関心領域のレビュー・感想・評価
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は博物館となった現在の元アウシュビッツ収容所とさりげなく接続させる映像が秀逸。「関心領域」は現代にもあったということでしょう。
イギリスの作家マーティン・エイミスの同名小説を、「アンダー・ザ・スキン 種の捕食」で映画ファンを唸らせた英国の鬼才ジョナサン・グレイザー監督が映画化され、今年のアカデミー賞で国際長編映画賞を受賞した作品です。
ナチスの罪悪を題材とした映画は毎年何本も作られ、次々と新しい視点が示されてきました。「関心領域」もその一本ですが、ここで描かれるのはユダヤ人虐殺に関わらなかった人たちです。だからこそ、この作品は現代の私たちと直結し、今まさに起きていることとして迫ってきます。
タイトルの「The Zone of Interest(関心領域)」は、第2次世界大戦中、ナチス親衛隊がポーランド・オシフィエンチム郊外にあるアウシュビッツ強制収容所群を取り囲む40平方キロメートルの地域を表現するために使った言葉で、映画の中では強制収容所と壁一枚隔てた屋敷に住む収容所の所長とその家族の平和な日々の生活が描かれます。
●ストーリー
舞台は第二次世界大戦中。映画は水辺にピクニックに来た一家の姿から始まります。両親と子どもたち、平穏で平凡などこにでもある風景です。
しかし、次第に不穏な空気が漂い始めます。実は一家はアウシュビッツ収容所の隣に住んでいて、父親のルドルフ・ヘス(クリスティアン・フリーデル)は初代収容所長だったのです。壁ひとつ隔てたアウシュビッツ収容所の存在が、気配から着実に伝わってきます。
ところで一家がこの家に住んで数年。当初は単なる荒れ地だった今の場所に、妻のヘートビヒ(サントラ・ヒュラー)は自身の趣味で庭を造園し、屋内も居心地よく整えて理想の家を作り上げいていました。ところが夫のヘスの収容所長の実績が評価されて、本部への栄転の話が舞い込んできます。しかし、そんな名誉にもヘートビヒはせっかく育んだ家から動きたくはありません。行くなら家族を置いてひとりで行けと迫るのです。
ヘートビヒにしてみれば、今の家は17歳の時の夢が実現したものだったのです。なのでこの暮らし、この場所を立ち去ることなどなんてあり得なかったのでした。ルドルフは板挟みになって頭を抱えます。結局彼女の望みは、叶えられ、美しい屋敷に留まりますが、時は、まさに1945年。彼女の関心領域を守る壁が壊される日はすぐそこに迫っていました。
●解説
冒頭、スクリーンはしばらく真っ暗闇のままで、不快な音だけが響きます。最後まで耳をそばだてて見てほしいという監督からの宣言なのでしょうか。どこか不穏な思いを掻き立てる音楽が流れる黒画面が終わると、一転して緑したたる木々に囲まれた川縁で水浴を楽しむ人たちが映ります。その中から、何人もの子どもを連れた一家が帰ってくるのが、本作の主人公、ルドルフ・ヘスが暮らすアウシュビッツのお洒落な邸宅です。
と、こう書くと退屈なホームドラマのようですが、そこがこの映画の恐ろしいところです。登場人物の誰も、すぐ隣の収容所のことを口にしないのです。画面にも、収容所内部は一切映りません。それでも、庭先の鉄条網付きの高い塀越しに見える煙突からは煙が吐き出され、銃声や悲鳴らしき音がしょっちゅう聞こえてくるのです。家にはユダヤ人が下働きとして雇われ、ヘートビヒは友人だちと、収容したユダヤ人から強奪した毛皮のコートや宝石の品定めをしていたのです。誰もが塀の向こうの出来事を知りながら、完全に無視しているのでした。
