関心領域のレビュー・感想・評価
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映画館で観た方がいい音響的な意味で。
冒頭で、『音に集中してください』って表現をしていたので、終始集中。
いつも以上に環境音に集中していたのでよりキツイなって感じることが多かった。その点とてもよかった。
映画としてね。
ただ…え?このシーンなんのためなん?って箇所が多く、初見殺しが残念だった。
•りんご置きの少女は近くに住んでるユダヤ人ってこと?
•りんご置きの少女が拾ったのは何?
•なんでお兄ちゃんは弟を温室に閉じ込めたの?
•副司令官が吐いたのは酔ってたから?それとも病気?
•家の召使い的なのは結局ユダヤ人でいいんだよね、地元の人じゃなくて。
って感じ!いま覚えてる限りでは!
音響的に映画館で観るのがベストなんだけど、難しいというかゆだねすぎというか
残念箇所が多かった。
演出とか音楽はとてもよかった(*◡̈)
追記
映画見た後になんか思ってたんと違った、って感じたのは…もっと残虐性を期待してたからかもしれない。
そう思うと、これこそまさに関心領域なのかもしれない。
配信始まったらもう一度観たいかも。
恐ろしさはじわじわ来ました。
予告編がうまい作りだなと思った。「関心」を持ったので見たいなと思っていた。
アウシュビッツ収容所の隣に住むドイツ人将校(所長)一家の物語。
かなり裕福な暮らしをしているが、設定を読んだだけで、こんな環境に住みたくないと感じる。
最初から不気味だった。
真っ暗な画面と共に流れる、音が映画の要。目を閉じても聞こえてくる世界に耳を傾けろということか。
最初のうちはあまり隣の音がそれほどはっきりとは描かれず、気になるのは赤ん坊の泣き声ぐらいだった。その状態がこの家族の普通の光景。
後半では、隣の声がしっかりと現れる。関係なく遊んでいる息子。背景に立ち上る焼却の煙。自分たちの生活以外に無関心な彼らと、虐殺の実態を思うと、確かに恐ろしい。
心霊などのホラー映画…とかそういう怖さじゃない。会議の様子もひどいものだと思った。ユダヤ人を人間扱いしていない会話。
収容所の地区の事も「zone」って言ってましたかね。領域ではなく区分けなのだろうけど。人を分類し、管理し、見たくないものは見ない。
いなくなった妻の母親は、素敵な暮らしの対局にある現実を肌身で感じ、この家を去ったのだろうと思う。
最後の博物館の展示が、静かに悲惨な事実を物語っていた。原爆資料館で感じたような胸が痛くなる場面。そこを仕事で清掃する現代の職員もまた、無関心かもしれない。
*****
こっから軽め。
メイドや軍の人たちやら、名前がいっぱい出てきて、ちょっと混乱。(ストーリーに影響なし)
「落下の解剖学」で初見のザンドラをこの短期間でまた見れたのはうれしい。
月曜に映画館に行くことが多いのだが、公開4日目なのにパンフが売り切れ。「ある閉ざされた雪の山荘で」も同じパターン。う~ん…ですね!
地獄の阿鼻叫喚のほとりで展開される、加害者たちの平穏で満ち足りた楽園の生活。
きわめて手の込んだ、面白い仕掛けの映画だとは思うけど……観ていてそんなに面白かったかと言われると、そうでもなかったかな(笑)。
なんか、よほど頭の良い観客というか、勘の良い観客をターゲットにして、客のことを心から信頼して、自分たちが何をやっているかがちゃんと伝わると信じてつくられている感じがあって、そこは素直に潔いと思う。
でも、潔すぎて、結局なにもひっかかりのあるイベントがないまま、終わっちゃった感も強い。
この映画のキモは、「アウシュビッツ強制収容所の壁越しに立つ、ナチス高官である収容所所長の幸せな家庭」を「窃視」する感覚にある。
「関心領域(The Zone of Interest)」という言葉は、ナチスがアウシュビッツ周辺を婉曲的に呼びならわした名称らしいが、本作では「ナチス高官にとっての関心のある領域」というダブルミーニングとして機能しているようにも見える。
言葉どおり、このドイツ人家庭の関心事はもっぱら、庭付き一戸建ての公邸の「内部」にとどまっている。カメラも「彼らにとっての関心領域」内でしか動かず、収容所の「壁の向こう」にある地獄絵図には足を踏み入れようともしない。
そこで、われわれは目撃する。
地獄と隣り合わせで生きながら、満ち足りた幸福な時間を過ごす家族の姿を。
自分たちこそが地獄の原因であり主導的な立場にありながら、まったくそのことを意に介さず、穏やかで平和な日々を送っている人々の生活ぶりを。
思考を停止させて全滅政策に加担している収容所所長とその家族が、私生活においては細やかで愛情深い人間であるという二重性がふつうに有り得るのだという現実を。
だけど、これって結局、観客は常に「ホントは隣(オフスクリーン)で本物の地獄が現出しているんだ」という事実を、常に「自分で」想起しながら観ないといけないってことだよね。
今見せられている、ドイツ人家庭の当たり前の平穏な世界が「実は異常なものだ」と、観客が自分に「言い聞かせ」ながら観ることが期待されてる。
それって結構、観客の知性だとか胆力だとか判断力に対する期待が大きすぎるっていうか、有り体にいって「買いかぶりすぎ」なんじゃないかとも思う。
映画のなかで、
