関心領域のレビュー・感想・評価
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ニワカには辛すぎる平凡な日常
アカデミー賞などで騒がれていたのにシネコンであまり上映しないのが気になっていたが、ホントの映画好きにしか分からない作品だと思う。ぼくの解釈としては、この家族と同じように平和な空間にいると、それを維持するために音を遮断してしまうのが怖い、ということなのかなと思う。ところどころ入るこの映画の肝の音と何もない映像は、騒がしい映画館とは合わない。
壁のこちら側にいるのは私達だ。壁の向こう側にいるのも私達だ。
ルドルフ・フェルディナント・ヘスは結局、終戦までアウシュビッツ収容所長の任にあった。1947年、絞首刑。(ナチ副総統のルドルフ・ヘスとは別人。そちらは長生きした)家族がどうなったかわからないが生きながらえたとしても日陰の人生だったろう。
もちろんこの映画はヘス一家を糾弾するものではない。彼らの映像は多くは長距離もしくは中距離のカメラで撮影されアップのシーンはほとんどない。妻のヘートヴィヒは上昇志向が強く、またサンドラ・ヒュラーが憎々しく演じているのでやや負の感情移入をしてしまうが、壁のこちら側が彼らである必要はない。個人の人格は関係ないのである。収容所長なんて中間管理職だから生産性が低ければすぐクビを切られる(現にヘスの後任者はすぐ更迭されヘスが再任することとなった)だから誰でも同じだったという一般性を持たせるためにそのような撮影方法、演出をしているのである。
壁の向こう側は、一方的に虐殺される人生。
壁のこちら側は、殺すことと死体を処理する効率をもとめられ、殺した成績によって出世と豊かな生活を与えられる人生。殺される側への思いは全くない。
この見事なまでの非対称性が人間の歴史でありひょっとしたら本質なんですよと本作は静かに語る。
なんて不気味な…こんな表現は赦されますか
煙突からもくもくと流れ出る黒い煙、どこからともなく聞こえる小さな呻き声と悲鳴、不協和音。そして壁のこちら側にはドイツの幸せそうな家族が。可愛い子供たち、手入れされた庭には綺麗な花が咲き乱れ、小さなプールまである。そんな収容所の所長の邸宅には友達も集まり、楽しそうな語らいと笑顔。壁の中の人たちから没収した服やら装飾品やらの品定めまで行われる。お気に入りを手に入れようと物色する妻やその友人たちの楽し気な様子。彼女にとって、ここは絵に描いたような幸せを実現する夢の邸宅なのだ。壁の向こうで何が行われているのか、少なくとも彼女は詳しいことは知らないんだと僕は思っていた。
収容所の所長のいかに効率良く塀の中の人たちを処分していくのかという同僚と交わされる仕事の話と、それが認められて収納所の所長という立場から栄転することになるという自慢話がなされる。そして妻は何もかも知っているのだということがわかるにつれ、この映画の不気味さ、恐ろしさは最高潮に達する。この妻はこの壁の隣の邸宅を心の底から気に入っていて夫の栄転と共に出ていかなくては行けないという事態に酷く動揺し、挙げ句にそれを拒否してしまう。夢の邸宅に彼女はしがみつく。夫の仕事での有能さが認められたのか、妻の願いは叶えられる。夫は単身赴任となり、妻の幸せは続行する。
最後に、映像には、壁の向こう側で処分された人たちの夥しい数の靴の山が写し出される。そしてどこからともなく聞こえてくる不気味な不協和音でこの映画は終わる。
冒頭から凝ってます!不気味すぎて固まってしまいました。 これは収容...
冒頭から凝ってます!不気味すぎて固まってしまいました。
これは収容所の歴史をある程度理解して観ないと、きっとクエスチョンが多くなる作品だと思います。
あとは、少しでも興味ある方は映画館で観ましょう
「音」 が主役です。しっかり集中、耳を澄ませば悍ましい光景が脳裏をよぎる作品、ある意味ホントにすごい!でも2度目は無いかな、重いです。
りんごの少女?は親切心で置いたのだろうか?
私はそんな少しじゃ奪い合いになるよと思ったらやっぱりそうなってしまって結果バッドエンド…。
ゲーム感覚で置いたのならそれはそれで恐ろしい。
遊びに来たお母さんはやはりあの煙が嫌だったのか?
