二つの季節しかない村のレビュー・感想・評価
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感動や衝撃とは一味違う不可解な人間模様に引き込まれる
かつてヌリ・ビルゲ・ジェイランの映画に魅了されてトルコを旅した経験のある筆者にとって、今回の新作はアナトリア東部の村に広がる雪景色にどっぷり身を浸しつつ、そこに立ち現れるクセの強い嫌なキャラクターに絶えず心をかき乱される3時間18分だった。面白いもので、その嫌なやつぶりが定着すると、徐々に自分の中の印象が「彼が」ではなく「人間ってやつは」に変わる。どんな場所でも、状況でも不満タラタラ。こんな人はどこにでもいるし、ある意味、私の内部にも確実に彼は存在する。そんな普遍的な写し鏡のようにすら思える状況がそこには刻まれ、主人公の身勝手さが上書きされるたび、対比的に壮絶な過去を持つヒロインの、後ろ向きではない生き様が際立っていく。決して感動や衝撃といったカタルシスではなく、それとは別次元のなんとも不思議で不可解な心模様に連れ込まれる異色作。後半でふと差し挟まれるちょっと思いがけない描写も楽しみたい。
厳しくも美しい大自然に対比させられた主人公の卑小さに魂が震える
映画のあちこちにアンバランスな二項対立が散りばめられている。自然と人間、教師と生徒、男と女、管理・監督する側とされる側、理想と現実、善と悪、個人と集団、若さと老い、夢と挫折感。そうした対立する要素が複雑にからみ合い、ストーリーに緊張感と推進力をもたらしている。
トルコの名匠と称されるヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督の直近3作品は、カンヌ国際映画祭パルムドール受賞作「雪の轍」、「読まれなかった小説」、そしてこの「二つの季節しかない村」と、いずれも3時間超の重厚なヒューマンドラマ。主要人物らによる現実的な話題や問題についての対話や論争から、「人間とは何か」「生きるとはどういうことか」といった哲学的・観念的なテーマが浮かび上がってくるのも共通点で、大長編の文芸作品を読み進めるのにも似た鑑賞体験と言える。
主人公の中年男性教師サメットは、自尊心が強くて村人を見下したようなところがあり、卑しくてずるい部分もある。ジェイラン監督は屈折したインテリの嫌なところをこれでもかと徹底して描き、観客の多くはサメットを好きになれないはずだが、隠しているつもりの自分の醜い内面を見透かされたようで、精神の深いところ、あるいは魂が震えているのではないかという気さえしてくる。本質的に近しい部分がいやおうなしに共振してしまうというか。
本編の約2時間半過ぎ、サメットとヌライの長い対話のあとで、構築された映画の世界を崩すような意表を突く演出がある。さまざまな解釈が可能な仕掛けだが、映画世界の虚構を見せることによって、自分から見えている世界に絶対的な真理はない(見えない裏側がある)ということ、言い換えるなら“主観の世界の相対性”を象徴しているではないかと個人的には感じた。
人間の心中を如実に描いている傑作。サメットは薄気味悪い!
ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督は大好きな監督の一人で、80%の作品は鑑賞してレビューを書いている。三時間もあるので、一度では鑑賞できないので、3回に分けて鑑賞する。
そして、一時間鑑賞してからレビューを三度にわたってかく。であるから、私のレビューは断片的になる。好きなシーンを主に書く。
1)この映画の舞台はカレヤス(Karayazi)と言って、トルコのErzurumの町(村)の一つだと聞いた。Nuray(Merve Dizdar) 足の悪い高校の英語の先生、が言うように、英語を教えているより、クルド語を習っていると言ってる。だから、クルド人が多い地域と察する(日本にいるクルド人もトルコ政府の抑圧から主に日本に来ているからだ)。少数民族クルド人に対しでだから、学校は権力を行使していて子供の態度やナイフの保持していることなど抜き打ち検査をするようだ?
