関心領域のレビュー・感想・評価
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無関心の恐ろしさ
本作はどういう作品か分かった上で見るのと知らないで見るのとで、大分印象が違う。実際、公開時から賛否両論。
しかしどちらにせよ、受ける衝撃、恐ろしさ、人間の醜さ、愚かさは同じ。
何も知らないで見ると…
戦時中。あるドイツ人将校家族の日常。
家は広く、時々家族でピクニック。夫人は毛皮のコートを羽織り、友人らを招いてパーティー。
何の不自由もない満ち足りて平穏で贅沢な暮らし。
ただその様が淡々と描かれる。楽しさや幸せやハートフルは一切皆無。一歩引いたような傍観的な視点。
それがまた話に入り難くしており、否の意見でもあるが、それがある意味重要な意味を成す。
そこはユダヤ人収容所所長の邸宅。
収容所と壁を隔ててすぐ隣。
壁の向こうでは、毎日多くのユダヤ人が虐殺され…。
一方、壁のこちら側(一家や見る我々の視点)では…。
その対比。何と言う皮肉、風刺。いやそれどころか、ゾッとする。
たった一枚の壁を隔てて、世界はこんなにも違うのか…?
収容所でのユダヤ人虐殺シーンも一切ナシ。それが何も起こらず、一家の日常ばかり見せられてただ退屈との声もある。
何も起こってない訳ではない。見せないだけで、聞こえたり、後から知るとおぞましいのだ。
時折聴こえてくる銃声。遠く、黒煙が立ち昇る。悲鳴らしき声も…。
それらは全て…。何が行われているか思うと…。
母親が子供たちに着せる服。それは“もう着なくなった”ユダヤ人子供の服。
川遊び中、何かが流れてくる。白い小さな…。それはユダヤ人の歯か…?
極め付けは、庭には真っ赤なバラが咲いている。その肥料は、ユダヤ人の遺灰…。バラの赤々しさは、ユダヤ人の流した血なのだ。
一家は何もかもに全く気にも留めない。
夫人は今の暮らしが続く事を願い、夫は軍人として仕事を全う。
どうしてこんな蛮行が出来る…?
いや、そう言ってる我々も同じなのだ。
本作が世界中で称賛されたのは、ホロコーストが題材だが、それを通じて、“今”の世界を描き通じているから。
“壁”が“国境”。
その“壁”の向こうでは、戦争や争いが絶えず続いている。
我々は“壁”のこちら側で、それらをTVやスマホのニュースとしか認知していない。
私自身もそうだが、それが本当に何なのか、今何が起きているのか、しかと認識しているのか…?
遠い異国での出来事。私たちや平和な日本には関係ない。それこそ、この将校家族と同じだ。何が違うと言えよう…?
無関心でいる事の恐ろしさ。
それを突き付ける。
痛感させる。
全く恐ろしいシーンを見せないで、恐ろしさを感じさせるジョナサン・グレイザーの演出力には脱帽。こういう“見せない演出”は嫌いではない。
『JAWS/ジョーズ』『エイリアン』などの見せない恐怖、山田洋次監督の『母べえ』でも戦場シーンを一切描かず庶民を通して戦争の惨たらしさを見せた。斬新のように思えて、映画の常套手法なのだ。
そして、『オッペンハイマー』などを抑えてアカデミー賞を受賞した音響。ド迫力の音が鳴り響くのではない。時々遠くから聞こえる程度。それが不穏さや恐ろしさを助長させる。こういう音の使い方もあるのか…。秀逸!
寡作で知られるグレイザー。が、またしても印象と記憶に刻まれる。
製作期間は実に10年。労作!
確かによく分からない描写も多い。説明不足、意味不明、どういう意図…? ラストの件など。
しかし、それをただ“つまらない”と一蹴していいものなのか…?
映画は見て楽しむものだが、意図を感じ取る事も。
我々はこの鬼才監督から試されているようだ。
無関心でいられるのか、と。
関心領域というタイトルが、どうしても気になって観てしまった
オープニングの不気味すぎる音楽から、野鳥がさえずりまくる《のどかな家族のピクニック風景》に変わっちゃう、台詞のやり取りによる展開もなく、わかりやすい説明もなく、意味ありげなエピソードだけが断続的に展開する、そうしたイメージの断片が無暗に想像力をかきたててくる、エンディングロールの不気味な音楽まで、あっという間だった(という気がする?)
