関心領域のレビュー・感想・評価
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『関心領域』は恐ろしいほどに徹底した“想像力”の映画だ
なんという恐ろしい傑作が誕生したのだろうかと唸らずにはいられない。徹底的に計算された「音」が支配するこの映画は、観る者に「想像」することを要求し、観る者の「想像」を拡張させる。完璧なまでに「想像力」の映画だった。
以下、ネタバレを含みます。
▶︎3つの感想
1.「普通の日常」に潜む「残虐な非日常」
2.徹底された“音”の想像力
3.ランズマンの「表象不可能性」をめぐって
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①「普通の日常」に潜む「残虐な非日常」
あらすじにあるとおり、この映画の舞台はアウシュビッツ収容所のすぐ隣。1枚の壁に隔てられた場所で幸せに暮らす家族の物語だ。
まずこの設定からして、僕らの想像力は1つ拡張される。おそらく日本人の多くが、アウシュビッツ収容所の名前を教科書で見たことがあり、そこで繰り広げられていたあまりにも残酷なナチスによるユダヤ人虐殺の事実について、少なからず”知識”としては知っている。
ただ誰が想像しただろう。その地獄のすぐ隣に、幸せを享受する家族の日常があったことを。虐殺されていったユダヤ人、凶行にはしったナチス。彼ら彼女たちはあくまでも「歴史」に刻まれた人々であって、「戦争」という光景のなかに閉じ込められたような感覚が、少なからずあるのではないか。
しかしこの映画では、現代を生きる僕らと変わらない「日常」が流れている。水遊びに興じ、家族で食事をとって、二段ベッドでは兄弟の会話を交わし、新しく手に入れた服を試着する。10台の固定カメラで撮影されたという映像は、こうした「日常」を淡々と映し出す。
それはあたかも「何事も起こっていない」かのように見える。水遊びをしている川にユダヤ人を焼いた遺灰が流れてくること以外には。二段ベッドで子供たちがユダヤ人の歯をもて遊ぶ以外には。彼女たちが分け合い試着する服がユダヤ人から剥ぎ取られたものであること以外には。
「普通の日常」に「残虐な非日常」が丁寧に、そして密かに描きこまれる。アウシュビッツの事実を知っている観客は、その1つ1つを見逃してはいけないと強烈に自覚しながら、この映画に対峙する。映像として描かれている「日常」を観客の「想像力」が拡張することで、映画『関心領域』は完成するのではないか。
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②徹底された“音”の想像力
そして、そうした演出の極みとも言えるのが「音」の設計だろう。『関心領域』では、ずっと”なにか”の音が響き続けている。それはときに銃声のように、ときに悲鳴やうめき声のように、ときに人体を焼く炎の音のように聞こえる。こうした音の設計について興味深い記事を見つけたので、ここに引用したい。
【(引用)グレイザー監督は音響デザイナーのジョニー・バーンに「1年かけてアウシュビッツの音の専門家になって欲しい」と依頼。バーンは当時のアウシュビッツの地図や証言を読み込んだ上で、当時どんな音が彼らの耳に響いていたのかを研究。実際にアウシュビッツにまで赴き、庭と収容所の距離を測った上で、家の中からの銃声の聞こえ方までをも正確に再現したり、その季節に飛んでいる虫の羽音が何なのかを調べたりまでしたそう】
「オスカー受賞の話題作『関心領域』をネタバレ解説。悪意と無関心はイコールなのか」(mi-mollet)より
『関心領域』に響く音は、基本的にはその発生源から距離(1枚の壁)があり、具体的になんの音なのかがわかるような映像はなく、絶えず「想像」することを要求し続ける。その想像は、「これはなんの音だろう」というところから始まって、次第には「今ひとが殺されたのか」「何人のユダヤ人が焼かれているのだろうか」という惨劇そのものへの想像へと拡張されていく。
それはつまり、不穏な「音」が恐怖や緊張を必然的に生み、観客の心に暗く悲しい波が押し寄せる。そして実はこの言いようのない暗澹たる心情を劇中でも敏感に感じ取っている登場人物がいる。と、僕は思った。
まずは子供たち。おそらく弟と思われる少年は、二段ベッドの下で壁の向こうから聞こえてくる「なにかよくわからない音」の旋律を自然と口ずさんでしまう。そして兄と思われる少年は弟をビニールハウスへと閉じ込めるが、それはまるでナチスがユダヤ人をガス室に閉じ込めて殺す所作をも彷彿させる。その背景におそらくあの空間に漂う残虐で暴力的な空気とそこに響く音があるのではと想像してしまう。比べるべくもないが、夫婦喧嘩の絶えない家庭の子供が暴力的になりやすいと言われるように。
そしてもっと直接的に感じ取っているのは、間違いなく赤子と犬だろう。劇中で「うるさい」と感じるほどに、赤子は常に泣き続け(実際に「よく泣くね」といったセリフもあった)、犬は常に吠え続けている。赤子の泣き声は壁の向こうの悲鳴に共鳴しているように感じてしまう。犬が吠え続けている相手は、おそらくはナチスの狂気であり暴力であろうとも。
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③ランズマンの「表象不可能性」をめぐって
『関心領域』のようなホロコーストをめぐる作品を考えるうえで必ず思い出されるのが、フランスの映像作家クロード・ランズマンの提唱した「表象不可能性」の問題だろう。ランズマンは、とりわけスピルバーグの『シンドラーのリスト』を標的として、ホロコーストをフィクションとして描くことを痛烈に批判し、自身は関係者へのインタビューから構成される9時間のドキュメンタリー映画『SHOAH ショア』を制作した。
「表象不可能性」の問題を簡潔に咀嚼できるほどに僕の教養は深くはないのだけれど、ざっくり言うと、ランズマンは、どのようなフィクションもホロコーストの残酷さを描くことはできないという前提のもとで、最終的には現存する「写真」などの資料すらも全否定してしまう。そしてそのある種の証明として、『SHOAH ショア』では虐殺の描写を映像的には一切排除して、当事者たちの証言そして沈黙のみを淡々と記録している。