邸宅は、見事に手入れされた庭園に囲まれていますが、その壁の向こうには、灰色の建物が並び、煙突から煙が立ちのぼっています。この地名から、誰もが、そこが収容所であることを知ることでしょうが、その中が映されることはありません。収容所の関係者が、所長のルドルフに、一度に400~500は処理出来ると説明する場面があるが、その対象がユダヤ人であるということはおろか、「人」という言葉すら使いません。数だけなのでした。
ナチスが「関心領域」と呼んだこの地に、子どもの養育と庭造りに夢中な妻のヘートヴィヒにとっては、塀の向こうは、関心領域外でした。
ここで注目すべきは、緑豊かな庭園と広大な屋敷で暮らすヘスの一家、夫婦に5人の子どもと何人もの女中たちを捉えるカメラの位置なのです。それは、常に一定の距離をおいて、彼らを映しだしていました。寄りそうのでもなければ、突き放すのでもなく、幸せに暮らす隣人の日常を坦々と傍観する眼差しというべきでしょうか。
ナチズムは時代が生んだ狂信思想ですが、ヘスは祖国と家族を愛する一人の軍人だった。妻の顔色も出世も気になります。生活に疲れ、妻以外の女性や子供、動物に癒やしを求めるのです。何げないシーンを積み重ねることで、ホロコースト (ユダヤ人大虐殺)が普通の人間による犯罪だった事実を突きつけます。
本人の手記を読むと、映画の人物像そのままで興味深かったです。罪の意識はさほど感じられず、処刑を目前にこんな心境を明かすのです。「家族のためにもっと時間をたくさんとらなかったのを、ひどく悔やんでいる」(ルドルフ・ヘス『アウシュヴィッツ収容所』)
残虐行為とおののきは幸せな日常の延長線上にありました。権力への盲目的な服従や、事なかれ主義といったヘス的な風潮は今も存在します。だからこそ「一体なぜ」と問い続けなければならないのです。
ところで映画に登場するポーランド人の少女は、グレイザー監督が調査中に出会ったアレクサンドリアという女性にインスパイアされているそうです。12歳の頃にポーランドの抵抗運動員だった彼女は飢餓に苦しむ囚人のためにリンゴを置くため収容所まで自転車で通っていました。映画と同様に彼女は囚人が書いた音楽を発見したのです。その囚人はユゼフ・ウラーと名付けられ、戦争を生き延びました。アレクサンドリアはグレイザーとは90歳の時に面会し、その後まもなく亡くなった。映画で使われている自転車も女優が来ている衣裳も彼女のものなのです。
●感想
ナチスがどんなに非人道的だったかという映画は無数にありますが、「関心領域」はナチス以外の市井の人々に目を向けます。そしてその視線の先には、現在の私たちがいるのです。異様さに慣れ、無関心でいることに罪はないのか。周りを見回してみよと促すのです。
壁がなくなり、世界中の情報が飛び交う現代では、誰もが世界で起こっていることに関心を向けます。しかし、本当にそうなのでしょうか?情報の渦の中で、人は、見えない壁を作って外の世界を遮断しているのではないでしょうか。本作は、そのことを問いかけていると思います。
観客が感じるのは恐怖か、不安か、それとも無関心か? 壁を隔てたふたつの世界にどんな違いがあるのか?平和に暮らす家族と彼らにはどんな違いがあるのか?そして、あなたと彼らの違いは…!
