はこぶねのレビュー・感想・評価
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芳則の動作演技は良いけれど、取り巻く支援環境が不安定
視覚障がい者の日常生活をさりげなく的確に描いているところは評価できる。特に専門家や当事者による監修等はないようだけれど、当事者や関係者のインタビュー本に影響を受けたという。白杖の突き方はもとより、近くにいる人の気配や輪郭は感じられているということや、自分で食事の支度を始めると具を落として食べ損ねたり、周りの置物を倒してしまったりという動作演技は良かった。伯母との関係に納得いかないところがあれば、ホームヘルパー利用も検討の余地があったのではないだろうか。伯母と祖父との関係性の間の微妙な立ち位置もあった。祖父に対応していたケアマネジャーは、芳則のことも親族の要援護者として、警察も含めて情報共有して然るべきであろう。
碧は、芳則の伯母に最初に出会ったときに自分のことを明かし、口止めをしたわけではなかったため、家に戻ってきていることを芳則に知られているのを知ってか知らずか、バスに一緒に乗ることになっても自分から話しかけようとしなかったけれど、母親の退院が近づくと、やっとで話しかけ、副食のお裾分けや家内の片づけの手伝いをしたり、夜中の突然の呼び出しに応じて芳則の祖父の引き取りに、どこから調達したのか同居のはずの母親は何も言わなかったのか、自動車を出し、あまつさえ視覚障がい者の申し出に応じて運転を任せることになり、気を許し過ぎたようで、かなり戸惑い、不安な思いをしたことは想像に難くないけれど、最終的には芳則を信じたということなのだろうか。最初の芳則の伯母との遣り取りでは、「出戻り」かという感じだったけれど、母親との遣り取りでは未婚のようであり、芳則との関係は不明のまま終わってしまった。
祖父が施設に入所するに際して、ケアマネジャーも家族の運転する自動車に同乗しているのはどうかと思ったけれど、伯母と芳則や祖父との関係も、少しは修復される可能性があるのだろうか。芳則が子どもに釣り具を貸して、その子は離れてしまったけれど、返してもらえるのか不安が残ってしまった。有償の性的介助をしてくれていた後輩らしい女性も東京に出て行くことになり、芳則を取り巻く支援環境は、不安定なまま「はこぶね」のように漂い続けるように感じられた。
多くを伝えない映画
コテンラジオ、というポッドキャストで障害者の歴史を学んだことがある。 主人公西村のように全盲ではなくても、 コンタクトレンズのない江戸時代では弱視の私は障害者だった。 古代ギリシャのスパルタで生まれたらムキムキじゃない私は障害者だった。 その時代や状況が障害を定義しているだけであって、 100年後の人から見たら、コンタクトを毎日つけて、 年中鼻炎で鼻が詰まっていて、足の遅い私は健常者と言えないかもしれない。 障害をお持ちの方と知り合うと、つい憐憫の情がわいてきたり、勝手に不幸なんだろうなぁと思ったりする。 西村はこの素敵な景色が見れないんだな、とか、片付けが自分でできないのは不便だろうなぁとか。 でもこの映画のように第三者の視点で、丁寧に木村の日常を追い、木村が何を考え、何に怒り、何を喜んだかを想像すると、その人生は決して不幸ではないことがわかる。 監督はあえて感情を描かず、見る側に想像させている気がした。 西村を演じる木村知貴さんの演技はすごすぎる。 朴訥としているようで、ユーモアやちょっとした渇きがみえたり。 はこぶね。 美しいながらも窮屈な街の閉塞性をさしているのか、 仲直りした祖父、叔母、西村のように、 東京に戻っ手挑戦することを選んだアオイのように、 一見不幸にも見える登場人物が実は救われているという ノアの箱舟をさしているのか。 良い映画だった。
日本版「パターソン」
事故による後天性視覚障害の男性ニシムラが、海辺の小さな町で穏やかに暮らす様を淡々と描いた作品。 ドラマチックな展開はほとんどないが、ちょっとした出来事にほっこりさせられる。日本版「パターソン」と言ったら褒めすぎかな。 主人公の中学生時代の同級生オオハタさんとの淡いロマンスも。オオハタさんは入院した母親の介護のため町に帰ってきた女性。 主人公は目が不自由ながらも認知症の祖父の介護を行う。主人公の面倒を見る叔母との関係を含め、様々な形の介護がこの作品では描かれている。
はこぶねは何処へ向かうのか。
