関心領域のレビュー・感想・評価
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何を伝えたかったのか
何を伝えたかったのかよく分からない映画だった。
いや、伝えたいことは分かる、メタ的には。「アウシュヴィッツ収容所の塀1枚へだてた隣で裕福に優雅に平穏に暮らすドイツ人将校(アウシュヴィッツ所長)一家の日常を描く映画」という情報を得た時点で、映画を観る前から、『ホロコーストの残虐性と無関心の恐ろしさ』を描きたい・伝えたい映画なのだと分かる。一通りの歴史の知識さえ持っていれば。
ただ、そのテーマが、映画そのものから・映画単体から伝わってくるかといえば、いまいち伝わってこないとしか言いようがない。(受け手がそのつもりで観れば受け取れなくもない…としか。)
この映画から得られる感情はすべて映画外の知識をもとに引き起こされているものである。果たしてそれは映画の完成度としてどうなのだろう? 私がもっと無知であれば、いったい塀の向こうで何が起こっているのか一切分からないし、なぜ子供たちがああも不安定なのかも想像がつかない。
投げっぱなしの伏線、意味有りげながら説明不足で伝わらない描写。
川に何かが流れてきて慌てて水から上がり風呂で全身ゴシゴシ擦る。もちろん知識を元にすれば(たぶんこういうことだろうな…)と分かるが、映画の中での情報だけでは確証は持てない。なんだ、あえて説明しないのがそんなに格好いいのか? あんな重要な事実でさえ?
りんごの少女もとても重要なエッセンスだが、その重要性は鑑賞後にネタバレ考察を読んで初めて分かった。誰もが知る有名なエピソードならまだしも、監督が個人的に知った実話を取り上げパンフレットだかインタビューで話しているだけのもの。それって映画としてどうなの? さすがに映画内でもう少し情報を提示すべきでは? せっかくの深遠なエピソードが、鑑賞後積極的に調べた人にしかその深みが分からないなんて、意味があるのか?
私の読解力が足りないせいで理解しきれなかったかもしれないのは重々承知の上で、しかし私の読解力や知識量はごく一般的なものだと思われるので、つまり観た人の多くは分からないということではないか。
大衆が観るメッセージ性の高いエンターテイメント映画としてはあまりに不親切すぎる。たとえば平均的な10代半ばの若者が見たらほとんど理解できないのではないか。そういう世代にこそ知ってほしい歴史なのに。
もちろん高尚な芸術映画としては『描きすぎない、説明的でない、難解である』という美学に基づいていて名作なのだと思うが、それなら知る人ぞ知る名作としてミニシアターとかでひっそり上映してくれていたらこちらもそのつもりで観るので感じ方も違ったかもしれない。
しかし、本作が扱っているのは、後世に残さねばならない重大な歴史的事実だ。本当に重要なテーマだからこそ、こんな説明不足で解釈を委ねすぎな映画にするべきではないのではないか。
こう言ってはなんだが、ホロコーストという残酷な歴史的題材を、「『クリエイターの斬新なアイディアと芸術的センスを見せつける格好いい高尚な映画』を作るための材料」として都合よく使っているようにしか思えなくて、不快だった。
そういうしゃらくさい芸術映画は、オリジナルストーリーのフィクションで作ればいい。あまりに多くの命が理不尽に奪われた実在の悲劇を、承認欲求のために使わないでほしい。
まあ、私のような一般的大衆的な教養と文化的素養と解釈力しか持ち得ない、娯楽寄りの分かりやすい映画ばかり観ているような観客はそもそもお呼びでないのだろう。何千何万の芸術的映画を観てきて一から十を知る(読み取る)造詣の深いホンモノの映画好きの観客に向けて作られているのだろう。