ところで、グレイザー監督は博物館となった現在の元アウシュビッツ収容所とさりげなく接続させます。
物語は終盤、昇進でアウシュビッツを離れていたヘスの復職が決まります。辞令はさらなる殺戮の序章となりますが、場面は一転現代へ。
館内で清掃する職員の横で、展示品の焼却炉や遺品の山が無言で語りかけてきます。わたしが気になったのは、黙々と清掃する作業員には、これらの衝撃的な展示物に接していながら、一切関心を示さないということです。「関心領域」は現代にもあったということでしょう。監督がこの作品を現代と地続きの物語として描いていることが伝わってくるシーンでした。
場面は再度戦中に転換し、ヘスはふと背後を振り返ります。後に裁かれる「歴史の目」に気づいたのかもしれません。嘔吐するルドルフの姿が、人間はどこまで知らないふりをすることができるのか、その先に何が待っているのかを問いかけいるのだと感じました。
●最後に撮影面で
周辺を縁取ることで内部をイメージさせる戦略が見事です。引いた構図で、緑あふれる庭と、そこで戯れるヘス家の人々を描かれます。
撮影監督は、ウカシュ・ジャル。40代前半で米アカデミー最優秀撮影賞候補2回に輝いた、ポーランド映画界では頭一つ抜けた逸材です。自然に見える映像は実は技巧でいっぱいでした。特異な世界を、広角レンズの違和感を使い見せていくのです。画がきれいな分、やりきれなさが残りました。
たとえば、ヘートビヒが執着する花壇の庭も、塀の向こうの重苦しさは消せません。背景にはいつも灰色の塀と有刺鉄線が見え隠れし、その奥で収容所の棟が頭をのぞかせています。さらに昼夜、季節に関係なく2種類の煙も見えるのです。死者の焼却施設と、ユダヤ人を移送する列車のものでしょうか。時折聞こえる罵声や悲鳴も子供の遊び声にかき消されていくのでした。
またたとえばルドルフが執務室で新しい焼却炉を売り込まれる場面は、わざと空間を作る不思議な画作りなのでした。
賞を獲らなければならない作品。
賞を取ったことに意味のある作品。賞を獲ってなければ、日本公開は無かったんじゃないかと思う。
これは作ったこと自体に意味があって、これを観た審査員が賞を挙げなければならなかった作品でしょう。
演出が際立っていて、抑揚を抑えた中に狂気を含ませる事は、さぞかし大変だったろう。
子供達が弄ぶ歯や、二度とやるなよと呟く次男、馬への愛情を見せるルドルフ、そっと逃げ出す母親、過剰に幸せを演出するイライラした妻、塀の横でキスをする者たち、自由に駆け回る犬。
幾つものホラーに見える日常は、私たちの今を嘲笑ってるようでもあり、戒めてるようでもある。
今でも、世界中で理不尽な思いに泣き叫ぶ人はいて、私たちはそれを尻目に平和を唱え、生活している。では、どーすれば良いのか。
それを各が考えて、自分の幸せだけでは無い、先ずは、関心を寄せて、領域を広げることから始める心がけをして欲しいと。そして、差し伸べられる手があるなら、差し出して欲しいと、この映画は願ってるように感じた。
無関心の中でやる非常な行為は、必ず我が身に降りかかる。心を蝕んでいく。
養老孟司さんのバカの壁をまた、読む事から。発心いまここから。
エンタメとしての映画なら星は付かない、付けれない。
地獄の阿鼻叫喚のほとりで展開される、加害者たちの平穏で満ち足りた楽園の生活。
きわめて手の込んだ、面白い仕掛けの映画だとは思うけど……観ていてそんなに面白かったかと言われると、そうでもなかったかな(笑)。
なんか、よほど頭の良い観客というか、勘の良い観客をターゲットにして、客のことを心から信頼して、自分たちが何をやっているかがちゃんと伝わると信じてつくられている感じがあって、そこは素直に潔いと思う。
でも、潔すぎて、結局なにもひっかかりのあるイベントがないまま、終わっちゃった感も強い。
この映画のキモは、「アウシュビッツ強制収容所の壁越しに立つ、ナチス高官である収容所所長の幸せな家庭」を「窃視」する感覚にある。
「関心領域(The Zone of Interest)」という言葉は、ナチスがアウシュビッツ周辺を婉曲的に呼びならわした名称らしいが、本作では「ナチス高官にとっての関心のある領域」というダブルミーニングとして機能しているようにも見える。