そのランズマンに対して、収容所のゾンダーコマンド(特別労務班)が撮影し歯磨き粉のチューブに隠して外へと持ち出された4枚の写真をもって、『イメージ、それでもなお』と反論したのがフランスの哲学家ジョルジュ・ディディ=ユベルマンだ。
ユベルマンは4枚の写真が決して「ホロコーストのすべて」を表象しているとはせずに、それでもなお、だからこそ、想像することを倫理的な責務として課している。そこで必要とされるのは、写真のイメージを前にした恣意的な連想という意味にとどまらない、写真に刻み込まれた痕跡についての徹底的な観察——ときに文字資料や同時代の証言などと組み合わせて——に基づいた「歴史的想像力」である。
本作の完成までにおよそ10年もの年月をかけたジョナサン・グレイザーや制作チームが、詳細で綿密な取材と調査のもとに築き上げたのはまさにこの「歴史的想像力」ではないだろうか。そして、『関心領域』に刻み込まれたその「歴史的想像力」が、私たち観客の「想像力」を導き、拡張させる。
『関心領域』が生み出す「想像の連鎖」はまさに、ゾンダーコマンドが4枚の写真に添えた「拡大した写真はもっと遠くにまで届くはずだ」というメモ、そこに込められた祈りにも似た”なにか”に応えようとしているように思えてならない。
人間というグロテスクな生物
タイトルが控えめに添えられ、大胆な黒の余白が何かを暗示するかのようなそのポスターを見た時から、「これは見なくては」と心がザワザワとしていました。そして遅ればせながら観ました。
あらすじで紹介されている通り、アウシュヴィッツ強制収容所の隣地に自宅を構える所長と家族たちの日常が淡々と描かれていきます。
壁一枚隔てた先には地獄以外の何物でもない世界が広がる一方で、所長宅では子供たちが駆け、妻は庭木の手入れに汗を流し、家族の誕生日には笑顔でケーキを囲むのです。(所長は"荷物"の効率的な焼却方法について考えを巡らせる)
作中で、収容所内部や収容者たちの姿が描かれることはありません。たしかに家族の視点では中の様子なんて知る由も無いので、当たり前かもしれません。
ただし家族も当然に共有しているものとして、昼夜問わずに「音」が聞こえてきます。
何かにすがるような泣き声、断末魔のごとき叫び、タララっと乾いた音で響く銃声──。
壁の向こうからあらゆる音が聞こえてくるなかで、家族たちは平然と幸福な日々を重ねていきます。
これを「なんて冷酷な人たち!」とも言い切れません。
私たちの多くも、日々、テレビや新聞で世界中の悲惨な現場を、あるいは日本国内における悲劇的事象を見聞きしながらも安穏と暮らしているのですから。
……と考えれば、作品に登場する家族は、概念としては人間誰しもが入れ替え可能であるもの、とも言えるかもしれません。
視覚的なエグさは0なのに、人間のグロテスクさをこれでもかと炙り出す一作。ゾッとします。人間に。
「関心領域」の外へ出よ
テオ・アンゲロプロス監督の映画で、空襲で映画を観ていた観客が外に逃げ出した後、誰もいない劇場をカメラが写し続けている、というオフスクリーンのシーンがある。爆撃音だけが聞こえる画面。本作は、このオフスクリーンを徹底することで、アウシュヴィッツ強制収容所の戦慄すべき実態を間接的に伝える。いや、間接的と書いたが、むしろその間接性が本作の主題なのだ。
収容所と壁を隔てて、それを管理するルドルフ・ヘス一家の平穏な生活が描かれる。昼夜聞こえる阿鼻叫喚。焼却炉の煙突から立ち昇る煙。庭園に咲く美しい花々は、焼かれた死体の灰混じりの土から養分を得る。収容されたユダヤ人から奪った宝石や服で着飾るヘスの妻や友人たち。ヘスの転属を突然告げられた妻は、「総統が言う『生存圏』は、私たちにとってはこのアウシュヴィッツだ。望んだ理想の生活がここにある」と一緒に行くのを拒否する。強制収容所と隣り合わせの、理想の生活とは何なのか。観客は背筋に悪寒を感じざるを得ない。
壁の向こうで行われているホロコーストに、徹底して無関心。オフスクリーンという技法に、そのままヘス一家の、そして私たち観客の態度が投影されている。ここでは、間接性が罪なのだ。「関心領域」の外に出ないことが、人間性の侵食をもたらし、破壊する。
しかし、ルドルフ・ヘスは人間だ。所長として、淡々と「ユダヤ人絶滅計画」の一端を担って任務を遂行していたが、パーティーで、参加者たちを毒ガスで殺害することを想像して、嘔吐する。自分がしていることが何なのか、生理的反応がそれを教えたのだ。唾棄すべき虐殺行為を、例えばマッティ・ゲショネック監督『ヒトラーのための虐殺会議』で明らかにされたように、議題として淡々と話し合って決定できる、その構造とはいかなるものか。「関心領域」に止まっていてはわからない。
耳を凝らし音を見て、人間の冷酷さに震撼する
冒頭、白抜きのタイトルが徐々に闇に沈み、その後スクリーンには何も映らないまま音楽だけが鳴り響く。その音楽もレコードの回転数が落ちてゆくようにテンポが落ち、溶け落ちるように崩れてゆく。思わず聴覚に神経を集中する。音を注意深く聞くようにと前置きするような開幕だ。
ヘス一家に起こる出来事として、アウシュヴィッツ収容所の司令官だった夫のルドルフが転属し、その後戻ってくるという物語が描かれるが、率直に言ってその話はおまけのようなものだ。
彼らの瀟洒な家に、昼夜の別なくかすかに響く地鳴りのような音。あれは焼却炉で死体が燃える音、その熱気が煙突からたちのぼる音なのだろう。時折遠く聞こえる叫び声や銃声。移動する煙だけが壁の上に見える移送列車の走行音。
絶望的な音と隣り合わせの家で、まるでそれらが聞こえていないかのように「平和」な生活を送るヘス家の異様さが、時間の経過とともに浮き彫りになる。家族が庭で過ごす場面を見ていても、塀のすぐ向こうにそびえる収容所の威容に目がいくが、その風景や音を気に留める登場人物はほぼいない(泊まりにきたヘートヴィヒの母が黙って帰ってしまうという描写があるのみ)。
あの環境の中でさえ、人間はここまで身近に起こる出来事に無関心になれる。物語としてのエンタメ性より、己の見たくないもの、聞きたくないものを無自覚にミュートしてしまえる、人間の恐ろしい特性を見せることがこの作品の眼目なのだろう。
