花腐しのレビュー・感想・評価
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「火口のふたり」とは比較にならないほどに進化した荒井晴彦監督の最新作!
「火口のふたり」という「R18+映画」が2019年に公開され、映画業界の一部で話題となりました。
私は正直なところ「火口のふたり」の良さを理解できず、という感じでした。
その「火口のふたり」で脚本と監督を務めた荒井晴彦監督が前作の柄本佑に加えて、綾野剛を主演に迎えるというスケール感が増した本作。
そして原作は2000年に芥川賞を受賞した「花腐し」で、それに“ピンク映画へのレクイエム”という大胆なスパイスを配合し作られたのです。
ヒロインはバンド「ゲスの極み乙女」のメンバーの「さとうほなみ」で、このところ映画業界での活躍が目覚ましい旬な人選です。
しかも、宣伝サイドもいつになく力が入っていたので、見てみました。
いわゆる「ピンク映画」というのはいろんな種類があるのでしょうが、私の評価軸は「映画としてキチンと成立しているのかどうか」です。
その意味では本作は十分に「映画」として成立していたと思います。
まず、白黒とカラーのシーンに分かれていますが、これは観客が時間軸の把握に役立ち効果的です。
また、終盤の展開も原作の良さが反映されたのか、とても「映画」らしく深みを増しています。
私は137分の間、集中力が途切れず鑑賞できました。
とは言え「R18+映画」なので、向き不向きがあるのでしょう。
特に偏見を持たずに、「映画」であれば何でも見てみたいというスタンスの人にはお勧めできる作品です。
ピンク映画への郷愁と惜別と、生まれるかもしれない新しい何か
男と心中した女優・祥子(さとうほなみ)が海辺に打ち上げられているところから映画は始まる。祥子が命を絶つ少し前まで同棲していたピンク映画監督の栩谷(綾野剛)。かつて脚本家志望で祥子が駆け出しの頃に出会った伊関(柄本佑)。アパートから立ち退きを迫られている伊関と、交渉役として訪れた栩谷が意気投合し、同じ女性を別の時期に愛していたことにお互い気づかぬまま、それぞれが祥子と過ごした頃を述懐する。
松浦寿輝が芥川賞を受賞した原作小説に、荒井晴彦監督がピンク映画の要素を加えて脚色。R18+の指定からも分かるように、主要人物らの性行為が生々しくも時に物悲しく、また時に滑稽に描写されている。カラーとモノクロを時代で使い分ける場合、現在を原色、回想パートをモノクロでというのが定石だが、本作では逆になっている。伊関や栩谷が祥子と過ごした愛の日々が鮮やかで夢や希望もあったのに対し、祥子を喪失した現在では人生が味気なくなっていることを表しているのだろう。
さらに、祥子というキャラクターがピンク映画の隠喩だとすれば、劇場公開作品の一ジャンルとして活況を呈したかつての時期がカラフルで、パッケージやオンラインのアダルトコンテンツに押されて死に体の現在が色を失っているのも理にかなっている。
ピンク映画に思い入れがあるシニア層ならおそらくノスタルジーを感じるだろう。それ以外の世代にはアナクロニズムに映るか、それとも逆に新鮮だろうか。祥子と二人の男の愛は実を結ばなかったが、レトロスペクティブな企てがくち果てて養分となり、新たな胎動につながるのかもしれない。
真面目に考察
もしかしたら、現実では誰も死んでないのではないでしょうか。
クライマックスのファンタジーな展開が難しくて、脳が疲れて眠くなりました。
モノクロシーンで二人の男が語る女が同一人物だったというシチュエーションは面白かったし、キノコで腐敗を研究していたり、終盤の幽霊っぽい場面がファンタジーで、エンディングテーマからのラストはカラー映像でデュエットしています。
モノクロシーンは現在で、カラーシーンが過去というのが普通の解釈だと思いますが、それだとただ逆にしているだけで芸がないと思うので、カラーシーンが現実でモノクロシーンが制作中の台本なのが正解であるというのが私の解釈です。
マニアックでユニークな作品ですが、18禁ですしオススメはしません。