言葉どおり、このドイツ人家庭の関心事はもっぱら、庭付き一戸建ての公邸の「内部」にとどまっている。カメラも「彼らにとっての関心領域」内でしか動かず、収容所の「壁の向こう」にある地獄絵図には足を踏み入れようともしない。
そこで、われわれは目撃する。
地獄と隣り合わせで生きながら、満ち足りた幸福な時間を過ごす家族の姿を。
自分たちこそが地獄の原因であり主導的な立場にありながら、まったくそのことを意に介さず、穏やかで平和な日々を送っている人々の生活ぶりを。
思考を停止させて全滅政策に加担している収容所所長とその家族が、私生活においては細やかで愛情深い人間であるという二重性がふつうに有り得るのだという現実を。
だけど、これって結局、観客は常に「ホントは隣(オフスクリーン)で本物の地獄が現出しているんだ」という事実を、常に「自分で」想起しながら観ないといけないってことだよね。
今見せられている、ドイツ人家庭の当たり前の平穏な世界が「実は異常なものだ」と、観客が自分に「言い聞かせ」ながら観ることが期待されてる。
それって結構、観客の知性だとか胆力だとか判断力に対する期待が大きすぎるっていうか、有り体にいって「買いかぶりすぎ」なんじゃないかとも思う。
映画のなかで、
奥さんのお母さんが勝手に帰っちゃうシーンとか、
りんごを埋めて回る少女のシーンとか、
ラストの現代のアウシュビッツを挟むギミックとか、
ホントになんの説明もなしにやってくるの、
けっこうふつうにわかりにくいよね(笑)。
もっとあざとく仕上げたら(たとえばドイツ人一家とユダヤの悲劇をあからさまに対比させるみたいなダッサい演出をするとか)作品の出来はたしかに劣化するだろうけど、少なくとももう少し「わかりやすく伝わる映画」になったとは思うんだよね。
でもこの監督は、意地でもこのミニマルな作り方は変えないぞっていうか。
客に忖度してわかりやすくすることで、べちゃっとさせることだけは絶対しないぞっていうか。
100%観客を信頼して、こういうつくりで押し通してもわかってもらえると信じてつくることが俺たちの矜持だっていうか。
その意味で、この映画の制作陣は「含羞」のとても強い人達だと思うし、ストイックなまでに「劇的な演出」を避けて通っているのは立派といえば立派だ。
ただ、それはそれで構わないけど、個人的には「いや、俺そこまで賢くないし、そこまで能動的に映画観てるわけじゃないからw」って気分にちょっとなったのでした。
― ― ―
狂気の大殺戮と、塀一枚で隔てられた平和な一家の生活。
この映画には、いくつもの「ほのめかし」がある。
たとえば、庭園の花壇で、美しい花々の間にはびこる雑草を処分する奥さんとか。
あるいは、焼却炉の灰で汚れた身体と風呂桶を必死で洗いまくる家族とメイドとか。
それから、ナチスの会議施設のホール一面に飾られた鹿の角(トロフィー)とか。
ほかにも、兄弟げんかが高じて、お兄ちゃんが弟を温室に閉じ込めるお仕置きとか。
これらは全て、ナチス側の平穏な生活に滲み出した、残虐性と民族浄化のメタファーだ。
●まず彼らにとって、ユダヤは「間引くべき雑草」であり「庭を乱す夾雑物」に過ぎない。
あるいは、「消し去るべきしみ」であり「洗い流すべき汚れ」のようなものだ。
ナチスによる民族浄化のキモは、「浄化」の部分だ。
彼らは納得のいかないものを除去し、一掃し、「きれいにしよう」とした。
ナチスの根本にあったのは、正義に反する曖昧さへの忌避感であり、統制のとれた美しき世界への憧れであり、穢れたものへの徹底した嫌悪であった。
(この正義と清浄にまつわる凝り固まった「理念」が暴走する図式こそが「国家社会主義」の本質であり、のちの中国やソヴィエトの共産党による辺境民族浄化にもつながってゆく。われわれは正義の執行にこそ最大の悪がひそんでいることを常に認識し、警戒する必要がある。)
それはすなわち「掃除=浄化」の思想であり、本作のなかで繰り返される様々な「掃除」のシーンは、まさにナチスの思想と通底した営みとして挿入されている。
われわれは、この映画で「掃除」する人々、庭を「整備」する人々を見るたびに、壁の向こうで執り行われている狂気も「同じ感覚」で成されている事実を噛みしめねばならない。