子供たちはベッドに誰かの歯を持ち込んで遊ぶ。ヘートヴィヒはナチスがユダヤ人から接収したであろう毛皮のコートを羽織り、ユダヤ人が歯磨き粉の中に隠していたダイヤを奪った話題で談笑する。そして、夫のルドルフの転属には大反対し、結局彼だけを単身赴任させる。あの住環境をよいものだと思っているのだ。収奪行為への罪の自覚も見えない。
私たちは、塀の中のユダヤ人たちが使い捨ての労働力として扱われていること、いかに残虐に殺されているかを知っている。そういった視点から見れば子供の教育に悪そうなロケーションにしか見えない。ヘートヴィヒは、そこでユダヤ人が殺されていることは分かっているようだが、彼らがどのように殺されているか知っているのだろうか。せめて、それを知らないから無頓着になれるのだと思いたくなる。
本作で、彼らの生活は否定的な演出などはされず、常に距離を置いた固定カメラで(無人カメラを設置して遠隔操作したそうだ)淡々と描写される。そのことが、見ているこちらのもやもやとした気持ちや居心地の悪さを増幅させる。悪い行いをする者が物語の中で悪のレッテルを貼られず、報いも受けないからだ。
史実では、ドイツの敗戦後に一家は離散し、ルドルフは名前を偽って逃亡したが、1947年にポーランド政府によってアウシュビッツの地で絞首刑に処されている。
あえてそこまで描かないのは、物語の中でルドルフたちが罰されて観客の溜飲が下がると、この一家の醜悪なふるまいが、昔の特殊な立場の人間がしたこととしてどこか他人事のように捉えられてしまう恐れがあったからではないだろうか。
ポーランド人の少女が、収容された人々が労働中に拾えるよう夜中に林檎を撒く場面だけがエピソードとしては救いだが、その描写も映画的なカタルシスはあえて避けているように見える。まるで、観客に安易な満足感を与えまいとしているかのようだ。
グレイザー監督は、ユダヤ系イギリス人でありながら、アカデミー賞の受賞式でイスラエルによるガザ侵攻を念頭に置いた批判的なスピーチをおこなった。技術の発達により世界中がさまざまな形でつながり、彼の地の情報をリアルタイムで知ることのできる現代において、世界のどこかで起きている侵攻や紛争は、速報性という点では壁のすぐ向こうの出来事と言っても最早さして語弊ではない。
それらは総じて長引けば世論から忘れられがちだ。現代ではむしろ情報の総量が多いが故に、自分が直接被害を受けるようなことでなければ、残虐な出来事にさえ私たちは倦んでゆく。
本作は静かなホロコースト批判映画でありながら、ヘス一家の持つ残酷な鈍感さを、そんな私たち観客にも自分ごととして突きつけてくる。ただし、受け身でいるとおそらくそのメッセージさえ見えない。観客に対してもある意味厳しい作品なのだと思う。
余談
・ヘス邸は実際に収容所に隣接していた。塀の向こうの直近の建物は事務棟だったようだが、ガス室までの距離は歩けば5分とかからない距離。本物の邸宅はユネスコの世界遺産に認定されているため撮影には近隣の廃屋を使用。
・ヘートヴィヒがアウシュヴィッツを離れたがらなかったというエピソードは、監督が当時のヘス邸の庭師から実際に聞いた話。
・夜中に林檎を置く少女にはアレクサンドラという実在のモデルがいて、監督が本作の取材をした時にはまだ存命だった。映画に登場する少女が着ている服はアレクサンドラが実際に着ていたもの。
知識の扉であり、戻って来る度に得るものがある奥行き。
アウシュビッツから恩恵を受けているナチスの家族の生活を、ただただ客観的に観察する。ジョナサン・グレイザーはいつも斬新な視点から挑戦を仕掛けてくる天才だが、今回のストイックなコンセプトを、これだけのレベルで徹底してやりきったことに感嘆する。一方でコンセプト重視であることが足かせになった部分もあったのではないか。しかし、この手法でなければ描けないことがある!と覚悟は決めていたはずで、自分は二度観たのだが、二度目のほうが意図や寓意や裏で進行しているサブプロットなどがよりハッキリと見えて、鑑賞の醍醐味がはるかに増した。正直、リンゴを埋めて回っている少女のパートなんて、知識もなく観た初回は全然理解できていなかった(あれも実話だったとは…)。娯楽目的の商業映画としてはハードルは高いかも知れないが、この映画を入口に知識を拾いにいって、その上でまたこの映画に戻ってくることで味わいと戦慄が増すという、非常に有意義でスリリングな映画になっている。そしておそらく、自分がわかったと思っている部分なんで、まだまだ氷山の一角似すぎないに違いない。
無関心の恐ろしさ
本作はどういう作品か分かった上で見るのと知らないで見るのとで、大分印象が違う。実際、公開時から賛否両論。
しかしどちらにせよ、受ける衝撃、恐ろしさ、人間の醜さ、愚かさは同じ。
何も知らないで見ると…
戦時中。あるドイツ人将校家族の日常。
家は広く、時々家族でピクニック。夫人は毛皮のコートを羽織り、友人らを招いてパーティー。
何の不自由もない満ち足りて平穏で贅沢な暮らし。
ただその様が淡々と描かれる。楽しさや幸せやハートフルは一切皆無。一歩引いたような傍観的な視点。
それがまた話に入り難くしており、否の意見でもあるが、それがある意味重要な意味を成す。
そこはユダヤ人収容所所長の邸宅。
収容所と壁を隔ててすぐ隣。
壁の向こうでは、毎日多くのユダヤ人が虐殺され…。
一方、壁のこちら側(一家や見る我々の視点)では…。
その対比。何と言う皮肉、風刺。いやそれどころか、ゾッとする。
たった一枚の壁を隔てて、世界はこんなにも違うのか…?
収容所でのユダヤ人虐殺シーンも一切ナシ。それが何も起こらず、一家の日常ばかり見せられてただ退屈との声もある。
何も起こってない訳ではない。見せないだけで、聞こえたり、後から知るとおぞましいのだ。
時折聴こえてくる銃声。遠く、黒煙が立ち昇る。悲鳴らしき声も…。
それらは全て…。何が行われているか思うと…。
母親が子供たちに着せる服。それは“もう着なくなった”ユダヤ人子供の服。
川遊び中、何かが流れてくる。白い小さな…。それはユダヤ人の歯か…?