主人公、サメットの性格をこの冬の長い極寒の季節が表現している。学校まで雪の長い道のりを歩き、途中で拾ってくれる人がいれば、恩恵を被る。行動的ではなく、根暗な性格をしているようで、ビタミンdを飲めと声をかけたくなるような人だ。
学校では美術の教師だが、子供に夢を与えるわけでなく(知っているものを絵ががせるだけ)エコ贔屓が半端じゃない。優柔不断そうな雰囲気を十分に表し、何にでも飛び込んでいけない消極的なサメットの人柄を表現している
一番好きなシーンは主人公であるSamet サメットが同僚であり、一緒に住んでいると言ってる(housemate)Kananケナンにいい人を紹介すると言って喫茶店でNurayを紹介するシーンだ。初めに、Nurayヌライに好意を持っているSametがなぜ、彼女をKananに紹介するのか理解不足だったが、SametサメットはKananと水を汲みに車で行ったとき、自分はイスタンブールに行くからここには長くいないと。そして、結婚もしたくないと。Samet はNurayヌライに二人で会ったときも似たようなことを言っている。しかし、Samet サメットの目線は明らかに彼女に興味を示してる。ちょっと理解し難いがSamet サメットの未練たらしい、明るくない性格の一部だと理解した。
この喫茶店のシーンで、車は自由を与えて、田舎を探検することができるとヌライ。サメットは雪がと。ケナンは道はあると。そして、Diyadin Canyon(地図で調べると彼らのところから169k離れていて、二時間15分だとGoogle Mapで)に行こうと。サメットは雪の嵐がと。ケナンはいつも心配していたら何にもできないよと。行動に移すだけさと。これだけの会話で、三人の人柄が明確になっている。
理解し難いシーンはクラスの女の子の書いた恋文をサメットは返さないことだ。Sevim(Ece Bagci)はわかっている。先生のサメットが持っていることを。先生に対しての気持ちを書いた恋文だから。多分、サメットの自己満足性だと思う。この恋文は彼の自信がなく行動的でないサメットの心を満足させるものものであり、証拠であるから。自己を満たすものだから返したくないのだと察した。
2)「訴えられたら、どんなことがあっても、誰が訴えたかを見つけ出してはいけない。大問題になる」と教育委員会?から言われたのに。サメットは(Tolgaから)聞き出し、Sevimと友達が訴えたことを知る。これが映画の後半でどう問題になるかちょっと楽しみだ。この映画の初めのシーンで、サメットはSevimにプレゼントをあげ、その時、腰や肩に手を回した。トルコの地方の文化は知らないが、この時、私はサメットの態度にゾッとした。
サメットにケナンはこの地域の学校の文化について『この地域はサメットのきたところとは違う。地域によって、それぞれの現実や伝統がある』と。Tolgaは同意する。私もそう思う。この地域はトルコ人の文化だけでなく、アルメニアやクルド文化などもある。アルメニアとクルドは過去において、トルコ人に虐待・集団殺人された歴史もあり、少数民族の人たちを敬えよということだ。
サメットの自暴自棄で、生徒への理解が足りない態度には呆れる。未来のある生徒に対して、『誰もが芸術家になれない』とか言ってさ。生徒の心を傷つけるのは得意のようだ。情けない。
自分に自信がないから、堂々とできないし、調べるべきではない生徒の名前を知ったし、学校での噂になっているのを知ってるから、サングラスをかけて、学校にくる。自分の気持ちを生徒や同僚に知られたくないからね。マスクをかけて自分を隠している精神と似てるね。
