「壁の向こう側」関心領域 レントさんの映画レビュー(感想・評価)
壁の向こう側
壁を一枚隔てた二つの世界。壁のこちら側ではごく普通の家族の営みが、そして壁の向こう側では恐ろしいことが行われている。
アウシュビッツ収容所所長のルドルフ・ヘスの家族が暮らす立派な邸宅には広い庭があり、ヘスの妻が手塩にかけた植物が植えられている。温室やプールまでが備えられ、休日には多くの子供たちで賑わう。
子煩悩であり、善き夫でもあるヘス。休日には近くの川でピクニックや乗馬、釣りやボートを楽しむ理想的な家庭の姿。
そんなヘスの一家が暮らす家の壁一枚隔てた向こう側では常に銃声のような音が鳴り響いている。そして遠くの煙突からは定期的に黒い煙が立ち上っている。しかし彼ら一家はそれらの光景に特に関心ないようである。むしろ慣れっこになっており、気にもならないようだ。ヘスの幼い息子などは時折聞こえてくる何かを罵倒する声の口真似をしたりしている。
ただ、娘は敏感に何かを感じ取っているのだろうか、寝付けないそんな娘にヘスは本を読んで聞かせる。
ヘスの邸宅には食料などの物資が定期的に届けられる。中には肌着などの衣類や高価な毛皮のコートまで。肥料となる灰も常に事欠かないため庭の花々も色とりどりに咲き誇っている。これこそがヘスの妻が理想とする暮らし、何不自由のない豊かな暮らしがそこにはあった。何かを犠牲にして。
そんな時、ヘスに移動の命令が下りる。彼の所長としての功績が認められての昇進だった。しかし妻の気持ちを汲んだ彼は家族を残し単身赴任する。離れ離れになってしまう家族。遠く離れた勤務地からヘスは家族を思う。
大きな計画が実行に移される時が来たとき後任の所長には手に余るため、ヘスが所長を復任することとなった。家族はまた同じ屋根の下で暮らせるようになり、作品はそこで終わる。
大きな計画とはヨーロッパ中のユダヤ人を絶滅収容所に送る計画だった。
たった壁一枚の隔たり、その向こう側で行われていることに関心を持たない人々の姿。これはまさに今の社会を象徴しているのだろうか。
内戦や貧困から逃れ助けを求める難民、紛争が続く中東で繰り返される虐殺にどれだけの人が関心を寄せているだろうか。日々の生活に追われてそんな余裕もないのが私を含めて実際のところではないだろうか。
いま現在もウクライナやパレスチナでは日々虐殺が行われている。確かに日本に住む我々にとっては壁一枚というには距離があり遠い国での出来事とも思える。しかしそこでの出来事が日々テレビやSNSによってタイムリーに情報が得られるという点では壁一枚向こう側の出来事とも言える。
それら情報を手にして、その悲惨な現地の映像を目の当たりにして心を痛める。しかし次の瞬間には自分の明日の仕事のことや、生活のことを考えている。壁の向こう側の出来事への関心は長くは続かない。結局できることは限られてしまう。アクティブな人なら抗議活動などしたりするのだろうが、私は所詮募金止まりだ。
その点、世界中でZ世代の若者たちが声を上げてることには実に頭が下がる。彼らはロシアやイスラエルに対して抗議の声を上げている。
ナチスのホロコーストはもはや過去の歴史上の出来事だが、ウクライナやパレスチナはまさに今起きている進行形のホロコーストだ。ナチスの時代、声をあげれなかったからこそ、今声を上げなければという使命感のような思いがあってのことだろう。
もし無関心のままだったら、結末はアウシュビッツビルケナウ博物館のような光景が待っている。おびただしい数の靴や衣服がそこには展示されている。
本作のラストでは現在のビルケナウ博物館がフラッシュバックされる。そして嘔吐するヘスの姿。自分たちの行っている行為が、無関心でいることがどれほど恐ろしいことなのか本作は自覚しろと訴える。
ただ淡々とヘスの家族の日常を描いただけの作品。壁の向こう側で行われている虐殺はけして描かない。監督は観客の想像に委ねる。だからこそ本作は恐ろしい。視覚でとらえてしまうと想像の余地は狭まる、見せないことであえて観客に想像させる。想像は膨らみ、想像すればするほど怖くなる。想像が作り出した残酷な光景が頭からこびりついて離れなくなる。もはや無関心ではいられなくなる。そんな効果を監督は狙ったのだとしたら本作は大成功だといえるだろう。観客の関心を最大限高めた作品だった。ただ、関心がわかない人にとってはつまらない映画だと思う。