極め付けは、庭には真っ赤なバラが咲いている。その肥料は、ユダヤ人の遺灰…。バラの赤々しさは、ユダヤ人の流した血なのだ。
一家は何もかもに全く気にも留めない。
夫人は今の暮らしが続く事を願い、夫は軍人として仕事を全う。
どうしてこんな蛮行が出来る…?
いや、そう言ってる我々も同じなのだ。
本作が世界中で称賛されたのは、ホロコーストが題材だが、それを通じて、“今”の世界を描き通じているから。
“壁”が“国境”。
その“壁”の向こうでは、戦争や争いが絶えず続いている。
我々は“壁”のこちら側で、それらをTVやスマホのニュースとしか認知していない。
私自身もそうだが、それが本当に何なのか、今何が起きているのか、しかと認識しているのか…?
遠い異国での出来事。私たちや平和な日本には関係ない。それこそ、この将校家族と同じだ。何が違うと言えよう…?
無関心でいる事の恐ろしさ。
それを突き付ける。
痛感させる。
全く恐ろしいシーンを見せないで、恐ろしさを感じさせるジョナサン・グレイザーの演出力には脱帽。こういう“見せない演出”は嫌いではない。
『JAWS/ジョーズ』『エイリアン』などの見せない恐怖、山田洋次監督の『母べえ』でも戦場シーンを一切描かず庶民を通して戦争の惨たらしさを見せた。斬新のように思えて、映画の常套手法なのだ。
そして、『オッペンハイマー』などを抑えてアカデミー賞を受賞した音響。ド迫力の音が鳴り響くのではない。時々遠くから聞こえる程度。それが不穏さや恐ろしさを助長させる。こういう音の使い方もあるのか…。秀逸!
寡作で知られるグレイザー。が、またしても印象と記憶に刻まれる。
製作期間は実に10年。労作!
確かによく分からない描写も多い。説明不足、意味不明、どういう意図…? ラストの件など。
しかし、それをただ“つまらない”と一蹴していいものなのか…?
映画は見て楽しむものだが、意図を感じ取る事も。
我々はこの鬼才監督から試されているようだ。
無関心でいられるのか、と。
怒りが込み上げたりとか、しませんでした、わたし。
アウシュビッツで働く父親は、家族も犬も愛する、普通の人間。
組織に忠実に真面目に働き、業績を認められて高給を与えられ、夢に見たような暮らしを楽しむ家族。
「政治的な問題」で転属となり、せっかく作り上げた素敵な家から離れたくない妻との諍いもありつつ、しかし基本的には幸せな家庭の営み。
我々が目にするのは、どこにでもある普通の家族のドラマです。
時折カットインしてくる、黒や赤、煙突の煙、叫び声を除けば。
壁の向こうで起きていることは、父親以外の家族には見えません。
人が燃やされてモクモクと上がる煙も、仕事の結果発生するものでしかないので、家族にはどうでもいいんです。
わたしもそうでした。
殺処分される犬の話を読んだら、心引き裂かれるような気がしたのに。
壁の向こうの出来事は、
どうでもいいと感じました。
ユダヤ人の友達もいるのに。
どうでもいいと感じました。
見えないし。
知らないし。
そういうものなんだし。
感傷に邪魔されることなく。
人間がいかに無関心になれるのか。
自分の身をもって体験できる、非常によくできたアトラクションです。
なぜあれが起こったのか。
頭ではなく、感覚で理解できます。
父親は、少し後悔したのかもしれないけれど。
環境が人間を変え怪物を生み出す。ある意味ホラー映画
ユダヤ人から奪った衣服を身につけ、口紅も平気で口に塗る。
なのに収容所で焼却した遺骨が流れ出た川にうっかり浸かってしまったら、慌てて全身を洗ってうがいをし、バスタブまで念入りに掃除する。
そこにはまるで祟りを恐れるかのような罪悪感の現れがある。
無関心なのではなく、潜在的に罪の意識が蓄積している。
収容所長官は数をこなす事に異常に執着していて几帳面。サラリーマンだったら地味にいい仕事をしそう。
その妻は収容されたユダヤ人の家財を奪う話をしながら、子供達に食べさせる家庭菜園を大事に育てている。
戦争がなければ、多分普通の善人だった人達。
だが、社会の変化に合わせて人間も変わる。収容所長官に人事異動の話が出た時、その妻は「ここは子供達にとって最高の環境、ここが私達の家」と叫んで全力で抵抗する。
このシーンには恐れ入った。潜在的な罪悪感を欲望が完全に押し潰している。
24時間焼却炉の轟音が鳴り響いていて、客観的には地獄でしかないのに、この夫婦にとってはパラダイス。背筋が凍るシーンだった。
関心なのか無関心なのか
最初はBGMのように流れる不穏な雑音。
ああ、多分それがあの音なのだろうと
耳を研ぎ澄ませていると、
だんだんと輪郭が明確になってくる。
銃声、怒号、悲鳴、煙、そして臭い。
奥様は、ユダヤ人が着ていた高級毛皮を身にまとい、
ポケットから出てきた口紅をさす。
赤ちゃんは泣き止まず、
妹は夢遊病を患い、
男の子たちは、抜かれた金歯を宝物にしている。
壁の向こうで何が起きているのか、
知っていて平然を装う。
時折「無関心」でいられなくなり、
壁の向こうの子どもに向かって
「次はしくじるなよ」とつぶやく。
そりゃ、壊れますよ、精神が。
最後は現代のアウシュビッツ収容所が映し出され
淡々と、機械的に、施設の中を掃除をする人たち。
ガラス越しに見える大量の靴の山には、
まるで関心がないようです。
まさに、あななたちのことですよ、
ということなんですよね。
壁一枚隔てて描かれる、天国と地獄
1945年、アウシュビッツ強制収容所の隣。壁一枚を隔てた家で、幸せに暮らすヘス一家。壁の向こうからは、昼夜を問わず聞こえるホロコーストの“音”。しかし、彼らはその音を物ともせずに、“無関心”の果て、豊かな“楽園”を築き上げていた。
本作を鑑賞する前に、事前予習として2022年のドイツによるテレビ映画『ヒトラーのための虐殺会議』を鑑賞したが、本作を理解する上で非常に役立った。ナチス親衛隊や事務次官らが、如何に効率良くユダヤ人を“処理”するかについて議論を交わす作品なのだが、本作のアウシュビッツ強制収容所はまさにその答えとなった舞台。ガスで一度に400〜500人を毒殺し、そのまま焼却炉として遺体を焼却するのだ。
