関心領域のレビュー・感想・評価
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『関心領域』は恐ろしいほどに徹底した“想像力”の映画だ
なんという恐ろしい傑作が誕生したのだろうかと唸らずにはいられない。徹底的に計算された「音」が支配するこの映画は、観る者に「想像」することを要求し、観る者の「想像」を拡張させる。完璧なまでに「想像力」の映画だった。
以下、ネタバレを含みます。
▶︎3つの感想
1.「普通の日常」に潜む「残虐な非日常」
2.徹底された“音”の想像力
3.ランズマンの「表象不可能性」をめぐって
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①「普通の日常」に潜む「残虐な非日常」
あらすじにあるとおり、この映画の舞台はアウシュビッツ収容所のすぐ隣。1枚の壁に隔てられた場所で幸せに暮らす家族の物語だ。
まずこの設定からして、僕らの想像力は1つ拡張される。おそらく日本人の多くが、アウシュビッツ収容所の名前を教科書で見たことがあり、そこで繰り広げられていたあまりにも残酷なナチスによるユダヤ人虐殺の事実について、少なからず”知識”としては知っている。
ただ誰が想像しただろう。その地獄のすぐ隣に、幸せを享受する家族の日常があったことを。虐殺されていったユダヤ人、凶行にはしったナチス。彼ら彼女たちはあくまでも「歴史」に刻まれた人々であって、「戦争」という光景のなかに閉じ込められたような感覚が、少なからずあるのではないか。
しかしこの映画では、現代を生きる僕らと変わらない「日常」が流れている。水遊びに興じ、家族で食事をとって、二段ベッドでは兄弟の会話を交わし、新しく手に入れた服を試着する。10台の固定カメラで撮影されたという映像は、こうした「日常」を淡々と映し出す。
それはあたかも「何事も起こっていない」かのように見える。水遊びをしている川にユダヤ人を焼いた遺灰が流れてくること以外には。二段ベッドで子供たちがユダヤ人の歯をもて遊ぶ以外には。彼女たちが分け合い試着する服がユダヤ人から剥ぎ取られたものであること以外には。
「普通の日常」に「残虐な非日常」が丁寧に、そして密かに描きこまれる。アウシュビッツの事実を知っている観客は、その1つ1つを見逃してはいけないと強烈に自覚しながら、この映画に対峙する。映像として描かれている「日常」を観客の「想像力」が拡張することで、映画『関心領域』は完成するのではないか。
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②徹底された“音”の想像力
そして、そうした演出の極みとも言えるのが「音」の設計だろう。『関心領域』では、ずっと”なにか”の音が響き続けている。それはときに銃声のように、ときに悲鳴やうめき声のように、ときに人体を焼く炎の音のように聞こえる。こうした音の設計について興味深い記事を見つけたので、ここに引用したい。
【(引用)グレイザー監督は音響デザイナーのジョニー・バーンに「1年かけてアウシュビッツの音の専門家になって欲しい」と依頼。バーンは当時のアウシュビッツの地図や証言を読み込んだ上で、当時どんな音が彼らの耳に響いていたのかを研究。実際にアウシュビッツにまで赴き、庭と収容所の距離を測った上で、家の中からの銃声の聞こえ方までをも正確に再現したり、その季節に飛んでいる虫の羽音が何なのかを調べたりまでしたそう】
「オスカー受賞の話題作『関心領域』をネタバレ解説。悪意と無関心はイコールなのか」(mi-mollet)より
『関心領域』に響く音は、基本的にはその発生源から距離(1枚の壁)があり、具体的になんの音なのかがわかるような映像はなく、絶えず「想像」することを要求し続ける。その想像は、「これはなんの音だろう」というところから始まって、次第には「今ひとが殺されたのか」「何人のユダヤ人が焼かれているのだろうか」という惨劇そのものへの想像へと拡張されていく。
それはつまり、不穏な「音」が恐怖や緊張を必然的に生み、観客の心に暗く悲しい波が押し寄せる。そして実はこの言いようのない暗澹たる心情を劇中でも敏感に感じ取っている登場人物がいる。と、僕は思った。
