「1950年代のアメリカと演劇界の知識がないと解像度がだだ下がるハイコンテクスト作品」アステロイド・シティ ニコさんの映画レビュー(感想・評価)
1950年代のアメリカと演劇界の知識がないと解像度がだだ下がるハイコンテクスト作品
1955年のアメリカ、かつて隕石が落ちた田舎町「アステロイド・シティ」。隕石が落ちた日を祝う式典に、ジュニア宇宙科学賞の子供とその家族が招待される。そこに宇宙人が現れて……
そんな「新作劇」を紹介するテレビ番組、という入れ子構造の映画だ。物語は幕ごとに区切られ、アステロイド・シティのポップな色合いの場面の合間に、4:3のモノクロでテレビの司会者による解説が挟まれたり、舞台裏が描かれたりする。この司会者がカラーの劇中場面に一瞬登場したりと、メタ的表現も駆使される。
ウェス・アンダーソンの作風なのだろうが、登場人物が感情の起伏をあまり表情に出さない。それに加えて超ハイコンテクストな設定。この設定の背景にぴんとこなかった私のような観客は、感情移入を拒まれている気分になり、人物の挙動を淡々と追うだけになる。
低難易度で楽しめる部分としては、劇中劇部分のポップでかわいい色合い、いつもの豪華なキャスト、実はジェフ・ゴールドブラムだったらしい(舞台裏の場面でジェフは出ていたっけ? 見落としたかもしれない。宇宙人の衣装を身に着けて演技したらしいが)宇宙人の愛嬌ある動き、何となくおしゃれでツウな映画を観たというふんわりした満足感などだろうか。
私の隣の人は、いびきをかいて寝ていた。
パンフレットを読んだところ、主な登場人物にはそれぞれ実在の劇作家や俳優などのモデルがいるようだ。ウィレム・デフォー演じる演技講師(実在のモデルあり)が俳優たちに演技を教える場面は、当時のアクターズ・スタジオでのメソッド演技の講義をイメージしているという。ミッジを演じたメルセデス(スカーレット・ヨハンソン)のモデルは主にマリリン・モンロー(これだけは何となく分かった)、オーギーを演じたジョーンズ(ジェイソン・シュワルツマン)のモデルはジェームズ・ディーン(全く分からなかった)。などなど。
プロダクションノートを読んでも、「そうですか……」という感じである。
例えが適切かどうか分からないが、私のこの解像度の低さは、外国人(日本マニアを除く)が「銀魂」を読んだ状態に近いのではないか、とふと思った。
日本人は江戸時代に関しての歴史的事実の知識があり、元々イメージを持っているからこそ、そこからあえてずらした描写について本来の姿や言葉の表現とのギャップの面白さが直感的に分かるし、アレンジされた名前の登場人物についてもそのモデルについて、説明なしにすぐ連想できる。海外の人たちは、その辺は当然ピンとこないだろう(その辺抜きでも海外で受けていることもまた事実だが)。
それがハイコンテクストということで、設定に対して解像度の低い環境の人間が作品の評価をすることの難しさを生む部分だ。
ジェフ・ゴールドブラムは自らの役について「エイリアンはメタファーだ」と言っているが、あの町山智浩氏(持ち上げる意味ではありません)でさえ「何のメタファーかわからない」と降参状態である(いや、もしかしたらエイリアンの意味するところはアメリカ人でも分からないのかもしれないが)。
ただ、淡々とシュールな展開のひとつのパーツとして描かれる身近な人間の死(本作ではオーギーの妻)、それを受け止めるオーギーたち家族の姿に妙なリアリティを感じる瞬間があった。残された家族の日常は続いていき、子供は無邪気に悲しみを乗り越える。
アンダーソン監督は20代の時に両親を相次いで亡くしているそうだ。それを踏まえると、オーギーの妻を演じるはずだった女優(マーゴット・ロビー)の登場が何だか物悲しいファンタジーのようにも見える。
「時が全てを癒すなんてことはない、せいぜいバンドエイドさ」監督の実感がこもったオーギーの言葉には、何故か不思議と観ているこちらの心を慰めるような響きがあった。