それは分かったが、それならイオンシネマなんかで上映しないでくれ…心構えから間違ってしまった。
…というわけでストーリーや演出に関しては私としては完全に合わなくて星1だけど、ただ映像や音響の素晴らしさは間違いなかったので星2にしました。
メタファー
絶対予備知識がないと普通の軍人一家の日常風景で終わってしまうやつです。
ところどころ、あれ?という場面がありますが虐殺でどういうことが行われていたかがわかっていないと理解のしようがないです。
虐殺前に脱がせた服をもらっていたり亡くなった方の歯を遊び道具にしたり人を燃やした灰で花壇を育てたり、まだまだ一杯あるのでしょう。
調べさせるという作戦なら当たりですがオッペンハイマーといい娯楽作品としては難解過ぎませんか。
「関心」も「領域」も無い、反応したら負けw
死に行く銃弾の音、発狂の声、叫び、遺骸を燃される煙。
ガーデニング・野菜栽培に励むヘスの妻。
咳き込む祖母・川を流れる毒・嘔吐するヘス、必要のない人は要らない。
ガスで殺された、死んだ人は他にもいる。
という物語だね。全く「関心」も「領域」も見つけることは出来なかった。
分かりづらく難解を装う映画が昨今の賞レースで取り上げられるが、クソみたいな審査の審美眼は要らないよw
「評価」は「関心」の「領域」に反応したら、負けだよw
無人という圧倒的なフィックス
アウシュビッツ収容所の隣で暮らすルドルフ・ヘス所長一家の日常を描く作品なのだが当時この一帯のことをナチ内部で隠語的にこう呼んでいたそうでそれが一家の塀の向こうに対する意識的な「無関心」あるいはドイツ国民の・・あるいは現代のわれわれ自身のに・・ぐさりと突き刺さる優れたタイトルとなった。まず冒頭の3分に及ぶ暗闇と音の問題。アカデミー「音響賞」を獲ったと、蛮行は描かずに音で表現したのだというのだけれど私にはあまりピンとこず小鳥さえずる川辺のピクニックにつなげるには1分で十分。映画を「観に」来た一般庶民にはやりすぎでしょでと思ってしまう(今年は「ファースト・カウ」に始まり「悪は存在しない」と似たような試練的導入が多くてまいる、流行りなの?)。それにしてもピクリとも動かないフィックスショットとシンメトリーの連続には恐れ入ったが鑑賞後に(無人固定カメラを複数台配置して遠隔で撮影)したと知って驚いたというか呆れた。SONYのデジカメをロケセット内にあちこち仕込んで監督もカメラマンもトレーラーの中にいてモニターしてるなんてテレビのバラエティー番組じゃあるまいし。どうりでみんながはしゃいでいる庭のプールで滑り台から滑り降りる少女を真逆からのショットに切り替えて奥に収容所の塀が見える「アクションつなぎ」があまりにも見事に決まっていることよ!メイキング動画を見て驚いたのは旦那の転勤が決まって奥さんと川辺で語り合うシーンでさえ複数のリモートカメラを使って撮っていたこと。そりゃあ微動だにしない安定のフィックスが撮れるわけだわ人間はどうしてもカメラワークしたくなるからカメラマンいない方が良いということか。後付けの感想で申し訳ないが無人の複数カメラの目を意識してサンドラ・ヒュラーが毛皮コートを着てポーズ取ったり、赤ちゃんを抱っこしてお花の名前を教えたりしていたのかと思うとあまりにも芝居があざとくてやるせない。嗚呼映画よどこへ行く?
私は賢者じゃなかったです。
とにかく雰囲気作りが上手い映画!
多分凄い名作で、映画館で鑑賞する価値あり!
でも後味が悪すぎる為、人に勧める気は全く起きません!
アウシュビッツも原爆も、恐ろしいことは思えばいつも、塀の向こうのことだった。
賢者は歴史で学ぶという。
それが本当なら、賢者って凄いんだな。
以下はコミュ障すぎて全文蛇足!