本作中では、ルドルフと役人達との設計図を用いた会話により、より具体的にその内容が語られている。炉を左右に分ける事で、片方で焼却処理をし、もう片方では炉の冷却と灰となった骨の排出が行われる。焼却と冷却を交互に繰り返す事で、一定のペースで決まった人数を処理し続けるのだ。焼却炉が稼働する様子は、絶えず収容所の煙突から立ち込める煙で表現される。
そう、本作では強制収容所で行われる全ての行為が映像では一切示されない。地獄の様子は、“音”によって表現される。それは、平穏なヘス一家の生活の中に、常に流れ続ける。
しかし、彼らに収容所にいるユダヤ人達の“痛み”や“叫び”は届いていない。
本作を通して1番に感じたのは、【好きの反対は嫌いじゃなく“無関心”】とはよく言ったものだなという事。“嫌い”という感情は相手に対するベクトルが向いているが、“無関心”はそもそもベクトルすら存在していない。それはまさしく、本作におけるヘス一家の生活態度そのものだ。
収容所とヘス家の間にあるのは、僅か一枚のコンクリート製の壁。そんな壁一枚隔てただけの場所であるはずなのに、そこに自分達の楽園を築き、何不自由ない生活を送っている。壁一枚隔てさえすれば、その向こうにどんな地獄が存在しようと、築き上げた楽園での生活を謳歌出来てしまう人間の恐ろしさ。そして、一度手にしたその悦楽から離れる事は出来ないのだ。
そうしたヘス一家の歪んだ生活を、色彩や左右対称の構図等、拘りを持った画面構成で鮮やかに表現してみせる。
冒頭のタイトルシーンは、最初こそ白く光り輝いていた『THE ZONE OF INTEREST』の文字が、次第に輝きを失って燻んで行き、やがて消えて行く。その様子は、まさしくヘス一家の収容所内への“関心が薄れて行く”様を表しているかのよう。
また、ヘス家の面々が穏やかな日常を過ごすシーンは、ポスタービジュアルにあるように彼らは多くの場面で画面の中央にいる。それはまるで、「自分達が世界の中心である」という彼らの傲慢な心理を映したかのようだ。しかし、そんなシーンのどれもこれもが色彩豊かで美しく、穏やかに映るというのが皮肉。まさか、鮮やかな色彩や計算された画面構成に一種の嫌悪感を抱く日が来るとは思わなかった。
音楽も非常に大きな役割を果たしており、暗闇にゴォォと不気味に響く様子は、まるでホラー映画のよう。この曲は要所要所で耳にする事になるが、終盤ではあの音の奥に収容所のユダヤ人達の怨嗟の声すら聞こえた気がした。
ヘス一家の中でも最も醜悪に描かれているのが、ルドルフの妻ヘートヴィヒ。ユダヤ人から接収した衣服やダイヤを当たり前の如く身に付け、夫がアウシュビッツ強制収容所の所長である事から“アウシュビッツの女王”と呼ばれている。彼女は自分の母を家に招き、拘って作り上げた家庭菜園を見せて、自分が今どれだけ満たされているかを見せる。
しかし、そんな生活の裏で、夜中まで行われる収容所の“焼却処理”。夜空を真っ赤に染め上げる異様な光景は、ヘートヴィヒの母を家から離れさせる。翌朝、ヘートヴィヒが見つけた母の書き置きに何が書かれていたのかは何となく察しが付くが、彼女は母が黙って家を離れた事に不満を漏らし、使用人に当たり散らす。無関心の極地に達した彼女には、最早自らの生活の歪さに気付く事は出来ないのだろう。
ルドルフの転属によって住居を変えねばならないかもしれないと知った彼女の台詞は強烈だった。
「ここが私の楽園なの。昔からの夢だったの。ここを離れるくらいなら、あなた一人で出て行って。」
しかし、私が作中最も恐怖し、同時に悲しさで一杯になったのは、幼い次男のある日の姿だ。収容所内のユダヤ人達の為、夜中に林檎を埋め込むレジスタンスの少女の姿が映し出されていたが、その林檎が発端となって収容者が暴れ、看守によって鎮圧される。
その“声”を、その“音”を聞いた彼は、窓ガラスに向かって一言。
「二度とするなよ。」
まるで親が子供を躾けるかのよう。幼い彼にとっては、今生きている場所こそが世界の全て。親や周囲がユダヤ人を差別し出した後の世界に生まれた彼にとっては、それはごく自然な発想、自然と漏れた言葉だったのだろう。だからこそ、それは途轍もなく恐ろしく、同時にあまりにも悲しい。“人間の悪意の再生産”が詰まっているこのシーンは、間違いなく本作の白眉だろう。
終盤、ヘートヴィヒの要望を聞き入れ、ルドルフは一人転属地で過ごす。再びアウシュビッツに戻れる事になった彼は、階段を降りる際に嘔吐し、現代のアウシュビッツの博物館の姿を見る。展示されている積み上げられた収容者達の履き物や、当時の品々を。
パンフレットによれば、あれは監督にとって“未来の今”なのだという。彼らの行為の果てに今がある。我々はそれをちゃんと見つめているのか?と。
何故、あの瞬間ルドルフは嘔吐したのか。もしかすると、あの嘔吐は地獄の隣にある楽園から離れた事で、僅かばかりでも良心を取り戻したルドルフの本能が告げたSOSのサインだったのかもしれない。しかし、彼は再びあそこに戻る。そして、あの生活が始まるのだ。
アウシュビッツのホロコーストは確かに過去の出来事だ。しかし、監督の言うように、我々は常にそうなる可能性を秘めているはずだ。いや、既になっているのかもしれない。壁一枚隔てただけで、地獄の隣に楽園を見たヘス一家のように。
また、ヘス一家の生活は“誰かの犠牲の上に成り立つ幸福”だ。しかし、それもまた現代の我々に通ずる問題かもしれない。
現代を生きる我々は今、誰の“犠牲”の上に生活し、何に対して“無関心”なのだろう?
知らない現実もある。
いままでアウシュビッツの収容所の悲惨さしか知らなかったが、そこに勤務している側の生活もあったという現実。
しかも、となりに住んでしまうということ。
時には川に流れてきた骨を見て、子供を洗っていた場面で、毒殺した毒が川の水にながれているのかと思ったり。
妻は現実よりも、自由とお金のある生活を望み、遊びにきた母親はとなりの残酷さに耐えきれずに帰ってしまう。
子供たちもそれぞれ。
林檎をおいてまわったのはヘスの娘だと主人はいうのだけど、そうだったのか…?
