「地獄の阿鼻叫喚のほとりで展開される、加害者たちの平穏で満ち足りた楽園の生活。」関心領域 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
地獄の阿鼻叫喚のほとりで展開される、加害者たちの平穏で満ち足りた楽園の生活。
きわめて手の込んだ、面白い仕掛けの映画だとは思うけど……観ていてそんなに面白かったかと言われると、そうでもなかったかな(笑)。
なんか、よほど頭の良い観客というか、勘の良い観客をターゲットにして、客のことを心から信頼して、自分たちが何をやっているかがちゃんと伝わると信じてつくられている感じがあって、そこは素直に潔いと思う。
でも、潔すぎて、結局なにもひっかかりのあるイベントがないまま、終わっちゃった感も強い。
この映画のキモは、「アウシュビッツ強制収容所の壁越しに立つ、ナチス高官である収容所所長の幸せな家庭」を「窃視」する感覚にある。
「関心領域(The Zone of Interest)」という言葉は、ナチスがアウシュビッツ周辺を婉曲的に呼びならわした名称らしいが、本作では「ナチス高官にとっての関心のある領域」というダブルミーニングとして機能しているようにも見える。
言葉どおり、このドイツ人家庭の関心事はもっぱら、庭付き一戸建ての公邸の「内部」にとどまっている。カメラも「彼らにとっての関心領域」内でしか動かず、収容所の「壁の向こう」にある地獄絵図には足を踏み入れようともしない。
そこで、われわれは目撃する。
地獄と隣り合わせで生きながら、満ち足りた幸福な時間を過ごす家族の姿を。
自分たちこそが地獄の原因であり主導的な立場にありながら、まったくそのことを意に介さず、穏やかで平和な日々を送っている人々の生活ぶりを。
思考を停止させて全滅政策に加担している収容所所長とその家族が、私生活においては細やかで愛情深い人間であるという二重性がふつうに有り得るのだという現実を。
だけど、これって結局、観客は常に「ホントは隣(オフスクリーン)で本物の地獄が現出しているんだ」という事実を、常に「自分で」想起しながら観ないといけないってことだよね。
今見せられている、ドイツ人家庭の当たり前の平穏な世界が「実は異常なものだ」と、観客が自分に「言い聞かせ」ながら観ることが期待されてる。
それって結構、観客の知性だとか胆力だとか判断力に対する期待が大きすぎるっていうか、有り体にいって「買いかぶりすぎ」なんじゃないかとも思う。
映画のなかで、
奥さんのお母さんが勝手に帰っちゃうシーンとか、
りんごを埋めて回る少女のシーンとか、
ラストの現代のアウシュビッツを挟むギミックとか、
ホントになんの説明もなしにやってくるの、
けっこうふつうにわかりにくいよね(笑)。
もっとあざとく仕上げたら(たとえばドイツ人一家とユダヤの悲劇をあからさまに対比させるみたいなダッサい演出をするとか)作品の出来はたしかに劣化するだろうけど、少なくとももう少し「わかりやすく伝わる映画」になったとは思うんだよね。
でもこの監督は、意地でもこのミニマルな作り方は変えないぞっていうか。
客に忖度してわかりやすくすることで、べちゃっとさせることだけは絶対しないぞっていうか。
100%観客を信頼して、こういうつくりで押し通してもわかってもらえると信じてつくることが俺たちの矜持だっていうか。
その意味で、この映画の制作陣は「含羞」のとても強い人達だと思うし、ストイックなまでに「劇的な演出」を避けて通っているのは立派といえば立派だ。
ただ、それはそれで構わないけど、個人的には「いや、俺そこまで賢くないし、そこまで能動的に映画観てるわけじゃないからw」って気分にちょっとなったのでした。
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狂気の大殺戮と、塀一枚で隔てられた平和な一家の生活。
この映画には、いくつもの「ほのめかし」がある。
たとえば、庭園の花壇で、美しい花々の間にはびこる雑草を処分する奥さんとか。
あるいは、焼却炉の灰で汚れた身体と風呂桶を必死で洗いまくる家族とメイドとか。
それから、ナチスの会議施設のホール一面に飾られた鹿の角(トロフィー)とか。
ほかにも、兄弟げんかが高じて、お兄ちゃんが弟を温室に閉じ込めるお仕置きとか。
これらは全て、ナチス側の平穏な生活に滲み出した、残虐性と民族浄化のメタファーだ。
●まず彼らにとって、ユダヤは「間引くべき雑草」であり「庭を乱す夾雑物」に過ぎない。
あるいは、「消し去るべきしみ」であり「洗い流すべき汚れ」のようなものだ。
ナチスによる民族浄化のキモは、「浄化」の部分だ。
彼らは納得のいかないものを除去し、一掃し、「きれいにしよう」とした。
ナチスの根本にあったのは、正義に反する曖昧さへの忌避感であり、統制のとれた美しき世界への憧れであり、穢れたものへの徹底した嫌悪であった。