好きなシーンは三人が喫茶店で会話してるシーン。小さい村の話をした時、サメットはこういう村には何にもないとバカにする。ヌライは「狂信者と過激派もいるよと。Alawi Villegeに行ってみたいと。私はsectarianじゃないけどね」と。そして、また、「A face that somehow embodies the story of this land.」と。これはヌライがケナンの表情に興味を持って言った言葉だ。厭世主義で、自意識の高い(嫌味ったらしい)男である、サメットに対して、Alawi Villegeという別の世界、つまりトルコ人の社会でなく、主にアラウィ派が住む村(アラウィ派は、ハタイ地域、特にシリア国境近くで大きな存在感を示す宗教的少数派である。ーー2025年の時点で、シリアのアサド政権崩壊後、アラウィ派の人々がアラブ諸国で平穏に過ごせますように)である。この村に興味を持つということは好奇心が強いということだと思うし、オープンマインドだと思う。彼女は自分のことを自分はsectarian(宗教派で他の人の考えを受け入れない)じゃなく狭くないよということだと思う。そこで、ケナンの表情に興味を持って何枚か撮影をして、表情ってこの国(トルコ)の物語の重要性をしめてると。いい言葉だね。トルコは多民族国家で、それぞれの文化からの顔にそれぞれのストーリーがあり、それが深く刻まれ人間の表情になるというようなことだろうと思う。だから重要だと。どの民族も重要だということだと思う。サメットはこのことより、ケナンとヌライの気持ちが近づいてきた方が気になっている。その後、私の思った通り、ヌライの家を一人で訪問して、ケナンとヌライを騙す。
3)サメットの人を馬鹿にしたような言動(ヌラインは思ったより頭がいいという言葉)が鼻につくなあ。ヌライがどこに行ってもサメットの問題はついていくと。スイスに行ったって同じことで、不平言って何か変わった?不平だけじゃ何にも変わらない。動かなきゃと。ヌライのいうことは真っ当だが、サメットの言うことにも一理あるね。みんなある形で社会に貢献している。ある人はあることができ、他の人は’他のことができると。でも、サメットは自己肯定意識が強いんだよね。ヌライに考えを否定されたと思うとすぐ、自己弁護するからね。サメットは正義や平等はユートピア的考えだって言うね。そして、ナンセンスだって。皮肉屋だけど、現実を見てるんだよね。そして、なぜみんなおんなじに考えなきゃいけないの、私の中でユニークな源が囁いてるんだよと。なあるほど。どんなことができるとヌライに聞くシーンがいいね。足が悪くて退職したんだといって、何もできないと言うヌライにサメットはそうは見ていないよと言う。本心かどうかわからないけど、彼女に安心感や希望を与えるね。
サメットがこの村を出ていくと決め、三人でアドゥヤマン遺跡に行くシーン。ここから理解できない。難解。モノログで、特に詩的な表現でサメットの心の中をぶち開けているが私の理解が乏しい。サメットは一人で山を登り、そこからは意識は二人と離れて、彼の心はSevimになる。彼女に愛情を示している詩という形で終わっている。ヌライに対する気持ちはなく、ケナンに対する自己満足的な嫉妬のためヌライを利用した。なぜ、Sevimがサメットの心をまだ占領するかよく理解できないが、彼の目線がそれを示している。多分、監督自身高齢になってきて、若い活発な異性に対する憧憬の気持ちがあるのではないか?それをサメットによって表現しているのではないか?Sevimの将来(季節が変わる)の若さと息吹きとヌライのいう固まっていて古臭く(ようにどこに行ってもあなたの問題はついていく)行動的でなく厭世的な(遺跡がそれを表している)対比が出ていると思うから。自分のことを生き生きとした大草原の中に何年もポツンと立っているアドゥヤマン遺跡だとも思っているのか?
ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督の作品の中でもこれはちょっと理解不足。助言を!