自分は、自分の言葉(人生?)に囚われているのだった。
いや、何をしようとそれは自分の言葉なので、どうしようもないけれども。
問題なのは、基本自分の言葉に対して無批判ということだ。
一時の悩みや思想に重ね合わせて映画を観るから、観終わってから次々と感想が変わっていってしまう。
一種の防衛本能といえば可愛らしくも見えるのだが。
書いては消し、書いては消しの繰り返しだ。
映画の内容がホロコーストと非常に重大であることで、自分の鑑賞方法が軽薄であることに気づいてしまって辛い。
映画や小説、勉強や現実は、頭の外に触れるものの筈なのに。
一時の悩みに関連して映画を観た自分自身が、関心領域というタイトルによって映し出されてしまったように思える。
そして結局、私の中にアウシュビッツは現れていなかったのだ。
こう言うと金閣寺みたいになってしまうな。
アウシュビッツは、"予想外にも"、遠い塀の、さらに遠い塀の向こうにあったのだった。
思えば原爆だって、原爆ドームに訪れたにも関わらず、私は知らないのかもしれない。
物事を考えているようで、それは驕りであり、実は考えていない。
それは最早、映画に登場した人物たちより劣る精神性なのかもしれない。
今回の映画で描かれたのは、現実を直視した、狡賢く、どこか空虚に生きる大人達の姿であったと、私はいま感じている。
そのように生きることは道徳的に間違いかもしれないが、自分はもはや非難できなくなってしまった。
この映画は、自分には早すぎた。
いや、分からない、自分が遅すぎるのかもしれない。
この映画の人物と対等に向き合えるように生きていきたい。
とにかく、自分の中に無いものは無いし、今の場合、語る術や、それ以前に観る術も持たないのだ。
この映画の存在を自分が忘却しないように願うばかりだ。
でも円盤を買いたくはないかな。
パッケージを見るたびに、劣等感と無力感に囚われるのは精神衛生上よくないし、第一そもそも気分が悪くなる映画だ。
なんて、また、いつもの日常に戻るのを自分は最優先する。
関心領域を観て、少しは日常に新たな気持ちで臨めるだろうか。
惨状を知っていれば知っているほど恐ろしさが増す
アウシュビッツの隣で暮らす、所長ルドルフ・ヘスの一家の日常を描く。
壁の向こうは映し出されないが、ユダヤ人の惨状を知れば知るほど想像して恐ろしさが増す。
寝付けない娘、落ち着かない息子、泣き止まない赤ん坊、耐えられずに出て行った義母。親族や子どもたちはその場所で行われていることの不穏さを敏感に感じ取っている様子がある。ルドルフもどことなく不安定な印象を受けるが、彼の妻だけは、得られた裕福な生活を楽しんでいる。
終盤に現代のアウシュビッツの様子に切り替わり、押収された収容者たちの持ち物や脱がされた大量の靴が映る。悲劇の象徴であるそれらは、今のガザ地区の惨状を知るとまた違った意味合いに見えてくる。
不穏な音楽がさらに恐ろしさを増加させている。
アウシュビッツ強制収容所で何が起きていたのか知識が必要。犠牲の上で...
アウシュビッツ強制収容所で何が起きていたのか知識が必要。犠牲の上でしか成り立っていないドイツ人家族の幸せそうな(幸せであると信じ込んでいる)日常の描写の隅々に、眉間にシワを寄せてしまう表現が多く混ざっている。
映画館で見るべき作品。家では見たくない。
素直に本心を言えばいい
何が重要かで関心の位相は変わる
関心領域は直訳ですが、原題は「重要な地域」というナチの東方支配プロジェクトと掛けてあるという評論を鑑賞後に読み、なるほどと感じました。
音だけという意味深な始まり方、アンダー・ザ・スキンのときも感じたけれど、この監督は耳からの情報にこだわりますね。音楽家もミカ・レヴィですから尚更。真っ黒な画面がむしろ多くを語りかけます。
以前ニュース映像で、ガザ市の壁近くに住む裕福なイスラエル人たちが、庭のデッキチェアに座ってパーティをしているシーンを見ました。ガザの町から立ち上る黒煙を花火のように眺めていました。ガザやウクライナは今の現実ですが、ホモ・サピエンスは依然として80年前と同じ位相でいるということが語られています。
私達は、自分にとって大事なものにしか関心を示さないし、現実から目をそらし、耳も覆う。その結果があの虐殺に結びついていくのであれば、ガザやウクライナの虐殺に対して何もしないことは、ヘスの家族と変わらないということになります。