いままで考えたこともなかった映画に触れて、私は良かったと思う。
現代と当時の狭間で人の関心を描く
終始、隣の収容所で行われていることは全く映さず、音(人の叫び声など)や煙だけでその情景を映し出す。
その中で、将校夫婦に起きる出来事だけを映し出し、夫婦の問題を描いているように物語は展開するが、後半、将校がふと現代のアウシュビッツの状況に気付くかのような描写が描かれる。
将校は現代の状況に気付きそうでいながら、また自身の日常に戻っていく。
第二次大戦下と現代の狭間で、人が関心を持つということの重要性を訴えているように感じた。
余談だが、仕事仲間の人にこの映画の話をしたところ、リンゴを地面に置いてくる少女の描写などわからないことが多く、パンフレットで真相を知ったようで、もっと説明描写が必要だったのではという感想だった。
確かに、私もリンゴの少女の描写は分かりづらかった。
侵攻した軍は非人道的行為に走ってしまうものなのだろうか(追記)
8月6日(火)
夏風邪で3週間映画館に行けず、観賞予定が大幅に狂った。やっと第96回アカデミー賞で作品賞、監督賞、脚色賞、国際長編映画賞、音響賞の5部門にノミネートされ、国際長編映画賞と音響賞の2部門を受賞した「関心領域」をTOHOシネマズシャンテで。
ナチス親衛隊がポーランド・オシフィエンチム郊外にあるアウシュビッツ強制収容所群を取り囲む40平方キロメートルの地域を表現するために使った言葉が「The Zone of Interest(関心領域)」だそうだ。
「The Zone of Interest」タイトルが映し出されて1分か、それ以上そのままで、その後黒味の画面が続く。映写トラブルかと思う位だ。だんだんと音量が上がって来る。
家族ののどかな川辺でのピクニック風景から映画は始まる。収容所の司令官ヘスの家族である。
しかし、映画の中盤で同じ川へカヌーで子連れで出かけた時、川上から濁った水が流れて来るとヘスは流れの中で人骨を手にする。濁り水の量はどんどん増えて来る。
川上で焼却灰でも処理しただろう事が容易に類推出来る。ヘスは慌てて子供を家に連れ帰り風呂で子供達の体を使用人達にゴシゴシ洗わせる。
ヘスの妻ヘートヴィヒ(ザンドラ・ヒュラー)は、庭に温室を作り、花壇にはバラやダリヤ数々の花が咲き乱れ、滑り台付きのプールもある。私が設計したのよ、と訪ねて来た母親にこれらを紹介する姿の誇らしい事。
母親も素晴らしい家だと思っていたが、絶える事無く立ち上る煙、焼却炉の燃焼音、夜空に煙突から吹き出す炎(当然匂いもするのだろう)、これらを観て、感じて、母親は翌朝置き手紙を残して去ってしまう。
暗視カメラで表現されるユダヤ人作業者にリンゴを差し入れる少女は実在したらしい。
「奴らは何をしていた?」「リンゴの奪い合いです」アウシュビッツでは腐った野菜や肉で作った水分が多いスープしか提供されていなかったそうだから奪い合いにもなるのだろう、少女の善意も死に繋がるのか。
ヘスが転属になる事を告げるとヘートヴィヒは怒りまくる。自分と子供達は、ここにどうしても残るから、あなたは単身で行って。使用人達にも当たりまくる。
ラスト、転属先からアウシュビッツに戻る事になったヘスは嘔吐する。その時、廊下の先に彼が見た物は・・。
現代のアウシュビッツの博物館の清掃風景と展示品が映し出される。焼却炉の中をはき掃除する清掃員、通路に掃除機を掛ける清掃員。ガラスの拭き掃除をする清掃員。ガラスの向こうには、おびただしい数の収容されていたユダヤ人がはいていたであろう靴、靴、靴。山積みの無数のボロ靴が展示されている。
暗闇の階段を降りて行くヘスの姿で映画は終わる。ヘスがダークサイドの闇に消えたように見えた。
本作の舞台となったアウシュビッツ第3強制収容所は1942年10月に開所され、1945年1月にソ連軍により解放された。
劇中でも「一度に500人、7時間で焼却出来ます」という台詞があった。アウシュビッツ収容所全部の被害者は100万人を超えるという。
観るのが遅くなったために「ONE LIFE」を先に見る事になった。ロンドンへ行く列車に乗れなかった子供達の中には、あの煙をはいてアウシュビッツに来る列車に乗せられた子供達もいたのだろう。
アウシュビッツの博物館には行った事が無いが、中国で南京大虐殺記念館(南京大虐殺の追悼施設)には行った事がある。日中戦争で1937年の南京侵攻時に日本軍に虐殺された中国人の遺骨が土中に層をなす程大量に発見されて(「関心領域」の靴の山のように)遺骨の山がこんなにも層をなす程あったのですよと展示されていた。侵攻した日本軍は2万人をレイプし、20万人の軍人と市民を殺害したと言われている。(一説には30万人)
当時南京にいたデンマーク人シンドバーグは、ユダヤ人を救ったシンドラーのように中国人を日本軍から救ったと掲出されていた(その後、施設は拡張されて私が行った頃の倍の広さになったようだ)。
ロシアも、ドイツも、日本も、侵攻した軍は非人道的行為に走ってしまうものなのだろうか。今日も世界のどこかで人間同士が血を流しあっているのだ。ため息が出てしまう。
今日は広島に原爆が投下された日だった。
追記:
カメラはFIXして動かない事が多いが、ヘスやヘートヴィヒが邸内を移動するとき等それと相反して、えらく細かくカットが割って有る。また、昼間の庭園や屋外のシーンは抜けが良く明るい画になっているが、夜間や夜の室内等は暗めの画作りになっている。雪が降った庭などは、春~夏の明るかった庭とは一変した庭の風景になっていた。監督が何を意図したかは良く判らない。
この映画に負けて「PERFECT DAYS」がアカデミー賞国際長編映画賞を取れなかったのは残念だ。
すんません、今回は毒を吐きます。嫌われたって構いません。
A24作品は時間の許す限り見るようにしていて、アカデミー賞でも何部門も受賞したと聞いていたので相当期待していたこの作品!
