劇場公開日 2024年5月24日

「耳をすませよ!見えていない所こそ見よ!」関心領域 momoさんの映画レビュー(感想・評価)

5.0耳をすませよ!見えていない所こそ見よ!

2024年5月29日
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冒頭からのスクリーンを覆う無地の画面に度肝を抜かれる。
演劇で言うところの暗転だ。
映画では暗転する必要も無い。
演劇では限られた舞台で大勢の戦士や殺された人を出すことはできないから、見せずにナレーションやセリフで描くことが多い。
できないからそういう演出で物語性を高め感動を導く。
しかし、映画ではどれだけたくさんの数の兵士でも殺される人でも、エキストラを使えば直接的に描くことはいくらでも出来る。
あえてそれをしない。

そしてこの映画ではセリフは全く重要では無い。むしろセリフ以外のガヤ音の中アウシュヴィッツの収容所の状況が微かに表現されていく。
ぼーっと観ていたら聞き逃す音にこそ自分の関心領域以外の世界がありそこを感じ取り想像することが大事なのだ。
故にセリフ以外の音をちゃんと聴けよ!と注意喚起の異音が所々で鳴る。観客にさあ、耳を研ぎ澄ませよと言わんばかりに。
無映像の色だけのシーンもそうだ。
その背景で残虐なことや悲しいことが起きていることをさあ!想像せよ!とばかりに色分けも不気味さを増す。
舞台装置を転換するための暗転とは訳が違う。観客の頭の中に「想像」のスイッチを入れるための時間だ。

さて、現代の平和ボケ日本にいる私の関心領域はどこにあるのか。
ほぼ妻と似たような大人の女性としての幸せに関心がある。子どものことや美しいドレスや花や家やまつ毛が確かに大事。
だけど、夫には夫の、娘には娘の、ベビーにはベビーの、使用人には使用人の関心領域がある。
他人の関心領域にも想像を膨らませよ!
他国の関心領域に想像を膨らませよ!物事は一面では描けない。

最近観た戦争の映画三本。
ゴジラ-1.0は極めて日本的キャラクターのゴジラを使った、ファンタジーの中の日本目線の戦時中の人間ドラマ。
オッペンハイマーは科学者目線でもあるが広島長崎の描写はセリフ二言だけでおおむねアメリカ目線。
無名は日本と国民党と共産党の二重スパイの話で中国目線で長期にわたる戦争を描いた。
これらは1本の映画につき、ひとつの国からの目線。

戦争ではなくとも複数の視点でひとつのものごとを描いているのは芥川龍之介の「藪の中」であり黒澤明の「羅城門」で、それぞれの言い分や目線をひとつの物語の中で描き、真実は藪の中だ。何が正義は読んだ者、観た者に委ねて終わる。
それも素晴らしかったが、そこまでだった。

でも関心領域はそれとはまた違う視点で五感で感じろと投げかけてくる。
今、自分の関心領域の外にあることにもっと耳を傾け、見えないところこそ想像せよと。

赤ちゃんは物心着いておらず泣き叫ぶ事で自分を表現する。関心領域はほぼ生理現象だ。
女は美しいものや家や生活がいちばん大切だ。
男は戦争に加担したり子どもにヘンゼルとグレーテルの物語を読んであげたり妻が単身赴任先に着いてこなかったものだから女を連れ込んだり。
娘はまだまだ女にはなっていない。物語の世界の中で生きている。女になる前、大人になる前の彼女にしか見えない少女世界がある。
幸せな暮らしを共有している家族でもこれだけ見ているものが違うと見せつけてくれる。

今この瞬間にも紛争は起きている。
後から振り返ったら第三次世界大戦は既に始まっていたなんてこともありうる。
見えていないこと聞こえていないことにも関心領域を広げたいと思わせてくれた。

アウシュヴィッツを何もリアルに見せずに嘔吐と無数の靴や清掃のシーンだけで全てを語ってくれた。
監督の視点に感服。
エンドロールも侮ることなかれ。異音にどんどんかぶさっていく人々の声。それがまさに「世界」だ!
答えはひとつではない。

momo