まずは子供たち。おそらく弟と思われる少年は、二段ベッドの下で壁の向こうから聞こえてくる「なにかよくわからない音」の旋律を自然と口ずさんでしまう。そして兄と思われる少年は弟をビニールハウスへと閉じ込めるが、それはまるでナチスがユダヤ人をガス室に閉じ込めて殺す所作をも彷彿させる。その背景におそらくあの空間に漂う残虐で暴力的な空気とそこに響く音があるのではと想像してしまう。比べるべくもないが、夫婦喧嘩の絶えない家庭の子供が暴力的になりやすいと言われるように。
そしてもっと直接的に感じ取っているのは、間違いなく赤子と犬だろう。劇中で「うるさい」と感じるほどに、赤子は常に泣き続け(実際に「よく泣くね」といったセリフもあった)、犬は常に吠え続けている。赤子の泣き声は壁の向こうの悲鳴に共鳴しているように感じてしまう。犬が吠え続けている相手は、おそらくはナチスの狂気であり暴力であろうとも。
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③ランズマンの「表象不可能性」をめぐって
『関心領域』のようなホロコーストをめぐる作品を考えるうえで必ず思い出されるのが、フランスの映像作家クロード・ランズマンの提唱した「表象不可能性」の問題だろう。ランズマンは、とりわけスピルバーグの『シンドラーのリスト』を標的として、ホロコーストをフィクションとして描くことを痛烈に批判し、自身は関係者へのインタビューから構成される9時間のドキュメンタリー映画『SHOAH ショア』を制作した。
「表象不可能性」の問題を簡潔に咀嚼できるほどに僕の教養は深くはないのだけれど、ざっくり言うと、ランズマンは、どのようなフィクションもホロコーストの残酷さを描くことはできないという前提のもとで、最終的には現存する「写真」などの資料すらも全否定してしまう。そしてそのある種の証明として、『SHOAH ショア』では虐殺の描写を映像的には一切排除して、当事者たちの証言そして沈黙のみを淡々と記録している。
そのランズマンに対して、収容所のゾンダーコマンド(特別労務班)が撮影し歯磨き粉のチューブに隠して外へと持ち出された4枚の写真をもって、『イメージ、それでもなお』と反論したのがフランスの哲学家ジョルジュ・ディディ=ユベルマンだ。
ユベルマンは4枚の写真が決して「ホロコーストのすべて」を表象しているとはせずに、それでもなお、だからこそ、想像することを倫理的な責務として課している。そこで必要とされるのは、写真のイメージを前にした恣意的な連想という意味にとどまらない、写真に刻み込まれた痕跡についての徹底的な観察——ときに文字資料や同時代の証言などと組み合わせて——に基づいた「歴史的想像力」である。
本作の完成までにおよそ10年もの年月をかけたジョナサン・グレイザーや制作チームが、詳細で綿密な取材と調査のもとに築き上げたのはまさにこの「歴史的想像力」ではないだろうか。そして、『関心領域』に刻み込まれたその「歴史的想像力」が、私たち観客の「想像力」を導き、拡張させる。
『関心領域』が生み出す「想像の連鎖」はまさに、ゾンダーコマンドが4枚の写真に添えた「拡大した写真はもっと遠くにまで届くはずだ」というメモ、そこに込められた祈りにも似た”なにか”に応えようとしているように思えてならない。
人間というグロテスクな生物
タイトルが控えめに添えられ、大胆な黒の余白が何かを暗示するかのようなそのポスターを見た時から、「これは見なくては」と心がザワザワとしていました。そして遅ればせながら観ました。
あらすじで紹介されている通り、アウシュヴィッツ強制収容所の隣地に自宅を構える所長と家族たちの日常が淡々と描かれていきます。
壁一枚隔てた先には地獄以外の何物でもない世界が広がる一方で、所長宅では子供たちが駆け、妻は庭木の手入れに汗を流し、家族の誕生日には笑顔でケーキを囲むのです。(所長は"荷物"の効率的な焼却方法について考えを巡らせる)
作中で、収容所内部や収容者たちの姿が描かれることはありません。たしかに家族の視点では中の様子なんて知る由も無いので、当たり前かもしれません。
ただし家族も当然に共有しているものとして、昼夜問わずに「音」が聞こえてきます。
何かにすがるような泣き声、断末魔のごとき叫び、タララっと乾いた音で響く銃声──。
壁の向こうからあらゆる音が聞こえてくるなかで、家族たちは平然と幸福な日々を重ねていきます。
これを「なんて冷酷な人たち!」とも言い切れません。
私たちの多くも、日々、テレビや新聞で世界中の悲惨な現場を、あるいは日本国内における悲劇的事象を見聞きしながらも安穏と暮らしているのですから。