ごくごく当たり前に幸せな家族の日常生活って大事だけど、無関心じゃいけないものってのも世の中にはあって、そうしたものがごく普通に並んでいる状況なんだよね、すぐ隣にとんでもない施設があるんだけど、ヘス一家にとっては、目に入っていないというか、気にもしていないようなんだよね、ヘス夫人ときたら、自然に囲まれていて子供たちにとっては最良の環境とさえ思っている節があるね、
で、その相反する二つのものが普通に並んでいて、ギリギリのところでシンクロしたりするシーンが、これでもかと繰り返されるところが怖いし、それが監督の意図だろうね、
こうした忘れてはいけない悲惨な歴史について、そのまんまのリアルでなく描ききっているところが凄いんだけど、もう最初にアウシュビッツの焼却炉の性能みたいな話を淡々としているとこでキツくなったわ、いい映画であり、戦争の理不尽さと不条理さをこれまでとはまったく違う方法で喚起させる役割は充分果たしている、本当に痛いとこをうまく突いているよね、
久々の超難解作品
穏やかな生活
スマホ一つで無惨な出来事を知れる現代への風刺画
2024年劇場鑑賞61本目 凡作 40点
類を見ない意欲的な作品
故意に取り込むも、わざとらしく無い不穏な音や声、でも広がっている絵はそれを感じさせない豊かな暮らしを送る家族
壁を隔てた先には残酷非道な仕打ちがされていることを疑問にも思わない、無関心であり何も気にも留めない子供達の黄色い声がなんとも悍ましい
スマホ文化が生まれて早15年ほど経過しているが、日に日に便利になっていく一方だ
というのも、スマホ一つで近所も地方もまだ見ぬ世界のどこかでさえも、無惨な出来事をスクロール1つで知り得ることが出来てしまうこんな現代が、それをへぇ〜と消化して、当事者意識は無いにしても、まるで一つの映画を見終わった後に多くの人が感じる、エンタメを一つ消化した程度に過ぎ去ってしまう、そんな我々のこんにちを子供たちから感じた
そんな風刺画ともとれる今作を、もっと気づき受け取れる部分もあったに違いない、、、無念
怒りが込み上げたりとか、しませんでした、わたし。
アウシュビッツで働く父親は、家族も犬も愛する、普通の人間。
組織に忠実に真面目に働き、業績を認められて高給を与えられ、夢に見たような暮らしを楽しむ家族。
「政治的な問題」で転属となり、せっかく作り上げた素敵な家から離れたくない妻との諍いもありつつ、しかし基本的には幸せな家庭の営み。
我々が目にするのは、どこにでもある普通の家族のドラマです。
時折カットインしてくる、黒や赤、煙突の煙、叫び声を除けば。
壁の向こうで起きていることは、父親以外の家族には見えません。
人が燃やされてモクモクと上がる煙も、仕事の結果発生するものでしかないので、家族にはどうでもいいんです。
わたしもそうでした。
殺処分される犬の話を読んだら、心引き裂かれるような気がしたのに。
壁の向こうの出来事は、
どうでもいいと感じました。
ユダヤ人の友達もいるのに。
どうでもいいと感じました。
見えないし。
知らないし。
そういうものなんだし。
感傷に邪魔されることなく。
人間がいかに無関心になれるのか。
自分の身をもって体験できる、非常によくできたアトラクションです。
なぜあれが起こったのか。
頭ではなく、感覚で理解できます。
父親は、少し後悔したのかもしれないけれど。
環境が人間を変え怪物を生み出す。ある意味ホラー映画
ユダヤ人から奪った衣服を身につけ、口紅も平気で口に塗る。
なのに収容所で焼却した遺骨が流れ出た川にうっかり浸かってしまったら、慌てて全身を洗ってうがいをし、バスタブまで念入りに掃除する。
そこにはまるで祟りを恐れるかのような罪悪感の現れがある。
無関心なのではなく、潜在的に罪の意識が蓄積している。
収容所長官は数をこなす事に異常に執着していて几帳面。サラリーマンだったら地味にいい仕事をしそう。
その妻は収容されたユダヤ人の家財を奪う話をしながら、子供達に食べさせる家庭菜園を大事に育てている。
戦争がなければ、多分普通の善人だった人達。
だが、社会の変化に合わせて人間も変わる。収容所長官に人事異動の話が出た時、その妻は「ここは子供達にとって最高の環境、ここが私達の家」と叫んで全力で抵抗する。
このシーンには恐れ入った。潜在的な罪悪感を欲望が完全に押し潰している。
24時間焼却炉の轟音が鳴り響いていて、客観的には地獄でしかないのに、この夫婦にとってはパラダイス。背筋が凍るシーンだった。
胸に迫る音響。ずしりずしりと響く。流石アカデミー賞音響賞!
