ソフト/クワイエットのレビュー・感想・評価
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隣の怪物
観た後の胸糞さ・不愉快さは、別ベクトルではありますが昨年観た『セルビアン・フィルム』に匹敵する全編ワンシーン・ワンカット(ワンショット)のスリラー映画。
行き過ぎた白人至上主義の自称“模範的な一般白人女性”の狼藉っぷりに終始顔をしかめることになりました。スリラーとしては『セルビアン・フィルム』同様に悔しいことに最悪によく出来ている。
冒頭アジア系の清掃員を見る目から違和感がありましたが、話が進むに連れて露呈する作中女性の差別意識の高さには唖然とします。
しかも、主人公のエミリーの職は幼稚園の先生ですから世も末ですよ。まあ、清掃員への理不尽なクレームを教え子にさせて、それを「闘う」と称したのを聞いた親御さんがドン引きしてたので「普通にコイツだけおかしい」ってわかったのはまだ救いですけど。
でもこんなのが後から4人集まります。やっぱり末だわ。
しかし、彼女達は至って自分が健全だと信じていて、仲間内で食べ物を持ち込みながら日々の愚痴を溢す会を開いています。
まあ、いくら差別意識があったとしても身内間での愚痴で済ますならまだしも、会名が「アーリア人団結を目指す娘たち」なのは一発アウトじゃボケ。
会の参加者は不妊に悩んだり、会社で出世できなかったり、貧乏だったりと、それぞれに問題を抱える女性です。
そのことに不満を持つには別に構わないし、愚痴って鬱憤を晴らすこと自体はむしろ健全だとすら思います。……が、原因を全て他人種に押し付け、差別することを捌け口にしている時点で人道を大きく外れています。
厄介なの本人達は自分たちが絶対に正しいと信じており、マイノリティを淘汰することで社会が良くなると本気で思い込んでいるということ。
その「善意」を他人に押し付けるもんだから、社会で孤立しているワケなんですが、都合よくその社会で普通に暮らす人々のことは「洗脳」されていると捉えて内に、内に…と籠っていくのです。
なんかもうこの広大なインターネット世界でもよく見る流れだな……
こうした自浄作用のないコミュニティはロクなもんではありません。
ただ、コイツら口では「自分達は正しい」と宣いながら「自分達の会話が外に漏れるとマズイ」ってことはちゃんと認識しているのが珍妙で滑稽な部分ではあります。社会的に間違っているってことは何となくわかっているんですよね。
そもそもが自身の不遇を弱い者(と彼女達は認識している)を虐めることで発散してるだけのダサくて幼稚な卑怯者なんで、その部分と向き合うのが怖いのでしょう。
ボロが出るのも早くて、人を動かす能力がないだけなのに「コロンビア人に管理職の座を“盗られた”」と主張するマージョリーは、後半で起こった不測の事態にオロオロと泣き喚くだけで全く役に立たないことを証明してくれます。
まあ、そんな聴くに堪えない稚拙な優生思想を散々浴びせられる前半の時点でゲンナリですが、それが実際にターゲットを定めて暴れ出した時のアレっぷりに関しては想像を絶していました。
倫理をとことんブチ切っているんですが、だからこその面白さ(と言うと死ぬほど語弊があるな…)はちょっとあるんですよ。
この辺を突き詰めていくと、何故『セルビアン・フィルム』や『ファニーゲーム』と言った胸糞悪いだけのスリラー映画がこの世に存在しているかってコトにも繋がってくるんですよね。
そういうモノを娯楽とする怪物性も確かに我々の中には確かにある。相当人を選ぶ悪趣味な娯楽というのは承知の上だし、そういうの駄目な人からは「一緒にすんな!」とお叱りを受けそうなんですが、むしろそうやって断罪しちゃうのもマジでマズイことなんじゃないかって思う部分があります。
本作に出てくる奴らを「理解不能のカス!」、本作自体を「ただの悪趣味映画!」と評するの、その言葉の通りではあるんですが、いざ我が身を振り返って本当に自分の中にそういった要素が微塵もないかというと断言は絶対に出来ません。
エミリー達が口にする「優生人種によって劣等人種は管理されるべき」って思想に賛同する人は極々少数だと思う(と信じたい)んですが、じゃあ同じように語られた「(結婚アプリかなんかで)容姿の悪い男にあたると最悪!」とか「マッチョと細身の人、どっちが好き?(ぽっちゃりは除外されている)」とかは自分含めた結構な人が極々自然に言ってる言葉だと思うんですよ。
これらもルッキズムによる差別と言えば差別でして、そこら辺を無視して断罪する側に回っちゃうのもまた非常に危険です。
最近でも某ディズニー絡みで「LGBTQが過ぎるからクソ映画(その逆も然り)」とかの言説がバズったりしてますけど、この一概に決めつける雑な意見も危うい思想に踏み込んでる感じがある。この辺は一度、決めつけないで深く考えてみないと駄目だなァ…とは常々思います。
ぶっちゃけた話、誰もが誰かにとっての差別(と感じられる)発言は避けられないとは思いますし(もちろん節度や程度はある)時代によってその在り方も変容するものではあります。過去を遡及して糾弾するのも、勝ち馬に乗るかの如く皆が悪いというものを悪いと叩くのも良くないと思うけど、同時に止められないという諦念もある。
だからこそ、大事なことは常に自分を省みることだと思うんですよ。自己肯定感も大事なことですが、狭く籠って肯定ばかりしていてもロクなことにならないのも事実。視野を広くもって、いっちょ噛みするより前に調べて思考して改めていくことが必要になってきます。
その必要な過程を経ず、ロクなことにならなかった自分こそ、銀幕で大暴れしている本作の怪物どもであり、そういう意味では決して本作は他人事ではないのです。
本作が全編ワンショットという手法を取った最大の意義は、この自分事の延長線上(もしくは身近)に怪物が巣食っていることを際立たせることにあるのだと思いますし、そういう意味でもよく出来たスリラーたらしめています。
……と、こうした本作におけるワンショット演出の意義を考察した上で、本作の技術的な部分に対する不満点なんですけど、これ本当に全編ワンショットでやる必要ありましたかね?