……と考えれば、作品に登場する家族は、概念としては人間誰しもが入れ替え可能であるもの、とも言えるかもしれません。
視覚的なエグさは0なのに、人間のグロテスクさをこれでもかと炙り出す一作。ゾッとします。人間に。
「関心領域」の外へ出よ
テオ・アンゲロプロス監督の映画で、空襲で映画を観ていた観客が外に逃げ出した後、誰もいない劇場をカメラが写し続けている、というオフスクリーンのシーンがある。爆撃音だけが聞こえる画面。本作は、このオフスクリーンを徹底することで、アウシュヴィッツ強制収容所の戦慄すべき実態を間接的に伝える。いや、間接的と書いたが、むしろその間接性が本作の主題なのだ。
収容所と壁を隔てて、それを管理するルドルフ・ヘス一家の平穏な生活が描かれる。昼夜聞こえる阿鼻叫喚。焼却炉の煙突から立ち昇る煙。庭園に咲く美しい花々は、焼かれた死体の灰混じりの土から養分を得る。収容されたユダヤ人から奪った宝石や服で着飾るヘスの妻や友人たち。ヘスの転属を突然告げられた妻は、「総統が言う『生存圏』は、私たちにとってはこのアウシュヴィッツだ。望んだ理想の生活がここにある」と一緒に行くのを拒否する。強制収容所と隣り合わせの、理想の生活とは何なのか。観客は背筋に悪寒を感じざるを得ない。
壁の向こうで行われているホロコーストに、徹底して無関心。オフスクリーンという技法に、そのままヘス一家の、そして私たち観客の態度が投影されている。ここでは、間接性が罪なのだ。「関心領域」の外に出ないことが、人間性の侵食をもたらし、破壊する。
しかし、ルドルフ・ヘスは人間だ。所長として、淡々と「ユダヤ人絶滅計画」の一端を担って任務を遂行していたが、パーティーで、参加者たちを毒ガスで殺害することを想像して、嘔吐する。自分がしていることが何なのか、生理的反応がそれを教えたのだ。唾棄すべき虐殺行為を、例えばマッティ・ゲショネック監督『ヒトラーのための虐殺会議』で明らかにされたように、議題として淡々と話し合って決定できる、その構造とはいかなるものか。「関心領域」に止まっていてはわからない。
耳を凝らし音を見て、人間の冷酷さに震撼する
冒頭、白抜きのタイトルが徐々に闇に沈み、その後スクリーンには何も映らないまま音楽だけが鳴り響く。その音楽もレコードの回転数が落ちてゆくようにテンポが落ち、溶け落ちるように崩れてゆく。思わず聴覚に神経を集中する。音を注意深く聞くようにと前置きするような開幕だ。
ヘス一家に起こる出来事として、アウシュヴィッツ収容所の司令官だった夫のルドルフが転属し、その後戻ってくるという物語が描かれるが、率直に言ってその話はおまけのようなものだ。
彼らの瀟洒な家に、昼夜の別なくかすかに響く地鳴りのような音。あれは焼却炉で死体が燃える音、その熱気が煙突からたちのぼる音なのだろう。時折遠く聞こえる叫び声や銃声。移動する煙だけが壁の上に見える移送列車の走行音。
絶望的な音と隣り合わせの家で、まるでそれらが聞こえていないかのように「平和」な生活を送るヘス家の異様さが、時間の経過とともに浮き彫りになる。家族が庭で過ごす場面を見ていても、塀のすぐ向こうにそびえる収容所の威容に目がいくが、その風景や音を気に留める登場人物はほぼいない(泊まりにきたヘートヴィヒの母が黙って帰ってしまうという描写があるのみ)。
あの環境の中でさえ、人間はここまで身近に起こる出来事に無関心になれる。物語としてのエンタメ性より、己の見たくないもの、聞きたくないものを無自覚にミュートしてしまえる、人間の恐ろしい特性を見せることがこの作品の眼目なのだろう。
子供たちはベッドに誰かの歯を持ち込んで遊ぶ。ヘートヴィヒはナチスがユダヤ人から接収したであろう毛皮のコートを羽織り、ユダヤ人が歯磨き粉の中に隠していたダイヤを奪った話題で談笑する。そして、夫のルドルフの転属には大反対し、結局彼だけを単身赴任させる。あの住環境をよいものだと思っているのだ。収奪行為への罪の自覚も見えない。
私たちは、塀の中のユダヤ人たちが使い捨ての労働力として扱われていること、いかに残虐に殺されているかを知っている。そういった視点から見れば子供の教育に悪そうなロケーションにしか見えない。ヘートヴィヒは、そこでユダヤ人が殺されていることは分かっているようだが、彼らがどのように殺されているか知っているのだろうか。せめて、それを知らないから無頓着になれるのだと思いたくなる。