ホラーの様にすごく恐かったです。グロいシーンが無いのに恐い。
戦争というものの本質を突いているというか…。平気になってしまうことが恐い。
音響、流石にアカデミー賞を取る筈です。素晴らしかったです。
600頁に及ぶ音響の為だけの脚本を元に構築された音響見事でした。シーンシーンに見事にマッチしてグイグイ心に迫ってくる。映画館で観て本当に良かったと思いました。
グロいシーンは全く無いのにちゃんと反戦映画として訴えかけてくる。世界のあちこちで戦争が起きててもいつの間にか無関心になって当たり前になってしまっている我々へのメッセージを受け取りました。
人間の醜さ
セカンドオピニオンを
こわい
「ナチスの残虐行為の断罪」ではない
この映画の核心にあるテーマは、我々の「関心領域」と「無関心領域」の対比だ。舞台となるアウシュヴィッツ収容所の隣にある豪邸は、実際には家族にとって壮絶な現実から切り離された場所だ。ヘートヴィヒと彼女の家族は、ナチス体制によって与えられた豪華な生活に浸りながら、収容所での恐怖や苦しみを「関心領域」として扱っていない。この態度は、現代における私たちの無関心にも通じるものがある。
この映画は、単にナチスの残虐行為やその恩恵に浴した人々を断罪するものではなく、我々の「無関心」を批判している。戦争や人道的危機、気候変動といった地球規模の問題に対して、私たちは知識を持っていても、それが日常生活に直接影響を与えない限り、行動を起こすことは少ない。この「無関心領域」の存在が、映画を通して浮き彫りにされ、我々の社会的・倫理的責任を問いかけている。
「ホロコーストを知っている」ことが重要ではなく、我々が自身の「無関心」を直視し、世界の問題に対する意識を持ち行動することの必要性を訴えている。そのように思えてならない。
全文はブログ「地政学への知性」でご覧ください。
現在の関心領域
アウシュヴィッツの絶滅収容所から塀一枚隔てた豪奢な家で穏やかに暮らすルドルフ・ヘス所長一家の日常を淡々と描いた皮肉で恐ろしいホーム・ドラマです。収容所で起きている事は全く描かれず、収容者の姿すら殆ど見られません。ただ、塀の向こうに見える煙突からは止むことなく煙が立ち上り、銃声や人の悲鳴と思える「音」が微かに聞こえるだけなのです。家に集まるドイツ婦人らは、収容ユダヤ人から巻き上げたドレスや宝飾の品定めに余念がありません。
収容者の中から選んだのであろうユダヤ人家政婦に対し「夫があなたを灰にして辺りに撒き散らすから」と冷静に言ってのける夫人の穏やかな暮らしの直ぐ隣で進んでいる現実に対する想像力を観る者は試されます。安易な手持ちカメラは用いず、構図を決めた固定カメラの映像が冷ややかな美しさを湛えます。2月頃、本作の上映情報が出た時、「『関心領域』なんて日本語として座りの悪いタイトルだなぁ」と思ったのですが、今となってみればこれ以上にない選択に思えます。
本作を観ていると、文字通りの塀で閉鎖され「天井のない監獄」と称されるガザで進行中の現実を嫌でも連想するのですが、現ドイツ政府は完全にイスラエル側に立ち、パレスチナ問題を塀の向こうの「関心領域外」としている事を一体どうとらえたらよいのでしょう。
この映画を観て重い心を引きずったまま市の図書館に寄ったところ、本作の主人公のひとりでもあるルドルフ・ヘスが書き残した『アウシュヴィッツ収容所』を見つけました。彼が戦後に本を書いていたなんて知らなかったので、早速読み始めました。でも、「なぜ彼は?」を知ろうとしても、アイヒマンの場合と同様に凡庸な答えしか得られないのだろうな。
終始作中に蔓延する不快感こそ無関心の罰
作中で描かれるのは、ナチス幹部の一族の華麗なる生活である。ホロコーストの惨劇は少しも描かれない。それでいて、ホロコーストの悲劇を、ナチスの罪を、民主主義の欠陥を、なんと克明に描いた作品であろうか。
終始感じる不快感の正体は音だ。ヘス一族の何ら変哲のない生活の中に、人の咽び泣く音、無機質な機械音、不穏な爆発音が止めどなく流れ同化しているのだ。
