「ビートたけしpresents戦国バイオレンスコメディ」首 つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
ビートたけしpresents戦国バイオレンスコメディ
予告ではまるで「戦国アウトレイジ」のような雰囲気を醸し出しつつも、実際の「首」は秀吉・秀長・官兵衛の3人による、壮大なバイオレンス・コントであった。マジで思いっきりコメディ。
ストーリーには二本の軸があり、一つは村重・光秀・信長の愛と嫉妬と野望の入り混じった三角関係。戦国時代の衆道に関してはちょっと調べればわかるので詳細は述べないが、単なる「男性相手の性行為」ではなく、一蓮托生の契りみたいな性格のものだと思って貰えば間違いない。
じゃあそれが一生ものの崇高な愛かと言えば、そう単純でも無いところがミソである。光秀風に言えば「武士の惚れた腫れたは複雑」なのであり、「天下を思えばその他は瑣末」なのもまた事実。
欲望か?愛か?の二択なら、最後は欲望の方がより価値がある。
もう一つは、武士と庶民の対比だ。
タイトルでもある「首」とは「みしるし」であり、つまりそれは「ブランド」なのだ。権威とか、大義とか、虚飾と言い換えても良いかもしれない。
荒木村重の一族郎党が河原で斬首されるシーン、斬首を行う信長勢にとって大事なのは首だ。誰が死んだか、首がなければわからない。だが、京・六条河原に詰めかけた庶民たちにとって重要なのは身につけていた金目のものだ。首じゃあオマンマ食えねえ。
このコントの肝は「御印至上主義」の武士たちと「みしるし?何それ美味しいの?」な百姓たちとのコントラストである。
百姓出身の秀吉・秀長にはこの「侍」魂がよくわからない。秀吉と秀長はこの「よくわからない」戦国価値観を官兵衛という補佐役に助けられて乗り切っている。
「何でも良いから上手くやれ」とか「官兵衛がそう言うんだから、そうなんでしょ」という丸投げぶりも、「お前は官兵衛が言ったからってオレに草履取らせたのかよ!」というツッコミも、たけしとたけし軍団を思わせるやり取りだ。だんだん大森南朋がガダルカナル・タカに見えてくる(笑)
その一方で武士の価値観に染まらないからこそ、相手の気持ちに共感したり手心を加えることなく、淡々と必要なことをやってのけられてしまうのだ。
100%ピュア百姓の茂助も、武士の価値観など到底わからない。わからないまま為三と秀吉の軍勢に加わり、わからないまま敵襲に巻き込まれ、わからないまま為三から大将首を奪う。
「首」の意味、その価値などわからず、また為三に対して「武士の惚れた腫れた」のような気持ちも抱かず、何もわからないまま友も親も妻も子も亡くした茂助は悲しい道化だ。
時に味方の大将首を手にして得意げだが、曽呂利新左衛門に「味方の大将首取ってどうするつもりや」とボヤかれる。その悲しい滑稽さは武士との対比であったはずなのに、愛と裏切りに翻弄され、天下を夢見て踊らされた光秀の滑稽さと重なりはしないだろうか。
エンディング、秀吉・秀長・官兵衛は十把一絡げの首の山から光秀の首を探すわけだが、傷だらけの首では3人とも光秀だと認識出来ない。
その一方でキレイな茂助の首は「これ茂助だわ」と認識できる辺り、ボロボロのブランド物(明智光秀の首・時価天下統一)より小綺麗なノーブランド(百姓茂助の首・時価ほぼなし)の方が身近だよね、みたいなシュールギャグなんだろうか。
「オレは光秀が死んでる事さえわかれば、首なんかどうでもいいんだよ!」という秀吉の叫びは、武士の価値観に染まらなかったお陰で、色々と上手いことやってきた秀吉が、最後の最後に「首」に翻弄されるオチ。首なんてどうでも良いのに、首の価値がわからなければ求めた天下は手に入れられない、という葛藤に突き落とされるのだ。
まるで落語のようなオチも含め、本当に壮大なバイオレンス・ギャグである。
結構色々面白かったのだが、「こんなにコメディだと思わなかったなぁ」という、やや肩透かしな気持ちは拭えない。
監督・北野武が芸人・ビートたけしと「オイラで本能寺の変撮りませんか?」「良いね、やろうやろう」と、コントと戦国バイオレンスをコラボレーションさせた感じの映画だった。