本作で、彼らの生活は否定的な演出などはされず、常に距離を置いた固定カメラで(無人カメラを設置して遠隔操作したそうだ)淡々と描写される。そのことが、見ているこちらのもやもやとした気持ちや居心地の悪さを増幅させる。悪い行いをする者が物語の中で悪のレッテルを貼られず、報いも受けないからだ。
史実では、ドイツの敗戦後に一家は離散し、ルドルフは名前を偽って逃亡したが、1947年にポーランド政府によってアウシュビッツの地で絞首刑に処されている。
あえてそこまで描かないのは、物語の中でルドルフたちが罰されて観客の溜飲が下がると、この一家の醜悪なふるまいが、昔の特殊な立場の人間がしたこととしてどこか他人事のように捉えられてしまう恐れがあったからではないだろうか。
ポーランド人の少女が、収容された人々が労働中に拾えるよう夜中に林檎を撒く場面だけがエピソードとしては救いだが、その描写も映画的なカタルシスはあえて避けているように見える。まるで、観客に安易な満足感を与えまいとしているかのようだ。
グレイザー監督は、ユダヤ系イギリス人でありながら、アカデミー賞の受賞式でイスラエルによるガザ侵攻を念頭に置いた批判的なスピーチをおこなった。技術の発達により世界中がさまざまな形でつながり、彼の地の情報をリアルタイムで知ることのできる現代において、世界のどこかで起きている侵攻や紛争は、速報性という点では壁のすぐ向こうの出来事と言っても最早さして語弊ではない。
それらは総じて長引けば世論から忘れられがちだ。現代ではむしろ情報の総量が多いが故に、自分が直接被害を受けるようなことでなければ、残虐な出来事にさえ私たちは倦んでゆく。
本作は静かなホロコースト批判映画でありながら、ヘス一家の持つ残酷な鈍感さを、そんな私たち観客にも自分ごととして突きつけてくる。ただし、受け身でいるとおそらくそのメッセージさえ見えない。観客に対してもある意味厳しい作品なのだと思う。
余談
・ヘス邸は実際に収容所に隣接していた。塀の向こうの直近の建物は事務棟だったようだが、ガス室までの距離は歩けば5分とかからない距離。本物の邸宅はユネスコの世界遺産に認定されているため撮影には近隣の廃屋を使用。
・ヘートヴィヒがアウシュヴィッツを離れたがらなかったというエピソードは、監督が当時のヘス邸の庭師から実際に聞いた話。
・夜中に林檎を置く少女にはアレクサンドラという実在のモデルがいて、監督が本作の取材をした時にはまだ存命だった。映画に登場する少女が着ている服はアレクサンドラが実際に着ていたもの。
知識の扉であり、戻って来る度に得るものがある奥行き。
アウシュビッツから恩恵を受けているナチスの家族の生活を、ただただ客観的に観察する。ジョナサン・グレイザーはいつも斬新な視点から挑戦を仕掛けてくる天才だが、今回のストイックなコンセプトを、これだけのレベルで徹底してやりきったことに感嘆する。一方でコンセプト重視であることが足かせになった部分もあったのではないか。しかし、この手法でなければ描けないことがある!と覚悟は決めていたはずで、自分は二度観たのだが、二度目のほうが意図や寓意や裏で進行しているサブプロットなどがよりハッキリと見えて、鑑賞の醍醐味がはるかに増した。正直、リンゴを埋めて回っている少女のパートなんて、知識もなく観た初回は全然理解できていなかった(あれも実話だったとは…)。娯楽目的の商業映画としてはハードルは高いかも知れないが、この映画を入口に知識を拾いにいって、その上でまたこの映画に戻ってくることで味わいと戦慄が増すという、非常に有意義でスリリングな映画になっている。そしておそらく、自分がわかったと思っている部分なんで、まだまだ氷山の一角似すぎないに違いない。
悪の凡庸性
スティーヴンスピルバーグがこの映画をほめて「特に悪の凡庸性について意識を高める上で多くの良い仕事をしている」と語ったそうです。
スピルバーグが使った「悪の凡庸性」とは哲学者で政治思想家のハンナアーレントが1963年に著した本『エルサレムのアイヒマン:悪の凡庸性についての報告』から引用されています。
本は世界的な知名を得ましたが、とりわけ副題に使われた「悪の凡庸性」がナチスを形容する際の常用フレーズになりました。
このフレーズは裁判におけるアイヒマンの態度に由来しています。
アイヒマンは罪悪感も憎しみも示さず、単に自分は職務を遂行しただけなので責任はない──と主張し、それを押し通しました。
つまり悪の凡庸性とは悪人がもっている無頓着さのことです。