不快である。不穏である。充満しているのだ。
かのホロコーストの惨劇の最中、当時の人々は、ヒトラーに手を掲げ忠誠を叫んでいた人々は、どんな気持ちだったのか。積極的にナチスを指示し、ユダヤ人に蔑みの視線を向けていたのか。当時最も洗礼された民主主義の体系を持っていたドイツでなぜ史上最悪の指導者が誕生したのか。
無関心である。このことはポピュリズムが蔓延する現代に間違いなく通づる教訓を与えてくれるはずだ。
終始背筋が凍るばかりだった。映画館で見るべき映画とはこう言うものではないだろうか。
関心なのか無関心なのか
最初はBGMのように流れる不穏な雑音。
ああ、多分それがあの音なのだろうと
耳を研ぎ澄ませていると、
だんだんと輪郭が明確になってくる。
銃声、怒号、悲鳴、煙、そして臭い。
奥様は、ユダヤ人が着ていた高級毛皮を身にまとい、
ポケットから出てきた口紅をさす。
赤ちゃんは泣き止まず、
妹は夢遊病を患い、
男の子たちは、抜かれた金歯を宝物にしている。
壁の向こうで何が起きているのか、
知っていて平然を装う。
時折「無関心」でいられなくなり、
壁の向こうの子どもに向かって
「次はしくじるなよ」とつぶやく。
そりゃ、壊れますよ、精神が。
最後は現代のアウシュビッツ収容所が映し出され
淡々と、機械的に、施設の中を掃除をする人たち。
ガラス越しに見える大量の靴の山には、
まるで関心がないようです。
まさに、あななたちのことですよ、
ということなんですよね。
壁一枚隔てて描かれる、天国と地獄
1945年、アウシュビッツ強制収容所の隣。壁一枚を隔てた家で、幸せに暮らすヘス一家。壁の向こうからは、昼夜を問わず聞こえるホロコーストの“音”。しかし、彼らはその音を物ともせずに、“無関心”の果て、豊かな“楽園”を築き上げていた。
本作を鑑賞する前に、事前予習として2022年のドイツによるテレビ映画『ヒトラーのための虐殺会議』を鑑賞したが、本作を理解する上で非常に役立った。ナチス親衛隊や事務次官らが、如何に効率良くユダヤ人を“処理”するかについて議論を交わす作品なのだが、本作のアウシュビッツ強制収容所はまさにその答えとなった舞台。ガスで一度に400〜500人を毒殺し、そのまま焼却炉として遺体を焼却するのだ。
本作中では、ルドルフと役人達との設計図を用いた会話により、より具体的にその内容が語られている。炉を左右に分ける事で、片方で焼却処理をし、もう片方では炉の冷却と灰となった骨の排出が行われる。焼却と冷却を交互に繰り返す事で、一定のペースで決まった人数を処理し続けるのだ。焼却炉が稼働する様子は、絶えず収容所の煙突から立ち込める煙で表現される。
そう、本作では強制収容所で行われる全ての行為が映像では一切示されない。地獄の様子は、“音”によって表現される。それは、平穏なヘス一家の生活の中に、常に流れ続ける。
しかし、彼らに収容所にいるユダヤ人達の“痛み”や“叫び”は届いていない。
本作を通して1番に感じたのは、【好きの反対は嫌いじゃなく“無関心”】とはよく言ったものだなという事。“嫌い”という感情は相手に対するベクトルが向いているが、“無関心”はそもそもベクトルすら存在していない。それはまさしく、本作におけるヘス一家の生活態度そのものだ。
収容所とヘス家の間にあるのは、僅か一枚のコンクリート製の壁。そんな壁一枚隔てただけの場所であるはずなのに、そこに自分達の楽園を築き、何不自由ない生活を送っている。壁一枚隔てさえすれば、その向こうにどんな地獄が存在しようと、築き上げた楽園での生活を謳歌出来てしまう人間の恐ろしさ。そして、一度手にしたその悦楽から離れる事は出来ないのだ。
そうしたヘス一家の歪んだ生活を、色彩や左右対称の構図等、拘りを持った画面構成で鮮やかに表現してみせる。
冒頭のタイトルシーンは、最初こそ白く光り輝いていた『THE ZONE OF INTEREST』の文字が、次第に輝きを失って燻んで行き、やがて消えて行く。その様子は、まさしくヘス一家の収容所内への“関心が薄れて行く”様を表しているかのよう。