どう評価すれば良いのか
公開前からとても期待していた作品。A24やから、大丈夫かなと思いながら鑑賞。
劇的な展開を求める人には全く向かない作品。アウシュビッツ収容所の隣で住む家族の日常を淡々と描いている。何が起こるというわけでもないのでほんま、ただそれだけといえなくもない。
家族団欒したり、子どもたちは外で遊んだり、夫の転勤を嘆いたり…普通の家族の日常ではあるがその隣ではたくさんの人間が虐殺されているという事実。どうしてあそこにこだわるのか、同じ人間とは思っていないのか思わないようにしているのかその主人公たちの心情を考えるとそれも恐ろしい。
境界
77本目。
ナチスとなると、見たくないシーンがあったりもするけど、それがないだけ救いなのかも知れない。
でもそれが無関心って事なんだろうけど、臭いものには蓋をしろと言うふうにも、受け止められる。
日常に近い感じの演出だから、余計そう思ってしまう。
でも、始まった時からの間が、ちょっと自分にには、苦手と思ってしまってる。
確実に寝ます
ドイツ第二次大戦中のまあまあ偉い将校家庭の生活をそのままずっと見せられます。鉄砲の音?とか微妙な叫び声?とかは時折聞こえますけど、そこからユダヤ人が虐殺されてる横で、よくもまあのうのうと暮らせるなと怒りやら恐怖を感じるって、どんだけ感情豊かなのよと思う。普通の人は寝ます。それがこの映画の怖さであることを、最後あたり、アウシュビッツ資料館を淡々と掃除するおばさん達の映像が挟まれるところで気付かされます。自分自身がもつ慣れの愚かさや怖さ。クレジット中流れる音楽、これ、人の叫び声のサンプリングだけで作られてます?映画見て寝るとこまで計算されてるという稀有な作品。見るべし。
長い余韻
鑑賞中は淡々と外国のホームドラマを観ている感覚だが、気が抜けないと思わせる何かがスクリーンの中に常にあった。
観終わった直後は、消化しきれない部分もある中、何か重いものを託された感じ。
今までない余韻があり、鑑賞翌日も頭の中に託された重いものが残っていて、自宅の塀を隔てた向こうに同じ施設があったら自分はどうするとつい想像してしまう。
少しだけ自分の想像範囲(関心領域)が広がったような気がする。
但し、関心領域を広げることによる副作用もあるのでは…あまりにも共感しすぎることは自分自身を知らず知らずに傷つけることになるかもしれない。現代社会では時として適度な鈍感力も必要なのではと思う。
どう思えばいいのか、を問う
とにかく徹底して強制収容所の隣の家に住む家族の話。
ただ、BGMが人の悲鳴・銃声・叫び声・人を焼く音。効果音はあるけど音楽は無く、ひたすら人が死んでいく声や音が響き渡る。
起こっているのは「基本的に」ホームドラマです。両親がいて子供がいて、お父さんが転勤になってお母さんがそれに反発する、子供とお父さんがボートで遊ぶ、とか。ただ、その夫婦喧嘩に出てくるのがヒトラーとかヒムラーとかナチスの人間の名前ですが。
異常な環境にあって人がまともでいられるはずはなく、お手伝いさんはアル中だしおばあちゃんは荷物を持って逃げ出します。そして、あのラスト。
どこまでも観る人間の想像力を試す映画です。登場人物から一歩引いたカメラワークは「撮っている」というより「観察している」という印象だった。監督のインタビューで事実を描写することに注力した、という言葉があったが事に納得した。確かに家族の話だけど家族の心情とか行動に寄った所が全くない。「こうだったけど、あなたはどう思う?」という投げかけ型の映画の極致だと思う。
あと、冒頭数分間が音だけで映像が真っ暗だったので映写事故か? と昔映画館でバイトしていた経験からハラハラしてしまった。個人的にはあの演出は「この映画は音にもメッセージがある」という意味だと解釈した。
隣のお客さんが開始早々に眠っていた。まあ、こういう姿も映画のメッセージの一つなのかな。
他人事と思えてしまう怖さ
予告編を観て、何となく「観なくてはいけない」という感じがして観賞。
【物語】
舞台は1945年のポーランド、アウシュビッツ。
ナチスドイツの強制収容所に隣接する住宅には所長を務めるルドルフ・ヘス(クリスティアン・フリーデル)の家族が暮らしていた。妻のヘドウィグ(ザンドラ・ヒュラー)や子供達は収容所と壁を隔てたすぐ隣で物質的にも恵まれ、満ち足りた日常を送っているのだった。
【感想】
上述したあらすじがネタバレになってしまうような作品。
となりの家の生活が淡々と描かれるのみ。
予告編からある程度は想像できたが、思った以上にそれだけだった。あまりに淡々と描かれているので俺は正直退屈してしまった。加えて描いていることは重いから、気分は晴れない。さらに冒頭長い時間(恐らく1分くらい?)真っ黒なスクリーンに不快なおとだけが流れる、みたいな不穏さを煽る演出もあり、段々観続けることが苦痛になってしまった。