二つの季節しかない村
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嫌な人間鑑賞映画
美術教師の冴えなさと大自然の広大さ
冬が長く雪深いトルコ・東アナトリア地方の村に、プライドの高い美術教師サメットが赴任してきた。しかし、最初は村人たちから尊敬され、女生徒セヴィムからも慕われていた。なのに、田舎は嫌いだとか、置かれた環境などに文句を言い、不満タラタラで生徒に当たり散らし、早く去ろうと思うばかりの生活をしていた。そんなある日、サメットは同僚ケナンとともに、女子生徒のセヴィムたちから身に覚えのない、不適切な接触、を告発され、また、美しい義足の英語教師ヌライとも知り合った。さてどうなる、という話。
とにかく主人公である美術教師のサメットが嫌なやつ。人をバカにした発言はするし、生徒を怒鳴し、物を投げるし、美少女のセヴィムをエコ贔屓したり、告発されたら罰を与えたり、同僚は裏切るし、とても教師には見えない、ろくでもない奴だった。こんなやつを主人公にして撮った作品で何を伝えたかったのだろう、あの白銀の大自然の中で、こんなちっぽけな男が居た、と言う事なのか?そうだとしたら、ここまで長く尺を取る必要はなかったように思った。
サメット役のデニズ・ジェリオウルはもう顔も見たくない、と思ったから狙い通りだったのかも。
ヌライとベッドに入る前のセットから出るシーン、あれは何を意図して入れたんだろう?必要性を感じなかったが。
ヌライ役のメルベ・ディズダルは真面目で言ってる事に頷けたし義足を外す所とか美しかった。
日本版のポスターになっているセヴィム役のエジェ・パージは大人びた演技で可愛かった。あの雪がチラつくシーン、美しかった。
確かに絵になる、と思った。
東アナトリア地方には標高5,137mのアララト山もあり、一度訪れてみたい、と思わせる美しい山の自然が観れた。
サメットは自分&疑問点
告発されたことの腹いせに生徒に当たり散らし、最初は女性は紹介してもらわなくていいと言いながら、いざその女性が同僚と仲良くなっているのを目にすると、抜け駆けしてその女性(の両親)の家に押しかけ、同僚との信頼関係を壊すようなことを平気でする。教育熱心というわけでもなく、任地を離れることしか頭になく、自由が好きという割には自由を守るために何かしらの行動をするわけでもなく、その言い訳だけは屁理屈こねて言う。自分が気に入っている美少女生徒に自分は好かれていると勘違いする。他の人も指摘しているが、サメットは他人ではなく、自分のことだと思った。言わゆるどこにでもいる俗物だ。3時間18分という長い上映時間だったが、なぜか席を立たずに最後まで見続けたのは鏡のなかの自分から目をそらすことが出来なかったせいからか。
ひとつだけ疑問がある。新車でサメットとケナンの宿舎を訪ねて帰ろうとするヌライが、雪が深いので送ってくれと言った時、なぜ3人同じ車で出かけたのか?ケナンの車とヌライの車2台で、ヌライの家に行くのなら分かるが、1台だけだとヌライを送り届けて2人が帰るなら、ヌライの車は宿舎に置いたままなので、また取りに来ないといけない。3人が1台の車に乗っているシーンを撮りたいという監督の気持ちは分かるが、普通はそんなことしないと思う。疑問だった。
人間の本質を抉り出す会話劇
主人公サメットが人間の本質を代表として表現している気がしました。
サメットは先生にも関わらず、人格者ではないし、生徒を差別的な言葉で罵倒するし、
お気に入りの生徒にはチヤホヤしつつ、裏切られたと思ったら復讐する。
また、同居人ケナンとひとりの女性ヌライをめぐって策を巡らすも、
マウント取りたい気持ちが優先され自爆。
マウント取りたい気持ちが勝るのは、
ヌライとの会話シーン(ここは一番の見どころではないかと)でも明らかなんです。
まあなんとも人間のイヤなところをたくさん持ち合わせている人物像だなぁと思いましたね。
すごく興醒めしたのは、ヌライと事にあたる前の展開で、
映画のスタジオ(セット)にいきなり出ちゃうところ。そしてお手洗いで薬を飲む(強精剤でしょうかね)シーン。
これって、わざわざ撮影の裏側を見せる必要があったのか甚だ疑問だし、私は興醒めでした。
これはすごく余計なシーンだったように思います。集中していた糸がプツっと切れました。
でも、ヌライの義足着脱シーンは美しかったです。
ラスト近くの宣材シーン、女生徒ゼヴィムの雪景色をバックにアップシーンとなるところは、眼福でした。
あ、そうそう、主人公サメットは、この女生徒セヴィムを気にかけていたものの(裏切られたと思って酷い仕打ちをしますが)
最後の会話シーンで、セヴィムは難しいことは全然考えていなくて、というよりサメットのことなど気にもとめていない
純粋な学生だということがわかり、サメットの暴走が哀れに感じましたね。
サメットは小難しくてめんどくさいやつですが、こんな人いるよね〜と率直に思った次第です。
その哀れさを痛烈に描いた作品でもあるかなと思います。
いやぁ、198分、頑張りました(時折意識が飛びましたが・・・)。
トルコ東部の、雪深い村の中。 小学校の先生や生徒たち、村のご近所さ...