一言で言うと、「 この難解な映画を理解する俺って格好いい!」 と自負する村上龍の小説に出てくる南青山でパスタ食いながらヘミングウェイのウンチクたれながら、その後にセックスしまくる鼻持ちならない映画ソムリエ連中のプライドをくすぐる為に作られたとしか思えない映画でした。まぁー、高尚ですこと!
同じ村上なら、村上龍読めよ?「5分後の世界」とか面白いぞ?村上春樹みたいなウンチクは無いけど含蓄はあるぞ?
映像は少し遠巻きに撮影して、ユダヤ人をガス室送りにしてから金品や衣服を巻き上げているとか、遺体の歯で遊んでいるとか、臭わせ台詞を入れつつ、人殺しに無自覚になってしまったナチスの家族の日常をゆるく描きつつナチス批判をしているのだが、ゆるくてゆるくて退屈でしょうがない。
こんな楽な撮影で済ませやがって、もっとカメラワークも仕事しろよ?
ハローワークの職員に仕事を紹介してもらう時、ハロワの職員が求人票をバーコードリーダーでピっとして、企業に電話するだけの楽な単純作業で給料貰っているのと同じくらい許せない。( 若干、私怨が入っております)
みんな、冷静になって考えてみようよ。これが無名監督でアカデミー賞ブランドがなかった状態で見てみたら「 つまんねー!」って思いませんか?
ナチス映画って名作が沢山あるのに、この程度の作品が高く評価されるってのは納得いかん!
あー、毒吐いてスッキリした!てな訳で、この作品見なくていいよー。
ゴミ処理場
次から次にユダヤ人を処理していく、まるでゴミ処理場で働く感覚になるのかもしれない。
国からの指示、合法、誰も止めるものもなく、優雅な暮らしが約束される。ほとんどの人がそれに甘んじてしまうのではないか。
奥様はユダヤ人が残した金品に喜び、仕事に従事している旦那様を単身赴任させて、優雅な暮らしを選ぶ。
南京陥落で好景気に浮かれ、朝鮮戦争での好景気でも浮かれていた日本人。それも殺戮が行われていたおかげです。メリケンに原爆2種類実験的に落とされ、爆心地はまさに阿鼻叫喚、関心領域と同じです。にも関わらず金を落としてくれる米兵になびく。原子力発電稼働、街が潤えばOK。豚や牛も餌をくれるとなつく。売られて肉になりますが。もはや道徳や良心やへったくれもない。儲かれば何でもありということだ。
ヒトラーは何故ユダヤ人を600万人も処理したのか。国の為にも自分の為にももっと有効活用できたはず。戦争の前線に送りこんだり、武器製造に従事させたり、ソ連に負けなかったかもしれない。ヒトラーは若い頃、オーストリアで貧しかった。まわりには裕福なユダヤ人がいたらしい。ユダヤ人は金融や商売がうまく、石油王のロックフェラー、モルガン証券もユダヤ人。ユダヤ人に対する劣等感、妬みがあったのかもしれない。おまけにヒトラーの素性は明らかではなく、ヒトラーの父は祖父の妾(ユダヤ人?)の子で、実はヒトラーにユダヤ人の血が入っているかもしれないという。真相は明らかではない。ユダヤ人の血が入っているという怖れから、ユダヤ人虐殺に走ってしまったのかもしれない。僕もヒトラー同様、おまわりを全て虐殺したいと思っている。
昔から自転車に乗ってるだけで止められる。登録ナンバーを確認させてと。何もしていない善良な国民を平気で泥棒扱いする。仕事だからと何の罪の意識もない。戦前の特高警察は治安維持法とかで思想犯を拷問し、病死したと死体で返してきたりした。作家の小林多喜二がそうだった。ナチスドイツと同じようなものだ。僕の友達はひき逃げされ、首を骨折しました。ひき逃げ犯は捕まりません。おまわりは全く役立たずです。無理やり自白させて冤罪、横領、猥褻行為、隠蔽、癒着、個人情報垂れ流し、何でもあれ。まさに税金泥棒。
ユダヤ人は今後ドイツ人を虐殺する事はないのだろうか。
ヒトラーや僕が虐殺したいという思いを抱かないような社会しなければならない。幸せランキング1位のフィンランドに習ってはと思う。互いに支え合う社会が根付いていて、税金は高いが教育や公共サービスの充実、それほどの収入の格差もなく、仕事もプライベートも大切に、自然との共存。
ジョナサン・グレイザー監督はどう考えてるのか。何かそれらしきものを描いてほしかった。少女がりんごを配ったりしたところが救いだったのか。白黒にして夢のような感じがした。あくまで現実を淡々と描きたかったのか。旦那様は嘔吐していたが潜在的にやはりおかしくなっているのだろう。奥様はどうかわからないが、子供達も異常になっている。ドイツ敗戦、結局この家族は離散し、旦那様はアウシュビッツで絞首刑になっよう。ろくでもない奴は、たいがいろくな死に方をしない。ヒトラー、東條英機、安倍晋三しかり、おまわりもそうだろうな。
ラストの音楽は奥様の人間性同様不快でならなかった。
林檎の少女
上映期間に間に合った!
知られている事実をこの視点で…
人間のおぞましさの追及でした
林檎の少女が誰なのか気になり調べたら解説動画で、アレクサンドラというポーランドの少女(家政婦として働いてた?)、ヘス邸が実際のアレクサンドラの家であったこと、あの缶の中にピアノで奏でた曲の楽譜が入っていた(映画では何が写っているのかわからなかった)という実話であることを知って、鑑賞後新たに感銘を受けている
あのお母さんの行動が一番通常の人っぽかったですね
音!