確かにノンストップで無法を映すことで最悪さは増幅されてましたし、前述の我々と同じ軸にコイツらがいるって証明にはなっていますが、他のマイナス面があまりに目立ちすぎている気がするんですよね。
前半の会議の場面はとにかく単調、かと思えば移動するとカメラはブレるしところどころボヤける。車での移動シーンもありますが、移動距離が極端に短く感じる部分が気にかかりますし、終盤のボートの場面に至っては真っ暗闇で何をやっているのか全くわかりません。
いや、その前の場面であらかた説明してるから補完は十分に可能なんだけど、どのみち画面の見せ方としては最悪の部類ではあります。
昨年の『ボイリング・ポイント』は物凄く好きな映画なんですが、そちらはワンショットの技術が凄い極まっていて、見せ方が流れるようにスムーズだったんですよ。
その上で職場の焦燥感というワンショットならではの付加価値も生まれてましたし、作中時間と現実時間がズレているという映像の嘘も巧みに吐いていました。
僕が定義する優れたワンショット映画の条件って
①撮影技術の高さ
②ワンショットをやるだけの意義
③やった上での付加価値
なんですけど、本作の場合は②が部分的にあるかな…ってくらいで、正直他は基準を満たせてなかったかな…って。何ならワンショット部分による撮影の制限が足を引っ張っていた部分は凄くある。
なので、本来なら売りになるはずのワンショット映画としては全然推せないですね……単純に胸糞悪いスリラーとして推す方がまだわかる。
そんな部分もかなり両極端に寄っている問題作なのだなァ……
弱いものイジメではなく、強いものへの反抗でもなく・・この感情は何だろう?
行き過ぎた人種差別撤廃に憤りを感じる白人女性が、集会で意気投合して、たまたま口論になったアジア系女性に恨みを持ち、ちょっとした仕返しをするつもりが最悪の事態を招く。
かつて冷遇されていた黒人、ヒスパニック系移民が公平な立場を獲得していく中で、標準未満の生活をしている白人は立場が逆転してしまうような恐怖を感じて、その結果攻撃してしまうということだろうか。
日本でも明らかに外国人が増えていて、特に通勤電車の中で疲れた顔の日本人とは対照的に、陽気に喋りまくるセレブ風な外国人を見ると、低賃金で働く日本人とそれを安く利用する外国人の図に見えて、なんだか理不尽な気持ちになります。
それより遥かに根深い問題だと思いますが、行き過ぎた優遇は不平等感を生んで、問題をより深刻化させていく気がしますね。
胸糞悪いクズ女どもをワンショットで観る映画
「不快」以外の感情が何も湧かない映画
本作が米国で上映され、そしていくつもの賞の対象になったということにまず驚く。
また監督がアジアの血を引く女性という事に更なる衝撃を受けた。
まあ、それ故の受賞なのかも知れないが。
自分もかつて5年ほどL.A.で生活していた事があるが、多くの白人が自分達は優れた人種であると言う認識を持っている事は否定しない。
そして中流未満のお金に困っている人々の中には職に就けなかったり、仕事が上手くいかないのは、口に出さないまでも、自分以外に問題があると思っているのは事実だと思う。
本作はそういう人達が思っている事を実際に行動に出したらどうなるか?という思い付きやすい発想の元に製作された映画であり、結末も至って凡庸で、チャレンジングな意欲作というよりもテーマ性のみで注目を集めただけの作品にしか思えない。
鑑賞後の感想(感情)は唯一「不快」の1点のみで少なくとも自分には何も残らなかったが、一つ言える事は、役者さん達がよくこの作品への出演を許諾したなあという事だけ。
インディーズを主戦場としている方々が多いようだが、その役者魂は賞賛に値すると思う。
特に論理的かつ冷静であろうとしつつも偏った主義主張を隠しきれず所々で露わにしてしまう主演のエミリー役(冒頭であのマーク入りのパイを子供に見せる〇キぶり凄い)と、犯行になるとイニシアチブを積極的に取ろうとするレスリー役の女優さんは強く印象に残ったので、僭越だが彼女達の為に星2つ献上させていただきたいと思う。
