「「食育」の皮をかぶったカルト洗脳をめぐる風刺劇。ハーム、ハーム、ハーム、ハム!!」クラブゼロ じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
「食育」の皮をかぶったカルト洗脳をめぐる風刺劇。ハーム、ハーム、ハーム、ハム!!
まー、底意地の悪い映画だよね(笑)。
個人的にはじゅうぶん楽しめたけど、
ちょっと思ってた映画とは違ったかも。
監督がミヒャエル・ハネケの弟子だって言われて
さもありなんって感じだったな。
いちおうは「食事」と「教育」の話の「ふり」をしてる。
だけど、それは象徴的な入口に過ぎない。
実際は「宗教」だったり「政治」だったり「カルト」だったりも含めた、「洗脳」や「分断」を扱った包括的な風刺が目的の映画だろう。
だから、本作で語られていることは、
ある種の「寓話」「戯画」だと思って観るべきなのは間違いない。
この映画でクッソミソにバカにされているのは、
なにも「ファスティング(断食)」だけではない。
同じくらいの見下し方で、
愛情いっぱいの食育とか、
ブルジョワ家庭の豪華な食事も
思い切りバカにされている。
要するに、食事が大事とする家族論・健康論も、粗食をよしとする精神主義も、どちらも同じくらい「ばかばかしいもの」として断罪されているわけだ。
とくにリベラル層がもてはやしそうなものが、徹底的にやり玉にあげられているので、自分が責められているような気がしてムカつくという左派のお客さんは結構いそうだが、監督がバカにしているのは、必ずしもリベラル層だけではない。
彼女の攻撃は、全方位に及んでいる。
なんにせよ、子供たちを扇動するノヴァク先生も含めて、本作のなかで「悪意をもって」動いている人が一人もいないということが、一部の観客にもやもやした想いを抱かせるのは確かだろう。
たとえば、師匠のハネケが撮った『ファニー・ゲーム』も不条理な崩壊劇だったが、あそこには絶対的な悪意の存在があった。それは観客にとっては、ある種「安心できる」要素でもある。悪い奴がいるから悪いことは起きる。それはとても理屈が通っていて、自分を棚にあげるには都合のよいありようだからだ。
あれはトランプが悪い。プーチンが悪い。自民が悪い。
そういっている「自分」は安全地帯で正義を語っていられる。
だが本作では、先生も、生徒も、親も、教師も、「良かれと思って」行動している善良な人々ばかりである。これは、正義を信じ、良かれと思って政治を語り、社会を語り、旧悪と戦っているつもりの人たちにとっては「とても都合の悪い」状況だ。
誰もが自分の正しいと信じることをやっていても、歯車が変にかみ合ってしまえば、こんなどうしようもない悲喜劇が生じてしまう。この事実を突きつけられるのは、きわめて居心地の悪いことであるに違いない。
本作では、イキったプチブルがはまって、
良かれと思っていい気になってるような、
ポリコレとか、動物愛護とか、
環境保護とか、温暖化対策とか、
おためごかしの親の愛とか、PTAとか、
クラスの自治とか、子供の自主性とか、
メディテーションとか、スピ全般とか、
日本食とか、キモノを夜着にするとか、
とにかく、すべてをこき下ろしていて、
そこは、ある意味爽快なくらいだ。
僕自身、上記のような類の「偽善」は、右も左も関係なくみんなムカつくし、不愉快だし、気に食わないし、バカじゃないだろうかと毎日思いながら生きてきた手合いなので(笑)、そのへんはむしろ非常に痛快だし、小気味いい。
僕は左派思想の一部にそこそこ共感するが、それを支持している左派の攻撃性と正義ヅラと上から目線の偉そうな物言いには耐えられない。
僕は右派思想の一部にもそこそこ共感するが、それを支持しているネット民の負け犬根性とチー牛臭さと嘲笑的姿勢に我慢がならない。
理想を語るやつがきらい。
正義を語るやつがきらい。
人を叩いて図に乗るやつがきらい。
自分の醜さを善だととらえる欺瞞がきらい。
その意味で、この監督のメンタリティは、
僕のそれとまあまあ近しい気がする。
ある意味、親近感まで覚えてしまう。
ぶっちゃけ、リベラルにせよ、保守にせよ、宗教にせよ、無宗教にせよ、スピリチュアルにせよ、ニヒリズムにせよ、何かの「イズム」を信奉している時点ですでに、人はおおいにおのずから胡散くさいわけですよ。
そこをちゃんとわかっている監督さんであることは確かだ。
