関心領域のレビュー・感想・評価
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無関心なのは一家だけなのか
アマプラ配信始まったので早速視聴。淡々と過ぎていくので注意を払って観ないと何にも気付かず終わる。音響の良い状態で観ないとこの映画の意義は半減しちゃう。ちゃんと映画館で集中して観るべきだったな。
何気ない日常にチラ見えする狂気に胸糞悪くなる。そういえば劇中にちらっと出てきたアイヒマンも至って普通の官僚的な人間だったような。嬉々として荷物扱いして焼却炉の性能の良さを語ってたけど実際の収容所の焼却炉を作ったのはパン窯を作るメーカーだったっけ。会話に出てきたシーメンスやほかの企業が収容所近くにできたのも労働力目あてだからか。人間とは抗えない強大な力と大義名分があれば非人道的なこともできてしまう生き物なのだろうか。吐き気がするけどこの一家だけが特別に醜悪なわけじゃないように思う。
最後に挟み込まれた現代パートが衝撃だった。今は博物館になっている収容所を淡々と清掃する職員。さらにその博物館を物珍しさで"観光"する私たちは正しい人間なのか。ウクライナやガザ、ミャンマー、その他紛争地域のことをテレビやネットを通して知っているのに無関心でいるなら、壁一枚向こうのことを知ってて無関心だったこの一家と何も変わらないよと言われた気がする。
構図の清潔さ。ごくありふれた日常生活。
全編とても落ち着いた色調で整然と進んでいく。緑と白。描かれているのはある家庭の話。真面目で家族を愛する優しい父親、家庭のことにしか頭がいかない母親。お手伝いさんがいる裕福で円満な生活が淡々と1ショット1ショット調和が取れた規則正しい構図で紡がれていく。ここはアウシュビッツの隣で、父親は収監所の将校。隣と建物で何十人ものユダヤ人が日々殺されていく。どういう気持ちで観ればいいかとても悩ましいが、言えることは映画の登場人物たちは異常ではなく、私たちた地続きのごく普通の価値観を持つ真っ当な人間だということ。みんな真面目に「ユダヤ人は人間じゃない」と思って真面目な仕事として人を殺してるのだ。
私たちは目撃した
集中力が必要
想像力を発揮するということ
映らないが確かにそこにある何か
音響賞は伊達じゃない
アウシュビッツ強制収容所の所長ルドルフ・ヘス家族の日常を描く物語。
アカデミー賞国際長編映画賞・音響賞を受賞した佳作。
物語は、本当に日常生活を中心に淡々と描きます。豊かな自然、暖かい家族、ヘスの妻が拘る理想の生活・・・ただ、その生活の描きながら合間々々に銃声や悲鳴、怒声が漏れ聞こえてきて、その音との対比が人間の残酷さと不気味さを際立たせます。
映画としての面白みには欠けますが、映画としての完成度の高い作品だと思います。
私的評価は、4にしました。
凄すぎる映画体験
レビューが消されてた!?
無関心妻
1943年、ナチスドイツの将校で収容所所長のルドルフ・ヘス。家政婦を雇い、妻ヘートヴィヒと子供五人とともに豊かで平穏な日々を過ごしていた。収容所と家とは、塀を隔ててあった。
物語は、何も知らないと全く面白みがありません。子供が見ている歯や妻が選んでいる服は、ユダヤ人から奪ったもの。川に流れてくるものや庭園の肥料として撒かれているのは、遺灰だろうか。夜も四六時中煙突から出る煙は、焼却され続ける死体のため。暗視野のシーンがよくわからなかったけど、家政婦がこっそりやった行動とのこと。現場にいるルドルフはストレスで疲弊しているが、今の環境に満足している妻が恐ろしい。妻の母は、逃げだしたのに。ラストの現代に資料として、大量の遺品が展示されていて声が出ました
制作にドイツが参加していないのは、右傾化する懸念への警告なのか。
見終わった後も、耳の奥で鳴り響く音
身の回りや世界で起きていることに対する自分の「関心領域」について、問いかけられる作品なのだが、衝撃的な映像が日々流れてくる中にあるためか、今作で描かれている映像を観ても、それほどまでには心が動かない自分に、軽くショックを受けた。
Wikipediaをみると、主人公のヘスは以下のようなことを語っているようだ。
「世人は冷然として私の中に血に飢えた獣、残虐なサディスト、大量虐殺者を見ようとするだろう。けだし(蓋し=思うに)大衆にとってアウシュヴィッツ司令官はそのような者としてしか想像されないからだ。彼らは決して理解しないだろう。その男もまた、心を持つ一人の人間だったということを。彼もまた悪人ではなかったということを。」
『アウシュヴィッツ収容所:所長ルドルフ・ヘスの告白遺録』179頁
映画は、全くこの通りに、忠実に描かれていたと思う。「悪人ではなかった」かどうかは、見解が分かれるかもしれないが、少なくとも自分の中にも、ヘスと同様のものが存在しているのは間違いない。
見終わった今も、耳の奥で、映画から聴こえてきた様々な音が鳴り続けているような気持ち。
恐怖と隣り合わせの幸せとは。
なぜ、これが高評価?
モノクロの少女が何をしていたかは、見終わった後で監督のコメントを読んだから分かった
それまでは意味不明過ぎて、心温まるどころか逆に怖かった
とにかく無駄だと思えるシーンの連続
STARTが真っ暗なのにとまどい、自宅のTVやコード類が壊れたのかと調べる羽目に
録画に問題があったのでは?と勘ぐるところまで行きついた
途中でもまた真っ暗シーン
そして真っ赤なシーンへの入り方も???