暗視カメラの少女は、ネガとして提示するホモ・サピエンスへの期待でしょうか。最初の夜のシーンではなぜ堀った斜面にリンゴを埋めるのかわかりませんでした。幻想の鎮魂シーンかとも思いましたが、収容所の外で労働するユダヤ人のために、少しでも栄養補給になればと目立たない場所にリンゴを置いていたのですね。彼女の表情は気高く、美しい目をしていました。目をそらさずに、収容所の現実と自らの立場をとらえているのです。
日常と慣れ
辛抱が要る作品
アウシュビッツの惨劇をあえて直接映さず、音響と監視役の軍人宅の暮らし描写だけで表現するという、狙いとしては相当な離れ業を成功させてはいます。背景にたまにパンするだけの黒煙の不吉さといったら…
ただ、映像的にはめちゃくちゃ退屈。
起承転結みたいなものはほとんどないし、基本的に「引き」で撮ってるので誰が誰なのかも分かりにくい。ワンシーンワンシーン、あまり変化ない光景がやたら長いのも難。
正直終盤は眠くなってしまいました…
アウシュビッツの凄惨さの知識が元々ないと、音響と暮らしの描写だけでは具体的なことは分からないだろうし(その辺かなり不親切に作られてます)、しかし知識があったらあったで特別新鮮味はないような…
アイデアはすごいけど、それが満点に活かされてるかというとちょっと微妙な印象でした。
すごいことしてるなというのは分かるんだけど
全編吐き気が止まらない
素晴らしい恐怖でした
技法について語るべきか、テーマについて語るべきか・・・
ヴィルヘルム・ハンマースホイの絵画を思わせるような映像と終始その映像と似つかわしくない恐怖映画の効果音ような音響が終始混濁し、かつて経験したことの無い様な時空間が浮かび上がる。あの忌まわしいアウシュビッツを一切描かず、現代にも通じるありふれた家族の日常の中の異常性がかくも現代の我々にリアリティを持って迫ってくる映画作品を他に知らない。ここで描かれている日常の主人公はほかならぬ、われわれの良く知るアウシュビッツの所長でナチ親衛隊(SS)幹部だったルドルフ・ヘスとその家族の日常である。関心はその妻の異常さである。その妻があの忌まわしいアウシュビッツの塀の外で箱庭のような庭園付きの家をせっせと構築する様はまさにナチスそのものである。自然をコントロール可能な対象としてみたその思想は優性民族思想へつながる。塀の外のように見えて実はズームアウトするとそれは海の中で思念として構築された家を浮き彫りにしたタルコフスキーの🎦ソラリスを想起させられる。タルコフスキーもまさにソビエトの粛清政治を終生批判してきた人物である。同様に自然をコントロールして悪魔の産物を生みまだしたある科学者の映画作品、🎦オッペンハイマーが映画におけるキュビズムであるならば、本作品はまるで映画におけるフォービズムである。家族の日常に眠る野獣が描かれているのである。
つまらないって言いにくいよね
題材が題材なだけに、つまらないとは言いにくい作品だと思う。特にネットではないリアルな世界では。
率直な感想は終始退屈。TOEICなどの英語長文問題の方がまだ内容としては面白いのではと言ったレベル。正直2000円払う価値はほとんどの人にない。迫力のあるシーンはゼロ。BGMもほぼゼロ。ハプニングシーンのないホームビデオを2時間見せられるイメージです。
怖いという感情を多くの人が抱いたようですが、正直あまりにも退屈すぎて、うとうとしてたのでその感情すら抱きませんでした。
だけど、僕がもし友人や同僚とこの映画を見て映画感を出た後に、難しいとカッコつけて言っても、中々つまらないとは言いにくいなと思った。ずるい映画
彼女、ワンピースを選んだの。だけど小さくて入らなかったわ。ダイエットするって。ふふふ。