『はこぶね』とは何なのだろうか。 観終わったばかりの自分には理解しようがなかった。ただこの映画は心にずっと残り、何気なく過ごす日常の中で、ふと情景を思い出すのだと思う。 時間を掛けて『はこぶね』が何なのかいつか解る時がくるのだと思う。もしくはこの映画そのものが、映画監督としてデビューした大西諒監督を未来に運ぶ『はこぶね』かもしれません。 後天的に目が見えなくなることほど、絶望することはありません。今までやれたことが出来なくなる絶望を胸に納め表に出さない役を、木村知貴さんが大変繊細に演じていました。 また痴呆症の祖父の言動や叔母の心無い言葉に揺れる心情を、不協和音のような音楽がよく表現していました。 それでも人に迷惑をかけず前向きに生きる彼の生き方を観て、自分の生き様が弱く恥ずかしくなる。自分の抱えている絶望などはちっぽけで、明日からまた普段通り頑張って生きようと思う映画でした。 東京ではテアトル新宿のみで上映されています。なかなか観ようと思っても見れない映画です。未来の巨匠になるかもしれない監督の初長編映画をスクリーンで観ることは、一期一会だと思います。是非ご鑑賞ください。
運ぶね
10年前に事故で視力を失った西村(木村知貴)は神奈川県の小さな漁港の町(真鶴)に住んでいる。趣味は釣り。視力を失う前からなのだろう。母親が二年前に亡くなってからは叔母に時々面倒をみてもらっている。
映画は叔母に連れてきてもらったスーパーでの買い出しのシーンから始まる。豆類の棚の左端は薄皮つきピーナッツ。そのとなりは中国製の殻つき落花生126円、そのとなりが千葉県産の殻つき落花生669円。西村は袋を丹念に触って千葉県産の殻つき落花生を2袋選ぶ。すると叔母は西村に先に車に行っているように促し、会計をする前に中国産の袋と取り替える。
私もピーナッツが大好きだ。やはりスーパーで落花生を買うときには大いに悩む。値段が見えるからだ。そして、大抵は殻つきを諦める。千葉に釣りに行った時に安く買って帰ろうと。しかし、地元でも国産の落花生は高い。大きな袋にたっぷり入って千円は安いとウキウキしてレジに向かったら、おばちゃんが中国製だけどいいの?と言ってきた。バッチリ顔に出ていたんだね。
やっちまった。
八街(やちまた)のじゃなかった。
国産品は高いうえにさらにカサ(内容量)が少ない。西村は途中失明なので、それがわかっているはずなのだ。
そして帰ってきて黙って落花生を食べている。だまされているのがわからないのか、本当は分かっているが受け入れて辛抱しているのか不明だったが、味でわかるはずである。落花生好きなんだから。あとになって、叔母(内田春菊)に向かって「ちょろまかした小銭ぐらいじゃ、ぜんぜん合わないよね、オレの世話の報酬」というのだ。
それで、本当は分かっているが黙って受け入れていたことがはっきりする。まだ全然若い大西諒監督はこの落花生のシーンを撮ることをまず思い付いたらしい(上映後挨拶付だった)。監督も落花生大好きなんだけど、国産は高くて手がでないんだなと思ってウレシかった。
映画のテーマはそこじゃない。
絶対ちがう。
しかし、独特の雰囲気があって、ゆったり流れる主人公の時間にいつの間にか取り込まれる。
認知症の祖父(外波山文明)が西村と叔母の間にさらに入り込んで来るのだが、目か見える祖父が幻覚と被害妄想で目の見えない西村に無理なことを頼む。西村は危険をかえりみず、まったく怒りもしない。認知症の祖父への対処はまさに神対応。
母親が入院して久しぶりに実家に帰ってきた女優の同級生の大畑碧とのラブロマンスを期待していたが、最後まで清々しい関係。しかし、その先のつづきは保証の限りではない。
その代わりといってはなんだが、西村が普通の男であることを表すための特別なキャストも用意されている。
主人公は目が見えないが、頭のなかで構築しているであろう風景を写す狭い路地や階段の多い土地を利用したカットが印象に残った。目が見えないのに一人で支度して歩いて釣りに行く主人公はすごいね。竿の先が折れないか心配でならなかった。
うまく説明できないけど、微に入り細に穿つような日本人らしい作品。
はこぶねという題名の意味は無学な私にはうかがい知る由もないが、西村のために釣り道具を「運ぶね」っていう気持ちになった。
それでいいよね。それじゃだめ?
特売にしても安いですね!
伊豆の港町で暮らす10年くらい前に事故で視力を失った元漁師の男と、彼と関わる人達の話。 認知症で時々徘徊する祖父、身の回りの手伝いをしてくれる祖父と折り合いの良くない伯母、母親が病気で5年ぶりに帰省した東京で女優をする中学生の時の3年間だけこの町に住んでいた同級生、そして合併が決まってこの町の漁港での仕事を失う若者等との交流をみせていく。 みんな根本的には良い人だけど、上手く綺麗に生きられず鬱屈した日々を過ごしている中、どこか飄々とまるで無感情の様に、それでいて透明人間にはならない様に生きる主人公。 意識してか無意識か、自分らしく生きる主人公になんとなくみんな影響されてということかな? これという明確な道標があるわけでは無いある意味抽象的な作品だし、痺れる展開が有るわけでは無いけれど、伝わってくるものはあったかな。 そう言えば、元中佐なのに大佐と呼べって言ってたオッサンはフェラーリ乗ってたなぁ…なんて他作品が思い浮かんだw
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