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この「意識的な食事法」で用いられている「手順」は、そのまま自己啓発セミナーだったり、新興宗教の勧誘だったり、政党のオルグだったりに置き換えることができるものだ。
まずは毒気のない「クラブ活動」から始めて、
友愛と精神的つながりによる絆を築き上げて、
階梯を上がっていくことで達成感を生み出す。
親兄弟の干渉を最初から教義に織り込み済みで、
それに反発し、最終的には「出家」することを促す。
ここで描かれているのは、オウムや統一教会や創価学会や共産党や幾多のスピリチュアルやトクリュウや詐欺グループの世界で、何度も何度も繰り返されてきた、洗脳と囲い込みのメカニズムである。
僕の高校の級友で、一緒の大学に行ったS君がいた。
彼は医学部に入るくらいの超優秀な男だった。
そんな彼が原理研究会に入った。統一教会の下部組織である。
仲間と聖歌を歌いながらホームへの道を歩く彼の姿が頻繁に目撃された。
彼は組織のなかで成り上がって、青年部の役職まで手に入れていた。
彼の親御さんは当然心配して、同じ大学に進んだ同級生たちにSOSを送ってきた。
われわれはS君と学生会館で会うたびに、なるべく声をかけ、旧交を温めた。
だが、信仰の話となると、彼はとてもかたくなだった。
僕が「よくそんな荒唐無稽な教義を信じられるね」といったら、
「君の口を借りて悪魔が試練を与えてくることは最初からわかっていた」と返してきた。
結局、僕たちも高校の担任も親御さんも、彼を脱会させることはできなかった。
彼はその後、いちおうちゃんと医者になって、今でも地方病院で働いている。
ただし、この話には恐ろしい落ちがついている。
あれだけS君を脱会させようとしていた親御さんが結局どうなったか。
S君の親御さんは、最終的に統一教会に入信したのである。
僕はこの映画を観ながら、ずっとS君のことを思い出していた。
S君が友達から、家庭から、
そして、「常識」から切り離されていく過程が、まさに同じだったからだ。
S君は元気にしているだろうか?
一緒に修学旅行に行ったのを覚えているだろうか?
彼に借りた『めぞん一刻』で、僕の人生が変わったことをどう思ってくれているだろうか?
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この映画を観ていて、思い出した映画がある。
『ピクニック at ハンギング・ロック』。
1975年にまだ若いころのピーター・ウィアーが撮った、不条理設定のカルト・ムーヴィーだ。
ご覧になった人なら、両者にはいくつかの共通点があることがご理解いただけるだろう。
高校生くらいの年齢の子供たち。
寄宿舎付きの英国式の私立学校。
ワンマンで仕切っている女校長。
思春期性の高さと物語の象徴性。
ピュリティとイノセンスの暴走。
「登山」と「食事」の性的寓意。
そして、女性教師と複数名の生徒たちが「本人たちの意思で高みへと昇って行った」結果として、最後には「ひとまとめに神隠しに遭って居なくなる」という「ほぼ同じ結末」が待ち受けている(『ピクニック~』では前半のイベントだが)。
そういえば、途中まで仲間に追随していたのに、離脱して助かることになる「眼鏡っ娘」の存在も共通している。
パンフで、この映画の出発点は「ハーメルンの笛吹男」だとあったが(なるほど)、『ピクニック~』についての言及はない(弱っていく子供たちのメイクのヒントを、黒澤明の『どですかでん』から得たという話は出てくる)。
でも、思春期の子供たちの純粋さゆえの結束と暴走、親世代への反抗と自由への逃走といった部分では、監督は間違いなく『ピクニック at ハンギング・ロック』を意識して作っていると思う。
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最初に、面白かったけど、思っていた映画とはちょっと違った、と書いた。
何が違ったかというと、おもに前半の展開にまったくリアリティを感じなかったという部分が大きい。後半のカルト化と滑稽な末路についてはほぼ期待どおりだっただけに、この辺はとてももったいなかった感じがする。
とにかく、ノヴァク先生が簡単に受け入れられすぎ。
ここまであからさまに「おかしなことをいっている」先生が、ほとんど無抵抗で学校、親、子供に受容され、頼りにされてくことなんてあるのかな?
