「若きプラトンたちの対話に希望を見いだす」ぼくたちの哲学教室 地政学への知性さんの映画レビュー(感想・評価)
若きプラトンたちの対話に希望を見いだす
若きプラトンたちの対話に希望を見いだす
映画のの原題は “Young Plato”、「若きプラトン」である。プラトンはソクラテスの弟子であり、哲学を学ぶ子どもたちといったとも言い換えられるか。エマニュエル・カントは「哲学は学ぶことはできない。哲学することを学びうるだけである」と言った。そう言う意味では、この映画の登場人物たちは子どもだけでなくその親や先生も哲学を実践しようとしている。完全なドキュメンタリーなので、出演者の行動は自然だ。ここまでカメラの前で自然に振る舞えるまでにどれほどの時間を要したのだろう。撮影期間は2年に及んだと聞くが、この映画に盛り込めなかったものもさぞ多かろう。
止血状態の平和
この舞台となっているホーリー・クロス男子小学校の所在するのは北アイルランドのベルファスト、かつてカトリックの住民とプロテスタントの住民の対立で多くの血が流れた場所だ。和平が成立していることは筆者も報道で知っていた。ただ和平の実態は実に微妙だ。街は「平和の壁」と呼ばれる分離壁で分断されている。もちろんカトリックとプロテスタントの住民を分断するためなのだ。つまり流血状態を分離によって止血処置をしたというほうが当を得ている。今では整然とした街並みが平和を取り返したかのように映し出す一方で宗派対立の名残や薬物問題などの問題が剥き出しの壁画として主張している。このドキュメンタリーで登場する壁画はこの街の心情を写し出す。壁が無くなればまた血が流れるのだ。
決して平和へのサクセス・ストーリーではない
この映画の主人公であるホーリー・クロス男子小学校の校長先生ケヴィン氏は子どもたちと哲学の実践を試みる。子供たちの間で日常的に生じる対立を徹底的な話し合いで解決に導いていこうとするのだ。それが日本語タイトルでいうところの「哲学教室」なのか、物事の捉え方、考えかた、行動の仕方を自ら考え、話して、他の人の意見を聞いて、お互いの違いを認識して、理解へ繋げる。それでも短絡的に「哲学が平和への処方箋だ」というストーリーではない。誰でも経験するように喧嘩して仲直りしてまた喧嘩する、これを繰り返すのはどこにでもある風景でこの学校も例外ではない。それでも決して議論による解決をあきらめない。
聖者ではないケヴィン校長
この映画に出てくる子どもたちや教職員みなが日々それぞれにストレスを抱えながら生きている。ケヴィン校長も過去の失敗談をもっていて告白する。今もエルヴィス・プレスリーの音楽に浸ったり、激しい運動をするのも日々のストレスとは無縁でないことの表れに見える。ベルファストという特別な土地柄を除けば、彼も周囲の人物も決して特別ではない普通の人間なのだ。そんな普通の人々がケヴィン先生に促されて対話を尽くそうとしているところにこの映画が示す平和の道標が浮かびあがる。
子どもたちの争いの中に世界の対立の縮図が写し出される
出演している子どもたちは撮影当時の小学生だから当然北アイルランド和平後の世代だ。学校教育で紛争当時の記録をみせられるし、家庭でも聞かされるだろう。痛ましい過去に対しての親の向き合いかたが子どもに反映されるのか、人間の本能なのか、子どもたちの日常に生じる些細な摩擦が暴力に発展していくのを見ていると今日の世界の対立や紛争と驚くほど通じるものがあることに気づく。「やられたらやり返せ!」「カトリックとプロテスタントは人種も言葉も違うから共存できない」子どもの発する言葉のもとは流血の惨事に晒されてきた親世代の鏡なのだ。過去の出来事や既得権益を巡って対立するのは、子供の世界も国家間でも同じなのだ。子どもたちに対話をさせるように国家間でも対話を尽くすことができないのか。「50年も前に起こったことはもう関係ない」「世界はみんな家族だ」「流れている血の色は同じ、同じ人間だ」ほんの数十年前に悲劇が起きた街に生まれ育った子どもたちの発する言葉に重みがある。
「自ら考える力」そして「対話をする力」こそが未来を背負う子供達への真の遺産
ケヴィン先生は常に正解を持っていない。何度も子どもたちに問いかける。答えは子供達との対話の中にあるという姿勢なのだろう。そうすることで子どもたちは自ら考え、他人の言葉に耳を傾ける。人は時に、怒りで考えるよりも先に行動に走ってしまう。ひとりだけの考えだと、どんどんふかみにはまっていく。どうやって怒りを制御するかも、みんなでアイデアを出し合って共有する。考えるためには怒りを抑えなければならないからだ。未来の子どもたちに平和を届けたいというのは、親ならば誰もが持つ希望だろう。民族主義の対立が吹き荒れる今日の世界で、偏狭な歴史教育は対立を煽っていないだろうか。自国の歴史教育を盲信して他国の立場や主張に耳を傾けなければ、対立の溝は埋まらない。対立しているからこそ、話し合いが必要なのだ。
世界中のケヴィン校長の生徒への課題
この映画のように話し合いで解決できるほど国際社会の現実は優しくないと言わざるを得ない。この学校にはケヴィン校長という秩序が存在する。残念ながら国際社会はアナーキー(無政府状態)であり、ケヴィン先生の代わりになるような存在は国際社会には存在しない。多極化する世界では国連安保理を持ってしても無力なのだ。議論するどころかその話し合いさえも拒絶されてしまう。だからと言って対話をあきらめてはならない。ケヴィン先生に学んだホーリー・クロス男子小学校の生徒、この映画を見た世界中のケヴィン先生の生徒がそんな世界の課題に対する答えを探すために対話を続けるだろう。もちろん筆者もそのなかの一人でいたい。