奥さんのお母さんが勝手に帰っちゃうシーンとか、
りんごを埋めて回る少女のシーンとか、
ラストの現代のアウシュビッツを挟むギミックとか、
ホントになんの説明もなしにやってくるの、
けっこうふつうにわかりにくいよね(笑)。
もっとあざとく仕上げたら(たとえばドイツ人一家とユダヤの悲劇をあからさまに対比させるみたいなダッサい演出をするとか)作品の出来はたしかに劣化するだろうけど、少なくとももう少し「わかりやすく伝わる映画」になったとは思うんだよね。
でもこの監督は、意地でもこのミニマルな作り方は変えないぞっていうか。
客に忖度してわかりやすくすることで、べちゃっとさせることだけは絶対しないぞっていうか。
100%観客を信頼して、こういうつくりで押し通してもわかってもらえると信じてつくることが俺たちの矜持だっていうか。
その意味で、この映画の制作陣は「含羞」のとても強い人達だと思うし、ストイックなまでに「劇的な演出」を避けて通っているのは立派といえば立派だ。
ただ、それはそれで構わないけど、個人的には「いや、俺そこまで賢くないし、そこまで能動的に映画観てるわけじゃないからw」って気分にちょっとなったのでした。
― ― ―
狂気の大殺戮と、塀一枚で隔てられた平和な一家の生活。
この映画には、いくつもの「ほのめかし」がある。
たとえば、庭園の花壇で、美しい花々の間にはびこる雑草を処分する奥さんとか。
あるいは、焼却炉の灰で汚れた身体と風呂桶を必死で洗いまくる家族とメイドとか。
それから、ナチスの会議施設のホール一面に飾られた鹿の角(トロフィー)とか。
ほかにも、兄弟げんかが高じて、お兄ちゃんが弟を温室に閉じ込めるお仕置きとか。
これらは全て、ナチス側の平穏な生活に滲み出した、残虐性と民族浄化のメタファーだ。
●まず彼らにとって、ユダヤは「間引くべき雑草」であり「庭を乱す夾雑物」に過ぎない。
あるいは、「消し去るべきしみ」であり「洗い流すべき汚れ」のようなものだ。
ナチスによる民族浄化のキモは、「浄化」の部分だ。
彼らは納得のいかないものを除去し、一掃し、「きれいにしよう」とした。
ナチスの根本にあったのは、正義に反する曖昧さへの忌避感であり、統制のとれた美しき世界への憧れであり、穢れたものへの徹底した嫌悪であった。
(この正義と清浄にまつわる凝り固まった「理念」が暴走する図式こそが「国家社会主義」の本質であり、のちの中国やソヴィエトの共産党による辺境民族浄化にもつながってゆく。われわれは正義の執行にこそ最大の悪がひそんでいることを常に認識し、警戒する必要がある。)
それはすなわち「掃除=浄化」の思想であり、本作のなかで繰り返される様々な「掃除」のシーンは、まさにナチスの思想と通底した営みとして挿入されている。
われわれは、この映画で「掃除」する人々、庭を「整備」する人々を見るたびに、壁の向こうで執り行われている狂気も「同じ感覚」で成されている事実を噛みしめねばならない。
ラストのアウシュビッツ記念館で、清掃員たちがルーティンワークとして清掃にはげむシーンもまた、痛烈な皮肉として機能している。メカニカルに展開された「浄化」の理念の恐ろしさを伝えるための負の殿堂で、「浄化」が大切な朝の行事として粛々と繰り返されているという、ある種の笑い話である。
●もちろん、ナチスの党員たちにとっても、塀の向こうで行われている虐殺は、ことさら意識上に上らせたいものではない。
あくまで、職務として、成果として、数字として認識することで、なんとか精神的に折り合いをつけているのが実情だ。
だから今、目の前で起きている(それどころか思い切り自分たちもコミットしている)地獄のような加害行為から、目を背けること、意識しないこと、理屈を先に立てて道義的に納得することが彼らにとっては重要になってくる。
そこで、アウシュビッツから流れてきた焼却炉の灰などが身についたら、それこそ猛烈にヤバいわけだ。
それはナチスにとって、目を背けてきた現実の薄汚い実体化であり、遠ざけてきた隔離領域から越境してきた汚染物質であり、その素材がユダヤ人ということでも、三重に「穢れ」として祓わねばならない「特級呪物」だからだ。
●隣の塀越しに聞こえてくる「音」もまた、なるべくなら意識上には上らせたくないものだ。日夜途切れない悲鳴と怒鳴り声と銃声。結局、日中あれだけ庭や内装を褒めていた妻ヘートヴィヒのお母さんは、夜の暗闇にしじまから響く殺戮と怨嗟のうなりに耐え切れず、未明に一人帰ってしまう。置き手紙を読んだヘートヴィヒは怒り狂う。実母によって彼女の築いた「楽園」が全否定されたのだ。それはムカつくだろう。
ただ、ヘートヴィヒを擁護するわけではないが、人間、不愉快な音というのは脳内でオミットするように生来的に出来ているのも事実だ。かつて僕は明治通り沿いのマンションの5階に住んでいたことがある。引っ越し当初、外から鳴り響く車の走る騒音を聴いて、このなかで寝つくのはなかなか大変だなと思ったものだ。しかし、ものの2週間くらいで、見事にその騒音は「聴こえなくなった」。外でいくら車の騒音がしても、全く気にならなくなったのだ。人間は、不快な音を「慣れ」によって克服するよう、もとよりプログラムされている。このことを僕は自らの身体で思い知った。
