関心領域のレビュー・感想・評価
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彼はルドルフ・ヘースでありヘスではない
ナチスの優生思想そのままのアウシュビッツで暮らすエリート将校とその妻と子供達との平和で豊かな暮らしのすぐ隣で日常的に繰り広げられる虐殺。
ヨーロッパの人たちは、そもそもが血塗られてるから自分たち以外の国は奪って犯して殺す。奴らに根こそぎ葬られた民族なんて沢山ありすぎて数えきれないし、原始時代そのままのアイデンティティで近世から現代まで来ちゃってるから表向き文明的に見えても中身は野蛮人で遺伝子レベルの差別主義者。そんなイギリスとアメリカが中心となって謀略と戦争で支えてきたこの仕組みは今現在も続いてるし平和になる気配すらないのも頷けるよね。
強制収容所で亡くなったとされる600万人(!)は単なる数字ではなく、ひとつひとつの大切な命なのにそれをイメージさせるのは機関車の音と叫び声と煙突から上がり続ける煙だけだし、挙げ句の果てに会議では悪びれる様子もなくこれから人数が増えるから気張って行けやお前ら的なセリフもあるしで、さすが人を人と思わない人達のやることは見てて意味分かんないから本当に恐ろしい。実際東京大空襲だって原爆だって沖縄戦だって全てジェノサイドだし仕掛けられた側としては欧米人の自分たち以外の幸せは我々の不幸だから全部奪うし所詮犬以下だから無関心のままで居られるし自分たちのことにしか関心がないんですよ精神には甚だ呆れちゃうわよね。主人公が犬を可愛がるシーンを時々挟んで来るのはそういう意図なんだろうな。
とは言え観てるあなたもこの映画観てて眠くなるでしょ、人々がわかり合って平和な世界を作ることに対する興味の持続って本当に大変なんだぜ、平和大事!ナチスひどい!戦争反対!ってその時だけ思っても持続していくのは大変なんだぜって言われてる気がして思考が止まってしまった。
果たして人間は本当に平等で平和な世界など作ることができるのだろうか?って考える人を増やすための映画であり、アウシュビッツはテーマでしかないのだろうって思った。
ところでユダヤ人ってユダヤ教信者ってだけで明確な民族的な特徴ってないんだよね…外見じゃなく信仰で分けられる感じも日本人にはさっぱりわかんないよね。
ちなみにデデデも同じテーマなのは興味深い。
映画「アシスタント」と比較すべき
「ホロコースト映画」は毎年何本も公開される。
(今のところ、本作とアンソニー・ホプキンス主演の「ONE LIFE」だ)
だが本作は単なるホロコースト映画ではなく「現代」を描いた作品でもある。
昨年「アシスタント」を見た。
Hワインスタイン事件をモチーフに、エンタメ業界におけるセクハラ、それに慣れていくことを描いた作品。
本作を見て、その「アシスタント」に似てる、と思った。
どちらもホロコースト、セクハラという「直接の描写」はない。
(映画は「省略の芸術」と言われるが、観客に「想像」させることができれば、描く必要はない)
どちらも「日常」になっていくことの「恐怖」を描いている。
本作の描写、つまり、壁1枚隔てた向こう側から、叫び声、銃声が聞こえる中で、子育てや、庭いじりといった「日常」が描かれる。
これは「特異な状況だから起きたこと」と言い切れるだろうか?
学校や職場で、イジメ、パワハラ、セクハラを見て見ぬふりをしたことは、誰しも一度くらいあるのでは?
(極端であるが)それは本作の所長夫婦とどう違うのか?
映画「アシスタント」と見比べることで、本作「関心領域」が特殊事例でなく、「現代」を描いた作品であることがより理解できると思う。
当時の異常を「耳で」仮想体験する映画 是非、音響の良い映画館で観るべき作品 今私たちは何をしているのか?他人事として、ただ映画を観ている自分たち
あらかじめどういう映画か、さんざん前評判を聴いての鑑賞であるため、どういう映画であるかはわかって観ている。
その意味での驚きは半減である。
それでも、常に何かが塀の向こう側から聴こえてくる。
銃声や悲鳴らしき音だとわかる音。
そして、何なのかわからない音まで。
実に不気味であるが、それが1時間以上続くと、それほど気にならなくなる?
