分。これは遣られたなぁ。
古代の地層のように幾重にも被さる寓意にうずもれる
1980年代のイタリア・トスカーナが舞台の作品。
観光遺産を複数抱え、幾度となく映画の舞台となった(ロマンチック・ストーリーが多いが、タルコフスキー監督の『ノスタルジア』なんてのも)トスカーナは、監督アリーチェ・ロルヴァケルの故郷でもある。
でも、どうして80年代?
それはさて置き、この作品はイタリア映画の伝統を引き継ぎながら、現実と非現実のあわいを彷徨う主人公とともに、意味深長で謎めいたラストへと、鑑賞する者を誘なってくれる。
主人公・アーサーの仲間が奇抜な装いで街に繰り出して騒ぐシーンは、多くの人が指摘するようにフェリーニの監督作品を彷彿とさせるし、建物自体が遺跡のような館に一族とともにしがみ付くフローラ夫人は、まるでヴィスコンティの『山猫』のワンシーン。
だが、村を出て海岸に降り着くと待ち受ける、煙突やクレーンがそびえ立つ工場群は、この作品がネオ・レアリズモのDNAをも引き継いでいることを否応なく知らしめる。
工場の登場シーンを挟んであらためて見るトスカーナの風景は、もはやフェリーニ、ヴィスコンティの映像芸術の世界ではなく、F.ロージ監督の『エボリ(原題「キリストはエボリにとどまりぬ」)』の寒村のよう。
生業に着くことを厭い、墓荒らしで日銭を稼ぐ若者たちが棲みつくこの村もまた、神から見捨てられた土地といえるが、この地に舞い戻ってくるアーサーは見た目はキリストっぽいが、『エボリ』でのレーヴィのような啓蒙の救世主とはならない。
『映画で見つめる世界のいま』での藤原帰一先生の解説によれば、この映画の原型はギリシャ神話のオルフェウスの話なのだそうだが、それ以外にも寓意や宗教的なモチーフが幾重にも織り込まれているようにも感じる。
イギリス人の主人公アーサーを演じるのは、新鋭ジョシュ・オコナーで、彼自身も英国出身。アーサーは特殊な感覚で古代エトルリアの墓を探り当てる。
イギリスと古代の美術品との関係を考えれば、やはり大英博物館に思いが至るが、収蔵品の多くを植民地支配の時代に海外から掻き集めたせいで、今では略奪博物館とか、泥棒博物館なんて呼ばれることも。何のために主人公をイギリス人にしたのか、つい深読みしたくなる。
フローラ夫人の世話係として登場するイタリアと呼ばれる女性も、アーサー同様、異邦人。
シングルマザーの彼女が抱える子供が二人とも実子なら、どう見ても父親は別。
アーサーらの墓荒らしを非難してやめさせようとするイタリアは、この作品中、唯一の常識人だが、カトリックの旧い倫理観に許容されずにフローラ邸を逐われたあと、廃線脇の見捨てられた駅舎に同じ境遇の家族を集め、小さなユートピアを築こうとする。
アーサーを墓泥棒と非難しながら、救いの手を差し伸べるイタリアこそ、現実世界の女神なのに、冥界の恋人を求めてアーサーは彼女に背を向ける。
やがて迎えるラストシーンと、アーサーの運命はちょっと複雑。
観る者によって、印象や解釈は大きく別れるだろう。
単純に、アーサーが生還できたか否かや、ハッピーエンドかバッドエンドかで、観る人それぞれに意見がある筈。
閉じ込められた穴の中で、わずかに洩れる光に導かれ、天井から垂れ下がる赤い糸を手繰ると、地上でアーサーを待ち受けていたのは、恋人ベニアミーナ。
このシーンで二人の生存を確信する人は多くないかも知れないが、彼らの生死にかかわらず、ハッピーエンドと捉えたい人もいるだろう。
だが、自分がどうしても気になるのは別な点。
金蔓になる女神の頭部を海中に捨て、墓泥棒仲間から愛想を尽かされたアーサーが、新たに接触するグループに付いていくと、古代の金貨を見つけたと証言する若者が現れる。
彼の言葉はどこかたどたどしく、表情は固い。そして、グループのメンバーに「墓を発見した者が最初に入るべき」と促され、うかつに穴に下りてしまったことで、アーサーの運命は決する。