ルドルフとヘートヴィヒも、単純に「鈍感力」によってユダヤ人虐殺と断末魔の叫びを無視しているというよりは、生理的に本当にもう「聴こえなくなっている」のだと思う。
だが、慣れていないヘートヴィヒのお母さんにとっては、まさにそれは地獄からの怨嗟の合唱に聴こえただろう。そして、そのなかで阿鼻叫喚を屁とも思わず「楽園を満喫」している娘夫婦の「異常性」に惧れを抱いたはずだ。置き手紙から漏れ出ていたのは、そういう二人の有り様への疑義――地獄の獄卒となり果てた二人への恐怖の想いではなかったか。
●ナチスにとっての東方戦線は、侵略行為というよりはフロンティアの拡大であった。
ポーランドの地の征服は、ゲルマンによる辺境の教化であり、ユダヤもまた「狩り」の対象だった。彼らは何よりも、「征服者」であり「開拓者」だった。その感覚は、おそらく南米を目指したピサロ、コルテスらコンキスタドールたちや、北米でインディアンを狩って領土を拡大したアメリカ人たちとそう大きくは変わらない。単純に「白人×白人」という部分の「共食い」感と、規模の異常性が歴史上で際立っているだけである。
その意味で、壁中に飾られたトロフィー(狩りの戦利品)は、ナチスの高揚した当時の心性を視覚的に象徴している。彼らにとって、ユダヤ狩りはまさしく「壁に飾られるべき誇らしき戦果」であった。
●日々の生活において、隣にあるアウシュビッツ収容所の存在は、その地獄からは距離を置いているかに見えるルドルフ・ヘスの邸宅においても、あちこちで影響力を及ぼしているはずだ。
奥さんが手に入れている高級な衣服や装飾具は、収容所のユダヤ人たちからの簒奪品だし、召使いの出入りもある。さらには、アウシュビッツで恒常化している残虐行為は、思考のルーティンとして「日常化」し、日々の行動様式にしみ込んできている。
召使いに「夫にいって灰にしてやる」と言い放つ妻。召使いを性的な慰みものとして平然と消費する夫。差別と虐待の日常化は、もちろんながら純真な子供たちをも汚染してゆく。兄弟二人が遊びのなかで見せる「閉じ込める」ことの罰としての有効性の認識は、まさにその文脈でこそとらえるべきものだろう。
さまざまな「ほのめかし」の先に見えて来るのは、この物語が「幸福な家族の日常とちょっとした諍いとその解決を描いた、ハッピーエンドのこぢんまりとしたホームドラマ」として完結しているがゆえに、実は「悪夢のような状況下で平然と生きる加害者たちの鈍感さと無関心を描いた究極のホラー」でもあり得るという、極限の二重性を目指しているということだ。
地獄のただなかで獄卒たちが演じる、フランク・キャプラのような世界。
ただし、最初に述べた通り、その恐ろしさや狂気の深さを心底から体感するためには、「観る側」の積極的な思考と映画へのコミットメントが必要となってくる。
僕には、そこまでの胆力がなかった。何も起きないこと、誰にも感情移入できないことへの耐性が低すぎた。だから、あんまり面白くは観られなかった。まあ、そういうことだろう。
― ― ―
本作で描かれる「加害者側の感性の恐るべき鈍麻・鈍感化」「半径10mの幸せによって見えなくなる周辺の地獄」「国家の名の下ではごく普通の人間が殺戮行為に加担できる事実」といったテーマは、そのまま現代のロシアによるウクライナ侵攻や、中国によるウイグル自治区の浄化政策、イスラエルによるガザ&ハマス制圧作戦などにも通底する。
特に、自国民ですら消費される数値としてしか認識せず、数十万単位での人的犠牲を出して恬として恥じるところのないロシアのやり口は、本作で描かれたナチスとそう変わらない。
そしてもちろん、本作はそれらの殺戮行為をデータと情報という形でしか認識し得ず、対岸の火事として幸せな毎日を送る日本人への痛烈な警告でもある。
「関心領域」の域内での「コップのなかの失楽」にかまけているうちに、われわれもまた「ゆでガエル」になっていないか?
相手の悪に対して鈍感になっていないか?
自分の悪に対して無自覚になっていないか?
これはルドルフ・ヘス一家の在り方に恐怖する映画ではない。
自らもまたルドルフ・ヘス一家のようになり得る、という事実に恐怖する映画なのだ。
その他、「楽園」と「地獄」と「リンゴ」のキリスト教的な三題噺とか、『落下の解剖学』のザンドラ・ヒュラーの抑制的演技とかも語りたいところだが、紙幅が尽きたのでこの辺で(笑)。
音で訴える戦争の恐怖!アウシュヴィッツ強制収容所 初代所長の話。
人は見掛けの第一印象で決まるって言うけども
人ってパッと見ただけでは判らんよね。そう思ったわ。
今日は「関心領域」の鑑賞です。
まぁ、この映画。開始早々いきなりブラック画面で音だけ鳴ってて、
ちょっとぉ(=_=) スタッフ~ 上映トラブルじゃんwって マジで言いそうに鳴ったんだわさ~。
なんだ このホームム-ビ-的な展開は?
音だけ随分と喧しくって・・・暴走族?喧嘩?抗争? 時折”パン”って鳴ってる。
テッキリ言葉は英語じゃないけど NYの街並の音なのかと 思ってた位。
やがて・・・この豪邸的な家が 誰の家で、そして どこに建てられているかが判ってくる。 ココに住む家族って 誰なのかが判ってくるとき
観ている側は ゾッとするだろう。きっと。
そう この如何にも堅物で真面目そうで 一見優しそう、でも 何処となく心が無くて、気が弱そうで、そして冷酷!!
