関心領域のレビュー・感想・評価
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人間、自身の利益には目ざといが
アウシュビッツものというよりも、人間の不思議が先立つ。
同じものを見ても抱く感想が異なるように、残虐の極みを躊躇なく合理的に処理し、行われていても理想郷とのたまう。
だから自らの身体の変調の深刻さもスルーなのだろう、たぶん。
けれどこれはアウシュビッツに限らず、世界のどこかの地域と地域としても置き換えられそうだし、実際、無関心と無視、搾取していることも多い。
人は自身の利益には目ざとく関心、執着を持つが、その向こう側にまで想像を巡らせる事は苦手だ。巡らせる事で自分が利益を失うならなおさらあえて目をつむる。だからして、うしろめたさを思い起こさせる1本でもあった。
何となく向こう側がすけているのに、気づいているのに自分可愛さにスルーしてしまう。
昨今のそれが巨悪なのかも。
ネガのような加工がされたシーンが印象的。一番野真実描写なのに非現実的感が脳みそバグらせる。
愛の反対語は無関心です (マザー・テレサ)
隣の家のおじいさんが室内で倒れていて、救急車で運ばれた。去年の夏だ。
40℃の猛暑でも、「電気代はつけっぱなしでも月2000円で済むから大丈夫なんですよ」と、どんなに言ってもエアコンをつけなかった生保受給者だった。
あれほど市役所や包括支援センターに出向いて、あの暮らしぶりと現場のゴミ屋敷の有り様を見に来るようにと訴えたのに。
で、「搬送先ほかは個人情報なのでお教え出来ません」と福祉課で突っぱねられてしまった。そうでしょうね。はい、そうでしょうとも。
隣は何をする人ぞ。
人も職員もこんなにいっぱいいても「関心領域」とはこんなものなのだ。
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「アウシュヴィッツ絶滅収容所」の塀の隣にはエリート所長の官舎があった事は「縞模様のパジャマの少年」でも描写されていたし、現にその邸宅は今でもそのまま保存されていて見学コースになっているらしい。
5月8日はドイツの無条件降伏の日。
ドイツ・ヴァイツゼッカー大統領の1985年のその日の演説
「荒野の40年」を読み返してみたいと思う。
「過去に目を閉じる者は現在においても目の見えない者になる」
「若い人たちにお願いしたい。他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。敵対するのではなく、たがいに手をとり合って生きていくことを学んでほしい。われわれ政治家にもこのことを肝に銘じさせてくれる諸君であってほしい...」と敗戦の記念日に大統領は呼びかけた。
塀を乗り越えようと語りかけたのだ。
・・
そのドイツには「つまづきの石」というプロジェクトがある。
歩道にわざと邪魔な凸凹を付けて、あれは通行人の足を止めさせるわけで。
銘板には
【○年○月○日、ここに住んでいた なにがしは、ドイツ軍に連行され○○収容所で殺された】と刻んであるのだと。
つまづきの石は「バリアフリー化に逆行する」“突起”であるし、「素通りと忘却を阻止する」棘トゲ だ。
目を止めて、その小さな「塀」を乗り越えるために通行人は何かをしなければならない。
よけるか。躓いて転ぶか。立ち止まるか。またぐか。しゃがむか・・
無言だが、忘却を妨げる「つまづきの石」。
ドイツ人にとっての、我が身を貫く痛みのプロジェクトだと思う。
「壁」は、
本人次第なのだ。
広くも狭くも好きに出来る。
高くも低くもあなた次第だ。
目をつぶれば壁は簡単にそこに立つのだ。
・・
「はて?私の『隣人』とは誰のことでしょうか?」
ユダヤ教の指導者が自分を弁護しようとして質問したエピソードは
ルカによる福音書10章25節から37節に。
実話ベースということが1番の恐怖
ねむい!