トルコ東部の、雪深い村の中。
小学校の先生や生徒たち、村のご近所さん。
長い期間を雪に閉ざされて、行動半径も範囲が限定的になりがちな。
感じ方次第で、受け入れて楽しもうという人もいたり
または、閉塞や孤独を感じて、出て行きたいと言い続ける人もいたり。
景色といい人々といい、おらの郷里(日本の東北の豪雪地帯)に近い感じがします。
特に、普段みている世界の範囲の、狭さ/広さ。
良い悪いではなく、
冬は、限られた、その範囲を謳歌しよう、という人もいますし
外にあこがれる人もいますし。
慕われる先生、気に入られる生徒、もいれば
その逆もいたり。
慕われている人が、人格者とは限らなかったり。
崇高な志を持つ人が、別の事情で色眼鏡で見られていたりも。
見かた次第で、他人の印象はどうとでも変わるんだねと
気づきの場面も多数でした。
人々の会話が凄く多い映画、
意見がぶつかるのは普段当たり前にあり、それでも、険悪になることはあまりなく。
セリフの多さには、(いち鑑賞者として)体力をかなり持っていかれました。
ポスターのシーンのための映画
どこの国でも先生は大変だなあ。
と思うと同時に、あんな人に先生になって欲しくない。というか、人として一切関わりたくない。
いい気持ちのする映画ではなかったが、あのポスターのシーン(だけ?)はとてもよかった。
あっと驚く演出があった。
不勉強ですいません、トルコって雪降るのね。
始まる直前に3時間!!と気付いた。
しかしそれほど長くは感じなかったよ。
田舎の教育問題、教員制度、コンプライアンス、ハラスメント的な話かと思ったらそれはどうやら表面的な事象でテーマはもう少し深い所にありそうだ。
並行して進む義足の教師と友人との三角関係とか、人との繋がり、関係の不確実さを二つの方向から描いてるって事かな?知らんけど。
トルコの田舎教師も大変だ。コンプライアンスに関しては日本なんかより進んでいるかも知れない。
ほぼトラップかよ案件、しかし力関係がはっきりしてる教師と生徒、男と女の世界だから昨今慎重にならないといけない訳だよ!という教訓として観た。
でまあ後半の方にある例の表現、するっと滑り込ませて上手い事やりやがってと思ったけど、何かの効果があったのかは疑問。「関心領域」の赤外線カメラと同じなくてもいんじゃね?という感想だった。
赤外線カメラより演劇的表現かな。
長尺だけど、個人的には良かったです❕小学校の先生三人(男2 女1)...
冬を乗り切るため嫌な男がしゃべり続ける198分
僻地の雪国で美術を教える男性教師が主人公。田舎の学校での教育に閉塞感を覚えているが、大人びた美少女を心のよりどころにしており、少女にお土産として鏡をこっそり渡したりする。ところが持ち物検査で少女の鏡やラブレターが見つかってしまい、それを機に2人の仲は破綻する。
ここまでは、「田舎の子どもと教師の美しくもはかない交流」に見えなくもない。だが、ここから先は主人公がエゴのままに暴走。教育委員会のようなところに叱られた怒りを当の少女に授業中にぶつけてみたり。別の女性教師と自分の友人との仲を取り持つのだが、2人が仲良くなると間に入って女性教師を寝取ったり。
こんな主人公をどこか嫌いになれないのは、ストーリーではなく、しんしんと雪が降る中で続けられる「おしゃべり」がこの映画の主役だからだろう。不自由な冬の生活のなかで退屈を紛らわせるためか、寒さを和らげるためか、登場人物たちは実によくしゃべる。
その会話は全然かみ合わず、この映画で議論される中身に決着がつくことはない。むしろ、しゃべり続けることでどうにか人はつながっていけるのだ。その意味では、人間嫌いのくせにどんな会話にも絡んでいく男性教師こそ、この村の精神を体現しているといえる。
雪が解け夏がやってくると、任期が終えて男性教師は村を去る。男性教師は長いモノローグで映画を締めくくる。驚いたことに、「教師として美少女に手を差し伸べたのに裏切られた」と嘆いてみせるのだ(あなたの悪人ぶりはとっくに明らかになったのに、まだそれを言いますか!)。