視覚は目を閉じるだけで簡単に遮断できるが、音はなかなかそうはいかない。2時間ずっと、発電所のような運動会の喧騒のような、さまざまな「音」が混ざり合ったものが聞こえていて、人によっては体調を崩すのではないかと思うほどだった。映画が始まって最初の3分間は、映像がなく音だけが流れていた。
この作品では、虐げられる側は一度も映されない。ずっと「加害者」の日常生活だけが描かれている。そして、アウシュビッツを題材とした作品でありながら、一度も壁の中には入らない。
カメラワークは、特徴的な演出はなく、観察者の視点に近い。所長の妻が使用人の女性に対して「わざとやってるの?」「あんたも灰にするからね!」などと焼却炉行きを仄めかすようなヒステリックな言葉を投げかける場面でも、カメラは本人達の表情に向かうことなく、同じ画角のまま映し続けている。まるで盗撮映像のようだ。
2時間の上映時間の中で、一度だけ「音」がエスカレートしていく場面がある。その夜、何かの事情で「処理件数」を大幅に増やさなければならなかったのだろう。煙突から上がる煙は噴き上がる炎に変わり、夜空を照らし、カーテンの隙間から部屋の中にちらちらと光が差し込む。そして、その「音」の正体が明らかになる。それは、地獄そのものだった。
娘夫婦の成功を祝うために泊まりで訪問していた老いた母親は、その夜のストレスに耐えきれず、翌朝、誰にも声をかけずに荷物をまとめて出て行った。
この異常な環境下でも、所長一家は幸せそうに暮らしている。しかし、子どもたちにはどこか病んだ雰囲気がある。小さな娘は夢遊病のように夜中に無意識で廊下に座り込んでいるし、兄は弟を温室に閉じ込めていじめている。小さな弟は、壁の向こうから聞こえる音に耳を傾けながら、人形ごっこをしながら「次からはもうやるんじゃないぞ!」と監視人のような言葉を口にする。飼い犬はいつもそわそわしていて、赤ちゃんはずっとけたたましく泣き続けている。
この映画は「戦争と平和」をテーマにしたものではなく、ブラック企業における成功や、普通の会社でも程度問題で起こりうる話だ。「慣れなきゃね」という積み重ねが、アウシュビッツに通じるものがあるという内容だ。
自分たちは民族浄化のために、歴史上誰も成し得なかった「偉業」に取り組んでいる、という自己認識が描かれている。
この「音」は、当時の収容所で実際に聞こえていた音を可能な限り正確に再現したものらしい。生々しい音を隠すためにカモフラージュとして使用された音も多く、例えばエンジン音のようなものを出し続ける作業を担当する収容者もいたらしい。
パーティー疲れで調子を崩した所長の嘔吐が収まったところで映画が終わったが、地獄の底の釜から噴き上がり続けるようなエンドロールの変則的な音楽が悪魔的でずっと気持ち悪く、今度は観ている側が吐きそうになる。
途中、女の子が塹壕横の盛り土のような場所に次々とリンゴなどを埋めていく場面がある。最初は何かをイメージした映像かと思ったが、2回目ではさらに具体的な映像となり、遠くから自転車でやってきて、その作業をしている様子が描かれる。現場には大量のスコップが置かれており、収容者がそこで作業をするのだろう。そこにリンゴがあったら、常に空腹の収容者はこっそり食べるはずだ。唯一、救いを感じる場面だった。
並行して映される所長が子どもを寝かしつけるために読み上げるヘンゼルとグレーテルの一節には「魔女をかまどに押し込んで殺した」とあり、この女の子も捕まって殺されてしまうのではないかとハラハラしたが、それはなかった。ちなみにヘンゼルとグレーテルは現代ではマイルドな童話になっているが、当時はまあまあグロテスクだったらしい。
この女の子は所長一家とは無関係だが、印象的な存在だった。
女の子は現場で缶を拾う。その缶の中にはお菓子ではなく、紙のようなものが入っている。翌日、そのグシャグシャになった楽譜を広げ、ピアノでメロディをなぞる場面があるが、このグシャグシャの楽譜が缶の中に入っていたものだと思われる。字幕で詩が流れるが、おそらく収容者が書いた詩だろう。それも缶の中に入っていたのかどうかは分からない。
この女の子の行動も、収容者が現場に置いた楽譜も、実話だという。最近になって、この二人がテレビの企画か何かで実際に会ったらしい。なかなかの奇跡だ。
大阪の都島にある拘置所を取り囲むように、立派な高層マンションが建ち並んでいる。家賃が安いのか気になる。
アメリカのリッチランド高校の校章には原爆のキノコ雲の絵が描かれている。この町は核兵器の開発で栄えた。戦争を終わらせた大きな力として、市民は原爆を誇りに感じている。
沖縄の基地周辺に住む人々も、基地がもたらした生活や文化に感謝している人が多い。そういえば、厚木周辺もそんな感じだったのを覚えている。とても立派な市民公園の真上を、戦闘機が爆音を立てて何度もかすめていく。
また、原発のある町にも多額の補助金が出ており、市民の生活は豊かになっている。
あるいは、こういうこともあるだろう。システム開発の会社に就職して、与えられた仕事がアダルトサイトのメンテナンス。生理的に合わないなと思いつつ、給料がいいから働く。
アウシュビッツの所長職も、待遇はいいし、当時としては最新技術を駆使したそれなりの仕事だ。民族浄化という使命も背負っていて、むしろそれなりにやりがいを感じる仕事でもあった。
でもそれは「時代が変われば価値観も変わる」といったことではなくて、バイアスに翻弄された面は大きいだろうけど、絶対的な感覚は誰しもあるはずだと思う。程度問題ではあるが、時代がどういう方向に向かっているのか、常に注意深くいたい。実際は、30年くらい前と比べると、かなりまずい状況になっているようには感じる。もちろん、よくなった状況もあるが。
思っていたより肩透かしだったが
前評判がすごかったので肩透かしな部分もありましたが、現代のドキュメンタリー作品のようなフィルターがかかってない(普通このように昔の時代の作品を撮る時は色調やフィルムっぽいニュアンスを演出すると思うのですが)ような鮮明な色・輪郭と徹底して感情移入を拒むカメラワークは興味深かったです
終盤挟み込まれる現代パートと過去パートの鮮明さが変わらず、異常と隣合わせの生活がまさに今行われているかのように映されていると感じました(全く血がある演出意図かもしれませんが…)
見て見ぬふり
アウシュヴィッツ強制収容所の隣で
優雅に暮らすルドルフ・へス家族。
残虐なシーンは皆無だが、銃声音、叫び、炎
煙、灰、ブーツに付着した血、視覚と音響で
残虐性をひしひしと感じさせる。
焼却炉の設計を淡々とする姿がおぞましい。
途中、妻の母親が来たが居なくなったのは
まともな人間だったのかもしれない。
普通の神経ではあの隣で生活出来ない。
不気味な音響効果には心が苦しくなり
不思議な呼吸になる。
見て見ぬふり、知らないふりを問われてる
を感じがして寒気がゾクッときた。
良かったら映画館で観て欲しい。
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