そう、初代 アウシュヴィッツ強制収容所の所長となる男と その家族である。
邸宅は 驚きの強制収容所の隣に建っているのだ。
そういや 向こう側に監視塔が見えてるな。なんちゅうロケ-ション。
職場まで徒歩1分の物件ってか。
監視体制に不備があっては成らんし、スグに対処指揮も要るだろう。
上官たる者、危機意識から 近くに住むのが適切。 そんな考えなのだろうか。
窓の白いカ-テンの 遠い向こうに壁があって、その壁の向こうに 高いレンガ屋根が見える。 強制収容所なのだな。 オイオイって思うわさ。
それで ずっと聞こえてくる雑音の正体が何かが判明。
リアルな音入れには 流石と思うけど、ゾッとする思いの方が強い。
アカデミ-賞で国際長編映画賞・音響賞を受賞しているのも頷けるね。
(MC)
ルドルフ・ヘス (監視所長)役:クリスティアン・フリーデルさん
ヘートヴィヒ・ヘス(妻)役:ザンドラ・ヒュラーさん
この戦争の最中で、この住まい豪邸に驚く訪問者。
食べ物を収容所の人々が強制労働中に見つけられる様に
あちこちに隠す娘の勇気ある行動に胸を打ちます。
この場面は特に強調した色合いで描かれていて その点がgood。
それに比べ、夫の転勤命令に、この邸宅から絶対引っ越したくない妻。
この ”私は悪くは無いんだもーん”的な意識が見え隠れしてきて腹立たしい思い。
川で人の死骸の一部?が釣り糸にかかり、急いで子供達を船に上げ
帰宅後 必死に全身を洗い清める家族達。
川にガス室で使われているチクロンでも汚染していたのだろうか。
この場面は怖い物を感じるわ。
最後に主が階段部で嘔吐く場面があって、この時 現在の収容所実態を残している保管施設展示場がダブって入ってたと思う。
もうちょっと 色調を変えないと分かりずれ-よと感じた次第。
私的には色々と勉強にな成りましたね。
ご興味ある方は
劇場へ どうぞ!
無関心はいづれ己に返る
*ある画家の数奇な運命
*ヒトラーのための虐殺会議
この2つを観るとすぐ理解できる
アウシュビッツの施設の隣に居を構える家族の幸せな暮らし
同居に呼び寄せた祖母が逃げだす
洗面所で吐き出した灰等恐ろしいシーンがある
淡々と対応するが、突き出した銃はいづれ味方へと向かうのだ
気を付けてほしい
駄作of駄作
不思議な映画だった
製作者の意図としてはある家族が幸せな生活を送る裏で戦争中の暗い影が同時進行しているという感じのストーリー
オープニングから変わっていて、映画館に異常が発生したかと思った
重かった……
あらすじ
栄転したために、かぞくと離れ単身赴任していたルドルフは、ある大きなプロジェクトを任され、その結果家族と再びともに暮らせることとなり、喜びのあまり深夜にもかかわらず妻に電話をするのであった
感想
もう、あらすじ通りのお話。重かった
映画をあまり見ない人が話題になっているからといって、見に行くと痛い目にあうので注意してください。何も起こらないのに重苦しい感じがずっとする映画ですので
無関心の悪魔から誕生したもう一つ悪魔と言えば良い
1.女の主人公は自然な姿で傭人に服を選ばせる。それらの服は全部ユダヤ人のラーゲルからもらった服だ。
2.女の主人公は一人で部屋に着てみる値段高い服もユダヤ人のラーゲルからもらって昔買えない服そうだ。中の口紅も奪った。軍官も奪われたお金を数えるシーンがある。つまり、戦争から立場や階級が変わってしまった。
3.ナチスの軍官達はラーゲルの焼却炉の効率的に上がる方法について話し合うシーンで、唯建築の改良のような感じが有り、そういう人の命の無関心は本当に悪魔みたい。会議室のシーンも同じ感じがある。
4.軍官は自分の家族の家が楽園の様に作ったがラーゲルの方は地獄みたいに煙が出る。そしてユダヤ人を殺害するシーンは具体的に描いてないがその悲鳴と軍官の無関心に比べると恐ろしかった。更に、ラーゲルと楽園の中の植物に分けられてその二つ世界がもっと具体的に感じさせた。骨灰を餌として撒くのも恐ろしかった。
5.軍官と自分の子供が遊んでいるシーンでユダヤ人の骨が見つけた。そして逃げて汚い物の様で繰り返して洗っていた。ユダヤ人の殺害はハキハキな状態のだ。傭人に叱れる時も「君の旦那の骨灰を田野に撒く」という様なセリフを言った。つまり、自分の旦那の仕事がわからないはずがない。
6.女の主人公の母からお見合いのシーンで最初は自慢する状態だが、その煙や人の悲鳴で一人で離れた。手紙で何が書いたか撮ってないけど内容は大体わかる。主人公の花も冷然で主人公みたいな無関心だと思う。
7.主人公の子供達がラーゲルの様な毒気がある部屋に囲まれることを真似して、親の無関心も子供達に影響された。
最後のシーンは一番良いと思って軍官は良知を回復する解説もあるが私は彼がもう自分の間違い信仰心に落ち込むと思う。
間違い道に行き続けるのは今のユダヤ人の深刻な問題に過ぎない。イスラエルも被害者から道を思考せずに加害者の様な無意味な戦争することではないでしょうか。
映画は良い映画だが、今の立場から連想すると共感できなくなってしまった。
イメージしてしまう自分が怖い
兵隊なんで、命令だから仕方ない。
しかし、家族はどう思ったか
しかも戦後 主人公は、死刑になったらしいが
あの赤ちゃんや奥さんは?
真面目なドイツ人なんだろね。
ちゃんと拭き拭きしてたのが
笑うわ!
アンダースキンの音楽ぽいのが不気味だ!