アーサーが穴に閉じ込められたのは、事故か、それとも故意なのか。
盗掘品の売買を巡って対峙するスパルタコの一味をアーサーの仲間は過小評価しているが、相手は重機を使って埋蔵品を掘り出し、客船にセレブを集めて美術品を密売する豊富な資金力もあれば、平気で警察にもなりすます大がかりな裏組織。
逆鱗に触れれば報復は当然で、アーサー以外の仲間もただでは済まされないだろう。
舞台となった1980年代のイタリアは、「鉛の時代」と呼ばれる暴力が横行する不幸な時代。
東西冷戦の対立がそもそもの起因といわれる世相を暗喩するように、巨大な工場群は経済格差やいびつな発展の影を落とし、貧困のために、犯罪に手を染める者も。
恋人を失い、傷心を抱え、仲間に求められるまま墓荒らしを続けた挙げ句、生き埋めにされるアーサーの最期は本来なら悲劇。
だが、監督は暗闇に囚われた彼に、様々な解釈が可能なラストシーンを用意する。
それは、単にファンタジーとしてのフィナーレなのか、墓泥棒という背徳を、命で贖ったアーサーにのみ与えられた宥しなのか、それとも不幸な時代を経験したすべての人へ捧げる癒しなのか─。
この作品を観るきっかけは、前述の「映画で見つめる世界のいま」(NHK「キャッチ!世界のトップニュース」の番組内、月イチコーナー)で取り上げられていたから。
監督や他の作品の知識はまったくなかったが、先に投稿された方の多くが絶賛されていた『幸福なラザロ』は、機会があれば、ぜひ観ようと思う。
それと、もうひとつ。
作中に何度か登場するコンロ付きの小型ガスボンベは、なんか便利そう。
今の日本でも手に入るのかな?
彼女のもとへ
主人公アーサーと彼女との仲睦まじいシーンから
始まりますが、どうやら彼女は亡くなっているらしい
ことが劇中でわかります。
だからか、アーサーはきったない身なりをしていて、
基本的に不機嫌な感じなんですね。
世捨て人かな?と思うくらいに。
でも、イタリアという女性といい感じになったり、
墓泥棒がバレて嫌われたり、再開してまたいい感じに
なったり、またそこから逃げたりと、
まあ、落ち着かないんですよね。
このあたりも世捨て人感があります。
アーサーは墓泥棒として遺跡を発見する能力があるとか
凄いやつでありながら、盗掘品を売り捌く
スパルタコと対峙するあたり、
なかなか面白かったです。
女神像の首を海に投げ込むのも気持ち良かったです。
そしてラストは落盤事故にてきっとアーサーは亡くなる
のですが、そこで彼女が出てきて、彼にとっては
きっと良い人生の締め方だったのでしょうね。
なんとも不思議な映画でした。
この監督さん、やはり只者じゃない
おもしろい!思い返すほどにしみじみとさせられる。前作「幸福なラザロ」も衝撃的だった。とにかく味付けがいい。フェリーニ調だったりミステリアスであったり、独特のカメラアングルは色彩も豊富だったり。そしてストーリーが奇抜。夢か現実なのか混同するけど難解というよりかメルヘンチック。それにこの監督さんは「1つの人生」という短い時間軸ではなくもっとおおらかな感覚をもっているようだ。「人生も一時的」というセリフにもあるように輪廻転生的な考えがある。小さなことでくよくよしていたらもったいないよって、背中をおしてくれる。鑑賞後は気分が晴れ晴れとし、不思議な安心感があった。
何が
何が目的だったのか?私には少しわかりにくかったです。
主人公は最初やや凶暴で、ただ、かつての恋人の母には好かれていて。
特殊能力を使って、埋葬品を見つけて売り捌く事を生業にして。
恋人の母のところに居た女性と恋に落ちそうになるが、埋葬品を盗むことを咎められ、腐れ縁の仲間とは別れ、女性の下へ行くが、やっぱり昔の恋人が忘れられない?って感じでしょうか?
