「アルジェント10年ぶりの新作、ついに封切り。「ジャッロ」映画の帝王が帰ってきた!」ダークグラス じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
アルジェント10年ぶりの新作、ついに封切り。「ジャッロ」映画の帝王が帰ってきた!
まあね、映画の出来栄えなんて、ぶっちゃけどうでもいいんですよ!
心から敬愛してやまないダリオ・アルジェントが、80過ぎてまだお元気で、ジャッロみたいなジャンル映画の世界にまたはりきって帰って来てくれたってだけで、熱狂的ファンとしてはもう十分お腹いっぱいなんで。
ついでに出来も良ければなおよかったんだけど、この監督が下駄を履かせずとも誉める余地のある映画を撮ったのってたぶん『スリープレス』(の前半部分)が最後くらいなので(笑)、裏切られるのにはもう慣れたし、もはやなんとも思いません。
そもそも、アルジェントは『サスペリアPART2』と『サスペリア』を撮ったってだけで、映画史に爪痕を残したどころか、永遠に語り継がれるべき偉業をとっくに成し遂げているわけで、その後の「余生」でどれだけカスみたいな映画を撮ろうが、凡百の輩にとやかく言われる筋合いなど1ミクロンもない。
生きている間、アルジェント御大には好きなだけ、好きなように映画を撮り続けてもらえたなら、それでいいんです。
ただ今回の新作で、人殺しに「色気」がまるで感じられなかったのは、なんかすごく残念だったなあ。
タメもなんにもない「記号」のような殺人。始まりは唐突で、残尿感だけが強い、センスのかけらもないスラッシャー・シーン。
「性欲」といっしょで、「殺人美学」ってのも「加齢」とともに薄れちゃうのかな。
アルジェント・ジャッロの最大の魅力って、「殺す前」の「前戯」の艶めかしさにこそあったのに、いきなり挿入みたいな、えらく淡泊で味気ないものばかりになっちゃってる。
そのあといくらグロシーンをやっても、出だしがダメだからそそられない。
なので、本当はどんなひどい出来でも「コンフェッション(信仰告白)」として5つ星つけてもよかったんだけど、あえて3つ星にしてみました。
それでも、非アルジェント・ファンから見たら、十二分に「つけすぎ」だと思いますが、こちらとしては気分は「身内」なので、なんとかご容赦のほどを。
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オープニングは、なかなかにいかしている。
シンメトリー感のある、ローマ郊外の遠景。
一転して、アオリで流れていく街路樹の梢。
運転しているのは、真っ赤な服を着た、真っ赤な唇の女だ。
(『シャドー』(82)の真っ赤な箱と真っ赤な靴を想起させる。)
アオリのショットで、自然と空に吸い寄せられる観客の視線。
気付くと、マンションのベランダや公園で、みんなが板のようなものをかざして、空を見上げている。
今日は、皆既日蝕。
だからみんな日蝕用の「ダークグラス」を通して、太陽が陰っていくのを観ているのだ。
広い公園の前で車をとめる女。
回りに人がいてもなぜか圧倒的な「孤独」を感じさせる、エドワード・ホッパー的情景。
女も鞄から「ダークグラス(サングラス)」を取り出して、一緒に日蝕を眺める。
日蝕――古来、「凶兆」として知られる、悪魔の天体ショー。
陽光に充たされた世界が翳り、薄暗闇に覆われたローマの遠景が再び映し出される。
そして彼女は、自分を襲う悪夢をまだ知らない……。
このあと、謎の殺人鬼に襲われて九死に一生を得たヒロインのディアナは、その代償として「失明」するに至り、盲人用の「ダークグラス」をかけることになる。
まさに、日蝕で世界から光が喪われたように、彼女の世界から光が喪われるのだ。
小道具をうまくつないでメインテーマにまでもっていく感じは、元気だったころのアルジェントのキレを(少しだけ)感じさせる。
総じての印象でいうと、街なかでのロケや、黒いサングラスの美女が冒頭で登場すること、コールガールが「淫売」として標的にされる展開、おっぱいポロリシーンの頻出など、前半の空気感は先に「赤色」の件で触れた『シャドー』とよく似ていると思う(「淫売狩り」というテーマは、『シャドー』と近いことをやろうと画策した『スリープレス』(01)とも通底する)。
殺人鬼がもつ首絞め道具は『サスペリアPART2』(75)や『トラウマ』(93)、殺人鬼が白いバンに乗って被害者を漁ってまわるのは『ジャーロ』(09)を想起させるし、きわめて唐突かつしょぼい水蛇襲撃シーンなどは『フェノミナ』(85)の虫や『インフェルノ』(80)の鼠の所業を思い起こさせる。
終盤、ド田舎のオープン・エアでいつ終わるとも知れない殺人鬼との追いかけっこがゆるく続くあたりは、『フェノミナ』のうまく終われなくてダラダラ延長戦やってる感じととても近しいものがある。
意味不明のイロジカルで悪夢的な展開とか、出だしが一番良くて後に進むにしたがってだんだん弛んで辻褄が合わなくなっていく感覚とか、マイナス面もひっくるめて本作は昔ながらの懐かしい「アルジェントらしさ」で満ち溢れている。