【ユダヤ系イギリス人のジョナサン・グレイザー監督がアウシュビッツ収容所のホロコーストを”不穏なる音響”で描き、且つ、壁の外側の”裕福な”ドイツ人家族の関心ある事しか見ない心の闇を描いた作品。】
<感想>
・オープニング、不穏な音が響く中暗闇が続くが突然、晴れやかな空の下、子沢山の家族が川べりでピクニックをしている風景が映される。平和な風景である。
・その後、家族の父はナチス親衛隊(SS)の制服を着て家を出て仕事に行く。
ー 家族や、彼の部下たちの会話を聞いていると、その父親がルドルフ・ヘス(クリスティアン・フリーデル)であることが分かって来る。
ご存じのように、アウシュビッツ収容所所長で、戦後絞首刑に処された男である。-
・今作では、アウシュビッツ収容所内は描かれない。収容所と接したルドルフ・ヘスの瀟洒な家の中で暮らす彼の妻ヘートヴィヒ(ザンドラ・ヒュラー:「落下の解剖学」に続き、印象的な演技で愚かしき妻を演じている。)を始めとした家族や家政婦たちの姿が描かれる。
・ヘートヴィヒは自分の理想とする生活を手に入れた満足感で、家政婦から差し出された明らかにユダヤ人の女性のモノと思われる毛皮のコートを身に纏い、満足気である。
更には、同じくドイツ人の女性がユダヤ人の歯磨き粉の中から見つけた指輪を自慢げに見せ、子供はユダヤ人と思われる歯で遊んでいる・・。
ー 家の壁の外からは、パンパンと乾いた銃声や怒声、犬の鳴き声、叫び声が聞こえて来るのに彼女の耳には入らないらしい。そして、壁の向こうに立つ煙突からはもうもうと煙が出ている。関心のある事しか見ないヘートヴィヒや彼女の友人、子供達の姿が恐ろしい。-
・ヘートヴィヒの母がやって来て、娘の住まいを見て驚き賞賛するが、彼女は夜でも響く焼却炉の腹に沁みる不気味な音と、業火の如く炎を上げる煙突を見て夜中に姿を消すのである。
ー そして、ヘートヴィヒは母が残した手紙を読んだ後、怒りながらポーランド人と思われる家政婦たちに怒鳴り散らすのである。-
■劇中、2度、少女がユダヤ人たちの労働場と思われる所で、土に林檎を埋めたりする姿が暗視カメラで映される。
非常に印象的なシーンである。
・ヘートヴィヒはルドルフから転属を告げられるが、彼女は”漸く理想の生活を手に入れた”と言う考えの元、共について行く事を拒む。それを容認するルドルフ。
・子供達と川遊びに来たルドルフだが、川の中で煙突から出た灰と共に運ばれたと思われる骨を見つけ、慌てて子供達を川の中から出し舟に乗せるシーンも、冒頭のシーンとの対比が印象的である。
<再後半、ルドルフは転属先で精力的に会議を進行させるが、その後建物の階段を降りていく際に2度、吐瀉する。彼の心に何か小波が起きたのだろうか、終戦間際になっての自身の行く末を考えたのか、良心の呵責が初めて身体の反応として出たのか・・。
そして、突然、画はアウシュビッツ=ビルケナイ博物館と思われる通路の両側にガラスを隔てて山のように積まれた無数のボロボロの靴が映し出されるのである。
今作は、ユダヤ系イギリス人のジョナサン・グレイザー監督が、関心のある事しか見ないルドルフ・ヘス及び妻ヘートヴィヒを始めとした全体主義に侵された人々の心の闇を描いた作品なのである。>
そのまんま
この作品のメッセージ性は至極真っ当だとは思った。テーマがテーマなだけにそこに議論の余地はない。
まずそこは大前提。
なんですがって事で…
自分はタイトルと映画館での予告編で大体どんな作品かはわかっていて観に来ていたが、メッセージ性は置いといて1つの作品としては以上でも以下でもないって印象を持った。
タイトルが出て邦題はそのままの同じ意味。
映像は美しく、そこに暮らす一家はそこそこ幸せな様でいても、それは上辺だけであって何処かギクシャクした人間関係。
映画が始まってから最後まで鳴り響く工場の稼働音。
時折、怒鳴ったり叫び声や銃声の様な音も聞こえ不穏さを煽る。
嫌な雰囲気から段々と嫌な事が起こり始める。
陰影が反転した映像で労働者にこっそり食べものを忍ばす女の子、お伽話、歌。
奥様の二面性が少しづつエグ味が増す。
川を流れてくるアレ、美しいガーデニングの肥料になるアレとか。働き詰めの旦那は"見せてる"とこでは家族を大切にしてる人の親だけど、やはりやる事はやってるとか。"見せない"から少しづつ見せていって、観客の想像がつく程度の描写に留めてる。
でもハッキリ言って個人的にはわかり易過ぎた。
これは無関心とかではなく、全員が知ってて見ない様にしてるが正しいと思う。
そんなだから特に身体が悪い訳でも無いのに心が嘘をつけなくてえずいてしまう。
離ればなれになった家族がまた元に戻れるかも知れない…そんな物語上の"興味"の誘導に流されそうになると、突然、現代の絵が入る。
忘れてんじゃねーよ!