新しいかたちの反戦映画
一人ひとりが自分の関心領域をどこに持つかが問われている
映画冒頭では真っ暗な中で不調和音が響き、しばらくすると明るい水辺での楽しそうな家族のピクニックの場面に切り替わる。ルドルフ・ヘスとその妻ヘートヴィヒは自然豊かな郊外の一軒家で子どもたちと平和で幸せな生活を営んでいた。どこにでもいそうなドイツ人一家が普通の家庭と何か違うところがあるとすれば、彼らの家の塀を一枚を隔てた所にはアウシュビッツ強制収容所があり、ルドルフがそこの所長だということだけだ。
無知と無関心は異なる。本当に何も知らなければ無知だが、知っているにも関わらず、関心を向けない、或いはあたかも無いかのように振る舞うのは無関心である。ルドルフは職務として隣で何が行われているのか当然知り尽くしている(というより、指示をしている)のだが、ヘートヴィヒや子どもたちは無邪気に隣で何が起きているのか何も知らないかのように振る舞ってはいる。しかし、その言動をよく見ていると確実にわかっていることが理解できる。
人間は見たいものだけを見て、聞きたいことだけを聞いていたいと思うものであり、嫌なことから目を背けている限りは幸せでいられる。しかし、目を背けられた場所には「幸せ」とは対極な状況に置かれた人々がいる。それは第二次大戦の頃だけの話ではなく、いま現在でも全国各地で、そして世界各地で起きていること。
一人ひとりが自分の関心領域をどこに持つかが問われていることを突きつける作品だ。
無関心の壁
音楽が歪み感を増幅
なぜ今、
未曾有の表現
本作は、邸宅に据えられた隠しカメラのように家族の暮らしを淡々と映し出す。ドラマやスペクタルの代わりに、問答無用に音と向き合わせ観客の脳みそをフル回転させる。
母性的な老婆が人食い魔女であった〝ヘンゼルとグレーテル〟、リンゴを隠す光の少女、言葉なき詩のピアノの楽譜が、私に「想像せよ!」と訴えかける。
アウシュヴィッツの地獄はどんなに再現しようとしても表象不可能だ。不完全だからこそ、私たちは〝自分で想像すること〟しか、犠牲となった死者に応答する手段はない。それは人間としての倫理的債務だ。私たちに託された債務以外の何ものでもない。想像しない限り過去は繰り返されてしまう。
表象不可能なものに対する、真摯に考え抜かれた未曾有の作品だった。
怖い!美麗映像と緻密かつ重厚なる音響世界
ベルイマンやポランスキー作品に通じるエレガントなひたひたと内側に水が浸透するような恐ろしさ。
とにかく庭園、建築、衣装、部屋、何から何まで贅沢な一級品。
でもじぶんはあそこには絶対住みたくない!
一晩でも逃げ出したくなります^_^
塀の向こうで何が起きているか知っているのは、
収容所で日がな働くこの一家のあるじと、
われわれ観客だけという!
阿鼻叫喚の声や銃音が、
毎日遠くから聴こえてくる、気味の悪さ。
奥さんは、こんな恵まれた暮らしを手放したくない。
転勤の話が出たら、あなたが単身赴任して!というばかり。
あそこの煙は、銃殺された、おびただしい数の遺体を焼却炉で焼いているからなのだ。
その空気を吸って野菜や木花や人間が生きている日常。
焼却炉を増設するに、設備の冷却や運営をどうするか、淡々と会議がすすめられたり。
見る前から宣伝で、塀の向こうを全く映さないとは聞いていて。
なおさら、その闇が非常に深く感じられましたね。
隣で何をしているのか
Amazon Prime Videoの配信を視聴。
小説の映画化で、当時を知る者の証言などを参考にしてリアルに再現したとのこと。
今作の登場人物は、家の塀の向こう側で何が起こっているのか ある程度は知っていたとしても、自分たちで築き上げた氣に入った日常が続くなら 一家の主の任務に干渉するメリットは無い。しかし、今の場所を手放すとなると話は違うというわけだ。
何してるのか わかりにくい サーモグラフィのシーンが 意味深であった。
第二次世界大戦が どういうものだったのか、また アウシュビッツ強制収容所で 何が行われていたのか については諸説ある。
数十年前の戦争時代に限らず、現在も 隣や見えないところで 誰が何をしているのか 無関心だったり、関心があっても触れないように していたりする。
この演出からくる雰囲気を味わった事が…
と思ったら『アンダーザスキン』の監督だったのか
BGMは隣のアウシュビッツの焼き場のゴォーと炎が燃え続けている音のみだったり、冒頭から画面真っ暗が数分続いたので音声が出てなかったら、「機械トラブルか?」と思った位焦らされた。
アウシュビッツの隣に住む将校とその家族暮らしを見せつつ、その端々に強制収容所での虐殺方法語らせたりする。
「400から500の“荷”を焼きます」など、あってならない事が平然と話されている。
あの狂った時代を淡々と流していく。
大量虐殺を行っているその隣で送る日常…と自身の子どもに本を読んであげる姿が一致せず、不気味だ。
楽しげな川遊びも、いきなり増水したと思ったら、例の“荷”を
焼いた灰を流しており、子ども達を洗い流した後の浴槽に灰が混じっているのを妻が見て気味悪がっていたりする。
なのに夫が昇格して転属する話がでると、妻は夫に単身赴任を迫る。
阿鼻叫喚の地獄のとなりに住んでいるのに妻はここで子育てすると言う…。
アウシュビッツ女王等と言われていると話す妻がまた気持ち悪い
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