このことこそ、以上に対する慣れをあたかも体験しているよう。
そんななかで生活している家族。
食事、出勤、寝る、ピクニック、パーティ、プール・・・。
あるところからまきあげられて入手した物、戦利品を手にしてすごす毎日。
あることの代償で得られた贅沢な暮らし。
ある日、夫の転勤の話を聞き、せっかく努力して気づき上げた、居心地良くくつろげる安定した生活が失われてしまうことに怒る妻と、小言を聴かされる夫。
壁一枚隔てて営まれている平和な家族の暮らしの日常が怖い。
「関心領域」の狭さ。
無関心でいられる人が、無関心でいようとする人、私たちが恐ろしい。
最後、スクリーンの向こうから、突然こちら側を見られる。
あなたたちも、無関心でいるのか、と。
はるか遠くで、現実に虐殺が行われている、今何をしているのかと。
他人事として映画を観ているのではあるが。
2時間観たから、聞いたから、体験したからこそ、事実とくらべれば、遥かにほんのわずかではあるけれど、身をもって知る「映画」ならではの経験。
是非、音響の良い映画館で観るべき作品。
どうやら、塀の向こうの「音」は、史実にのっとっているらしい。
パンフレットには、当時、何が行われていたか、詳細に説明されているに違いない。
映画製作の動機や経緯も書かれているに違いない。
しかし、
「公開翌日」なのにグランドシネマサンシャイン池袋でパンフレットが売り切れ。
「公開翌々日」の日曜日に、新宿ピカデリーでもパンフレットが売り切れでした。
せっかくの関心を持つ機会を失うではないか。
などという平和ボケしたことしか言えない自分。
関心領域…
改めてこの題名にゾッとする。
鑑賞前に感想を読んでいって良かった。
映画チックなドラマ展開を変に期待せず鑑賞することにより、この映画の恐怖感を思う存分味わえた。
塀で隔てこちら(所長の家)側はメルヘンな夢の国、あちら側は強制収容所という名の地獄。
遠くに聞こえる轟音、カラッと晴れた青空に似つかわしくない戦闘機。
絶えず聞こえる断末魔、阿鼻叫喚、銃弾、鼻をつく臭い等々、関心がなくても感じないわけがない。
狂った世界はどちらなのか。
ドイツ人の妻にとって機関車で運ばれてくる荷物がどうなろうと知ったこっちゃないが、荷物の荷物には興味がある。
最初、りんごを埋める少女は何の象徴なのか?と思いきや、所長の家で働くお手伝いさん(=ユダヤ人?)の少女なのか?それとも単に近所の少女?
強制労働させられている収容所の人々が作業中にこっそり食べらるよう作業場にこっそり食べ物を置いている彼女にとっては人間の生死が最大な関心ごと。
ものすごい対比。
これ現実だったんですよねぇ…吐き気がする。
人を選ぶ作品
アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所に隣接する所長宅の日常を映したドラマ。
一見平和そうに見える一家を淡々と映し、映像的には刺激がほぼなく、退屈とさえ言えます。
ただし収容所の隣ということもあり、断続的にユダヤ人を"処理"しているような不穏な音が流れ続けていたり、奴隷のように家事をこなすユダヤ人や、時折虐殺の方法などについて仄めかしたりするような会話があります。
壁一枚を隔てて、幸せな一家と地獄が隣り合わせになっているという所を描きたいのだと思いますが、正直な所、奇を衒い過ぎている気がしなくもありません。
例えば収容所の惨状などは、三十年以上前に作られたシンドラーのリストのほうが余程直接的に訴えかけてくるし、固定された定点カメラで俯瞰して一家を描くこの撮り方であればドキュメンタリーのほうが良かったのではと思います。
少々期待値が上がり過ぎていた点もありますが、意味ありげな演出の映像を説明無しで挿入したり、間接的すぎる描き方はあまり見応えが無かったと言わざるを得ませんが、自分の好みではなかったと言えばそれまでかも知れません。
映像の好き嫌いは別として、この一家と同じく自分達も残酷な真実を知りながら時に目を背けたり、見て見ぬふりをしたり、或いは直視して悲しんだり罪悪感を覚えたりと言ったことを延々と繰り返しています。
人間に欲求やある目的の為に統率された思想がある限り、この星が平和になる事など無いという事は既に分かりきっており、今日こうした作品を観て暗澹たる気持ちになっても、週末にはマッドマックスやジャッキー・チェンを観て盛り上がる現実を考えた時、諦めて受け入れるしか無いのかなと思いました。
白紙キャンパス映画
ラストの比喩シーンはお見事でした。人間は、所詮我が事しか関心が無い、と。壁の外にいる人達は自分の人生、クリーンスタッフは汚れているガラスしか。その向こうには全く目がいかない。この作品は、観てから、それぞれの人達が思い描く映画。観た人の数のバージョンがある映画だと思います。
私達は本当の意味でこの映画を観られるのか?