ラストのアウシュビッツ記念館で、清掃員たちがルーティンワークとして清掃にはげむシーンもまた、痛烈な皮肉として機能している。メカニカルに展開された「浄化」の理念の恐ろしさを伝えるための負の殿堂で、「浄化」が大切な朝の行事として粛々と繰り返されているという、ある種の笑い話である。
●もちろん、ナチスの党員たちにとっても、塀の向こうで行われている虐殺は、ことさら意識上に上らせたいものではない。
あくまで、職務として、成果として、数字として認識することで、なんとか精神的に折り合いをつけているのが実情だ。
だから今、目の前で起きている(それどころか思い切り自分たちもコミットしている)地獄のような加害行為から、目を背けること、意識しないこと、理屈を先に立てて道義的に納得することが彼らにとっては重要になってくる。
そこで、アウシュビッツから流れてきた焼却炉の灰などが身についたら、それこそ猛烈にヤバいわけだ。
それはナチスにとって、目を背けてきた現実の薄汚い実体化であり、遠ざけてきた隔離領域から越境してきた汚染物質であり、その素材がユダヤ人ということでも、三重に「穢れ」として祓わねばならない「特級呪物」だからだ。
●隣の塀越しに聞こえてくる「音」もまた、なるべくなら意識上には上らせたくないものだ。日夜途切れない悲鳴と怒鳴り声と銃声。結局、日中あれだけ庭や内装を褒めていた妻ヘートヴィヒのお母さんは、夜の暗闇にしじまから響く殺戮と怨嗟のうなりに耐え切れず、未明に一人帰ってしまう。置き手紙を読んだヘートヴィヒは怒り狂う。実母によって彼女の築いた「楽園」が全否定されたのだ。それはムカつくだろう。
ただ、ヘートヴィヒを擁護するわけではないが、人間、不愉快な音というのは脳内でオミットするように生来的に出来ているのも事実だ。かつて僕は明治通り沿いのマンションの5階に住んでいたことがある。引っ越し当初、外から鳴り響く車の走る騒音を聴いて、このなかで寝つくのはなかなか大変だなと思ったものだ。しかし、ものの2週間くらいで、見事にその騒音は「聴こえなくなった」。外でいくら車の騒音がしても、全く気にならなくなったのだ。人間は、不快な音を「慣れ」によって克服するよう、もとよりプログラムされている。このことを僕は自らの身体で思い知った。
ルドルフとヘートヴィヒも、単純に「鈍感力」によってユダヤ人虐殺と断末魔の叫びを無視しているというよりは、生理的に本当にもう「聴こえなくなっている」のだと思う。
だが、慣れていないヘートヴィヒのお母さんにとっては、まさにそれは地獄からの怨嗟の合唱に聴こえただろう。そして、そのなかで阿鼻叫喚を屁とも思わず「楽園を満喫」している娘夫婦の「異常性」に惧れを抱いたはずだ。置き手紙から漏れ出ていたのは、そういう二人の有り様への疑義――地獄の獄卒となり果てた二人への恐怖の想いではなかったか。
●ナチスにとっての東方戦線は、侵略行為というよりはフロンティアの拡大であった。
ポーランドの地の征服は、ゲルマンによる辺境の教化であり、ユダヤもまた「狩り」の対象だった。彼らは何よりも、「征服者」であり「開拓者」だった。その感覚は、おそらく南米を目指したピサロ、コルテスらコンキスタドールたちや、北米でインディアンを狩って領土を拡大したアメリカ人たちとそう大きくは変わらない。単純に「白人×白人」という部分の「共食い」感と、規模の異常性が歴史上で際立っているだけである。
その意味で、壁中に飾られたトロフィー(狩りの戦利品)は、ナチスの高揚した当時の心性を視覚的に象徴している。彼らにとって、ユダヤ狩りはまさしく「壁に飾られるべき誇らしき戦果」であった。
●日々の生活において、隣にあるアウシュビッツ収容所の存在は、その地獄からは距離を置いているかに見えるルドルフ・ヘスの邸宅においても、あちこちで影響力を及ぼしているはずだ。
奥さんが手に入れている高級な衣服や装飾具は、収容所のユダヤ人たちからの簒奪品だし、召使いの出入りもある。さらには、アウシュビッツで恒常化している残虐行為は、思考のルーティンとして「日常化」し、日々の行動様式にしみ込んできている。
召使いに「夫にいって灰にしてやる」と言い放つ妻。召使いを性的な慰みものとして平然と消費する夫。差別と虐待の日常化は、もちろんながら純真な子供たちをも汚染してゆく。兄弟二人が遊びのなかで見せる「閉じ込める」ことの罰としての有効性の認識は、まさにその文脈でこそとらえるべきものだろう。