残念ながら、俺は期待したような“響き”をビンビン味わうことはできなかった。ただそれでも、何も感じなかったわけではないので少しだけ書いてみる。
予告編から想像していたことと違ったことが1つ。強制収容所のとなりで何食わぬ顔で暮らしていた家族はとなりで何が行われているか知らない人々なのだと思っていた。タイトルは知ろうともしない人の無関心さを問うているのかと。が、そうではなく収容所の所長の家族だった。と言うことは、子供はともかく、妻はとなりで何が行われているか、夫のミッションは何なのか聞いていたはず。 それで平然と暮らせるどころか、妻は引っ越すことを拒むほどそこでの暮らしに“幸せ”を感じているとは・・・
夫の所長もヒットラーの命令でしているとは言え、平気な顔をして妻子と接し、そこに葛藤等は見られない。ナチス関係者(幹部?)が所長宅を訪れて収容所施設改修計画の話をする場面もあるのだが、そこでも彼らに‟苦渋”は見られない。 あたかも工場設備の画期的改良を上司に提案をしているかのように、誇らしく、あるいは“喜々として”説明している。
人は他人の不幸にここまで無関心、他人事でいられるのか・・・
あるいは麻痺してしまっているのか。
ここまで行くと、ホラー以上に怖い。
ドキュメンタリーではなく、原作は小説らしいので、実際の所長家族がどう暮らしていたかは分からないが、現実がこれに近かったのなら本当に恐ろしい。所長家族が極悪人ということではなく、人間はある状況下に置かれればこうなれてしまうことが。
また、観終わって自分に残念に思ったことがひとつ。演出・表現を十分受け取るには、自分がこの強制収容所に関する知識が乏しいことだ。もちろんアウシュビッツを知らないわけではないが、知っているはここで多くのユダヤ人が殺されたという漠然とした事実のみ。所長家族の生活描写の背景には収容所から聞こえて来る音や、塀の向こうに立ち上る煙などが常に挿入されているのだが、強制収容所で何がどのような手段で行われたことをもっと詳細に、具体的に知っていたら、音や映像ひとつひとつがもっと胸に刺さり続け、退屈することは無かったのかも知れない。
鑑賞動機:音響賞9割、とてもイヤな話らしい1割
あらすじだけみると、そんな音響に特徴出せるような話に思えない。それにもかかわらずオスカー取ってるということは、よっぽど何かやらかしているのでは。ということで通常座らない劇場中心付近で『クワイアット・プレイス Day 1』の予告を見つつ、無音待機。
最初からそれ? 真っ黒な画面は誰か(死体とか)の視点かと身構えたが、「よーく聞いててね」ということなのね。
通常場面ではBGMはほぼ無いので、一家の団欒の裏であんな音こんな音がよく聞こえる。そしてそれがすでに環境音のようになっていて、むしろここにいたいとさえ思うようになっていること、その事が恐ろしい。母親は耐えられなくなって出ていった…ということか。
映像は、配置された固定カメラを切り替えるような場面が多い。基本的に一家の日常なのでのどか(おい)で単調にも思える。そんな日常風景として服(下着?)やブーツや歯やリンゴやお金や川の変色とか、意味がわかると怖いネタが大量に投入されてて、集中して観るほどダメージを受けるという。最後の現代場面の靴でダメ押しされる。
ああ、この人『落下の解剖学』の人だった。
赤ちゃんの呻き声
う、ウソだろ...。酷い、酷すぎるぞ...。
何故、こんな映画がアカデミー国際長編映画賞を受賞してしまったのだろうか。何故、「PERFECT DAYS」はこの映画に賞を譲ってしまったのか。国際長編映画賞の座を返してくれよ。どうかしてるぞ全く...。
これまでにない、斬新なテーマ。それが、この映画の賞賛に値する、唯一の要素。とある家族は、平和な日々を送っていた。アウシュヴィッツ収容所の隣で。。。もう、予告で全てが完結している。なんなら予告の方が面白い。ハッキリ言う。こんなのは映画じゃない。
私たち観客は、何も印象画コンテストを見に来たんじゃない。当たり前だが、映画を見に来たんだ。それなのに、面白いとも楽しいとも、悲しいとも辛いとも、1ミリたりとも感情も湧き上がってこない。銃声や悲鳴じゃ物足りなくなったのか、不気味な音を付け加えまくる始末。そんなことをしてしまったら、事実をねじ曲げていることになる。これではホンモノの恐怖では無い。リアリティなんか無くなってしまう。雰囲気だけいっちょ前にしても、心は何も動かされない。この視点でアウシュヴィッツ収容所を描くのであれば、演出を加えてはいけないでしょ??