私達は当事者意識を持って今作を観れるだろうか?
個人的にはそれは相当高いハードルだと感じた
大戦終了から約80年。戦争の実体験もなく民族差別もほぼなく、日本人のほとんどは平和な生活を送り続けられている
もちろん大きな目線の話で個人単位では色々な問題や苦悩はある
今作はそんな私達を対象に作られたかのように、卓越したアイデアと演出で語りかけてくる
アウシュビッツ収容所と塀一枚挟んだ所長家族のホームドラマ
彼らはプールつきの美しい庭つき一軒家で、家庭内の色々な問題に悩まされながら暮らしている
特に異動命令が出た際に「せっかく住みやすい家になったのに引っ越したくない!」と夫婦が揉めるシーンは”作中イチの山場”だろう
これらが十分に伝わってなお舞台が外国であることで距離を取っている自分に気がついてしまった
同時にふと考える
私達は敗戦国としての被害者目線の作品にばかり触れてしまっていないだろうか?
作り手も観客も加害者としての歴史に目を背けていてはいけない
当事者意識とはそこまでを含むのでは、と私は感じた
関心領域と無関心領域。あえて言うなら見なきゃ良かった
率直な感想としてストーリーは退屈な映画です
2時間幸せな家庭と旦那の昇進物語です
アウシュヴィッツで起きていることや
アウシュヴィッツの悲惨さは
画面に映し出されることはありません
だからこそこの映画はえぐいです
終始家族のつまらない自慢話や噂話、
リアリティショーのような家族の一場面が
映し出されますがその裏には常に
銃声、悲鳴、なんとも言えない不協和音が
共存しています
それが映画を見ている観客には伝わるのですが
主人公達には聞こえていないかのように
演技が続行されます
唯一聞こえてるのは生後間もない赤ちゃんだけ…
ここで整理すると映画の中で2つにテリトリーが分けられます
この家族にとって
関心領域=仕事やここに住めなくなること、ガーデニングや誕生日、子供の将来
無関心領域=アウシュヴィッツで起きていること
アウシュヴィッツ収容所やホロコースト自体は
色んな手法で語られてきているので
ここで悲惨さに言及するつもりもありませんが
今の時代に置き換えると自分の中にある
関心領域と無関心領域は広がり続けているのではと
立ち返りました
例えば学生の頃ならクラスのいじめなんて
めちゃくちゃ関心と無関心の領域の狭間にあるものだろうし
国内の問題ならトー横とか移民問題なんてのも
この狭間にないですか?
