「私は賢者じゃなかったです。」関心領域 クレタさんの映画レビュー(感想・評価)
私は賢者じゃなかったです。
とにかく雰囲気作りが上手い映画!
多分凄い名作で、映画館で鑑賞する価値あり!
でも後味が悪すぎる為、人に勧める気は全く起きません!
アウシュビッツも原爆も、恐ろしいことは思えばいつも、塀の向こうのことだった。
賢者は歴史で学ぶという。
それが本当なら、賢者って凄いんだな。
以下はコミュ障すぎて全文蛇足!
自分は、自分の言葉(人生?)に囚われているのだった。
いや、何をしようとそれは自分の言葉なので、どうしようもないけれども。
問題なのは、基本自分の言葉に対して無批判ということだ。
一時の悩みや思想に重ね合わせて映画を観るから、観終わってから次々と感想が変わっていってしまう。
一種の防衛本能といえば可愛らしくも見えるのだが。
書いては消し、書いては消しの繰り返しだ。
映画の内容がホロコーストと非常に重大であることで、自分の鑑賞方法が軽薄であることに気づいてしまって辛い。
映画や小説、勉強や現実は、頭の外に触れるものの筈なのに。
一時の悩みに関連して映画を観た自分自身が、関心領域というタイトルによって映し出されてしまったように思える。
そして結局、私の中にアウシュビッツは現れていなかったのだ。
こう言うと金閣寺みたいになってしまうな。
アウシュビッツは、"予想外にも"、遠い塀の、さらに遠い塀の向こうにあったのだった。
思えば原爆だって、原爆ドームに訪れたにも関わらず、私は知らないのかもしれない。
物事を考えているようで、それは驕りであり、実は考えていない。
それは最早、映画に登場した人物たちより劣る精神性なのかもしれない。
今回の映画で描かれたのは、現実を直視した、狡賢く、どこか空虚に生きる大人達の姿であったと、私はいま感じている。
そのように生きることは道徳的に間違いかもしれないが、自分はもはや非難できなくなってしまった。
この映画は、自分には早すぎた。
いや、分からない、自分が遅すぎるのかもしれない。
この映画の人物と対等に向き合えるように生きていきたい。
とにかく、自分の中に無いものは無いし、今の場合、語る術や、それ以前に観る術も持たないのだ。
この映画の存在を自分が忘却しないように願うばかりだ。
でも円盤を買いたくはないかな。
パッケージを見るたびに、劣等感と無力感に囚われるのは精神衛生上よくないし、第一そもそも気分が悪くなる映画だ。
なんて、また、いつもの日常に戻るのを自分は最優先する。
関心領域を観て、少しは日常に新たな気持ちで臨めるだろうか。