「異色の「軽やかな時代劇」だが「群像劇」としては破綻」首 ドミトリー・グーロフさんの映画レビュー(感想・評価)
異色の「軽やかな時代劇」だが「群像劇」としては破綻
オープニングタイトルは、白地の画面にバンと大書された「首」の一文字。と、そこへ太刀を振り下ろす音がズバっと響く。「首」の書字の上部が袈裟切りされ、ずり落ちる…。隆々たる筆跡の書字全体に対し、このずり落ちた部分は薄っぺらで軽々しい。もしかしてそれは、物語られる中身の「軽み」を象徴していたのかもしれない。
本作のアウトラインは『アウトレイジ』だ。映画冒頭いきなりぶっ潰される「荒木組」をはじめ、「織田連合」とその傘下の「明智組」「羽柴組」、さらに同連合と契りを交わす「徳川会」が、ひたすらゲームのように騙し合い、潰し合う。そして「織田連合」の信長会長は公然とセクハラ、パワハラやり放題だ。
折々挟まれる城攻めや平地の合戦シーンは一瞬、『蜘蛛巣城』『乱』などの黒澤監督作品を連想させる。がしかし、コレは『戦国自衛隊』『ロード・オブ・ザ・リング』のような、甲冑をまとった無国籍風SFファンタジーとみなした方がしっくりくるよな、と思い至る。
こうした激烈な「抗争」のウラで、男同士の恋愛感情(信長、光秀、村重の三角関係のもつれなど)も描かれる。しかし大島監督の『御法度』における男色などと異なり、武士の同性愛自体ごくありふれたものとして描かれ、乾いた恋愛ゲームのような軽さすら漂う。
光秀、村重のラブシーンなど、まるでドラマ「きのう何食べた?」の“同人誌バージョン”みたいだ。「すまんシゲ。信長殿にしつこく迫られて。つい俺も『好きです』って、スルっと答えてた」「それってあんまりじゃない、ヒデさん」「オマエだって、迫ってきた殿に『喜んで!』とか言ってたじゃないか」…こんな会話が今にも聞こえてきそう。
そんなこんなで展開する間、首がぽんぽん飛ぶ。数え切れないほどゴロゴロ転がる。こうなると、人の不条理な死もテッテー的に笑い飛ばしているかのようだ。もはや「時代劇」というより「落語」だ。上方落語「算段の平兵衛」「らくだ」のようにブラックで屈折した笑い、ピカレスク・ロマンの世界。ラストの秀吉の“ひと蹴り”など、落語のオチそのものだろう。
ところで「笑い」といえば、秀吉・秀長・官兵衛3人の「トリオ・ザ・羽柴ズ」が劇中くり広げる“アドリブ漫才”が好評だが、どうなんだろう。むしろ失笑するしかなかったが。そもそも当人たちがニヤついていてはダメだろう。ついでに言うと、76歳のビートたけし演ずる秀吉も老け過ぎな印象だ。
また、建前とウソにまみれた侍の世界とは対比的に、元忍者の河原芸人・曾呂利新左衛門と侍大将に憧れる百姓・茂助の2人が半ば狂言回し的に登場し、農民上がりの秀吉も交えて武家社会を軽やかに笑い飛ばしてみせる…はずのようだが、これも空振りに終わっている。原因は木村祐一の棒読み・棒立ち演技と中村獅童のオーバーアクトだ。映像の過剰なリアルさと相まって物語への集中を阻んでいる。
もちろん「笑い」がバッチリ決まったシーンもないわけではない。荒川良々演ずる清水宗治の舟上切腹シーンや小林薫扮する家康の替え玉“続々”シーンなど、真面目にトボけた感じや間合いが絶妙だった。
NHK大河ドラマを見れば一目瞭然だが、今や人を斬れそうな役者はほとんど見当たらず、真っ当な時代劇が成立しそうにない現在、時代錯誤的に時代劇を撮ることは可能か。その一つの回答がここにありえたはずだが、俳優たちのアンサンブルに出来不出来の差が激しく、編集の綻びも目立って「群像劇」として破綻してしまっている。残念な一作だった。