(この正義と清浄にまつわる凝り固まった「理念」が暴走する図式こそが「国家社会主義」の本質であり、のちの中国やソヴィエトの共産党による辺境民族浄化にもつながってゆく。われわれは正義の執行にこそ最大の悪がひそんでいることを常に認識し、警戒する必要がある。)
それはすなわち「掃除=浄化」の思想であり、本作のなかで繰り返される様々な「掃除」のシーンは、まさにナチスの思想と通底した営みとして挿入されている。
われわれは、この映画で「掃除」する人々、庭を「整備」する人々を見るたびに、壁の向こうで執り行われている狂気も「同じ感覚」で成されている事実を噛みしめねばならない。
ラストのアウシュビッツ記念館で、清掃員たちがルーティンワークとして清掃にはげむシーンもまた、痛烈な皮肉として機能している。メカニカルに展開された「浄化」の理念の恐ろしさを伝えるための負の殿堂で、「浄化」が大切な朝の行事として粛々と繰り返されているという、ある種の笑い話である。
●もちろん、ナチスの党員たちにとっても、塀の向こうで行われている虐殺は、ことさら意識上に上らせたいものではない。
あくまで、職務として、成果として、数字として認識することで、なんとか精神的に折り合いをつけているのが実情だ。
だから今、目の前で起きている(それどころか思い切り自分たちもコミットしている)地獄のような加害行為から、目を背けること、意識しないこと、理屈を先に立てて道義的に納得することが彼らにとっては重要になってくる。
そこで、アウシュビッツから流れてきた焼却炉の灰などが身についたら、それこそ猛烈にヤバいわけだ。
それはナチスにとって、目を背けてきた現実の薄汚い実体化であり、遠ざけてきた隔離領域から越境してきた汚染物質であり、その素材がユダヤ人ということでも、三重に「穢れ」として祓わねばならない「特級呪物」だからだ。
●隣の塀越しに聞こえてくる「音」もまた、なるべくなら意識上には上らせたくないものだ。日夜途切れない悲鳴と怒鳴り声と銃声。結局、日中あれだけ庭や内装を褒めていた妻ヘートヴィヒのお母さんは、夜の暗闇にしじまから響く殺戮と怨嗟のうなりに耐え切れず、未明に一人帰ってしまう。置き手紙を読んだヘートヴィヒは怒り狂う。実母によって彼女の築いた「楽園」が全否定されたのだ。それはムカつくだろう。
ただ、ヘートヴィヒを擁護するわけではないが、人間、不愉快な音というのは脳内でオミットするように生来的に出来ているのも事実だ。かつて僕は明治通り沿いのマンションの5階に住んでいたことがある。引っ越し当初、外から鳴り響く車の走る騒音を聴いて、このなかで寝つくのはなかなか大変だなと思ったものだ。しかし、ものの2週間くらいで、見事にその騒音は「聴こえなくなった」。外でいくら車の騒音がしても、全く気にならなくなったのだ。人間は、不快な音を「慣れ」によって克服するよう、もとよりプログラムされている。このことを僕は自らの身体で思い知った。
ルドルフとヘートヴィヒも、単純に「鈍感力」によってユダヤ人虐殺と断末魔の叫びを無視しているというよりは、生理的に本当にもう「聴こえなくなっている」のだと思う。
だが、慣れていないヘートヴィヒのお母さんにとっては、まさにそれは地獄からの怨嗟の合唱に聴こえただろう。そして、そのなかで阿鼻叫喚を屁とも思わず「楽園を満喫」している娘夫婦の「異常性」に惧れを抱いたはずだ。置き手紙から漏れ出ていたのは、そういう二人の有り様への疑義――地獄の獄卒となり果てた二人への恐怖の想いではなかったか。
●ナチスにとっての東方戦線は、侵略行為というよりはフロンティアの拡大であった。
ポーランドの地の征服は、ゲルマンによる辺境の教化であり、ユダヤもまた「狩り」の対象だった。彼らは何よりも、「征服者」であり「開拓者」だった。その感覚は、おそらく南米を目指したピサロ、コルテスらコンキスタドールたちや、北米でインディアンを狩って領土を拡大したアメリカ人たちとそう大きくは変わらない。単純に「白人×白人」という部分の「共食い」感と、規模の異常性が歴史上で際立っているだけである。
その意味で、壁中に飾られたトロフィー(狩りの戦利品)は、ナチスの高揚した当時の心性を視覚的に象徴している。彼らにとって、ユダヤ狩りはまさしく「壁に飾られるべき誇らしき戦果」であった。
●日々の生活において、隣にあるアウシュビッツ収容所の存在は、その地獄からは距離を置いているかに見えるルドルフ・ヘスの邸宅においても、あちこちで影響力を及ぼしているはずだ。
奥さんが手に入れている高級な衣服や装飾具は、収容所のユダヤ人たちからの簒奪品だし、召使いの出入りもある。さらには、アウシュビッツで恒常化している残虐行為は、思考のルーティンとして「日常化」し、日々の行動様式にしみ込んできている。