この映画の題材がなんであるか知らずに観始める人はいないと思うが、もしそんな人がいたとしたら(そもそもそんな人はこの映画を選ばないだろうが)、どのあたりでこの現場がどこなのか気づき、その時どんな感想を持つのだろうか想像していた。衝撃を受けるだろうか。別に何とも思わないのだろうか。何の驚きも起きない人こそ、この中にでてくる連中と同じだ。関心領域。自分の関心の及ぶ範囲。それ以外は、無関心。裕福な家を隔てた高い壁の向こうから、奇妙な音や叫び声が聞こえてこようが無関心。容易く手に入る服や金歯や紙幣が、誰のもので、その誰がいまどうなっているのかも無関心。自分さえよければいい。(ちなみにルドルフにとっての無関心は妻とのSEXのようだ)。どんな物音もすでに日常的な生活音にすぎず、他人の犠牲は別の世界の出来事なのだ。すると人間は不思議なもので、その環境に慣れ、そこに定住したいと希望もし、その生活が子育てに最適だと勘違いもし、永遠にそこで暮らせると思い込んでしまう。ユダヤ人をあれほど毛嫌いするのに植物や動物は手厚く愛でる。なんだそれ、花が好きな人は優しいなんて言葉は嘘だって痛感した。戦争ごっこで遊ぶ子供だって、まるで看守のような言葉を使いだすし知らず知らずに残虐性を増していっている。せめてもの救いは、訪ねてきた母親がこの家庭環境の異常さに気づいてくれたことだ。できればその改善策を施してほしかったが、その無意味さを知ったからこその、翌朝の行動なのだろうと思う。
そして画面は突如現代にかわり、淡々と掃除をする資料館の職員たち。彼女たちにとっても、この悲惨な歴史も関心のないこと。毎日ここで働いているので慣れてしまってること。人は慣れる。まるで、この映画を観ている君たちも日常に慣れてしまっていないかい?世界中には今現在でも戦争、貧困、、、に苦しんでいる人がいるのにと言わんばかりに。だからその代わりになれとか、身を削って手を差し伸べろ、とは言わない。せめて、その現実を知る、そこだけでも人として守って生きていった方がいいと訴えかけられているように思えた。
1日経ってじわじわ来た
鑑賞中は不協和音の単調な音楽、叫びのような声、急な赤い画面等々、正直気持ち悪くて、クレジットの時には早く出たくてたまらなく。はー、また変な映画にお金を払ってしまったと後悔しながら帰路に着きましたが…1日経ってジワジワきました。
アウシュビッツが出てくるということで、
今起こっている世の中の紛争など他国にもちゃんと関心を持ち続けよう、 というようなメッセージが込められているのかな?と思いましたがそれだけじゃなかった。
ずっと続く赤ちゃんの泣き声が気になっていたのですが…
あの司令官の奥さんは自分の子供の様子すら関心を持ってなかったのでは?
考えてみたら、夜に女の子が廊下でポツンとしてることに気づいたのは司令官。
奥さんは、男の子が外の看守とユダヤ人とのやりとりを聞いて心を痛めてることにも気づいてないだろうし、そもそも子供を連れてその環境にいくことで、子供にどんな影響があるかなんて考えてなかったんだろうなあ…とか考え始めたら、
その人を中心に同心円状に広がっていく関心領域の図が頭に浮かび、
自分のこと、家族のこと、身近な人のこと、…その先に世界の情勢のこと、と続いていくのかなあと。
奥さんと司令官の関心領域の大きさが対象的に描かれていて、
関心が自分の夢、願望の実現だけの奥さんと、一方、家族、同僚、そして実はユダヤ人についても関心領域に入ってるのでは?と思える司令官(人が集まった様子を見てどう殺すか考えてしまう自分にかなりストレスがかかっている様子だった)
個々の関心領域の広さと幸福度の関係性、はたまた社会全体の幸福度とは…
とグルグル思考するに至り、
さらに、日頃の自分の関心領域についても意識することにもなり、
なかなか自分が今後生きていくのにいいキッカケとなる映画になりそうな感じです。
単調
壁を挟んですぐ隣で何が行われているのか知っているから、それを気にせず図太く暮らすヘス一家(特に夫人)になんとも微妙な気持ちになるのだが、夫人役が『落下の解剖学』のサンドラ氏であったので、彼女のまた違った演技を堪能できたのは良かった。この家族の単調な日常を見せつけられながら、その裏で行われていることは音と知ってる知識で補完。ヘス一家の図太さ(2回目)に神経を疑いながら、泊まりにきたおばあちゃんみたいにノイローゼ寸前になる人を見てなぜか安心する。当時もりんごをこっそり置く娘のような人もいたのだろう。エンディングの音はまぁ狙ってんなーという感じで不快全開。
何か感じ取ろうと思えばいくらでもできるけど、無理にそうしなくても良い映画かな。
パレスチナの事がなかったら、そこまで話題になってたかなという印象。まぁ結びつけるのも微妙だが。
全570件中、301~320件目を表示