さまざまな「ほのめかし」の先に見えて来るのは、この物語が「幸福な家族の日常とちょっとした諍いとその解決を描いた、ハッピーエンドのこぢんまりとしたホームドラマ」として完結しているがゆえに、実は「悪夢のような状況下で平然と生きる加害者たちの鈍感さと無関心を描いた究極のホラー」でもあり得るという、極限の二重性を目指しているということだ。
地獄のただなかで獄卒たちが演じる、フランク・キャプラのような世界。
ただし、最初に述べた通り、その恐ろしさや狂気の深さを心底から体感するためには、「観る側」の積極的な思考と映画へのコミットメントが必要となってくる。
僕には、そこまでの胆力がなかった。何も起きないこと、誰にも感情移入できないことへの耐性が低すぎた。だから、あんまり面白くは観られなかった。まあ、そういうことだろう。
― ― ―
本作で描かれる「加害者側の感性の恐るべき鈍麻・鈍感化」「半径10mの幸せによって見えなくなる周辺の地獄」「国家の名の下ではごく普通の人間が殺戮行為に加担できる事実」といったテーマは、そのまま現代のロシアによるウクライナ侵攻や、中国によるウイグル自治区の浄化政策、イスラエルによるガザ&ハマス制圧作戦などにも通底する。
特に、自国民ですら消費される数値としてしか認識せず、数十万単位での人的犠牲を出して恬として恥じるところのないロシアのやり口は、本作で描かれたナチスとそう変わらない。
そしてもちろん、本作はそれらの殺戮行為をデータと情報という形でしか認識し得ず、対岸の火事として幸せな毎日を送る日本人への痛烈な警告でもある。
「関心領域」の域内での「コップのなかの失楽」にかまけているうちに、われわれもまた「ゆでガエル」になっていないか?
相手の悪に対して鈍感になっていないか?
自分の悪に対して無自覚になっていないか?
これはルドルフ・ヘス一家の在り方に恐怖する映画ではない。
自らもまたルドルフ・ヘス一家のようになり得る、という事実に恐怖する映画なのだ。
その他、「楽園」と「地獄」と「リンゴ」のキリスト教的な三題噺とか、『落下の解剖学』のザンドラ・ヒュラーの抑制的演技とかも語りたいところだが、紙幅が尽きたのでこの辺で(笑)。
映像と音楽は素晴らしかったけどストーリーがイマヒトツって感じの作品。 本年度ベスト級。
アカデミー音響賞は納得!
それ以外の受賞が疑問。
そして評価が高いのにも疑問(笑)
自分だけ取り残された感じ。
何が良いのかさっぱり解らなかった。
本作のテーマで多くの賞が受賞出来た感じだった。
音楽(音響)は良かった!
でも、たまに雑音みたいな演出はなんだったのか?
左右対象の美しい構図の映像が印象に残る。
でもそのシーンに何の意味があったのか?
単なる美しい映像を撮したかったのか?
左右非対称の構図も散見。
これは天国と地獄を表現した感じに思えたのは考え過ぎなのか?
謎に包まれた感じ(笑)
ドイツの収容所に隣接した家に住む収容所の所長、ルドルフをメインにしたストーリー。
豪華な家は軍の寮かと思ったら買い家だったのね(笑)
特別幸せな家族と言う訳でも無かった感じだけど住人が多過ぎ。
誰が誰なのかさっぱり解らない(笑)
犬にかまう人が誰一人いない(笑)
収容所から聞こえる銃声や悲鳴が聞こえるけど収容所の中の映像は殆ど無し。
観客に中で何が起きているのか想像させる感じ。
ルドルフと妻はそんなに仲が良い感じもしなかった。
特別、何か起こる事もなくあっさりと上映終了に疑問だけが残った感じ。
ラストで、ある施設の映像で収容所で起きた事を連想させられるシーンには考えさせられた。
新しい焼却炉の提案内容がエグい事を思い出すシーンだった。
現時点で考察サイトで復習する気もありません( ´∀`)
ユダヤ人ホロコーストの新しい見方
音で訴える戦争の恐怖!アウシュヴィッツ強制収容所 初代所長の話。
人は見掛けの第一印象で決まるって言うけども
人ってパッと見ただけでは判らんよね。そう思ったわ。
今日は「関心領域」の鑑賞です。
まぁ、この映画。開始早々いきなりブラック画面で音だけ鳴ってて、
ちょっとぉ(=_=) スタッフ~ 上映トラブルじゃんwって マジで言いそうに鳴ったんだわさ~。
なんだ このホームム-ビ-的な展開は?