召使いに「夫にいって灰にしてやる」と言い放つ妻。召使いを性的な慰みものとして平然と消費する夫。差別と虐待の日常化は、もちろんながら純真な子供たちをも汚染してゆく。兄弟二人が遊びのなかで見せる「閉じ込める」ことの罰としての有効性の認識は、まさにその文脈でこそとらえるべきものだろう。
さまざまな「ほのめかし」の先に見えて来るのは、この物語が「幸福な家族の日常とちょっとした諍いとその解決を描いた、ハッピーエンドのこぢんまりとしたホームドラマ」として完結しているがゆえに、実は「悪夢のような状況下で平然と生きる加害者たちの鈍感さと無関心を描いた究極のホラー」でもあり得るという、極限の二重性を目指しているということだ。
地獄のただなかで獄卒たちが演じる、フランク・キャプラのような世界。
ただし、最初に述べた通り、その恐ろしさや狂気の深さを心底から体感するためには、「観る側」の積極的な思考と映画へのコミットメントが必要となってくる。
僕には、そこまでの胆力がなかった。何も起きないこと、誰にも感情移入できないことへの耐性が低すぎた。だから、あんまり面白くは観られなかった。まあ、そういうことだろう。
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本作で描かれる「加害者側の感性の恐るべき鈍麻・鈍感化」「半径10mの幸せによって見えなくなる周辺の地獄」「国家の名の下ではごく普通の人間が殺戮行為に加担できる事実」といったテーマは、そのまま現代のロシアによるウクライナ侵攻や、中国によるウイグル自治区の浄化政策、イスラエルによるガザ&ハマス制圧作戦などにも通底する。
特に、自国民ですら消費される数値としてしか認識せず、数十万単位での人的犠牲を出して恬として恥じるところのないロシアのやり口は、本作で描かれたナチスとそう変わらない。
そしてもちろん、本作はそれらの殺戮行為をデータと情報という形でしか認識し得ず、対岸の火事として幸せな毎日を送る日本人への痛烈な警告でもある。
「関心領域」の域内での「コップのなかの失楽」にかまけているうちに、われわれもまた「ゆでガエル」になっていないか?
相手の悪に対して鈍感になっていないか?
自分の悪に対して無自覚になっていないか?
これはルドルフ・ヘス一家の在り方に恐怖する映画ではない。
自らもまたルドルフ・ヘス一家のようになり得る、という事実に恐怖する映画なのだ。
その他、「楽園」と「地獄」と「リンゴ」のキリスト教的な三題噺とか、『落下の解剖学』のザンドラ・ヒュラーの抑制的演技とかも語りたいところだが、紙幅が尽きたのでこの辺で(笑)。
>多くの「物語」に接して想像力を涵養して共感力を高めることと
>敵味方や上下の分を分け過ぎないこと
>絶対的な正義を確信しないこと
>「中途半端な感覚」や「若干不愉快な状態」を鷹揚に受け入れること(あやふやさへの耐性を身に着けること)
いただいた上記コメント、大変感銘を受けました。
自分が正しいと思い過ぎないこと、相手を慮ること、鷹揚さ、あやふさへの耐性、、、 ああ、狭小な私の課題ばっかりで胸が痛い。。。
大変面白く読ませていただきました。
>思考を停止させて全滅政策に加担している収容所所長とその家族が、私生活においては細やかで愛情深い人間であるという二重性がふつうに有り得るのだという現実を。
うなづきまくりです。言語化していただき、はじめて正体が明確になりました。
>残虐性と民族浄化のメタファー
ここものすごく興味深かったです。「掃除=浄化」。現代のシーンもそれで掃除のシーンだったのか。素晴らしい考察です。で、きっとその企図だと思います。
>人間、不愉快な音というのは脳内でオミットするように生来的に出来ているのも事実だ。
なるほど。私はずっと気になるのでイヤーウィスパーやノイキャンが手放せない人なので気づかなかったのですが、そうなんですね。ルドルフとヘートヴィヒは、生理的に本当にもう聴こえなくなっていたのか。(お母さんは逆に聴こえたから耐えられなかった。)合点いきました。
>「悪夢のような状況下で平然と生きる加害者たちの鈍感さと無関心を描いた究極のホラー」
ほんとホラーです。。。
>われわれもまた「ゆでガエル」になっていないか?
相手の悪に対して鈍感になっていないか?
自分の悪に対して無自覚になっていないか?
こうならないという自信がない。だめだ。
自戒せねば。
コメントありがとうございます。
本文でも少し触れたのですが、塀の中の実情を知る人に有用かというと疑問だったんです。
逆に、極端な話、アウシュビッツ強制収容所についてまったく知らない人には何が何だか分からないハズで。
なので、評価されてるのは“表現方法”であって作品の中身ではないように思えて…
メッセージを届けるための題材でなく、アイデアを活かすための題材になってたと言うか…
それ自体は「新しい」とも「すごい」とも思うのですが、“映画”としての高評価は付けづらかった、という長文の言い訳でした。笑