何の変哲もないいくつもの場面をダラダラと流されて、見ているこちらもイライラする程、時間の無駄だった
再生スピードを1.5倍にして見たのに、それでも長く感じた
フィルムだって勿体ないけど、アカデミー賞をGETしたから元は取れたのかな
実話を元にしたという驚きは凄かったが、それは原作者によるところ大
音や撮影場所等、忠実に再現したこだわりは評価するが……
狂ってたのはヒトラーだけではないということが改めて分かったので1ポイント足した
いかに大量の人間を焼き尽くすかを考える人
自分の理想の住まいや環境を夫さえ犠牲にして守る妻
己の地位や名誉にしがみつき、嘔吐さえするルドルフ
相手のこと等考えない人事を強行する上司
そして、山積みされた夥しい数のユダヤ人達の靴等を見ながら、当たり前のように掃除を淡々とこなす人達
今の日本でも無関心は蔓延ってる
平和ボケしたせいかな?
「今だけ金だけ自分だけ」
農家が悲惨な目にあってても、教員や研究者が雑務に追われて疲弊していても、看護■達が同調圧力で✕✕を打たざるをえなくても、国土や水道や電気等が外国に買われようが、コ●ナ枠で人が沢山▲▲になろうが、『そんなの関係ねぇ』?
自分がよければそれで良しとする風潮は残念ながら今後も続くだろう
気がついた時には完全に手遅れなのに、急な坂道を日本全体が勢いよく転げ落ちてるのに、無関心
そんな人達はこの映画を見ても、自分のことを振り返りもしないだろう
怖すぎるだろ
さすがに昨年の話題作だったし、予告編からどういう設定かはわかってはいたが、いやー、それでも最後は驚かされた。
どういうエンディングにするのかと、見ている最中は考えていた。例えば住んでる家族がソ連軍の侵攻で因果応報な目に合うのかとでも思っていた。イングロリアスバスターズじゃないけどさ。もちろんタランティーノみたいに笑えるトーンにはしないと思っていたが、ミヒャエルハネケのような抑制の効いた、乾いた見せ方で家族が殺されるとか。
ただ、そのような因果応報のオチにすれば、本当の意味でのこの「関心領域」というタイトルの意義が無くなってしまうわけだ。観客にカタルシスを与え、遠くで起こっている悲劇をドラマとして消費すること。復讐は果たされたと溜飲を下げ、消費した後、我々は日常に戻り結局その悲劇について考えることもないと。
で、この映画はそれをどのように避けたのか。それがラスト間際、いよいよ最終的なユダヤ人を地上から抹殺する計画が決まり、主人公が暗闇を見つめてのあのまさかのアウシュビッツの内部へのジャンプである。
しかもポイントは現代だということ。我々は先ほどまでここで何が行われたかを見ていた。その後に見せられるこの圧倒されるような物量の被害者たちの遺品。そして実際に何万という人々が焼かれていった焼却炉。映画を観ていた我々はそこに目がいってしまう。
ところが、それらには目もくれず、普通の美術館のオープン前のようにその前でただ清掃する人々が映し出される。毎日接してる彼らにとって、そこは職場であり、悲劇の場所ではない。同じ場所なのに文脈がちがうのだ。ここで我々は気付く。人間てひょっとして、本質的にこういう生き物なんでは、という恐ろしい事実に。ここがこの作品の二重構造であり、肝になっているゾクッとさせられるパートだと思う。(ここでそんな意図はあるはずはないと思われた方がいたら、ではその反論として言うが、なぜわざわざ清掃されている人がいる時間を最初から最後まで撮っているのかを考えてみてほしい。普通であれば、誰もいない時間に撮影するはずである。そこに意図が無いと考える方が不自然だ。)
戦争という非常時でなくとも、我々はもともと「意味の無化(Decontextualization)」の能力を持っているのだ。つまり、意識しなければ、抗わなければ、人間は普通にこれが出来てしまうんだと。そこがこの映画の批評性だなと思った。
ハラリのサピエンス史で述べられていたように、人間は何事にも意味や背景、物語、文脈を見出すことのできる生き物である。が同時にそれを無化する事も出来る生き物なのだ。
実はこの映画の前に、ウクライナのセルゲイ・ロズニツァ監督のアウステルリッツ という作品が既に存在している。その映画はかつての強制収容所をダークツーリズムで訪れる観光客たちをただ淡々と映すという批評性のあるドキュメンタリーだった。ただ、関心領域ではドキュメンタリーのシーンを劇映画からの突然のジャンプでエンディングに持ってくることで、観客たちにより違和感とショックを与えることに成功している。もっと自分事として突きつけられるしかけになっているわけである。
私は前から思っていたのだが、ジョナサン・クレイザーにはスタンリーキューブリック的な遠くから出来事を客観視して見ているような視点があると思う。(映画のテーマによって映画のフォーム自体を変えてくるところも似ている。)そして、キューブリックが得意としていたのが、音楽やカメラの演出によって、前からそこにある物が全く違う意味を持つものに見えてきてしまう、あるいは人がただの物でしかないように見えてしまうという、まさにこの「意味の無化」作用や異化効果を狙った演出方法だった。それをある意味受け継いでいるジョナサンクレイザーの持つ作家性が生かされた作品だったと思う。
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