世界に視点を変えればロシアウクライナ問題や
インパ問題、ガザ問題など。
SNSやメディアの発達によって
趣味や好きなことに関しては関心領域で調べて楽しんでる一方
こういう身近な問題は無関心領域に
追いやってるんじゃないかなと
まるで主人公の事を酷い人間だと思って見ている反面
この領域が広がり続ける現代においては
自分達もこのアウシュヴィッツの隣に住む家族と同じ事をしているんじゃないかと訴えかけるような映画です
あなたは関心領域を広げることができるか
それとも今のまま無関心領域で自分を大切に生きるか
はたまた関心領域だけ広くもった机上の空論だけの人間になるのか
恐らく主人公はラストシーンで少し関心領域が広がったのでしょうね
この映画を見たからには今後の生き方考えなければいけないのかも知れませんね
そういう意味でもこの映画に無関心のままでいれば
前の自分のままでいれたのにな
罪悪感を持たずに生きることが出来たのにな
宣伝が逆効果
結論から先に言うと想像していたよりも恐ろしさが伝わって来なかったです。
確かに壁一枚隔てて、一方では大量虐殺が行われ、一方では虐殺には無関心に贅沢に暮らしている家族の様子に不気味さや苛立ちは覚えるものの、恐怖を覚えるほどのインパクトはなかったです。
こういうと、すごく冷たい人間だと思われるかもしれませんが、実際に体験された方や身近に体験した方がいるのとは違い、史実としてしか知らないのが響いてこない原因の一つかも知れません。それは広島や長崎に落とされた原爆にも通じるものがあり、映画「オッペンハイマー」を鑑賞した際にも自分か想像したいたよりも込み上げてくるものは少なかったです。
そういった意味では、本編よりも最後に少しだけ映し出される資料館の方が怖さを感じました。私はアウシュビッツの資料館も原爆資料館も行ったことがないので軽率な事は言えませんが、この作品にしてもオッペンハイマーにしても資料館に行ったことがあれば違った感想になっていたかも知れません。
あと、インパクトが弱かった原因の一つに宣伝があると思います。宣伝の中で壁の反対側で行われていることは一切映されないと伝えてしまっているので、ある程度内容が想像できてしまったのは私にとって逆効果でした。
ということで、期待値よりも評価が下回る作品でしたが、残酷なシーンを一切映さなかったり、善意の部分だけをネガの映像で観せる手法は斬新で面白いとは思いました。
対比の悲劇と生産性たる絶望。
壁の真横で本当にこんな暮らしをしていたのかどうかなんか、どーでもよくなるほど、その落差に言葉を失う。響きわたる通奏低音と壁の向こうの声なき声と銃声。呼応する赤ん坊の鳴き声は、この落差を助長する。そんな彼らの生活に変化が訪れてから、(変わらず)多くを語らずに更なる惨劇に突き進む。ルドルフの吐き気は、ようやく領域の外に関心を飛ばすことができた証とも言えるのではないか。
澄まされた不可視の恐怖
この映画の関心領域は予告動画でも言及されていたように、人間の無関心だ。アウシュビッツ収容所の隣に住む司令官一家の関心対象はそれぞれで異なっていた。
今作は単調な映像が続くように見えて、ずっと空が晴れていたり、白黒ネガ反転のような演出があったり、一色で画面が潰されたりと印象的な場面が多々ある。その中で、おそらくこの作品において重要なことは、アウシュビッツ収容所にいた人々が映像の中でほとんど直接的に登場しないことであろう。音だけで彼らの行動や声が表現されている。食事中でも会話をしている時でも、この家にいればどんな時でも彼らの音が聴こえている。しかし、その音は観客である私たちにしか聴こえていないのではないかと思うほど、彼らの中ではあまり響いていなかったようだ。私たちにはその存在が見えないからこそ、恐ろしさがどんどん募っていく。目に見えない、関心がないということの凶暴性を音だけで感じさせられる。暗闇の中に迷い込んでしまったかのように錯覚する。終盤で、現代のアウシュビッツ収容所が映された。今では観光スポットであるそこのスタッフであろう人々が掃除をしているシーンでも、そこで映し出される私たちの関心領域は、アウシュビッツにいた人々ではなく、残された大量の靴やさびれた衣服であることを思い知らされる。私たちはずっと人間に目を向けていないのだ。
