子どもの瞳をみつめてのレビュー・感想・評価
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原題Yield ほぼ完全なるループ
黙々と、子どもたち、家族、学校の先生の会話のみ。会話は日本語字幕がつく。
映画全体の中では、わずかに思える会話、会話がないシーンの多くであらゆる年代の子どもたちが絶え間なくあらゆる労働に従事する様がひたすらうつしだされる。どの子どもも小さな体を駆使して手慣れた作業を淡々としている、その淡々とフラットな様子に胸が痛くなる。
川を移動する筏を操る女の子、茄子を植えるため畑を耕しナスの種を植え,育て苗を植え育てて収穫し舟で出荷する。採石場で年齢や性別により岩山から石を切り出し細かく砕きネコで運び篩にかけ運びトラックに積む。呼吸用のパイプを口に石をポケットに入れ水底にもぐり鉱石を含む砂泥を袋に詰めて陸に上がり鉱石になるまで洗練精製する。重い荷物を与えにベルトをつけて運ぶ。足元はゴム草履か
サンダル。その木に登り果実をとる。その間にも、薪を作り火を起こし煮炊をしごはんを作り妹弟たちちに食べさせ、身なりを整え学校に行き勉強もしているし、子ども同士で泳いだり遊んだりしている。貧しいが家庭も学校も明るく楽しそうにみえる。
唯一労働していないのは病気で母鳥で歩くこともできないアレックス、最後手術や闘病虚しく疲れたと言葉を母に言い痛みの中笑顔が婆っと大きいアレックスだったが苦しみの中亡くなった。彼は家族の中心で、家族は誰も彼を負担に思ったり病気や障害による区別も特別扱いしていない。
荷物運びをしていたジェーソンも労働に起因してか激しい頭痛から背中の瘤ができ寝たきりになってしまった。労働人生のループから離脱し歩行のできない苦しみの生活となったが家族はかつて働いていたときも寝たきりの彼も変わりなく同じように接している。ジェーソンはその後ロープをつたい影を降りて海水浴ができるほどに回復。
最後の方で衝撃の展開となる。採石場で、たくましく青年に成長した少年,子どもたちがやはり石をくだき、チューブを使い海に戻り砂泥を集め同じ仕事をますます優雅な技術を駆使してやっているのだ。そして老爺も老婆もそこにいてやはり慣れた手順で採石し砕き運んでいたのだ。彼らの洗練された労働スキルはもう生まれた時から埋め込まれ待ち合わせいるかのように。そしておそらく,赤ちゃんの時から大きな目をぱちぱちさせて音楽にのって歌っていたがやはりアレックスのような病ですいつまでも歩けない女の子(お名前失念)やアレックスは、この悪夢のようであまりに人生そのものとして日常になりすぎてる世代を跨ぐ運命のループを免れており、この子たちは病気であり働けないからこそ、天使のような存在として家族に愛されているのだ。掛け値無しに愛情を注ぐ。日本なら,コスパと損得に終始する日本なら、この天使たちはこの映画のなかの家族や村人たちのように温かく素晴らしい生を生きる存在としてこのように愛され,天使はこのように明るく微笑むことができるだろうか。
そのことがとても刺さった。
最後は、少年兵。彼はこのループ,生まれてから亡くなるまでほぼ運命となっているループとは違う様相。少年は銃を持ち訓練を受けている。彼は瓜生監督によると近隣にあるムスリムの村で自警団的な兵士として活動しているようだ。ムスリムの自警団、彼は小学生だが銃を持たされている。彼はすでに労働ループから離脱しており、唯一他の人生に希望が持てそうだが,この彼の未来もどうなるのか、必ずしも希望のみではないだろう。
そして村のそばにはスモーキーマウンテン。ゴミゴミゴミの山。眼下には美しく整備された中流以上の綺麗な住宅地。
この映画で見たものを忘れたくないのでたくさん書いておく。
このカメラが静かに冷静にじっくりと8年もかけて、近いところで収めた映像,子どもたちの,家族の自然な存在を忘れたくない。美しい海、川、緑の山。
監督の瓜生氏は成田の出身で三里塚のら少年行動隊をされいた,その頃小川紳助監督の撮影する姿を間近に見て育ち小川プロに入られたという履歴の持ち主、黒沢清映画の撮影をたくさんしていたようだ。アテネフランセで瓜生さん特集があり上映後フィリピンからオンラインの対談を聞いた。その筋金入りの子どもの時から理不尽な世の中を見てきた監督ならではの,人間性に強く依拠するぶれない,強い、静かに押してくる本作品の所以がよくわかった。人が食べる肉,そのための家畜に餌をやるために毎2秒で人がなくなっていることに心を痛めフィリピンで長く撮影のみならず学校を建てて活動しておられるそうだ。監督ならではの、子どもたちの表情、存在感,写り方と納得するしレスペクトしかない。
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