観たい度○鑑賞後の満足度◎ ゾクゾクするほど面白い。傑作だと思う。これは、人間は時と場合によって”怪物”になるのではなく、人間はもともと“怪物”を自分の中に持っていると云う話。
①初回鑑賞のみの楽しみではあるが、全体の2/3位までは話がどこに向かっていくのかわからない。
②先ず冒頭で妊娠していないことに涙する優しそうな幼稚園の先生が企画したgatheringが白人至上主義を奉じる女性たちの集まりであることに先ず驚かされる。
ただ、最初の女子会みたいなママ友会みたいな雰囲気の中に既に不穏な空気が漂い始めている。
白人女性ばかりとはいえプア・ホワイトまで参加させると後々面倒な事になるのではないか、と思ったけれど、やはりそうなりました。
仲間がいなくなった途端その陰口を叩くのも女らしい(男にもそういう人いるけど)
③しかし、彼女らの白人至上主義を日本民族もあまり笑えない。
もともと日本人なんて人種はいなくて、私たちは同じ文化・風俗を共有している日本民族というのが正しい。私達は、古モンゴリアンと新モンゴリアンとの混血であり、また同時に、日本列島が出来て大陸から渡ってきた最初の人々、その後大陸及び日本列島の北と南から渡ってきた後々縄文人や蝦夷と呼ばれる事になる人々、おそらく長江流域から水稲栽培の技術を携えて渡来した弥生人、といった人々の混血人種なのだ。1200年余し前の百済滅亡以降大量の人口流入が無かっただけ。
それでも、未だにある人々は”日本人の純血を守ろう“なんて言ってるし。(そういう私も先祖代々奈良なので心のどこかにヤマト民族の誇りみたいなものを持っている、実はヤナ奴)
④はじめは女子中学生の同級生いじめか、不良女学生の弱いものいじめレベルのノリだったのが、だんだんエスカレートしていく様がリアルで面白い。
程度の差こそあれ、軽い気持ち・浅はかな動機で始めたのが、そのうち暴走し出したり制御不能になって深刻な事態に陥るメカニズム
・自分だけじゃない、仲間がいるという安心感/共犯意識
・人間の持つサディズムへの刺激
・もうちょっと、もうちょっとという欲望の増大と自制心の後退
・弱いものいじめから増幅する優越感の恍惚
おお、怖!でも最後まで見届けないと、と目が離せない。
こういうものって誰の中にも大なり小なり有るんではないだろうか。
話的には姉妹を殺すところまでいくだろうな、と思っていたら妹の方がピーナッツアレルギーで死んでしまうという、こちらの予想を上回る展開。
⑤その後始末中、彼女たちは“ああ、何でこんなことになったの?”としつこい程独り言で或いはいがみ合いながら言い続ける。
だが、そうなる要素は最初から彼女らの考えや行動に潜んでいたわけで、それの表面化・顕在化に過ぎない。
深層心理が解き放たれる場が偶々出来たというか、私達だって何かミスしたり物事が上手くいかないと“何でこんなことになったのか?”と自問するけれども、大概はその原因ははじめから自分の中にあったのだ(無自覚な悪習・悪意であるかも知れないし考え方や無意識な反応かもしれないし)。
何はともあれ、原因は自分ではなくし自分の外にあると思いたがるのが人間というものだし。
彼女らの白人至上主義も裏を返せば、
⑥上の方でプアホワイトと書いたけれど、エミリーだって
優秀なアーリア人
白人至上主義者の女性達がやらかす話。
移民を毛嫌いする主婦が集い「アーリア人団結をめざす娘たち」なる団体を旗揚げし、しまいには学校を作ろう!なんてノリノリな状態で巻き起こっていくストーリー。
何でしょうかね…知性の欠片も見えない何が優位なのかも示せないけれどとりあえず私達は有能とか思っているアッフォが馬鹿騒ぎして、人数と銃で言う事聞かせて…。
ワンショットでつくられている割には、なかなかテンポも悪くないし、胸糞悪さはたまらないものがあるし、それでいて第三者目線で見ると虚しさみたいなものも感じられてなかなか面白かったけど、やはり湖畔のあたりでは何をしているのかよく見えなかったりしてもったいないかなと。
そしてオチも一応伝わるけれども、本当ならもっと落として欲しいところで、ワンショットではストーリー的にこれが限界かなという感じ。
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