「少女:黒柳徹子の原点」映画 窓ぎわのトットちゃん MP0さんの映画レビュー(感想・評価)
少女:黒柳徹子の原点
子供の頃から『世界ふしぎ発見』や『徹子の部屋』で見かけるタマネギ頭の不思議な女性、黒柳徹子さんが書いた小説『窓ぎわのドットちゃん』がいわさきちひろのイラストで講談社から出版されたのが1981年。現在90歳になられた黒柳徹子さん自らの肉声でナレーションを務められている事は本当に意義のある事だと思います。
好奇心旺盛で次から次に興味が移り行く、学校での授業を妨害してしまう自由気ままな少女トットちゃん。
彼女を受け入れてくれたのは自由ヶ丘のトモエ学園。
使い古した電車を教室に、同い年くらいでもみんながそれぞれ興味や好奇心の赴くままに学ぶ教室で、戦争疎開までの数年間、かけがえのない時間を過ごした少女が生命の大切さを学んだ、かけがえのない時間の物語です。
縁日で買ってもらったヒヨコに喜ぶ姿、小児麻痺で手足の麻痺で思うように身動きのできない同級生ヤスアキちゃんとの友情、性差さえなく平等な学校の空気、小林校長先生の子供を想う気持ち、忍び寄る戦争の影…
印象的だったのは作中で何度か挿し込まれる少女の空想シーン。いわさきちひろのタッチをイメージしている雰囲気があり、心象描写としてとても丁寧に描かれています。
また作中で父親がコンサートマスターを務めるオーケストラの練習を見学に行った際、ポーランド人指揮者ローゼンシュトック(ロー爺)が直前の不機嫌から一転トットちゃんを熱烈に歓迎するシーン。
日独伊の三国同盟を喜ぶ大人たちと、それを複雑な気持ちで見守るロー爺は「私は指揮者として人生を賭ける」と祖国を捨て使命に生きる覚悟を語ります。
彼はこの楽団の指揮者となるためにシベリア鉄道と関釜連絡船を経て日本にやって来て、アマチュア気質の抜けなかった楽団を育て、後に現在のNHK交響楽団の基礎を作り上げる事になるなど本作のBGMにN響が協力している事を知っているとニヤリとしてしまうかもしれません。
戦争が近づき、食べ物も配給に頼るようになった時に軍歌を演奏して日銭を稼ごうか悩む父親。軍歌はバイオリンで弾きたくないと決意を語り、それを受け入れる母。
ヤスアキちゃんの葬式からかけ出したトットちゃんの周りには戦争に向かう兵隊さんを万歳してみんなで送り出す人々、貯蓄国債を奨励する看板、兵隊ごっこをして遊ぶ子供、足を失って松葉杖をついて歩く人…
戦争などしなくても、理不尽にも命は奪われてしまうのに、戦争に突き進もうとする目には見えない民意の暴走(すれ違いの大人に絡まれるシーン)が、世の中を悲劇へと導いていく怖さが淡々と描かれています。
まだ赤ん坊の弟を連れて母と赤い屋根の家が取り壊されるのを見届け青森へ疎開するシーンでは家族の服装が見窄らしいものに変わっていて、トモエ学園が空襲で焼かれてしまうシーンでは小林校長先生の目に描かれた炎がいつまでも燻りながら闇に消えていくシーンは教育への想いの強さかもしれません。
少女:黒柳徹子の「〜なのよ」という口ぶりに、何処か現在の黒柳徹子さんの雰囲気を感じさせてくれる演技は可愛らしくもあり、声優さんのプロの仕事だと感じました。
本作の公開直前に発売された『続 窓ぎわのトットちゃん』では映画の後の、青森への疎開時代からの少女:黒柳徹子の物語が描かれているそうなので、映画を観て興味を持った方は読んで見てはいかがでしょうか。
★1.0については主人公であるトットちゃんが戦中とは言え比較的恵まれた家庭で育った事を描く事に釣られた影響か色彩が鮮やかで、丁寧に描きすぎているがために表情・景色などのメリハリに欠ける点です。
子供の特有の変顔をして笑わせようとしたり、泣き顔に変わる様子などに唐突感は兎も角、赤ら顔などが変に他のシーンに対して異様に浮いたりしているように見えます。(子供の泣き方特有の描写の演出とは少し違う違和感)
またこちらが主な理由になると思いますが水泳でプールに入るシーンで男の子も女の子もおんなじようにぼかした表現は昨今の様々な声に対する対処かもしれませんが、表現としての逃げだと思いました。
それなら少女の胸の表現はもっとアウトでしょうに?どこに配慮しているのか分からないコンプライアンスは、原作『窓ぎわのトットちゃん』が某県の図書館に並ばせない騒動にも通じるどうしようもない大人たちの都合を感じさせて中途半端で、とても残念な点だと思いました。
男の子の股間について言えばダビデ像などにモザイクをかけて放送するのかと現実とフィクションの区別を二次元の表現作品に持ち込まないでほしいと思います。