映画の斜陽とセックスの意味
一つ目。
映画の世界は素晴らしく豊かなもので、それに魅了され、監督やシナリオライター、映画女優として生きて行く可能性を見出せるのはピンク映画しかなかった時代。しかも、そのピンク映画さえ、斜陽になり、生き甲斐のある行き場を失う若者達。その共感が土台になっている恋愛関係も行き場を失い、破綻してしまう。
彼らが映画の黄金期に生まれていれば、このような憂き目に遭うことはなかったのに、と、低賃金、結婚難、子産み育て難の現代に生きる若者達への「大変だねえ。頑張ってね」と、高度経済成長期に子供から青春期を送った世代としては切ない気持ちになる。
二つ目。
セックスは、その人となり、その人の生き方、そして、関わり合う二人の関係を雄弁に語っているもの、である。
この映画の中に頻繁に描かれるセックスシーンでは、それがちゃんと表現されているところが素晴らしい。
「お兄さん、遊ばない?」という日本の売春婦の伝統的な言葉が象徴するように、セックスを単なる享楽としか捉えられない人には、この理解は難しい。
映画への夢を共有する二人のセックスは、人生のかけがえのない伴侶との、ファンタジックで奥深い交歓であることが、ちゃんと描かれている。そして、それが、夢が壊れて行き、諦めざるを得ない男と、尚も夢を追い続けようとする女の心のギャップから、ダメになっていく。
最後の方の乱交シーンは、もはや、愛もへったくれもない、単なるセックス依存症の行為であり、夢も恋人も失った二人の男の自分への不甲斐なさ、自暴自棄の腐った現状が浮き彫りにされる。
それでも、この男二人は、未だに映画への夢と それを共有して愛し合った一人の女性を愛し続けている。
何という切なさ。美しさ。
それを描いてこの映画を世に出した映画人の快挙こそ、未来への希望だと、私は思う。
男と女が腐り始める時。不器用で馬鹿で切なく愛おしい男女の生き様。
男と女の関係が腐りはじめる時。
自分の過去の経験を否応なく思い出させられた。
「あの時から、俺たちの関係は腐り始めた」
そう、後から考えれば、あの時かと思う。
誰の身の上にも起きそうな話。
どうしようもないのだ。抗いようもなく。
過去の男も、つい最近まで一緒にいた男も彼女を幸せにできなかった。彼女もまた彼らを幸せにできなかった。
幸せとはなんだろう。
それでも、その時、その時を一心不乱に生きてきたはずなのに。
一緒に泣いたり笑ったり、愛し合ったことも数え切れない位あったはずなのに。
なぜ。いつ。
どこから腐り始めるのだろう。
子供を作り、親となり、育てていけば、新たな何かが始まったのだろうか。それもまた違う気がする。
結局、だめな女とダメな男たちなんだ。
年配の脚本家に「ごっこ」と言われて、激昂したのは思い当たる節があったからではないのか。
女は死ぬか、死んだように生きていくしか自分には残されていないと悟って絶望したのだと思う。私にはその気持ちがわかる気がした。
度々の濃厚な性愛描写は、彼らが生を感じる場面として繰り返し生々しく描かれるのだと思った。
何も考えず、ただ身体を重ねて情愛に溺れている時、最も生きていると感じる。それすら、意欲がわかなくなったら、あとは枯れていくだけ。
なぜ山口百恵のあの歌なのかと思ったが、単純に作者の好みかもしれないし時代の雰囲気を出したいのかもしれないと思った。
ただ私は、こう思った。死ぬか死んだように生きていくか、彼女が逡巡したとき、美しいままの自分、少なくとも老いさらばえた姿ではない自分のまま、永久不滅としたかったのではないのか。
山口百恵の引退コンサート、マイクを床に置いたあのシーンを思い出した。作者の意図は、そこにもあるのではないかと感じた。
最後、男が女を見送り一筋の涙を流すシーンでは、自分も大粒の涙がこぼれた。
不器用で馬鹿で駄目な男女達。
だけど切なくて愛しい。
そういう思いを抱かされたのは、主演の方々の繊細で素晴らしい演技によるところも多大である。
合わなかった
「火口のふたり」よりは良いけど・・・・。
でも、この監督、自分の好きな映画「新宿鮫」の脚本も書いてるし、「Wの悲劇」も書いてるんだよなぁ。