ストーリーなんてあってないようなもの。映画を作るなら、奇を衒うことよりも面白いと思わせることが先じゃないの?冒頭の上映機器の故障を疑ってしまうほど長い黒幕、ラストの訳の分からない清掃シーン。もう、斬新さだけじゃん。意外性だけじゃん。いい加減、観客に全てを投げかけるのやめようや。アカデミー賞、やっぱり無理だ。。。
地続き。
疲労感を抱えたまま鑑賞したのもあり、少し眠ってしまった。
アウシュビッツを支えた職員(所長?)とその家族の日常。我々の日常生活が、日々大きな波もなく過ぎ去り、繰り返されるのと同じく。彼らの日常もまた、明日も明後日も同じように繰り返され積み重なっていく。
与えられた職責を全うし、その仕事ぶりは讃えられ、羨望の的ですらある。その対価たる報酬で支えられている家族や使用人たちの暮らし。
我々の多くも彼と同じく勤め人であり、その組織や社会の求めていること、需要に応じて、日々職務をこなしている訳だけれど。振り返ったときに、実は倫理的、職責的に許されないものとして、後年批判の対象となることもあるのだ。2024年の今年だと小林製薬の赤麹とか、正月の海上保安庁航空機の事故とか。職務をただただ真面目にこなしているだけなのに、批判されうる可能性は誰にでもある。ミスも含めて。
自分が常に正しい道を歩けているとは限らない。そもそも正しさなんて、時や所が変われば基準も変わる。仮に今中国が台湾を飲み込んだとして、我々にできることはあるのか。本当のところなす術もなく時が流れていくだけなのでは、等思うのだ。
ラストは今のアウシュビッツ。今現在の物事の審判は、歴史が下してくれるし、時間のみが全ての人に公平なものとして存在している。そういうことなのか?
事実を淡々と
とても幸せに暮らすあるドイツ人家族の平凡な話。ただし隣にはアウシュビッツ収容所。
銃声や何かが焼かれているであろう煙突の煙などとても恐ろしいことが起きているのでしょうが悲惨なシーンは作中には出てきません。定点カメラであくまで淡々と事実を映して出している手法で目が離せませんでした。
定点カメラの撮影になるから表情が見にくく惜しいようなそれだから良かったような?
アパシーがもたらす社会的危機を警告する映画
感想
人道的アパシー(無関心)は誰にでも、いつでも簡単に起こり得るのだと感じた。
我々日本人も全く他人事ではない。我々もいつ陥ってもおかしくない、ファシズムと共通する無関心の心理を客観的視点から警告し、強く戒しめている映画であると感じる。
ドイツ人は勤勉な国民性であると言われている。勤勉家であるが故、ナチス時代の徹底したアーリア人優生主義に基づく、選民思想教育を好意的に受け入れた事により、人道差別心理が強く多数の国民に浸透した。
人間一人一人が自分自身で、現状に対して常に検証や問題意識を少しでも持ち、疑問や問題を提起、発信出来て、かつ民主的に話し合い、解決策を導く事の出来る社会を創っていく事が重要である。複雑と思われがちな人種問題と多様性の問題は人類史レベルに関わる大問題と捉えるべきだと感じた。
ヘスの奥さんの考え方と行動が超胸くそ悪かった。壁一つ隔てた場所がアウシュビッツと思っただけで頭痛がした。
やはりA24が制作に関わると一筋縄ではいかない、強いインパクトを持った内容の映画が多いように感じる。
脚本・演出◎
ドキュメントタッチで最後まで続くと思いきや最後の階段の場面は現代とのシンクロもあり、ブラックなユーモアを感じた。場面転換の色については意味があるのだろう。自分はよくわからなかった。
効果音はリアルで、
劇中の何気ない生活の場面でも、音は散発的に聞こえる銃と思われる発射音や、ザワザワとした雑踏音、騒音が小さく流れており、夜、建物の2階から見れる焼却施設と思われる建物から出ている炎と煙。毎日定期的に壁の向こうに見える蒸気機関車のものと思われる煙、時代が経過してくると、昼間でも煙が上がるのを目視出来た。川では焼却後のガスの毒着きの灰が流されるなど、想像出来得る迫害の状況はビシビシと感じる。◎
音楽も転調に次ぐ転調で不安定な気持ちを唆り気持ち悪い印象に拍車をかけていた。◎
恥ずかしながら、正直に言うと映画の途中、あまりにもヘスの家族の会話と行動が普通すぎの描写のため、自分の頭が無関心領域を作り出して寝落ちした。それではいけないのだと!、途中から再度戒めモードを徹底させて現代のアウシュビッツの展示室の掃除の場面まではなんとか鑑賞した。
自分も口程にないアパシー野郎なのだと猛反省した。
⭐️4
音響がオスカーとったけど、撮影も素晴らしいなと思って見惚れてたら撮...