この映画には、ナチスがユダヤ人をコロしたり痛めつけたりしているアウシュビッツのすぐとなりで、優雅なカントリーライフを過ごしているルドルフヘス所長とその妻たちが描かれています。
音や煙や匂いが生活環境へ漂ってはくるものの、かれらは収容所に対して無頓着に生きています。
言ってしまえば縞模様のパジャマの少年(2008)から子供の交流も酷使されるユダヤ人召使いの描写も切り取って優雅なカントリーライフを見せるだけの映画になっています。
悲惨なイメージを一切見せずに牧歌的なカントリーライフときれいな画面構成のみによってナチスの残酷さを浮かび上がらせる──という映画のもくろみは成功していますが、いったんこのレトリックを知ってしまうと、率直に言って、何も起こらない映画ではあります。
しかしレトリックに依存してしまった映画ではなく、じりじりと怖くなってきます。主役は撮影と音響と効果音だと思います。
『この映画は、ライカのレンズを装着したソニー製のヴェニスデジタルカメラで撮影された。グレイザーと撮影監督のŁukasz Żalは、最大10台のカメラを家の中とその周辺に埋め込み、同時に稼働させ続けた。』
『グレイザーとジザルは現代的な外観を目指し、アウシュヴィッツを美化することは望まなかった。その結果、実用的で自然な照明のみが使用された。自然光が得られないポーランド人の少女が登場する夜のシークエンスは、ポーランド軍が提供した赤外線カメラを使って撮影された。』
『グレイザー監督は、収容所内で起きている残虐行為を見せるのではなく、ただ聞かせたかった。そのため音響デザイナーのジョニー・バーンはアウシュヴィッツ関連の出来事、目撃者の証言、収容所の大きな地図などを含む600ページに及ぶ資料を作成し、音の距離や反響を適切に判断できるようにした。彼は撮影が始まる前に、製造機械、火葬場、炉、長靴、当時を正確に再現した銃声、人間の苦痛の音などを含む音響ライブラリを1年かけて構築した。当時アウシュヴィッツに新しく到着した人々の多くがフランス人だったためバーンは2022年にパリで起こった抗議デモや暴動から彼らの声を入手した。』
『イギリスのミュージシャン、ミカ・レヴィは2016年に早くもスコアの制作を開始し、その後グレイザーと編集者のポール・ワッツとともに1年間スタジオで過ごした。「あらゆる可能性を探り尽くした」とレヴィはSight and Soundのインタビューで語っており、チームは音楽が映画にどのように機能するかについてあらゆる可能性を探った。』
(wikipedea、The Zone of Interest (film)より)
印象的だったのは軍用熱カメラをつかったという野外撮影でした。
グレイザー監督は当時じっさいに囚人らに食べ物を届けていたポーランド人少女Aleksandra Bystroń-Kołodziejczyk(1927年7月26日~2016年9月16日)に取材し、アカデミー賞受賞スピーチで映画を彼女に捧げ「生前と同じように映画でも光り輝く少女」と表現したそうです。
16歳のときポーランド国内軍に所属していた彼女は飢えた囚人に果実を届けるため、自転車で収容所に通っていました。囚人らが作業する砂地にリンゴなどを隠し置いていく様子が色のない熱カメラで撮影されていました。それはすごく恐ろしいシーンでした。
嫌悪をあおるためルドルフヘスのかりあげはかなりの剃り上げになっていました。サンドラヒュラーが演じた夫人も、がにまたで大根足でがちがちの結髪で、醜く意地わるい女に描かれていました。
夫人の母親は、隣接する収容所で何が行われているのか察知して、そうそうに立ち去るのですから「悪の凡庸性」は知らなかった、で許容されることではありません。
飢えた囚人のために砂地にりんごをしのばせる少女と、わがままでよく眠るヘス夫人を対比させることで浮かび上がる「悪の凡庸性」とは、すなわち想像力があるかないか、誰かを思いやる気持ちがあるかないか──のことです。映画はそれを言っているのであり、スピルバーグが評価したのもそこでした。
ヘスは昇進しますが階段で嘔吐すると現代へリンクしてアウシュビッツの展示物がうつし出されます。ガス室、トロッコ、かばん、靴、義手義足、囚人服・・・。スタッフが開館前清掃にいそしんでいます。想像力があるかないか──が観衆に向けられてもいる映画だったと思います。
なお邦題はミニマリスト向けのエクステリア情報誌のようだと思いました。
世の中そのもの