原作は未読、あっちこっちでザックリとした原作のあらすじを見たけど、随分とオリジナルと言うか、自分の古巣のピンク映画に寄せた改変してるみたい。これって、原作者的にはどうなんだろう。
過去と現代を白黒とカラーで分ける撮り方は定番だけど、たいていは過去を白黒にするのを逆に過去がカラーだから、定番の感じで見始めたら「ん?」と違和感。
映画や小説にセックスシーンが有るのは別に構わない(むしろ好き)けど、最後の乱交モドキって必要だったのかなぁ。
乱交後の最終盤、急に幻想的な締め方になって、統一感が・・・・・・
主役の女優がかわいそう▪▪
20分に一回濡れ場が入れば、あとは何をやってもいいという日活ロマンポルノの伝統を踏襲しているのでしょうが、暗い!主役の女優がかわいそう!でも70年代の名作はみんなこんな感じだったんだろうなあ~。
男と女と映画に捧げる鎮魂歌に、違和感が…
ピンク映画監督の栩谷。もう5年も撮ってない。
ある頼まれ事がきっかけで出会った男・伊関。ピンク映画の脚本家。
意気投合し、映画の話や愛した女の話に及ぶ。
奇遇にも同じ女。女優の祥子。しかし祥子は別の男と心中したばかりで、栩谷はそれを引き摺っており…。
ご存知の通り荒井晴彦はピンク映画出身。斜陽するピンク映画界へ捧げたレクイエム。
二人の男と一人の女。『火口のふたり』とも通じる身も心もさらけ出した男と女の愛のドラマ。
荒井晴彦の集大成とでも言うべき作品になっているが…
何度か述べてはいるが、荒井晴彦は脚本作では好みのものあるが、監督作はどうもハマらない。各方面で絶賛された『火口のふたり』も良さが分からず。ただのエロ映画じゃん…。
今回は『火口のふたり』よりかは気に入ったけど、やはり例外に漏れなかったかなぁ…。
二人のダメ男の体たらくコメディと見れば笑えてもくる。
そのクズっぷり、ダメっぷり。未練たらたら。
それを酒を呑み交わしながら、怠惰と哀愁たっぷりに語り合う。
これがダメ男の自虐コメディと呼ばずして何と呼ぼう!
その画にハマる綾野剛と柄本佑の妙。
圧巻はさとうほなみ。結構映画にドラマに活躍しているそうだが、元はゲスの極み乙女。のドラムス。歌唱シーンはさすが。体当たりの熱演。体当たりの濡れ場。『火口のふたり』よろしく、濡れ場がエロい。マジレベル。その女優魂はこれから注目しちゃいそう。『火口のふたり』の瀧内公美同様、女がいい女なのだ。
栩谷も伊関も祥子と同棲している時はあまり大事にしていない。失ってから…。男の惨めさ、バカさの典型。
映画への情熱もだ。仕事してる時は不平不満。作れなくなってからはそれでもしがみ付こうとする。
そんなダメ男二人に対し、祥子は尽くし、どんな女優の仕事にやる気を。
その対比。
対比は映像面にも。現在がモノクロ、過去がカラー。言わんとしている事が何となく分かる。
ザリガニや歌謡曲も巧みに印象付ける。
ラストの栩谷の脚本の書き直し。どちらが“本当”の事なのか…?
また、その“脚本”によると本作は、栩谷の思い出であり、一部創作であり…?
何とも不思議な余韻残すが、ちと分かり難くもある。
分かり難さと言うか、少々違和感を感じた点も。
ピンク映画へのレクイエム。
荒井晴彦がデビューした時、日本映画全体が傾き。ピンク映画界へ。一時代を築くも、それもまた傾く。今日本映画に客が入るようになるが、そのほとんどがアニメや見世物的な映画と呼べない代物ばかり。日本映画の荒浪時代を身を持って体験した荒井晴彦が、ピンク映画のみならず日本映画に思うものをぶつけようとした…のはいい。
でも何か途中から(と言うかそもそもが)、男と女の関係メインになっているような気がして、絶対的にピンク映画界が設定じゃなくても…。
原作小説はピンク映画が設定じゃないらしい。男二人と一人の女のドラマは概ね踏襲しているらしいが、ピンク映画設定は荒井晴彦の大胆脚色。
原作小説は読んではいないが、一応Wikipediaで小説の設定は調べたが、何処にピンク映画に置き換え、通じるものを感じ、投影しようと思ったのか。
そこに違和感を感じた。
これも問題になっている原作改変では…?