そして長い雪の季節には善悪の基準も曖昧になる、などと真理を突く言葉も吐き出される。確かに、切り取りようによってはこの映画も教師の孤独、子どもへの愛情、真剣な恋を描いているのかもしれない。ただ、こんなふうに言葉で言わなければ余韻が残る作品だっただろう。最後までしゃべり続ける教師の手前勝手さに拍手したくなった。
世界がもし二つの季節しかない村だったら
トルコアナトリア地方の僻地の村。その広大な大地は一面雪に覆われ建物や草木などの風景だけでなく人の心まで覆いつくしてしまうかのよう。
そこに赴任させられた美術教師のサメット。彼は都会のイスタンブールへの転勤を希望しすでに四年の月日が経過していた。
インテリである彼はこの地をゴミ溜めと忌み嫌い住民の人々を見下していた。部下に対して横柄な態度をとる軍警察の人間に嫌悪感を覚えながら自身も生徒たちに対して同様の態度をとってしまう。
ある日生徒から告発されたことから彼の日常に変化が訪れる。執拗に告発した生徒の名前を聞き出そうとするサメット。それが自分が目をかけていた女生徒セヴィムとわかると彼は困惑と怒りから自分を抑えられず彼女に露骨なパワハラをしてしまう。
告発の原因が同僚で同居人の友人ケナウにあると聞くと、腹いせに自分が彼に交際を勧めたはずのヌライと関係を持ち彼を傷つけようとする。
サメットを友人として信頼していたヌライの気持ちも考えずに涙する彼女と無理やり関係を持つサメット。
人間としてのありとあらゆる嫌な面をさらけ出すこの主人公。しかしヌライの家から突然彼が映画スタジオらしき場所に移動するシーンが。
彼に嫌悪感を抱いていた観客は突然冷や水を浴びせられる。このメタ構造は何を表してるのだろうか。これはすべて芝居である、このサメットという男の狭量さ、傲慢さ、利己的な考えを目の当たりにしてあなたたちは何を思うのかと本作は見る者に問いかけてるように思える。
自分の置かれた状況に不満を言うだけで、自分では何も行動しない。この雪深い村から出て都会に行けば何かが変わるのか。クズな自分はどこへ行こうともクズのままなのでは。人生において世界の中心は常に自分であり自分が変わらない限り世界は変わらない。どこで生きるかではなくどう生きるかが大切ではないのか。
テロで足を失ったヌライは自分の境遇に愚痴をこぼすことはない。自分の信じる通りに生きてきたからだ。障害を持つ身になろうがけして後悔はしない。
ヌライの家での息詰まる二人の討論、自分の生きるこの世界のために自分の信じるもののために行動することが大切だという彼女に対し、なにものにも縛られずに自由でいたいというサメット。なんとも分が悪い。確かに彼の気持ちもわかるが彼が言う自由は何もせずに得られるものではない。誰もが自由に生きられる世界は理想だが、今の世界はそうなってはいない。自由を求めるには代償が必要だ。
インテリ気取りで政治を批判するが自分は何も行動に移さない。ヌライの言葉は実に耳が痛かった。
二つしか季節がない村。長い冬を耐え抜きようやく冬の終わりを告げられ芽吹いた草花はとたんに強い夏の日差しに照り付けられ青々とした葉をつける間もなく萎れてしまう。雪深い村から解放されたサメットが都会に行ったところで彼が芽吹くことはけしてないのだろう。
今年も日本では10月になっても最高気温が30度の真夏日が続いた。年々秋と春の間隔が短くなっている気がする。気がするのではなく現にそうなっている。
地球規模の環境破壊、終わらない地域紛争、経済格差による貧困、いずれは世界を取り巻く混沌も解消されて春が訪れるはず。そう信じて何もせずにいると春の訪れは永遠に来ることもなく世界は二つの季節しかない村となってしまうのだろうか。
セヴィムに希望を託すサメット。現代社会に生きる大人たちが抱く無力感、そして次の世代を担う者たちへの期待を込めた物語なんだろうか。あるいは温暖化による環境破壊で大人たちのツケを払わされるグレタ氏などの若き活動家たちに責任を委ねて何もせずただ春を待ちわびるだけの私を含む大人たちの姿を皮肉った作品なんだろうか。
