「〝生〟の部分」首 タニポさんの映画レビュー(感想・評価)
〝生〟の部分
〝狂ってやがる〟
今作のコピーの言葉だ。
文字通り、「首」は全員といっていいだろう、狂った戦国武将たちとそれを取り巻く〝狂気〟の人々の物語である。
「本能寺の変」を出来事の中心として、その前後を描いた作品となっている。
〝狂気〟を扱うにあたって、その〝まとも〟さの〝ものさし〟となるのは何だろう。
ぼくは〝笑い〟なのではないか、と思う。
よって本作はコメディ時代劇作品とも受け取れてしまう。
けれども、それは必然だったように感じる。
〝悪〟を描くだけなら、〝ものさし〟は、場合によってもそれ程必要無いのかもしれない。
それは観客の人々の中の倫理的な要素が、比較対象となって現れやすいのではないだろうか。
思い出すのは、同監督の「アウトレイジ」シリーズで、特に三作目の「アウトレイジ最終章」はそのバランスとなる〝まとも〟な存在も希薄だったように感じる。本当に全員〝悪〟だったという印象を記憶としてももった。
今作「首」の北野武演じる羽柴秀吉は、よってコメディリリーフとしての役割だった。
だが、その秀吉も、狂気の側面をもっており、ただそれが笑いに転じているだけであって、思考や、そのもっている野望には残忍性がある。
秀吉を中心にバランス、〝まとも〟さを感じられるのは、彼が〝笑い〟をもたせるからであって、それ以外の、人間性などからのことでは無いと、観た人々は分かると思う。
主に織田信長、明智光秀、羽柴秀吉を中心として物語が展開されてゆく印象があるが、
構成としては、荒木村重、羽柴秀吉、難波茂助の三人の軸があったように感じた。
巻き起こる「本能寺の変」と、その新しい解釈と共に、明智光秀を討つまでが描かれている。
時代劇として新鮮味をもったのは、銃火器の使用がやたら多いということや、農民の者たちが侍ぐらい強いということである。
しかしよく考えると当然のことのように思う。
「長篠の戦い」の火縄銃が本当なら、銃の強さは人々に知れた筈で、そこは否応無く、侍たちも使っていた可能性はある。
また、農民たちは普段も身体を動かしている訳であり、いきなりでも戦いに参じれば、例え武器がどうあろうと戦力的に高かった可能性はある。
そうした点をふまえると、黒澤明監督作「七人の侍」に対しての、時代考証含めた、北野武監督によるアンサーのようにも感じ取れる。
作品「七人の侍」のように、武士としての魂として銃は使わない(そう述べてないもののそう受け取れる)ことだったり、農民はか弱き存在(そう述べてないもののそう受け取れる)であるといったことを、考えとしても〈アップデート〉している。
こうした過程を踏まえても、本格的な時代劇でありながら、〝笑える要素がある〟作品だった。
各武将それぞれに孤独が見え、そして不安からか、武将たちは愛し合ってもいる。それはけして抽象的にではなく、肉体的にも、である。これが真面目にも描かれるのだから、同情していいのか嘲笑していいのか、共感すべきか同感すべきか分からなくなり、結局のところ心の内で笑ってしまった。
こうした複雑なところを含め、北野監督の手腕が発揮されており、画作りから色彩においても、これまでキタノブルーと呼ばれた青の強さよりも、今作品においてはグリーンの艶やかさ、柔らかさを感じたように思う。
演出、画作りや編集も、「アウトレイジ」シリーズと「龍三と七人の子分たち」を経た形で、より人物造形は劇中キャラクターとしても自然な形で自然さを携え、画面に活き活きとして現れたと感じた。
それは、どちらかといえば〝死〟を携えたこれまでのキタノブルーからは感じ取れなかった、〝生〟の部分のように思う。
ラスト近く、明智光秀は追われる形で、部下たちを失いながら逃走する。彼等は、死と共に、従えることを選んだ。だが、光秀自身は、武勲の為に、従えることを否定し拒否した者である。
〝武勲〟か、〝従えることの想い〟か。
その選択の中で、どちらも、まあ、狂気においてだが、
幸せでもあったのだろうか、とも思う。
そこに、もの悲しさを感じる。
農民として戦に参じながら、最後には光秀の首を取る(が、自身も取られる)難波茂助は、現代人の象徴のようにも受け取れる。
武勲のために、ただ流されるように人を殺めてゆく。
そこに彼の〝選択〟はあっただろうか。
ただ〝欲〟のままに突き進まなかっただろうか。
そうした、〝なにも選択しないことを選択する〟姿はどこか、今の現代人のようにも思う。
こうしたことすべてが〝狂ってやがる〟、なのではなかろうか。
こうしたこと全て、本当に〝バカヤロー〟なのかもしれない。
(追記)
信長より秀吉の方が賢かった、それも信長の狂気性は増したまま、って割に合わない気がしてきたので、半星下げました。