SNSなどで簡単に生々しいニュースを目にする日々では、自分の心を守るために無意識のうちに自分は関心領域を作っていたんだなと思った。
この家族と自分を置き換えすぎて辛くなった。
こんな虐殺の様子をBGMにしながら生活していて、この人達だってきっと極限状態だったと思いたい、、と思っていたら、子供は問題行動を起こすし、祖母は急にいなくなるし、やっぱり皆ちょっとずつ狂っていって却って安心した。
映画の中で、寝る前に家中の灯りを几帳面に消していくヘスの姿は、ホロコーストという自分に与えられた仕事を淡々とこなす真面目な人間性をとても表してるなと思った。
わかったらおもしろい
アウシュビッツの隣に住む家族の日常を撮った作品。
最初の感想は「題材や視点はいいが変」
どう解釈すればわからないシーンや撮影技法が見られて変だと思った。
ただ、のちに考察を見るとそのシーンの意味や撮影技法が使われた経緯がわかって納得がいった。
作品では終始、一家とアウシュビッツとの繋がりが音で現されていて、すごくリアルで新しい感覚だった。
絵的な話では、シーンのアングルにはもっとこだわってよかったと思った。このテイストだとミッドサマーのような美しくてシュールな絵作りをしてあるかと思ったが、その辺は曖昧というか中途半端だった。
作為的な感じを避けるためにセットのいろんなところにカメラを仕込んでなるべくリアルで客観的な絵作りをしたと解説で見たけど、その他の表現方法に作り込みを感じるので、アングルもしっかり作り込んだ方が作品にまとまりや重みがでる気がした。
普段わたしたちは、身の回りに起きている様々なことに無関心なポーズで生きている。
ニュースなどを見て心を痛めることはあるが、その数時間後には心の底から笑ったりしている。
動物を可愛いと思いながら、食事で出た肉を対して感謝もせずに食べる。
そんな自分がアウシュビッツに関わっていたとしたらどうしただろう。改めて考えるきっかけになった。
時局を見る目が欲しい
NHKの『映像の世紀』でエヴァ・ブラウンが撮ったフィルムの映像を見た。アルプス地方の風光明媚な山荘で過ごすヒットラーと愛人、取り巻きの人たちの贅沢な暮らしぶりが映し出される。また、少し前に『縞模様のパジャマの少年』も見た。本映画とこの2本の共通点はすぐ近くで絶望の中で過ごす人が大勢いる中で、それを見ないようにするか全く関心がないかして過ごす時の権力者たちを描いていること。
『縞模様のパジャマの少年』は主人公に残酷なしっぺ返しが来る衝撃的な結末だが、この映画は淡々と時が流れていく。でも、何不自由なく贅沢な暮らしを満喫しながら、常に聞こえている不自然な音や声の数々が観ているこちら側にじわじわと不快感を感じさせて止まない。説明的な描写がほとんどないということも暖簾に腕押し的なストレスを感じさせて、映画はふっと終わってしまう。
後に残るのは混乱、困惑、不快感、恐怖、そして自らに真実を見極める能力があるだろうかという大いなる疑問。正解は分からない。
内側と外側
第二次世界大戦が行われている戦時中の話。
この映画の中では、残酷な虐殺のシーンなどは一切ないのだが音声だけを使ってその物事を恐怖をうまく伝えていた。
人が当たり前のように焼き殺されている中でも普通の暮らしをしている。
その家族は、塀の向こうで行わている行為がどれほどに酷い事というよりも自分たちの生活の方が大事だとそれほどまでに関心を向ける事がない。
自分が感じているものと内側と人から見られている外側も同じようなものかもしれないと感じました。
自分の関心の範囲でしか物事を捉えていないのだが、本質的に最も気にするべきは、外側と内側にある部分。
それは、自分と他人を尊敬しつつもお互いの持ちつ持たれずの関係性の中にあるような事とも言える。
歴史の中でも最もひどい虐殺が行われている中でこれだけ平凡な生活をしている事は、存在していただろう。
実際に今の生きている自分の生活も似たようなものかもれしれない。
世界という広い目線に立ってみれば、自分の問題なんてほんの些細な問題だけど、とても大きな問題のように扱っている。
もっと根本的な解決を見出す事の方が優先されるのに。
歴史の背景にある見えない部分を改めて感じる作品でした。
日常生活に隣接して地獄があることを知りながら観る映像
アウシュヴィッツ収容所に隣接する邸宅での収容所長の中流家族の生活を淡々と描いている。
ホロコーストの場面は一切出てこない。