このアナトリアの広大な大地で日々些末なことに振り回されるだけの主人公と同じく多くの人間がその生涯を終えていく。人間がいかにちっぽけな存在であるかを思い知らされる作品。
ちなみにトルコの人はあんなに紅茶を飲んで結石とか大丈夫なんだろうか。
カメラを止めろよ💢
2023年制作のトルコ映画
トルコ語の原題は全然わからないが、英題は Dry Grasses だから枯れ草
アナトリア地方の田舎(僻地)の学校に赴任して4年余りの美術教師のサメット(中年男性)。絵は描かないのに能書きは長い。独身。イスタンブールにいたが、都落ちしたのを悔いながら、不満タラタラの饒舌しゃべりすぎ男。
女子児童にちょっかい出して問題となった小学校教諭の話かと思って鑑賞スタート。
地元出身のケナンという同僚男性教師(社会科担当)と同じ職員宿舎で同居。とても仲良し風だがゲイではない。
隣町(ずっと都会)の学校に勤める政治信条的に同志のヌライというテロリストに襲われ、実の兄と自分の右足を失った義足の美人女性英語教師と合う。
真面目な映画だなぁ。
トルコの教師も大変だね。政府の監視の厳しいクルド人の子供が多い地に赴任して来て、校内でも民族問題が山積しているんだなぁと思いながら観てました。
恥ずかしいぐらい女子依怙贔屓バレバレだった担任(市川先生)を思い出しました。
しか〜し、
おいおい、セットかよ!
なんか錠剤飲んだな。バイ◯グラみたいなヤツか?
女優さんに失礼だろ!
サメット、枯れてんじゃないよ。
見栄はるなよ!
というワタシも義足の女優さんお目当てで、198分にチャレンジ。
パラリンピック走り幅跳びの中西麻耶選手はかっこよかったですねぇ。
義足を外す瞬間がいいんですよ😎
トルコリラのことを考えると、小学校教諭が義足や自動車(日本製)を手に入れるのは大変。
親日国のトルコ。
🎤飛んでイスタンブール
🎵恨まないのがルール
みたいな話だったような。
トルコにもこんなヤツいるんだと妙にホッとしました。
なんなんですかねこの映画。
かなり恥ずかしい。
眉毛の太い女の子セヴィムちゃんはとってもクールでステキでした👀
予告編の 「は·る·は·こ·な·い」 にまんまと引っかかりました。
たしかに、こんな男に春は来ない。
邦題はピントはずれ。
今年は温暖化で日本も2つの季節しかない国になりそう。
考えさせられる映画。一度観ただけでは理解出来ない。
トルコが舞台でも主軸は普遍的な人生そのもの
24-109
65~70点ぐらい。釈然としなかったけど…
あらすじ読まずに、タイトルとポスターと、巨匠が作った映画って事、是枝監督が絶賛した事、それだけの情報で観ました。
真っ白な雪景色の中に止まる1台の車、どこへ向かうのか雪の中を歩き始める男…
このオープニングで引き込まれました。
ポスターの女の子が主役かと思ったら、この男性サメットが主役です。
とにかく、トルコ東部の自然が美しくて、それが強く印象に残ります。
この美しい村自体も、この映画の主役でしょう。
この村の住人や自然を写した写真が差し込まれる演出、激しい議論のあと入る斬新な演出、も良かった。
最後が意味深で、もしやサメットは…と思ったんだけど、ネットで調べてみると、やっぱ同じ事を思った方が他にもいました。
観たあと釈然とせずモヤモヤして消化不良、妄想だったのか?とか、とんでもない事まで考えてしまったけど、いろいろ調べてるうちに概ね理解できました。
198分の長尺ですが、体感では実際の時間ほど長く感じなかったです。
それどころか、もう1回観たい(笑)
この映画でヌライという女性を演じた事で、2023年のカンヌ国際映画祭で最優秀女優賞を獲得したメルヴェ・ディズダルが良いです。
その年の最優秀男優賞は『PERFECT DAYS』の役所広司さんですが、その縁でツーショットの写真も存在し、この2人は交流があるらしいです。
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