「いやあ参った。どうしようかねえ、これから。」逃げきれた夢 栗太郎さんの映画レビュー(感想・評価)
いやあ参った。どうしようかねえ、これから。
末永は、認知症にさえならなければ、あと1年で定年というこのタイミングで立ち止まることはなかった。普通に家庭に居場所がなくても、少なくともこれまでは間違って生きてきたとは露とも思わなかった。
それが、やはりこのタイミングで、わが身を振り返る。
家庭ではどうだったか。病気のことを話せない気まずさのある関係。不倫されてても強く出れない関係。触れることさえも毛嫌いされてしまっている関係。面と向かって話もしてくれない関係。それは、これまでの自分に原因があるのだという自覚がある。いまさら戻せないとわかっている。
友達はいる。会えば、その夜に都合をつけてくれる気のいい奴だ(松重豊の成りきり振りに感服するしかない)。だけど、本人は気付いていない。結局大事なことを話すことができなかったことを。
学校では問題なかっただろう、、と、本人は思ってる。中間管理職として頼りにされてきたと思ってるし、生徒の良き理解者と自負もある。ところが、実は「生徒に嫌われる先生の条件」をすべて満たしていることに気づいていない。それを、今の生徒にも見透かされている。「わかった。信じる。信じるけん、逃げんでね、先生。」のやり取りのあとの回収がないのがその証拠だ。卒業生の平賀(この子も定時制だったとしたら家庭か何かに問題を抱えた子だったのかもしれないので、感情の機微に敏感だろう)だって、病気じゃしょうがないという同情が、いつのまにかズルい大人を見る目に変わってしまっている。そして最後のあの無言の別れだ。あの長回しは意味深だなあ。平賀が何も言わないこと自体が、まるで何かを語っているようだった。
末永にとって、おそらく「定年」を一つのゴールだと生きてきたのだろう。それは家族にお疲れさまと言ってもらえる晴れ舞台であったろうし、その後の人生を平穏に過ごす、そう想像してきた未来こそが、彼にとって「夢」だったのかもしれない。だけどいま彼は、その夢の場所まで逃げきれそうもない。
断定的でないのは、この物語がまだ進行中だから。大したこともないようでいて、だからこそどこにである悲劇の物語の行きつく先が。
※同時上映中の「波紋」の光石研とキャラが被るせいで、2つの映画が脳内で若干シンクロしてしまうのは如何なものか。