って。
それはわかるけど、自分の印象としてはメッセージ性は置いといて作品の作りとして意地の悪い演出だと思った。また予告編から想像するものを超えてくる様な事は特になかった。エンタメじゃねんだよ!って事なのかも知れないが…いや見た人に関心を持たせる為かも知れない。
確実に寝ます
ドイツ第二次大戦中のまあまあ偉い将校家庭の生活をそのままずっと見せられます。鉄砲の音?とか微妙な叫び声?とかは時折聞こえますけど、そこからユダヤ人が虐殺されてる横で、よくもまあのうのうと暮らせるなと怒りやら恐怖を感じるって、どんだけ感情豊かなのよと思う。普通の人は寝ます。それがこの映画の怖さであることを、最後あたり、アウシュビッツ資料館を淡々と掃除するおばさん達の映像が挟まれるところで気付かされます。自分自身がもつ慣れの愚かさや怖さ。クレジット中流れる音楽、これ、人の叫び声のサンプリングだけで作られてます?映画見て寝るとこまで計算されてるという稀有な作品。見るべし。
鑑賞動機:音響賞9割、とてもイヤな話らしい1割
あらすじだけみると、そんな音響に特徴出せるような話に思えない。それにもかかわらずオスカー取ってるということは、よっぽど何かやらかしているのでは。ということで通常座らない劇場中心付近で『クワイアット・プレイス Day 1』の予告を見つつ、無音待機。
最初からそれ? 真っ黒な画面は誰か(死体とか)の視点かと身構えたが、「よーく聞いててね」ということなのね。
通常場面ではBGMはほぼ無いので、一家の団欒の裏であんな音こんな音がよく聞こえる。そしてそれがすでに環境音のようになっていて、むしろここにいたいとさえ思うようになっていること、その事が恐ろしい。母親は耐えられなくなって出ていった…ということか。
映像は、配置された固定カメラを切り替えるような場面が多い。基本的に一家の日常なのでのどか(おい)で単調にも思える。そんな日常風景として服(下着?)やブーツや歯やリンゴやお金や川の変色とか、意味がわかると怖いネタが大量に投入されてて、集中して観るほどダメージを受けるという。最後の現代場面の靴でダメ押しされる。
ああ、この人『落下の解剖学』の人だった。
どうやって観るか
終始何か特別な事が起きる訳ではないので退屈と言われれば退屈な映画とも言える、多分家で観てたら寝落ちするだろうなぁとすら思った。
しかしこの映画の面白さは、教科書にすら載ってる事が現場ではまるで何も起こってない様に観せる事にあるのだと思う。
日常会話をしている後で壁の向こうから聞こえてくる叫びや銃声、煙突からモクモク、機関車からモクモクと煙も止むこともない。
観ている最中に自分自身がこの作品を退屈だと思ったとしたらそれは既に目の前の事象に関心が無くなっているという事なのだろうか…
映画館で是非体感して欲しい作品だと私は思う。
壁の向こうは地獄
今まで色々なナチ映画や、ドイツの歴史を一時期学んでいたことがあったから、ナチの非人道的な行為をあえて暴力的なシーンを排除し聞こえてくる音だけで痛ましい光景が広がっているというのは説明不要とも云える。
平和に暮らしているように見えるが、心は病んでいる。助けたい一心でリンゴや砂糖をこっそりと夜中に出てアウシュビッツに忍び込み受刑者に与えていたのだと察すると、見た辛さ故に無関心ではいられなかったのだろう。
映画に出てくるルドルフ・フェルディナント・ヘスはアウシュビッツ収容所の初代所長を務め、ナチ・ドイツの敗戦後、戦犯となったヘスはホロコーストの責任を問われ絞首刑に処されている。
ラストの今のアウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館となった光景をヘスが思い浮かべながら階段を下りていくシーンだが、個人的にはこう思った。
ヘスはこれから待ち受ける運命が分かっていた。
空襲にも遭い、これ以上の犠牲を増やさないためにもドイツは降参するしかなかったのだが、負け戦になることを分かっていたので、未来のアウシュビッツ収容所はきっと…という感じで脳裏をよぎったのかもしれない。
「Aleksandra Bystron-Kolodziejcz」をググると絵本のシーンの意味がわかります
2024.5.24 字幕 イオンシネマ京都桂川
2023年のアメリカ映画(105分、G)
原作はマーティン・エイミスの『The Zone of Interest』
アウシュヴィッツ=ビスケナウ強制収容所の隣に住むドイツ人一家を描いたヒューマンホラー
監督&脚本はジョナサン・グレイザー
原題は『The Zone of Interest』で「関心領域」という意味
物語の舞台は、1943年のポーランド・アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所近郊
そこには、SS親衛隊の司令官ルドルフ・ヘス(クリスティアン・フリーデル)の一家が住んでいた
妻ヘートヴィヒ(サンドラ・ヒューラー)との間に5人の子どもを授かっているルドルフは、ポーランド人のメイドを複数人雇い、庭師も雇って、自分たちの住処を形作っていた
ある日、火葬装置の業者が彼の家を訪れ、そこで新型装置の説明を受ける
ルドルフは上官のビショフ大佐(Kaudiusz Kaufmann)にその性能の高さを進言し、これによって計画が押し進められることになった
ルドルフはこの功績を認められ、組織の配置転換の中で、昇進し転属することが決まる
だが、妻は動くことを拒み、「行くのなら1人で」とまで言ってしまう
そこで彼は収容所の総監であるリチャード・グリュックス(Rainer Haustein)に宛てた手紙を綴ることになったのである