原作者は納得しているのか…?
キネ旬ではイーストウッド並みに神格化されている荒井晴彦だから評価されているのか…?
やはりまだまだ凡人には分からず。
Hシーンが長い!(笑)
とにもかくにも、Hシーンが長い!(笑)
多いというより長いのですが、
それがまたコミカルだったり切なかったり(笑)するので、
いやらしさは感じませんでした。
それ目的の観客もいたとは思いますが、そういう作品ではそもそもないです。
そして、さとうほなみの演技が素晴らしい!!
綾野剛と柄本佑にも全然気後れしていないと言いますか、
堂々と演技で渡り合っているところがすごいと思いましたね。
この方、ゲスの極み乙女のドラマーですが、俳優としても素晴らしいです。
劇中、歌唱シーンがあるのですが、さすがミュージシャンでもあるなと
思いました。
タイトルは、「卯の花腐し」という万葉集からの引用で、
卯の花を腐らせるような長雨という意味です。
というわけで、長雨というのが柄本佑であり、綾野剛なんですね。
ピンク映画業界が舞台であり、
その実情の厳しさなんかも感じ取れる内容で、
そこには人間関係のみならず、業界としての切なさも漂っていましたね。
というわけで、綾野剛も柄本佑も本当に出演作品とその役の幅が広い!
【”卯の花腐しの帰らない日々。”斜陽の一途にある、ピンク映画に関わった男二人と、女優志望の女の不思議な愛の物語。綾野剛さんと柄本佑さんは当たり前だが、良い俳優であるなあ。】
ー ご存じの通り、今作の監督・脚本を務めた荒井晴彦氏は、若いころからピンク映画に関わり、その後数々作品の脚本を手掛けて来た方である。
今作で、エロティックなシーンが多いのは、私の勝手な憶測であるが、氏のピンク映画への隆盛を誇っていた郷愁ではないかなと思いながら観ていたものである。-
■斜陽の一途にあるピンク映画業界の監督である栩谷(綾野剛)は、金銭的な理由で5年も映画を撮れていない。
梅雨のある日、栩谷は大家から住人の立ち退き交渉を頼まれる。
その住人・伊関(柄本佑)はかつてピンク映画のシナリオを書いていた。
やがて2人の男の人生は、ある女優志望の女である桐岡祥子(さとうほなみ)とお互いに知らずに付き合っていた事が発覚し、交錯していく。
◆感想
・現代邦画界で、セックスシーンを美しく魅せる俳優No3。
<NOBU意見なので、文句言われても困ります。尚、順不同です。>
1.松坂桃李 <「娼年」を観れば一目瞭然である。猥雑感が全くないし、滑らかな女性を敬うが如き動きが素晴しい。>
2.綾野剛 <猥雑感はあるが、それが魅力。「日本で一番悪い奴ら」での、瀧内公美さん演じる女性警官とのシャブを歯茎に塗り込みながらの絡みはもう・・。良い子は観てはイケマセン!。>
3.柄本佑 <コミカルセックスシーンを演じさせたら、日本一だと勝手に思っている。今作でもその片鱗は垣間見える。因みに、「火口のふたり」での瀧内公美さんとの濃厚な絡みも、猥雑感なし。>
・・の3名のうち、2名が登場しているのであるから、今作は安心して観れます。R指定だけど。尚、私は、男が女性に暴力を振るう映画は大嫌いである。