音響がオスカーとったけど、撮影も素晴らしいなと思って見惚れてたら撮影監督が『COLD WAR あの歌、2つの心』のウカシュ・ジャルということで納得。ホイテ・ヴァン・ホイテマの受賞はしょうがないとしても撮影賞ノミネートされてないのは如何なものかと思う。
戦争虐殺に無関心な俺ら
アカデミー賞で録音賞、国際長編映画賞を獲得したジョナサン・グレイザー監督の「関心領域」は、独創的な見せ方で観客を引き込みながらこちらを指さし、ドスンと重いメッセージを突きつけてくる作品であった。
独創的な見せ方というのは、なにも画角や構図のみにならず、ストーリーについてもそうである。なにせこの映画はルドルフ・ヘス一家のホームドラマを淡々と流すのみという構成であり、いわゆる人間ドラマがないのである。もちろん印象的な場所や人間、展開が随所に散りばめられるため1時間半ずっと退屈という訳では無いのだが、ドラマがない以上「つまらない映画」と言われても仕方ないのである。
ではなぜドラマのない「関心領域」が評価されているのか。それは、本作はアカデミー録音賞を受賞しているだけあって、他ならず「音」の使い方が凄まじいからであろう。日本ではこの映画のあらすじを知ってから見に行く人が大半ではあると思うが、一応あらすじを書くと、ルドルフ・ヘスはアウシュヴィッツ収容所の横に住んでおり、ホームドラマが映し出される後ろで人間の断末魔や銃声が絶え間なく聞こえてくる、という映画である。もちろん映画館等の音響が良い環境でないとディテールは分かりにくくなって来るのでぜひ映画館での鑑賞をおすすめしたい。このホームドラマの音と収容所で起きている音の二重性と言おうか、日常に溶け込んでいる環境音としての人間の死にゆく音がとても気持ち悪く不気味なのである。そんな中ルドルフ・ヘス一家はその音を聞きながらも普通に生活をし、普通の家族のやり取りをし、揉め合いをし...という風に、この家族も頭がおかしいんじゃないか?なんて気持ち悪い奴らだ!となるのがこの映画を見て思うところである。
この映画で描かれるホームドラマが、他の映画と比べても淡々と描かれていくものだから「単調でつまらない映画」と評価されるのもまたひとつだが、自分的にはホームドラマの中にギョッとするようなカットが挟み込まれるので、映画として印象には残りやすい映画であった。 またこのようなシーンは抽象的というか、十分な物語的説明がなされないシーンであるため、人によって解釈が見た人の議論の的となるのも面白い。
見た全員が違和感を抱くのは、映画中盤に2回ほど出てくる、サーモグラフィーで映し出された少女だろう。彼女は当時のレジスタンスであり、アウシュヴィッツに収容されている人達にリンゴ等を届けていた、ということであるらしいが、いかんせんサーモグラフィーの違和感とボイスオーバーでルドルフ・ヘスが「ヘンゼルとグレーテル」の物語を語っている中で映し出されるので
、寓話的というか夢の中のようというか、現実とは離れたシーンであるかのようなのである。個人的にこのシーンは、「収容所にリンゴを届けるレジスタンス」=「収容所内に関心を寄せ、アンチ収容所的な行動をする人」を描くにあたって、「収容所に全く関心を寄せず平然と暮らす人達」が普通であるこの映画の中では真反対の存在であるからこそ、色が反転するサーモグラフィーで描かれているのではないかと思う。またアンチ収容所的な行動をとるレジスタンスヒーロー性というか幻想性というか、子供に語り継ぐアンチ体制ヒーロー的な話とこの少女を被せて考えることで、「ヘンゼルとグレーテル」を読み聞かせる中でこのシーンが描かれたのだと考えることも出来るだろう。