キメラ「ここ掘れワンワン」
主人公アーサーの俳優、どこかで見たと思いきや「ゴッズ・オウン・カントリー」に出てたジョシュ・オコナーだったのか。髭生やすと雰囲気変わるなあ。そしてイタリア語も話せるのか(流暢ではない設定のようだけど)。
イタリアって穴掘れば遺跡に当たると言うほど古代遺跡に溢れていて、そのせいでなかなか建築工事も進まないようですね。
映画の舞台である80年代は尚更そうだったようで、主人公アーサーが「ここ掘れワンワン」とばかりに墳墓を当てられるのもそれだけ遺跡が豊富だったからだろう。しかもエトルリア文字ってまだ文字が解読されてないみたいですね。だからこそ余計に謎が深いのかも。
しかしアーサーも、墓を漁るチンピラたちとつるまず、学芸員にでもなるか博物館に能力を売りこめば全うに生きて行けそうなのにもったいない・・・。それだけ妻を失った悲しみが大きかったのだろうけど、正直愛する人を失った男がすさんだ生活を送りつつ、別の女性に癒やされる映画には飽きたなあ・・・と思いながら観ていたのですが(イタリアの美しい風景や地方の祭りなどの眼福な舞台設定があるので退屈はしなかったが)、最後の15分で、ああそうきたか・・・と。
ラストシーンは救いのようでもあり、幻影のようでもあり、人はそうそう変われないという諦念にも似た境地でもあり。
ママン
ボレロと二本立てだったのですが、やはり女優陣が好みでなかったのです。ママが一番好きだなぁって調べたらイザベラ!うわ!当たり前ですね。わからんかった。途中まで眠かったのですが7割過ぎたところから急に面白くなって良い映画でした
昔懐かしいイタリア映画の感覚…
興行成績のリスク回避で保険会社からダメだしされるハリウッド映画のようなシバリのない自由さ、テンポが遅い牧歌的な冗漫さ、ああ久しぶりに観たなぁ、フェリーニを彷彿させるシーンも。やっぱりヨーロッパの映画作りは娯楽じゃなくて“学び“であり、文化なんですね。そういう伝統や矜持がある。よれよれ服の主人公、いい味出しでる。よかった。
ちょっとフェリーニ思い出した。若い監督でこんな人が出て来て嬉しい。
こりゃ久々ヨーロッパの南らしい良い映画。
ダウンジングの才能がある男が墓泥棒と連んでいるけどあんまりお金には興味ない。居なくなった婚約者が好き過ぎて見る幻、そんな頭煮えちゃった男の話。汚れた白ジャケットが凄く似合う主人公ってやっぱり暑い国の映画だよ、赤い紐伝説とか私の副葬品知らない?とかファンタジーがあって清濁のコントラストもよい。イザベラロッセリーニは婆ちゃんになっても素敵可愛かった。
撮影もフィルムさらに35.16.S16と使い分けて昔の映画っぽくフレームの枠まで写ってて芸コマです。現実と幻想が交錯する編集がレオスカラックスのエディターと言うのも納得。
またも女性監督、アリーチェロルバケル、レイチェルランバート、ケリーライカート、好きな監督増えた。
吉村作治先生が観たら、羨ましがるに違いない特殊能力
イタリアのトスカーナ地方。
特殊能力を持った考古学愛好家のアーサー。
今回は残念ながら、ジョシュ・オコナーのダビデ像のアレを大きくしたような裸体は拝めませんでした。
ジョシュ・オコナー急に老けた???
ちょっと臭ってくるようなヨレヨレのジョシュ・オコナーでしたが、相変わらずカワイイ。
彼にとって世俗はまったく意味はなく、幻想に出てくる死んだ恋人の姿を追うように漠然と生きている。ただそれだけ。生ける屍。欲もなく、世捨てびとの役。似合いますね。
こんなふうにいつまでも愛されている美しい彼女(イレ・ヤラ・ヴィアネッロ)は幸せですね。
一度も荒らされてない紀元前の遺産がバンバン発掘される。仲間が女神様の首をチョンパして持ち帰ろうとすると、考古学愛なのか美意識のためなのか、パニックに陥ってしまう。
イタリアという名前のシングルマザーの住込みのお手伝いさんが彼とは対照的。
彼女に惹かれそうになりながらも、またもや悪い連中に利用されて、古い墓に幽閉されてしまう。一本の赤い糸の先には微笑むイレ・ヤラ・ヴィアネッロが。
死んだな····彼女のもとへ旅立ったな····と思ったら、夢オチ???
悪い美術商役のアルバ・ロルバケル もキレイだった。
しかし、なにをして刑務所に容れられていたのか?文化遺産損壊および密売の罪か? 懲りないアーサー君。
吉村作治先生が観たら、羨ましがるに違いない特殊能力。
キメラ 連想と幻想
遺物発掘を探し当てられる不思議な能力
のアーサー。一度は刑務所に入ったが
また再び日銭を稼ぐ為に仲間と始める。
これから映画が始まりますよと言う感覚を
ビシバシ入れてくるアリーチェ・ロルヴァケル
監督。イタリアの青い空、綺麗な日差しと光
古い建築物、乗り物を上手に映像化する手腕。
上下反映も使い、死と生の曖昧さを不思議な
形で表現している。あの水溜まりは死者との
繋がりの窓口。
喜劇と悲劇を絶妙に織り混ぜてくる。
凄い。
母親は見つけてくれるとアーサーを信じていたし。ずっと見つけられてない彼女ベニアミーナ
に会えて良かったね。
幻想という不思議な魔法にかけられた
素敵な映画でした。
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