一家にとっては平和な日常生活が繰り返されるのですが、常に、銃声、悲鳴、得体のしれない音(多分、ガス室を動かしている音とか、焼却炉を動かす音とか、分厚い鉄の扉の鈍い音とか)が、遠く近くから聴こえて来ている。
それでも家族は、全くその音を気にしていない(長女の夢遊病的な行動を除けば)。
例外的に、ドイツから転居してきた妻の母は、中盤に突然、帰国してしまうけれど。
日常生活に隣接して、地獄があることを知りながら観る映像は、恐ろしいと思いました。
時代の空気の再現性が優れている良い映画でした。
副流煙を吸い続けるかのような生活
全く残虐なシーンはない
日常の穏やかな生活の話
ただしそんな生活の中にも闇の部分も描かれている
アウシュビッツ収容所のトップである旦那の女遊び
その妻の使用人への横柄な態度
その子どもの乱暴なメンタル
もしかして収容所から聞こえてくる音や匂い、煙突からの煙などで、人として正しいことが忘れていくのかも
アウシュビッツ収容所の中で起きていることが全く分からない。
ただ、その側に住んでいれば、タバコで言う副流煙のように、その周辺にいることで知らぬ間に蝕まれていくものがあるのかもしれない
映像だけでなく音にも注目の名作
アウシュヴィッツ強制収容所の隣に住んだナチスの将校一家と現在を描いた作品
強制収容所内や市民に主軸を置いた「戦場のピアニスト」のような作品は多々あるけれどこういう収容し虐殺にGOサインを出した側の人間を描いた作品で珍しいなと感じます。
子供とピクニックに行き、転勤(昇進?)のため妻とけんかする。
ファミリーものっぽい場面もある思う一方で、略奪した服や宝石について言い出しやはり恐ろしい人々なんだなと感じた。
内容もさることながらこの映画で印象深いのが音響
穏やかに暮らす将校一家の隣の収容所から銃声や断末魔が聞こえ地獄のような状況を直接的に描かず想像させたりいきなり”うめき声”のような音楽が流れる。
まるで当時、命を落としていった人たちの無念さが伝わってくるようだなと思った。
淡々と描かれる家族の平和の向こう側
「関心領域(The Zone of Interest)」とは、強制収容所を取り囲む40平方キロメートルの地域を表わすためにナチス親衛隊が使用した言葉らしいです。
映画自体、淡々と進みます。アウシュヴィッツ強制収容所に隣接する大邸宅に住む強制収容所所長の家族たちの優雅な暮らしの様子が映し出されますが、壁を越えたすぐ近くでは、ユダヤ人大量虐殺が行われているわけで、それを想像しないわけにはいかず、すごく気分が滅入りました。
実際の虐殺のシーンなどは一切なし。けれど、時々、聞こえてくる「音」は叫び声のようであり、銃音のようでもあり、間違いなく、隣には収容所があるわけです。ふと見ると、煙突から煙も上がっています。家族が暮らす家の庭の木々の緑が美しく花々も赤や黄色で鮮やか。プールもある十分な広さの立派な庭だけに、背中が寒くなるような恐怖があります。半ば過ぎ、胸がざわざわしてしまいました。
所長のヘス(クリスティアン・フリーデル)の妻を演じたのはサンドラ・ヒュラー。能面のような顔つきと、堂々と振る舞う姿が何とも恐ろしい。戦利品のごとく、ユダヤ人のものであろう衣類などを皆に分け与えるシーンや自ら豪華な毛皮を着て鏡をのぞく描写など、サンドラ・ヒュラーだからこそ、狂気の日常感を表せたのでしょう。
夜に少女が暗転して映し出されます。苦しむユダヤの人々にりんごなどの食物をこっそりと配っているようですが、せめて、これが唯一、救いの描写かなと思いました。
戦争の恐ろしさと同時に、人間の愚かさ、卑しさをも感じずにはいられませんでした。対岸の火事ということわざどおり、悲しいかな、人間にはそんな冷酷さや無関心があるのかもしれません。
と、書いているとちょっと滅入ってきましたが、遠くの戦争のことは他人事である自分もヘスの妻みたいな存在かもしれないと思い、映画の作り手に「どうなんだ」と問い掛けられているようにも感じます。
「The Zone of Interest」つまり「奇妙な場所」
「使用人は地元の人よ」
地元の人も含めて「知らなかった」ではない。
この映画はそれを言っている。
この映画の奇妙な会話や出来事は全て複数の人間か存在している。つまり、全部、証言と言う事実に基づいている。それがよく分かる。
しかし、最後のヘスの放浪する所たけが一人。つまり、亡霊なのだ。そして、現代のアウシュヴィッツが写し出される。
2030年はナチスドイツ結成100年となる。
さて、大日本帝国は何をしたのだろうか?
