「烏鷺んな主人」碁盤斬り 梨剥く侍さんの映画レビュー(感想・評価)
烏鷺んな主人
落語「柳田格之進」が原案というので興味はあったのだが、私のイメージの柳田は丹波哲郎だったので、草彅剛では線が細すぎて違和感があり見に行かなかった。ところで先日、立川志の輔が高座で「柳田格之進」をかけて、(弟弟子が出演しているせいなのか)やたらこの映画を紹介していたので、どんなものかと見てみることに。
落語だと3、40分で語れる噺を2時間程度の映画にするために余分な設定が付け足されるのはやむないことなのか。50両の隠匿という冤罪が主題なのに、浪々の身になった原因として過去の冤罪エピソードが不意に出てきて、焦点がぶれる。なかんずく原話では柳田の妻について先立たれたと簡単に触れられるだけなのに、何とも生臭い因縁話が浮上してイヤな気分にさせられる。
また、囲碁の勝負が大きくクローズアップされているが、本来は萬屋の主人が碁に夢中になって50両のことを失念する理由として出てくるだけで、ここの流れは「文七元結」とほぼ同じ。柳田が囲碁の名手との描写も特にない。
落語には登場しない弥吉という人物を配したのは、もともと品性にもとる番頭が主人の制止をきかず柳田宅へ赴き混乱を招いたのに、後日談でお絹と結ばれるという不自然さを解消したかったからなのかもしれないが、弥吉の終始中途半端な立ち位置が気になる。
クライマックスである“碁盤斬り”をそのままタイトルにするのもどうなのか?萬屋の主従の前で柳田が刀を振りかぶった際に、明明白白にオチが読めてしまう。高座でも最後に「柳田格之進の碁盤斬りの一席でございました」と述べている例はあるが、落語は演題を前もって発表しないのが通例なので、最後に告げるのは問題ない。
柳田の去就もうやむやだ。高価な書画を勝手に売り払って旧来の配下の者に報いるというが、自らのなりわいはどうするのか。原話では帰参が許されて留守居役になっているので安泰だが、三度笠で木枯し紋次郎もどきのラストシーンではすこぶる心配だ。
結局よくよく考えてみるに、うわの空で金子を隠し、店中すったもんだしているのに一向に思い出さない萬屋の主人に重責がある。その後のすべての騒動の発端なのだから、うっかりでは済まされないだろう。一度藪井竹庵先生にでも診てもらった方がいいと思う。