また、ヘス家の面々が穏やかな日常を過ごすシーンは、ポスタービジュアルにあるように彼らは多くの場面で画面の中央にいる。それはまるで、「自分達が世界の中心である」という彼らの傲慢な心理を映したかのようだ。しかし、そんなシーンのどれもこれもが色彩豊かで美しく、穏やかに映るというのが皮肉。まさか、鮮やかな色彩や計算された画面構成に一種の嫌悪感を抱く日が来るとは思わなかった。
音楽も非常に大きな役割を果たしており、暗闇にゴォォと不気味に響く様子は、まるでホラー映画のよう。この曲は要所要所で耳にする事になるが、終盤ではあの音の奥に収容所のユダヤ人達の怨嗟の声すら聞こえた気がした。
ヘス一家の中でも最も醜悪に描かれているのが、ルドルフの妻ヘートヴィヒ。ユダヤ人から接収した衣服やダイヤを当たり前の如く身に付け、夫がアウシュビッツ強制収容所の所長である事から“アウシュビッツの女王”と呼ばれている。彼女は自分の母を家に招き、拘って作り上げた家庭菜園を見せて、自分が今どれだけ満たされているかを見せる。
しかし、そんな生活の裏で、夜中まで行われる収容所の“焼却処理”。夜空を真っ赤に染め上げる異様な光景は、ヘートヴィヒの母を家から離れさせる。翌朝、ヘートヴィヒが見つけた母の書き置きに何が書かれていたのかは何となく察しが付くが、彼女は母が黙って家を離れた事に不満を漏らし、使用人に当たり散らす。無関心の極地に達した彼女には、最早自らの生活の歪さに気付く事は出来ないのだろう。
ルドルフの転属によって住居を変えねばならないかもしれないと知った彼女の台詞は強烈だった。
「ここが私の楽園なの。昔からの夢だったの。ここを離れるくらいなら、あなた一人で出て行って。」
しかし、私が作中最も恐怖し、同時に悲しさで一杯になったのは、幼い次男のある日の姿だ。収容所内のユダヤ人達の為、夜中に林檎を埋め込むレジスタンスの少女の姿が映し出されていたが、その林檎が発端となって収容者が暴れ、看守によって鎮圧される。
その“声”を、その“音”を聞いた彼は、窓ガラスに向かって一言。
「二度とするなよ。」
まるで親が子供を躾けるかのよう。幼い彼にとっては、今生きている場所こそが世界の全て。親や周囲がユダヤ人を差別し出した後の世界に生まれた彼にとっては、それはごく自然な発想、自然と漏れた言葉だったのだろう。だからこそ、それは途轍もなく恐ろしく、同時にあまりにも悲しい。“人間の悪意の再生産”が詰まっているこのシーンは、間違いなく本作の白眉だろう。
終盤、ヘートヴィヒの要望を聞き入れ、ルドルフは一人転属地で過ごす。再びアウシュビッツに戻れる事になった彼は、階段を降りる際に嘔吐し、現代のアウシュビッツの博物館の姿を見る。展示されている積み上げられた収容者達の履き物や、当時の品々を。
パンフレットによれば、あれは監督にとって“未来の今”なのだという。彼らの行為の果てに今がある。我々はそれをちゃんと見つめているのか?と。
何故、あの瞬間ルドルフは嘔吐したのか。もしかすると、あの嘔吐は地獄の隣にある楽園から離れた事で、僅かばかりでも良心を取り戻したルドルフの本能が告げたSOSのサインだったのかもしれない。しかし、彼は再びあそこに戻る。そして、あの生活が始まるのだ。
アウシュビッツのホロコーストは確かに過去の出来事だ。しかし、監督の言うように、我々は常にそうなる可能性を秘めているはずだ。いや、既になっているのかもしれない。壁一枚隔てただけで、地獄の隣に楽園を見たヘス一家のように。
また、ヘス一家の生活は“誰かの犠牲の上に成り立つ幸福”だ。しかし、それもまた現代の我々に通ずる問題かもしれない。
現代を生きる我々は今、誰の“犠牲”の上に生活し、何に対して“無関心”なのだろう?
何も起こらないのにずっと緊張を強いられる
知っていることの責任
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