3月10日は東京大空襲だが、その慰霊はすべきだが、大日本帝国は大東亜戦争で何をやったのだろうか?知らなかったじゃ済まないと思うが。
色々なジェノサイドで、犠牲になった方の
冥福を祈る。3月10日の東京大空襲の慰霊と一緒に。
余談だが、日本は戦後、そのカーティス・ルメイに勲章を授けている。
全く、寛大な民族だね。
自分たちにも突きつけられる恐怖。我々はいつまで無関心でいられるのだろうか。
アウシュビッツの間近に住んでいた所長とその家族の話
アウシュビッツで何が行われていたかを知っていれば、明らかに異様な生活ではあるのは見る前からわかるが、実際に見ていくと知らなくても変なことには次第に気づいていく。
聞こえるか聞こえないかわからないような音がどこかしらから常にしている。人の叫び声、これは怒ってる声なのか泣き叫ぶ声なのか、よく分からないが何か聞こえる。時々、銃声音もしていたり、よく分からない音も聞こえる。
夜になると煙突から燃え盛る炎が見える。その炎は明らかに人を焼却する炎である。他に燃やすものなどないのだから。
また子供が遊んでいるのは誰かの金歯だったり、川からは灰が流れてくる。
一見日常に見えて、明らかに異常である。訪問してきた奥さんの母親はその異常さと、そこに何の疑問も抱かない娘に恐怖していなくなってしまうほどだ。
所長やその妻、そして子供たちも異常な状態が普通なので、何も気にしないし、何の音にも関心を抱かなくなっているのだ。全ては自分たちのことが大事であって、塀の中のことは関心の外にある。まさに、自分たちの楽園の中は関心領域で、その外は無関心の世界である。
これは、見ている側にも突きつけられている問題でもある。世界にはたくさんの問題をはらんでいる。そこに関心を向けるか向けないか。自分の関心領域だけで生きている僕らと、アウシュビッツの所長はかなり地続きと思えてならない。そこが一番の恐怖である。
感想メモ
ユダヤ人強制収容所の横で理想の家庭を築き、幸せそうに生きる家族
壁の外にある収容所で行われている非人道的な行為は一切映されない、煙突から出る煙、銃声と怒号、悲鳴らしき声、壁の外から得られる情報しかない
庭には多種多様な花、野菜などが植えられている
もしかして灰を肥料にしているのでは…、というよからぬ想像をしてしまう
関心があるのは自分の家族、家のこと、壁の外の事には関心がない、という事か、戦争は正当化の戦いだね
壁の外で起こっている事と比べて何も起こってなさすぎて違和感、妙に明るくて色彩豊かで
ユダヤ人をどれだけ多く殺せるか考えていた、何人じゃなくて何体って数え方気になる
最後の映像は?実際にある強制収容所の資料館のようなものか?
自分たちの行為がどのように後世に語り継がれるか冷静に考えてしまった?
無関心…
家の隣はアウシュビッツ収容所。収容所の中のシーンは一切ないが、銃声や叫び声、泣き声、不穏な音が鳴り響き、死体を焼いたであろう煙が煙突から出ている。柵を隔てたこちら側はプール付き庭の大豪邸。庭には花が咲き誇り、誰もが憧れる幸せがそこにある。まるで天国と地獄。地獄の近くで平然と暮らせるのが恐ろしい。しかし、これは現代のウクライナやパレスチナの惨状をメディアで知りつつも、遠い国の話と無関心な我々に批判することはできないだろうと思える作品だった。
無関心なのは一家だけなのか
アマプラ配信始まったので早速視聴。淡々と過ぎていくので注意を払って観ないと何にも気付かず終わる。音響の良い状態で観ないとこの映画の意義は半減しちゃう。ちゃんと映画館で集中して観るべきだったな。
何気ない日常にチラ見えする狂気に胸糞悪くなる。そういえば劇中にちらっと出てきたアイヒマンも至って普通の官僚的な人間だったような。嬉々として荷物扱いして焼却炉の性能の良さを語ってたけど実際の収容所の焼却炉を作ったのはパン窯を作るメーカーだったっけ。会話に出てきたシーメンスやほかの企業が収容所近くにできたのも労働力目あてだからか。人間とは抗えない強大な力と大義名分があれば非人道的なこともできてしまう生き物なのだろうか。吐き気がするけどこの一家だけが特別に醜悪なわけじゃないように思う。
最後に挟み込まれた現代パートが衝撃だった。今は博物館になっている収容所を淡々と清掃する職員。さらにその博物館を物珍しさで"観光"する私たちは正しい人間なのか。ウクライナやガザ、ミャンマー、その他紛争地域のことをテレビやネットを通して知っているのに無関心でいるなら、壁一枚向こうのことを知ってて無関心だったこの一家と何も変わらないよと言われた気がする。
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