いくら「寓話」であり「戯画」であるといっても、さすがにうまく行き過ぎではないか。もう少し子供たちからの混ぜっ返しや、展開上の波乱があってもよさそうなものだが……。
「小食がよい」「粗食がよい」というのはわかる。
むしろ、東洋人のわれわれには受け入れやすい思想だろう。
お坊さんとか、精進料理とか、カスミを食う仙人とか。
だが、そこから一足飛びに「食べないのがよい」へは、さすがに進めないのでは??
だって、ふつうはもう少し葛藤や疑念が生じると思うんだよね。
「食べないと死ぬ」って原理原則を否定するのって、かなり難しいような……。
そもそも、この先生は「何を食べて」生活しているのか??
本当にファスティング・ティーだけを飲んで生きているのか?
だとすれば、なぜ先生の見た目は健康そうで痩せていないのか?
意思さえあれば、本当に食事をとらないでも生きられる「世界観」の映画なのか?
「クラブゼロ」は作中世界で実在している組織なのか?
出された食物を食べずに捨てるのは、むしろ「エコ」の対極ではないのか?
親が食事をつくる「前」に、食べないって言わないといけないのでは?
さすがに糖尿病管理に失敗して倒れたら、親はクラスから離脱させるのでは?
……など、いろいろと疑念はつきない。
観客サイドから見てかなり気になる世界観のゆがみや、ノヴァク先生の異常性を放置したまま、ただただ淡々と子供たちの掌握と現実からの逸脱が進んでいくので、前半はかなり「こんな作りでええんかいな?」との思いが強かった。
そのうち、人がゲロ食べだしたり、犬がゲロ食べだしたりと、いろいろ面白いことになったので、どうでもよくなったけど(笑)。
もう少し前半で「ドラマらしいドラマ」が用意できていたら、ここまで単純に「冷笑的」なだけの突き放した風刺話にはならなかったし、単に底意地の悪い斜に構えただけの映画では終わらなかった気がするんだよね。
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●冒頭の天井付近から見下ろす視点と、斜めに切れた梁の不安定さ、画面右端から入り込んでくるキャラなど、「監視カメラ」感のある窃視的カメラワークで、「ただものじゃない」感がよく出てる。
●黄色と青と赤の三原色を意識的に用いたカラリングがすばらしい。
●「ハーム」「ハーム」「ハーム」「ハム!」の、最後の「ハム!」を思いついたのが天才的(笑)。
●ミア・ワシコウスカは正面から見据える顔もいいんだが、上半身のスタイルの妙な「生々しさ」が役によく合っている。
●エルサ役の少女(素人さんらしい)がエマ・ストーンっぽい。
●バレエやってる子が踊っている「ピーターと狼」は知ってたが、ピアノリサイタルでエルサが弾く曲と、オペラで使われている曲はまったく知らない曲だった。ホイットニーの「I Wanna Dance with Somebody」が使われていたが、彼女も何度も「激ヤセ」でニュースになってた記憶があるよね。
●ラストは「最後の晩餐」のパロディ。眼鏡っ娘(素人さんらしい)の最後のセリフの言い方と顔つきがすばらしい。
あと、一見、静止画エンドだと思ったら、みんなずっと微妙に動いてるのね。パゾリーニやグリーナウェイもやっていた「タブロー・ヴィヴァン(活人画=人を用いて舞台上で絵画を再現する)」ってやつですね。
にしても、何があったかホントに知りたいのなら、まずは途中離脱した黒人の少女と白人の少年を呼びなさいよ(笑)。洗脳されかけた過程とついていけなかった部分を知るには最適だと思うんだけど。
この映画で一番イキイキ演技合戦してたのは、ダメPTA軍団かもしれないなあ。