音だけ随分と喧しくって・・・暴走族?喧嘩?抗争? 時折”パン”って鳴ってる。
テッキリ言葉は英語じゃないけど NYの街並の音なのかと 思ってた位。
やがて・・・この豪邸的な家が 誰の家で、そして どこに建てられているかが判ってくる。 ココに住む家族って 誰なのかが判ってくるとき
観ている側は ゾッとするだろう。きっと。
そう この如何にも堅物で真面目そうで 一見優しそう、でも 何処となく心が無くて、気が弱そうで、そして冷酷!!
そう、初代 アウシュヴィッツ強制収容所の所長となる男と その家族である。
邸宅は 驚きの強制収容所の隣に建っているのだ。
そういや 向こう側に監視塔が見えてるな。なんちゅうロケ-ション。
職場まで徒歩1分の物件ってか。
監視体制に不備があっては成らんし、スグに対処指揮も要るだろう。
上官たる者、危機意識から 近くに住むのが適切。 そんな考えなのだろうか。
窓の白いカ-テンの 遠い向こうに壁があって、その壁の向こうに 高いレンガ屋根が見える。 強制収容所なのだな。 オイオイって思うわさ。
それで ずっと聞こえてくる雑音の正体が何かが判明。
リアルな音入れには 流石と思うけど、ゾッとする思いの方が強い。
アカデミ-賞で国際長編映画賞・音響賞を受賞しているのも頷けるね。
(MC)
ルドルフ・ヘス (監視所長)役:クリスティアン・フリーデルさん
ヘートヴィヒ・ヘス(妻)役:ザンドラ・ヒュラーさん
この戦争の最中で、この住まい豪邸に驚く訪問者。
食べ物を収容所の人々が強制労働中に見つけられる様に
あちこちに隠す娘の勇気ある行動に胸を打ちます。
この場面は特に強調した色合いで描かれていて その点がgood。
それに比べ、夫の転勤命令に、この邸宅から絶対引っ越したくない妻。
この ”私は悪くは無いんだもーん”的な意識が見え隠れしてきて腹立たしい思い。
川で人の死骸の一部?が釣り糸にかかり、急いで子供達を船に上げ
帰宅後 必死に全身を洗い清める家族達。
川にガス室で使われているチクロンでも汚染していたのだろうか。
この場面は怖い物を感じるわ。
最後に主が階段部で嘔吐く場面があって、この時 現在の収容所実態を残している保管施設展示場がダブって入ってたと思う。
もうちょっと 色調を変えないと分かりずれ-よと感じた次第。
私的には色々と勉強にな成りましたね。
ご興味ある方は
劇場へ どうぞ!