映画は、強制収容所の隣に住んでいた一家の日常を切り取る内容になっていて、映画のタイトルコールが出た後に「じんわりとタイトルが侵食されて真っ黒になる」という演出がなされる
暗転してから約1分ほどの沈黙があり、そこから環境音が流れていく、という演出になっていて、その後も単色(黄色など)で埋め尽くされたシーンが登場する
また、劇中でルドルフが眠れない娘インゲ(Mele Ahrensmeier)に対して絵本を読み聞かせるシーンがあり、それは「ヘンゼルとグレーテル」だった
この絵本のイメージにて、グレーテルが道しるべとしてパンを落とすシーンがあるのだが、映画では「リンゴを作業場に埋める」という行動になっている
この時の少女を演じたのがJulia Polaczekなのだが、彼女はアレクサンドラ・ビストロン=コウォジェックの若年期として映画内に登場している
彼女は幼い頃にアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の囚人たちに食べ物を届けた人物で、のちにレジスタンスに加入することになる女性だった
このイメージは「絵本を聴いているインゲの脳内イメージ」ということになるのだが、何も知らない子どもたちも、潜在意識の中で、この場所で起こっていることを理解し始めているように描かれていたと言えるのではないだろうか
物語の中盤には、ヘートヴィヒの母リンナ・ヘンゼル(Imogen Kogge)がやってくるのだが、彼女も情報としては知っていたが、1日中「何か」が聞こえる状況に耐えられずにあっさりと帰っていた
教育されている子どもたちが感じる違和感、道徳的なものを考えてしまうリンナたちの方が正常で、夫の転属で引越しすることを拒む妻は異常にも思えてしまう
それぞれが自分の心を守るための精神的な領域というものを持っているが、あの場所で正常でいられるのは、より強固な目的と役割を持っているルドルフと、彼以上にその場所を聖域化している妻だけなのかもしれません
いずれにせよ、音が大事な作品で、目の前で展開される様々な引用は馴染みが薄いので、その意味がわからないと単調のように思えてしまう
実際には多くの意味があって、特に子どもたちが過ごしていく中で違和感を感じていく過程であるとか、教育によってそれを超えていく状態であるとか、家族の中の年齢差と知能によって、状況に反応する違いがあるのはすごいことだと思う
外から見ている未来人は何が起こっているのか知っているのだが、既知と未知の間にいる家族たちにどのような影響が起こっているのかを観察することができれば、この映画の真の目的が理解できるのではないだろうか
だけども問題は今日の雨傘が無い
主人公はアウシュビッツ所長のルドルフ・ヘス。ヒトラーの側近だった人もルドルフ・ヘス。ただし、前者はルドルフ・フェルディナント・ヘス(Höß )で、後者はルドルフ・ヴァルター・リヒャルト・ヘス( Heß )と、名字のスペルも違いますが。
この作品、井上陽水の初期の代表作「傘がない」の冒頭を思い出しました。「だけども問題は今日の雨傘がない」ようするに、所長の嫁(落下の解剖学のザンドラ・ヒュラー)にとっては、アウシュビッツでなにがあろうと、また夫が出世して赴任先が変わろうと、自分自身が現在お気に入りのこの生活環境を終わらせたくないってことなんですね。
アウシュビッツ収容所と壁一枚隔てた場所で、昼夜収容者の悲鳴が聞こえたり、死体を焼却する白煙があがるような環境にあっても彼女にとっては「関心領域」には無いということです。
ナチス・ドイツが悪だとか、そういうことはこの映画では関係なく、所長は自分の任務を忠実に守り、また家族も守るという家長としての役割を果たしているに過ぎません。
我々はこのドラマの終焉(ドイツの敗戦)を知り、この所長も敗戦後ニュルンベルク裁判にて戦犯として極刑を受けることを知っているわけで、そういう意味では「あわれ」を感じました。
壁1枚挟んでっていうのは流石にないと思うけど
真っ暗な画像と不穏な音響から始まりただならぬ雰囲気を感じさせつつ、家族の楽しそうなレジャーの映像が映り、ああこの映画は終始こんな感じで話が進んで行くんだなと思わせる。
田舎での子育てや生活しやすそうな環境に大満足の奥さんは塀の向こうでは日がな銃声や叫び声がうっすらと聞こえるが、赤ちゃんや犬の鳴き声と同じくらいにしか感じていない。
大規模な焼却が始まり(義理の?)母親は耐えられなくなり家を出るが、塀の向こうで起こっている事への関心がなく、旦那の浮気にも気づかない鈍感力が際立ち、家政婦に悪態をつくこの滑稽な奥さんの姿を観客にはナ◯ス幹部の家族の象徴の様に思わせる製作側のやり口には嫌悪感しかなかった。
近年のエンタメに昇華させないドイツの過去の所業を題材にした映画は話題性や賞狙いとしか感じられず、個人的には大の苦手なので評価は遠慮させていただく。
※個人の見解ですごめんなさい。
壁の向こう側
壁を一枚隔てた二つの世界。壁のこちら側ではごく普通の家族の営みが、そして壁の向こう側では恐ろしいことが行われている。
アウシュビッツ収容所所長のルドルフ・ヘスの家族が暮らす立派な邸宅には広い庭があり、ヘスの妻が手塩にかけた植物が植えられている。温室やプールまでが備えられ、休日には多くの子供たちで賑わう。
子煩悩であり、善き夫でもあるヘス。休日には近くの川でピクニックや乗馬、釣りやボートを楽しむ理想的な家庭の姿。
そんなヘスの一家が暮らす家の壁一枚隔てた向こう側では常に銃声のような音が鳴り響いている。そして遠くの煙突からは定期的に黒い煙が立ち上っている。しかし彼ら一家はそれらの光景に特に関心ないようである。むしろ慣れっこになっており、気にもならないようだ。ヘスの幼い息子などは時折聞こえてくる何かを罵倒する声の口真似をしたりしている。