で、この作品では、栩谷が自身の桐岡祥子と同棲していた時の喧嘩のシーンの脚本を書く時に一度は”殴って・・。”と書いたのを消して、”抱き合う。”と書き換えるシーンが、しっかりと映されている。
但し、それでもこの映画を嫌う人はいるんだろうなあ・・。
・多くの方が書いている通り、今作が上手いのは、桐岡祥子が桑山篤(吉岡睦雄)と
心中した現在パートと、過去パートがカラーとモノクロで分けられて、分かり易く描かれている所であろう。
だが、一つ気になったのは、何故に桐岡祥子が桑山篤と心中したのかが、良く分からない所かな。推測しろってことなんだろうけれど。
それに、今時、”心中”って言葉を使うかな。カラーパートの舞台は昭和という事だろうと解釈したよ。
■今作の魅力は、ヤッパリ現代邦画を牽引する演技スタイルが全く違う、綾野剛さんと、柄本佑さんが、一人の同じ女を愛するシーンが観れる事だと思う。
更に言えば、二人の桐岡祥子への愛し方が、全然違うんだよね。
白眉は、ヤッパリ過去シーンで栩谷が死んだ筈の浮遊するように歩く桐岡祥子を見るシーンだと思うな。栩谷の眼から流れる一筋の涙。綾野剛さんの、俳優としての円熟さを感じるシーンでもある。
<今作は、色々な見方があると思うが、私は荒井晴彦氏自身の斜陽になって行くピンク映画へのノスタルジーを描いた作品ではないかと思ったな。
でなければ、エンドのシーンで「さよならの向こう側」は使わないんじゃないかな。
これは、私の勝手な類推なんだけどね。>
牛肉弁当食べながら見る作品ではなかった
綾野剛見たさにネトフリ鑑賞。
モノクロとカラーで過去と現在を切り分ける演出、馬の背(雨と晴れの境目)、万葉集等文学的なモチーフも散りばめられており、ところどころキラッと光るセリフもありましたが、全体を通して何が言いたかったのかが曖昧で、さらに過剰な性描写に辟易しました。
祥子と伊関や栩谷との性愛描写は、それぞれの関係性を説明するのに必要だったかもしれませんが、キノコ部屋の外国人女性2人は何の必然性があったのか理解に苦しみます。伊関に刺さった団子はなんかのギャグですか?
また作品の時代背景とはいえ、祥子と言うキャラを通して作品全体から滲み出る、女性に対する古臭い考え、雑な扱い、自分勝手な男性視点の語り口が終始不快でした。
ラスト、白いドレスを着た祥子が入った部屋で栩谷は何を見たのか?それまでの伏線が雑過ぎたため、栩谷が見たのがキノコが見せた幻だったのか、はたまた腐乱死体だったのかさっぱりわかりませんでした。
昨今「あとは視聴者の想像にお任せします」的な思わせぶりなエンディングをよく見ますが、いやちゃんと広げた風呂敷たためよ、あけたドアはきちんと閉めろよ・・・
エンディングのカラオケも、正直上手いとは言い難い「さよならの向こう側」に、やおら栩谷がマイクを握りしめて参戦し終幕???
もういっそ「紅だああああ」と絶叫してほしかった。
それにしても、この作品に限らず映画製作者、俳優、小説家、漫画家、各種アーティストと呼ばれるクリエイティブなお仕事をしている方々は、どうしてこうも左向き志向なんでしょう?