静かな恐怖
これは
無関心はいづれ己に返る
*ある画家の数奇な運命
*ヒトラーのための虐殺会議
この2つを観るとすぐ理解できる
アウシュビッツの施設の隣に居を構える家族の幸せな暮らし
同居に呼び寄せた祖母が逃げだす
洗面所で吐き出した灰等恐ろしいシーンがある
淡々と対応するが、突き出した銃はいづれ味方へと向かうのだ
気を付けてほしい
駄作of駄作
不思議な映画だった
製作者の意図としてはある家族が幸せな生活を送る裏で戦争中の暗い影が同時進行しているという感じのストーリー
オープニングから変わっていて、映画館に異常が発生したかと思った
重かった……
あらすじ
栄転したために、かぞくと離れ単身赴任していたルドルフは、ある大きなプロジェクトを任され、その結果家族と再びともに暮らせることとなり、喜びのあまり深夜にもかかわらず妻に電話をするのであった
感想
もう、あらすじ通りのお話。重かった
映画をあまり見ない人が話題になっているからといって、見に行くと痛い目にあうので注意してください。何も起こらないのに重苦しい感じがずっとする映画ですので
人間って恐ろしい
ずっと流れる重低音。
境界線は無い
無関心の悪魔から誕生したもう一つ悪魔と言えば良い
1.女の主人公は自然な姿で傭人に服を選ばせる。それらの服は全部ユダヤ人のラーゲルからもらった服だ。
2.女の主人公は一人で部屋に着てみる値段高い服もユダヤ人のラーゲルからもらって昔買えない服そうだ。中の口紅も奪った。軍官も奪われたお金を数えるシーンがある。つまり、戦争から立場や階級が変わってしまった。
3.ナチスの軍官達はラーゲルの焼却炉の効率的に上がる方法について話し合うシーンで、唯建築の改良のような感じが有り、そういう人の命の無関心は本当に悪魔みたい。会議室のシーンも同じ感じがある。
4.軍官は自分の家族の家が楽園の様に作ったがラーゲルの方は地獄みたいに煙が出る。そしてユダヤ人を殺害するシーンは具体的に描いてないがその悲鳴と軍官の無関心に比べると恐ろしかった。更に、ラーゲルと楽園の中の植物に分けられてその二つ世界がもっと具体的に感じさせた。骨灰を餌として撒くのも恐ろしかった。
5.軍官と自分の子供が遊んでいるシーンでユダヤ人の骨が見つけた。そして逃げて汚い物の様で繰り返して洗っていた。ユダヤ人の殺害はハキハキな状態のだ。傭人に叱れる時も「君の旦那の骨灰を田野に撒く」という様なセリフを言った。つまり、自分の旦那の仕事がわからないはずがない。
6.女の主人公の母からお見合いのシーンで最初は自慢する状態だが、その煙や人の悲鳴で一人で離れた。手紙で何が書いたか撮ってないけど内容は大体わかる。主人公の花も冷然で主人公みたいな無関心だと思う。
7.主人公の子供達がラーゲルの様な毒気がある部屋に囲まれることを真似して、親の無関心も子供達に影響された。
最後のシーンは一番良いと思って軍官は良知を回復する解説もあるが私は彼がもう自分の間違い信仰心に落ち込むと思う。
間違い道に行き続けるのは今のユダヤ人の深刻な問題に過ぎない。イスラエルも被害者から道を思考せずに加害者の様な無意味な戦争することではないでしょうか。
映画は良い映画だが、今の立場から連想すると共感できなくなってしまった。
音とさりげない映像で想像できる大犯罪
説明が少ないので、ある程度基礎知識が必要と聞いていたが、主人公が親衛隊の制服を着ており、豪邸に隣接する壁の向こうからは絶えず銃声や悲鳴が聞こえて煙突からはモクモクと煙が立ち上り、しばらくするとアウシュビッツの単語も出てくるので、ナチス強制収容所所長の家族の映画ということは、まあ誰でも分かると思う。
所長の名前があのルドルフ・ヘスというから、架空の人物かと思ったら、たまたま同名で実在の人物だったとは知らんかった。実際、かなり綿密な調査に基づいて制作されたらしいです。
劇中に出てくる「カナダ」の意味がわからなかったが、ユダヤ人から強奪した物品をドイツ人に配布すべく仕分けしていた部隊名がカナダと呼ばれていたのも見終わってから知った。
引きの映像で家族の暮らしぶりや官僚的な仕事ぶりを淡々と描きつつ、当然のように強奪品を品定めしたり、焼却した遺灰を肥料にしたり、たまにゲっとする描写が放り込まれる。
しかし、直接描写はなくて、不気味な音響とちょっとした映像でほのめかされるので、大音量の映画館で体感してほしいですね。
イメージしてしまう自分が怖い
兵隊なんで、命令だから仕方ない。
しかし、家族はどう思ったか
しかも戦後 主人公は、死刑になったらしいが
あの赤ちゃんや奥さんは?
真面目なドイツ人なんだろね。
ちゃんと拭き拭きしてたのが
笑うわ!
アンダースキンの音楽ぽいのが不気味だ!
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