また様々な考え方が出来るのはやはりラストシーンだろう。ルドルフ・ヘスが階段を降りる途中、彼が異様な嘔吐感を出し始めたと思えば、シーンは現代の収容所に。博物館となった収容所内を黙々と清掃する清掃員が犠牲者の所有物と共に映される。その後またシーンは過去に飛び、それを見たルドルフ・ヘスは一層嘔吐感を覚え、暗闇に消えていく...というものだ。このシーンも特に説明がない上にラストシーンでもあるので観客に変な余韻を残すのである。その上で自分が考えるのは、ルドルフ・ヘスは収容所横での生活を無関心に過ごしているように見えながら、本能では気にしておりその結果あの嘔吐につながったのではないか。というものである。2014年に「アクトオブキリング」という映画があった。インドネシアで起こった虐殺事件を加害者の視点から描いたドキュメンタリーであり、最初は当時のことを自慢げに語る加害者であったが、ドキュメンタリーが進むうちに激しい嘔吐感を覚えていく...という映画である。「関心領域」のラストもまさにそれで、見ないようにしていた大量虐殺に対する自分の加害者性というものを本能的に感じ、体が拒否していたのではないか。またこうしてみると本作で描かれるルドルフ・ヘスは違う部署へ変えようとしていたり、(妻に拒否されるが)日常パートでは笑顔を見せずつねに厳しい顔をしていたりと、本音ではやはりこんな場所での生活が嫌だったのではないか?と見ることもできるのである。そして現代のアウシュヴィッツ収容所のシーンである。当時の痛みを感じることなく、仕事として淡々とアウシュヴィッツで清掃する人達。これは、文字通り仕事として淡々とアウシュヴィッツで働いていたナチスの軍人、ルドルフ・ヘスの境遇と同じとも言えるのである。ホロコーストから半世紀以上経つ現代でもこの事件に関して、ある意味無関心である人がいる。そんな現代をみて、人間というものの気持ち悪さに具合が悪くなり、ルドルフ・ヘスはさらに嘔吐感を覚える、というラストではないだろうか。これは、現代に生きる私たちへの痛烈な批判でもある。実際世界では戦争が起こっていたり、人が虐殺されている中、貴方はきちんと関心を寄せているのかと。この映画に出てきた無関心家族のことを批判できるのか?あなたは「あの家」に住んでいたらどのように生活したのか?というメッセージであるように感じた。
この映画、収容所の中は徹底的に映さないようにしているが、なんとなく連想されるようなシーンが散りばめられているのがなんとも恐ろしい。例えば裸で列になって歩く一家、密室に弟を閉じ込める兄、またパーティシーンがだんだん収容所のように見えてくる演出などが見事である。このようなシーンが挟み込まれることで、常に安全圏でないような感じというか、常に不快感が漂うのがこの映画である。1シーン1シーン細かいところまで読み砕いていくと、もっと恐ろしいことが発見できるかもしれないが、非常に精神と体力を使うので、私のレビューはここまでとする。
ポップコーン売らないでほしい
小説が原作だが、しっかりとしたショットと音響で映画になっている。
環境音が映画のキモになっており、巧みに音響設計されている。それ故、ポップコーンを食べる輩が周りにいると映画の魅力が半減する。このような映画は音響設備のよい劇場で観るべしという人が多いが、まったく逆。自宅で配信をヘッドホン付けて観るのが最良の鑑賞方法だと思う。
そもそもアメリカ人と違って日本人はポップコーンなんか滅多に食べないのに、なぜ映画館では積極的に売るのか。音の出ないフードは他にたくさんあるのに、なぜカサカサシャクシャクカリカリ煩いポップコーンを売るのか。和菓子売れ、和菓子。
無関心だからこそできる残虐な行為
所属する組織の規模が大きくなればなるほど、トップにいる人たちは、自分のやっていることが、誰にどんな影響を与えているのか、忘れてしまうんだろうな。どんな組織にも通ずる話だけれど。それにしても、エンドロールのBGM、あまりにも胸がざわついて落ち着きませんでした。
(追記)忘れてしまう、よりも、気づかないふりをしている、の方が適切なのかな。皆様のレビューを読んで、そうだったのか、と思い直すところが多くありました。ぜひもう一度観にいきたい。
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