劇中では登場人物がカメラ目線で演技をすることがほとんどなかったように思う。しかし、最後のシーンでは司令官のルドルフがこちらをずっと見つめていた。
きっと彼はアウシュビッツを出て、新天地に来て気づいたはずだ。ここには音がないことを。
他人事ではないです
ナチスによるユダヤ人虐殺の象徴といえるアウシュビッツ収容所のすぐ隣で、所長一家が裕福で平和な家族団らんの生活をしていたというのを、音や気配で感じさせる秀逸な演出が話題なので観に行きました。
観る前は、「大勢の人々がこんなにひどい目に遭っているのに無関心だなんて、なんて恐ろしい、冷酷非道な奴らだ!」と怒りや恐怖を感じるのではないかと思っていました。
でも、わりと最初の方から、これは現在、平和を享受して呑気に映画を観ている私たちに対する断罪のメッセージも込められているのではないかと、重苦しい気持ちになりました。
戦争・紛争で直接の暴力・虐殺にさらされている人々に対してはもちろんですが、貧困や差別その他の理不尽に苦しむ人々に対しても、平和で便利な生活を送る自分は構造的な悪の側にいるのではなかろうか、と感じました。非常にしんどいです。
ではどうすればいいのか、までは俄かには思いつきませんが、他人の苦しみを想像できない人は、この所長一家と同じだよ!ということなのでしょう。
呑気に気楽に暮らす人は、一度みてみるといいと思いますが、感じやすく傷つきやすい人には危険な作品です。極度に落ち込むことがないよう、気の合う人と一緒にみて頭を切り替えられるようにしておくことをおすすめします。
罪悪感も背徳感も持ち合わせていない、わが世の春を謳歌するヘス一家の日常を画いた作品です。
無関心の恐ろしさ
アウシュビッツ収容所の真横で暮らす所長の家族を描いた作品。メッセージ性だけはずば抜けてた。メッセージ性と音で感じる作品かなと。
見てて思ったのが無関心の恐ろしさってこう言う事で私たちも世界で戦争やってても無関心だから普通にご飯を食べ冗談言って笑って遊んでって見てる私たちの事でもあるんだなと突きつけられた感じがしました。
真横の収容所からいろんな音が聞こえる中そこは一切見せず音だけで想像させカメラも定点カメラでスイッチングのみで撮るという斬新だったけどストーリー性ゼロだからなんせつまんないという。
家の真横に収容所がありいろんな音がしてる中(今射殺されたな、燃やされてるな、なんかされてるなぁ) 嫁はよく平気で暮らせてるなって思って見てるけどつまんないんだよ。
とか言いつつもザンドラ・ヒュラーの演技は相変わらず自然すぎて化け物(褒め言葉)でしたね🫶
映画館で観た方がいい音響的な意味で。
冒頭で、『音に集中してください』って表現をしていたので、終始集中。
いつも以上に環境音に集中していたのでよりキツイなって感じることが多かった。その点とてもよかった。
映画としてね。
ただ…え?このシーンなんのためなん?って箇所が多く、初見殺しが残念だった。
•りんご置きの少女は近くに住んでるユダヤ人ってこと?
•りんご置きの少女が拾ったのは何?
•なんでお兄ちゃんは弟を温室に閉じ込めたの?
•副司令官が吐いたのは酔ってたから?それとも病気?
•家の召使い的なのは結局ユダヤ人でいいんだよね、地元の人じゃなくて。
って感じ!いま覚えてる限りでは!