ただ、娘は敏感に何かを感じ取っているのだろうか、寝付けないそんな娘にヘスは本を読んで聞かせる。
ヘスの邸宅には食料などの物資が定期的に届けられる。中には肌着などの衣類や高価な毛皮のコートまで。肥料となる灰も常に事欠かないため庭の花々も色とりどりに咲き誇っている。これこそがヘスの妻が理想とする暮らし、何不自由のない豊かな暮らしがそこにはあった。何かを犠牲にして。
そんな時、ヘスに移動の命令が下りる。彼の所長としての功績が認められての昇進だった。しかし妻の気持ちを汲んだ彼は家族を残し単身赴任する。離れ離れになってしまう家族。遠く離れた勤務地からヘスは家族を思う。
大きな計画が実行に移される時が来たとき後任の所長には手に余るため、ヘスが所長を復任することとなった。家族はまた同じ屋根の下で暮らせるようになり、作品はそこで終わる。
大きな計画とはヨーロッパ中のユダヤ人を絶滅収容所に送る計画だった。
たった壁一枚の隔たり、その向こう側で行われていることに関心を持たない人々の姿。これはまさに今の社会を象徴しているのだろうか。
内戦や貧困から逃れ助けを求める難民、紛争が続く中東で繰り返される虐殺にどれだけの人が関心を寄せているだろうか。日々の生活に追われてそんな余裕もないのが私を含めて実際のところではないだろうか。
いま現在もウクライナやパレスチナでは日々虐殺が行われている。確かに日本に住む我々にとっては壁一枚というには距離があり遠い国での出来事とも思える。しかしそこでの出来事が日々テレビやSNSによってタイムリーに情報が得られるという点では壁一枚向こう側の出来事とも言える。
それら情報を手にして、その悲惨な現地の映像を目の当たりにして心を痛める。しかし次の瞬間には自分の明日の仕事のことや、生活のことを考えている。壁の向こう側の出来事への関心は長くは続かない。結局できることは限られてしまう。アクティブな人なら抗議活動などしたりするのだろうが、私は所詮募金止まりだ。
その点、世界中でZ世代の若者たちが声を上げてることには実に頭が下がる。彼らはロシアやイスラエルに対して抗議の声を上げている。
ナチスのホロコーストはもはや過去の歴史上の出来事だが、ウクライナやパレスチナはまさに今起きている進行形のホロコーストだ。ナチスの時代、声をあげれなかったからこそ、今声を上げなければという使命感のような思いがあってのことだろう。
もし無関心のままだったら、結末はアウシュビッツビルケナウ博物館のような光景が待っている。おびただしい数の靴や衣服がそこには展示されている。
本作のラストでは現在のビルケナウ博物館がフラッシュバックされる。そして嘔吐するヘスの姿。自分たちの行っている行為が、無関心でいることがどれほど恐ろしいことなのか本作は自覚しろと訴える。
ただ淡々とヘスの家族の日常を描いただけの作品。壁の向こう側で行われている虐殺はけして描かない。監督は観客の想像に委ねる。だからこそ本作は恐ろしい。視覚でとらえてしまうと想像の余地は狭まる、見せないことであえて観客に想像させる。想像は膨らみ、想像すればするほど怖くなる。想像が作り出した残酷な光景が頭からこびりついて離れなくなる。もはや無関心ではいられなくなる。そんな効果を監督は狙ったのだとしたら本作は大成功だといえるだろう。観客の関心を最大限高めた作品だった。ただ、関心がわかない人にとってはつまらない映画だと思う。
実は本作はヘスの家族以外にもう一つの家族が描かれている。レジスタンスの少女の家族だ。彼女は夜ごと強制労働の現場に足を運びリンゴを忍ばせる。そんな彼女にユダヤ人はメッセージを託す。曲にカモフラージュしたメッセージを。
サーモグラフィーで描かれる彼女の姿は冷酷なナチスとは対照的にぬくもりを感じさせるものであり、本作で唯一の救いとなるものだった。
本作を見て「ヒトラーのための虐殺会議」を思い出した。本作はあの作品と似ている。同じホロコーストを扱っていながら一切虐殺のシーンは描かれない。あの作品は会議出席者たちが淡々とユダヤ人をいかに効率的に虐殺できるかを議論する作品だった。そこには自分たちがいかに残虐な行為を計画しているか自覚してる人間は一人もいなかった。
人類史上、虐殺はホロコーストに限らずいつの時代でもいたるところで行われてきた。十字軍の遠征、広島長崎、クメールルージュ等々。
なぜ人はこうも残酷になれるのか。なぜ人が人に対してかようにも残酷になれるのか。先述のようにこれはナチに限らない。歴史上人は残虐であり続けた。しかし一方でそのような残虐なことができる人間たちも家に帰れば優しい父であったり、親孝行の息子だったりする。本作のヘスもそうだ。善き父であり善き夫なのだ。そんな人がなぜこうも残虐になれるのか。
彼らが日ごろから残虐行為を繰り返す野蛮人なら安心できたが、彼らは我々と同じごく普通の人間だ。そんなごく普通の人間がなぜこのような虐殺行為をできるのか。
それは思考を停止させているからだろう、残虐を残虐とは思わないからだ。牛を殺して食べることを残虐だと考える人間がいないように、ユダヤ人を人間と考えなければ自分たちの行為を残虐だと思うこともない。思考を停止することで人は優しいままでいくらでも残虐になれるとは「福田村事件」の森達也監督の言葉だ。
優しい父、優しい夫のままで、彼らはなんの躊躇もなくおびただしい数のユダヤ人をガス室に送れる。彼らが残虐なのではなく単に思考停止しているだけ。ならば誰もが思考停止すればどんな残虐な行為も行えるのだろう。
私自身戦場に送られれば思考停止して相手を平気で殺せるようになるかもしれない。だからこそ戦争はけしてしてはいけないのだとつくづく思う。戦争が思考停止を生み、思考停止が戦争を生むのだ。
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