実は本作はヘスの家族以外にもう一つの家族が描かれている。レジスタンスの少女の家族だ。彼女は夜ごと強制労働の現場に足を運びリンゴを忍ばせる。そんな彼女にユダヤ人はメッセージを託す。曲にカモフラージュしたメッセージを。
サーモグラフィーで描かれる彼女の姿は冷酷なナチスとは対照的にぬくもりを感じさせるものであり、本作で唯一の救いとなるものだった。
本作を見て「ヒトラーのための虐殺会議」を思い出した。本作はあの作品と似ている。同じホロコーストを扱っていながら一切虐殺のシーンは描かれない。あの作品は会議出席者たちが淡々とユダヤ人をいかに効率的に虐殺できるかを議論する作品だった。そこには自分たちがいかに残虐な行為を計画しているか自覚してる人間は一人もいなかった。
人類史上、虐殺はホロコーストに限らずいつの時代でもいたるところで行われてきた。十字軍の遠征、広島長崎、クメールルージュ等々。
なぜ人はこうも残酷になれるのか。なぜ人が人に対してかようにも残酷になれるのか。先述のようにこれはナチに限らない。歴史上人は残虐であり続けた。しかし一方でそのような残虐なことができる人間たちも家に帰れば優しい父であったり、親孝行の息子だったりする。本作のヘスもそうだ。善き父であり善き夫なのだ。そんな人がなぜこうも残虐になれるのか。
彼らが日ごろから残虐行為を繰り返す野蛮人なら安心できたが、彼らは我々と同じごく普通の人間だ。そんなごく普通の人間がなぜこのような虐殺行為をできるのか。
それは思考を停止させているからだろう、残虐を残虐とは思わないからだ。牛を殺して食べることを残虐だと考える人間がいないように、ユダヤ人を人間と考えなければ自分たちの行為を残虐だと思うこともない。思考を停止することで人は優しいままでいくらでも残虐になれるとは「福田村事件」の森達也監督の言葉だ。
優しい父、優しい夫のままで、彼らはなんの躊躇もなくおびただしい数のユダヤ人をガス室に送れる。彼らが残虐なのではなく単に思考停止しているだけ。ならば誰もが思考停止すればどんな残虐な行為も行えるのだろう。
私自身戦場に送られれば思考停止して相手を平気で殺せるようになるかもしれない。だからこそ戦争はけしてしてはいけないのだとつくづく思う。戦争が思考停止を生み、思考停止が戦争を生むのだ。
にのんさんのコメント、読ませていただきました。私も同様の衝撃を受けました。(レントさんのレビューでの書き込み、申し訳ありません)
このサイトでも、「意識の高い人」という表現で壁を作っている方のレビューは、かなり多く、結構ショックを受けているところです。
唯一の、りんごの少女のぬくもりを私も感じました。自分のできることを考えて行動する信念には人間の愛があったからでしょう。
壁を越えたヘスもおかれた仕事に忠実でしたが、そのためにはそこでの人間愛はすべて切り捨てていた。
それも自分と家族が生きるためでしたが、歪みは彼を蝕みましたね。
悲劇の人間性の両極、考えさせられました。
にのんさん、コメントありがとうございます。レビューあげられてないのでこちらに返事書かせてもらいます。おっしゃる通りエンタメを求めて見に来るような作品ではないので意識の高い人以外にはつまらない作品なんでしょうね。私が見た回にも終始あくびをしてる中年男性が前の席にいました。せめて音を立てずにあくびしてほしいんですけどね。
そういう劇場の光景やにのんさんが言うレビューなどを見ていて無関心の怖さを思い知らされました。まさにこの作品が描いていたことを作品を鑑賞することで思い知らされるという点でも本作は価値のある作品だと思います。
つまらない、爆睡したなどの感想を見かけるたびに、人間の恐るべき残虐性の象徴であるアウシュビッツというテーマですらエンタメとして消費したい人々がいる現実に衝撃を受けました。人間という存在の業の深さを自覚し自らを省みるためにも、聴覚、視覚、想像力をフル稼働させて鑑賞すべき作品だと思います。