何かを創作するのに、反骨精神とか体制に阿らない個性の主張は必要不可欠なのかもしれませんが、作品にあまりにあからさまな政治的主張を練り込まれると正直ウンザリします。
綾野剛の肉体美を堪能できたところだけ星ひとつ。
好みじゃなかった
これはちょっと私には合わなかった。
ただ、しょうこという女の存在はこの男たちにとって何だったのかと考えたら,ラストの方でで流れる百恵のさよならの向こう側を聞いて,これが映画のテーマかもと思った。
過去をカラー,現在をモノクロで表現していたのは面白いと思った。
映画と心中した女
『やわらかい生活』で原作作家との間に裁判沙汰を起こした荒井晴彦監督であるが、監督4作目となる本作は、芥川賞受賞原作小説をかなり脚色した作品になっている。「シナリオはシナリオ作家の著作物である」と公言して憚らない強気の姿勢は本作においても健在で、今年喜寿を迎えた昭和のシナリオライターだけに肝の座り方がちょっと違うのである。
さて、その荒井監督が本作でやりたかったこと。それは“ピンク映画へのレクイエム”と“(溝口健二の)雨月物語”だそうなのである。同じ女を好きになった2人の男栩谷(綾野剛)と伊関(柄本佑)をピンク映画関係者に設定を変更。その2人の恋人であった祥子(さとうほなみ)は、売れない劇団員からピンク映画女優へ、女優になる夢を諦めきれない女として登場する。
アパート立ち退きを金貸しから頼まれた栩谷は、そこでマジックマッシュルームを栽培し、中国人女をかこっている伊関という怪しげな男と出会う。その場で意気投合した2人は、酒をくみ交わしどちらともなく、初恋の女=祥子との同棲生活を話題にし始める。ある性癖と中絶経験者という共通項から同じ女の話で盛り上がっていたことに気がつく栩谷。あーなる?ほどねっと合点がいく感じなのだ。
しかし、伊関と祥子が出会った居酒屋で、祥子は飲めない酒を飲まされてトイレでゲーゲー吐いていたはずであり、栩谷が知っているめっちゃ酒の強い祥子とはちょっと食い違っているのである。作為的にそうしているのか、はたまた荒井監督の単なるミステイクなのか、そこんとこハッキリとお聞きしたいものである。
東京オリンピック開催に伴う再開発や、原発再稼働問題を通奏低音にして、東京に流れていた川がことごとく埋め立てられ高速道路と化していくことにより、東京人がいな日本人が腐ってしまったことを嘆く伊関。そんな腐った東京なんて天災にでもあってぶっ壊れてしまえばいい、と酒がまわった栩谷は『火口のふたり』の柄本佑と同様に、現代日本に向ける眼差しは実に冷ややかなのである。
ピンク映画の衰退とともに映画にただすがって生きていた栩谷は、祥子がどうして自分を捨て他の男との心中に走ったのか、どうしてもその理由がわからなかったのである。家庭人としておさまりたがった伊関の子供をおろした祥子だが、栩谷との間にできた子供を流産したことでショックを受けふさぎこむ。「愛があると正常位しかできなくなる」と愛とSEXを区別していた栩谷に祥子は、借金までして映画を撮ろうとした男=映画と心中することにより、もう一度“(映画)愛”を思い出させようとしたのではないだろうか。
伊関が書いたと思われる“花腐し”の原稿の一説を書き直す栩谷。『雨月物語』の陶芸士(森雅之)は田中絹代演じる女房の幽霊に、(夢幻に過ぎない)立身出世よりも家庭の大切さを思い知らされるのだが、幽霊と化した祥子は腐りかけていた栩谷にこう気付かせるのである。愛なきSEXが“死”ならば、そこに愛がある限りピンクであろうとなかろうと映画は死なないのだ(『さよならの向こう側』のあなた→映画に置き換えると分かりやすいです)、と。たとえ現在(いま)は卯の花を腐らせるほどの長雨が続く“雨月”だったとしても。
花腐し、、、
同じ女、祥子を愛した男2人。2人が出会ってすぐ酒を飲みながら一晩語るモノクロ場面、伊関は幽霊なのか?と思いながら観てしまっていたが、どうやら作中の人物のようだ。その場面がモノクロなのか、、、。
祥子が何故違う男性と心中したのか、その辺りがあまりよくわからないのがモヤモヤ、こちらが物語を作るのか?
綾野剛と柄本佑はぴったりの配役で、さとうほなみも最近はすっかり女優さんですね。
不思議な感覚の映画。
暗さは日本映画の伝統。その中で窮屈そうな役どころながらも男優二人は...
暗さは日本映画の伝統。その中で窮屈そうな役どころながらも男優二人はシッカリ上手い。女優は勢い(若さ?)が多少出過ぎた演技に感じられる。が、味付けのシッカリある良い映画だと思う。
話は古臭い
原作のこともあるので。現代設定と考えるとあまりにも古臭い話だと感じた。一人の女を悼むことで自分のこれからを考えるのね。最後はみんなどこ行ったの?ピンク映画監督をピンク映画で表す感じ?必要以上にベッドシーンとほないこかの露出シーンが多い気がした。しかしほないこかは体当たりの演技でしたね。本格的に女優になるつもりなんですね。
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