音響的に映画館で観るのがベストなんだけど、難しいというかゆだねすぎというか
残念箇所が多かった。
演出とか音楽はとてもよかった(*◡̈)
追記
映画見た後になんか思ってたんと違った、って感じたのは…もっと残虐性を期待してたからかもしれない。
そう思うと、これこそまさに関心領域なのかもしれない。
配信始まったらもう一度観たいかも。
想像力
恐ろしさはじわじわ来ました。
予告編がうまい作りだなと思った。「関心」を持ったので見たいなと思っていた。
アウシュビッツ収容所の隣に住むドイツ人将校(所長)一家の物語。
かなり裕福な暮らしをしているが、設定を読んだだけで、こんな環境に住みたくないと感じる。
最初から不気味だった。
真っ暗な画面と共に流れる、音が映画の要。目を閉じても聞こえてくる世界に耳を傾けろということか。
最初のうちはあまり隣の音がそれほどはっきりとは描かれず、気になるのは赤ん坊の泣き声ぐらいだった。その状態がこの家族の普通の光景。
後半では、隣の声がしっかりと現れる。関係なく遊んでいる息子。背景に立ち上る焼却の煙。自分たちの生活以外に無関心な彼らと、虐殺の実態を思うと、確かに恐ろしい。
心霊などのホラー映画…とかそういう怖さじゃない。会議の様子もひどいものだと思った。ユダヤ人を人間扱いしていない会話。
収容所の地区の事も「zone」って言ってましたかね。領域ではなく区分けなのだろうけど。人を分類し、管理し、見たくないものは見ない。
いなくなった妻の母親は、素敵な暮らしの対局にある現実を肌身で感じ、この家を去ったのだろうと思う。
最後の博物館の展示が、静かに悲惨な事実を物語っていた。原爆資料館で感じたような胸が痛くなる場面。そこを仕事で清掃する現代の職員もまた、無関心かもしれない。
*****
こっから軽め。
メイドや軍の人たちやら、名前がいっぱい出てきて、ちょっと混乱。(ストーリーに影響なし)
「落下の解剖学」で初見のザンドラをこの短期間でまた見れたのはうれしい。
月曜に映画館に行くことが多いのだが、公開4日目なのにパンフが売り切れ。「ある閉ざされた雪の山荘で」も同じパターン。う~ん…ですね!
ネタバレしても問題なし。完璧に予習していくべき映画
ドキュメンタリーの撮り方で描かれた矛盾した現実生活
Glazer監督は、厳粛なドキュメンタリーのスタイルで、アウシュビッツ強制収容所に隣接するルRudolf Höss一家の物語を淡々と語りました。
銃声、叫び声、壁の向こう側に立ち上る焼却炉の煙、窓越しに感じられる火光に染まる赤い空。Rudolf Höss一家と彼らと共に生活する人々は、壁の向こう側で何が起こっているかを知っているだろう。
この映画は情報量が非常に多く、一つの文章に感想をまとめることは非常に難しいと感じましたが、私の人生で一番印象に残る映画と言っても過言ではないです。
全く派手さや虚飾を排した表現はありません。
反戦とは何か?Glazer監督は感情を抜かしてドキュメンタリーのスタイル課題を観客に打ち出しました。
2ヶ月前、「ガーディアン」がRudolf Hössの娘Brigitteへのインタビュー記事を発表しました。インタビュー終了後まもなく、Brigitteは亡くなりました。
記事の中で、記者はBrigitteに「お父さんはどんな人だったと思いますか」と尋ねました。
Brigitteは「良い父で良い夫だと思います。同時に非常に責任感のある人でもありましたが、いつも落ち込んでいるようでした」と答えました。
記者が続けて「でも彼は多くの人々を虐殺しましたよ」と質問し続き、Brigitteは「分かっていますが、彼には上司がいて、命令に従わなければならなかった」と小さな声で答えていました。
年老いて弱ったBrigitteを前に、記者はしばらく無言で。
映画の中のRudolf Hössも同じく矛盾している人間でした。
良い父親であり、動物に対しても同情心を持っていますが、一方ではユダヤ人をより効率的に大量処理する方法について議論していました。
映画の終わりで、Rudolf Hössの吐き気は生理的にこの行為に抵抗しているように見えますが、彼の脳はナチスドイツにとって「正しい」とされる命令を実行し、それが「責任ある」行動であると自己洗脳しているようでしょう。
「I am therefore glad that I was able to record her testimony on the record for the sake of history, for the sake of anyone who wants to understand how human beings are capable of carrying out such an atrocity, for anyone who wants to stop such things from happening again。」これはこの記事の最後の言葉であり、映画「関心領域」が社会のため貢献できたことだと思います。
利益の前で、第三者の視点からシンプルなカメラワークで描かれた人間の複雑性が明らかになり、この映画が私にもたらした考えはいままでなのものです。
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