なんか、いろいろ置いて並べてある殺人鬼の机とか。
長い廊下を、バックショットでヒロイン追いかける一人称カメラとか。
俺としてはもう、それで充分といえば充分なのだ。
「ダリオおじいちゃん、久しぶりに会ったけど、あんまり変わってないじゃん!!」
懐かしさで、軽く泣きそうになる。
しかし、ヒロインのもとにやってくる盲導犬もひっくるめて、すべてがあの『サスペリア』の某有名シーンのセルフ・パロディをラストでもう一度やらかすための「壮大な伏線」だったとは、俺としたことが終盤まで気づかなかったぜ……!!(笑)
盲人を主人公としたサスペンス映画といえば、誰しもがオードリー・ヘップバーン主演の『暗くなるまで待って』(67)をいの一番に挙げると思うけど(『ドント・ブリーズ』とかひねくれた発言は禁止w)、アルジェントも実は初期に『わたしは目撃者』(71)という、カール・マルデンが盲人の元新聞記者として探偵役を務めるジャッロを撮っている。
ただ、ここでセルフ・オマージュを捧げられてるのは、間違いなく『サスペリア』のアレのほうなんだよね……(ちなみに、ルチオ・フルチの『ビヨンド』(81)にもそのシーンをパクったと思しき残酷シーンが登場する)。あと、『オペラ座血の喝采』のアレを掛け合わせてる。
結局、どうしても死ぬまでにもう一回だけ「アレ」をやりたくて、「盲人」と「サングラス」と「犬」の出てくる映画を作っただけなんじゃないのかっていう(笑)。
あと今回観ていて、アルジェントが現代のポリコレ的な要素にもきちんと順応してみせていることには、素直に感心した。
わざわざ中国人の少年を主要キャストに抜擢したり、昔ながらの腺病質そうな美少女じゃなくて、自らの意志で自立して生きるコールガールをヒロインとして出してきたり。
序盤で出てくる、ヒロインがレイプしようとした客に逆襲してボッコボコにするシーンって、たぶんサミュエル・フラーの『裸のキッス』(64)へのオマージュだよね? そういえば、あの映画に出てくる街の施設の子供たちも「多人種」だった。
今回アソシエイト・プロデューサーを務めた娘アーシアからの逆影響もあるのかもしれないが、パンフの矢澤先生の解説によれば、脚本自体は2000年代初頭にはすでに出来上がっていて、中国人少年のキャスティングでわざわざ香港まで出かけてたらしいから、当時からちゃんと「強い女性と外国人の少年が出てくる、被害者側に力点を置いた作品」を撮ろうとしていたわけだ。
えらいよなあ、アルジェント。
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ということで、齢八十を過ぎてなお涸れ切らない「アルジェントらしさ」は充分堪能できたのだが、そうはいっても……やっぱり出来はかんばしくないよね。それは残念ながら認めざるを得ない。
やっつけ仕事感のある、薄味でコクのない殺人シーンにがっかりしたことはすでに書いたのでもう繰り返さないが、それ以上に、後半以降の作りというか、段取りの組み立てがいい加減すぎるのは、とても気になる。
いや、別に筋自体はめちゃくちゃでも全然かまわないんですよ。
そんな些細なことは最初から気にしないし、
アルジェントならいくら辻褄が合わなくたって俺は許す。
ただ例えば、あれだけ「携帯を置き忘れて逃げてきてしまった」ことをヒロインに強調させたあと某人物の死体を発見させて、観客全員に「ああここで携帯を調達するんだな!」と思わせといて、一切そんなことはしないとか、
そもそも殺人鬼から逃げる(もしくは隠れる)ことが目的で森に入ったのに、水蛇のところでバカみたいにギャアギャア泣き叫んで、案の定殺人鬼に気づかれるとか、ああこれで犯人に追いつかれちゃうんだと思ったら、全然追いつかれないとか、
いきなり少年が行方不明になって、観客に「そういや少年と一緒に銃もなくなってたよね、あれもって後で助けに来るのでは?」と期待させといて、さくっと再登場させるだけで銃のことは忘れたかのように話題にも出てこなくなるとか、
殺人鬼から逃げてる真っ最中に、中国人少年と実の母親についての話を唐突に始めたあげく、広っぱの真ん中で棒立ちになってお涙頂戴で抱き合ってるとか、
ホントこういうところはなんとかしたほうがいいと思うんだよね。
水蛇襲撃シーンも、ちょっとひどすぎる。
なんだ、あのダッサいCG?? もう少し、まともな業者と組もうよ。
前作『ダリオ・アルジェントのドラキュラ』で出てきた巨大カマキリもたいがいひどかったけど、今回のはタダの蛇なんだから、あそこまで手間はかかんないだろ? どうしてこんなにショボくなってしまうのか。
これなら、同じインチキ臭く蛇に襲撃されるにしても、川口博探検隊のほうが100倍スリリングだったってもんだよ。
それから、どうしても許せないのが、犯人の正体がなし崩しでわかっちゃうところ。
アルジェントって、どれだけ後年になって演出力が劣化しようと、「意外な犯人」を「最後にドーンと出す」というクリスティ的なフーダニットの部分はぎりぎり保つようにやってきてたんだよね。
でも今回の犯人露見シーンは、おざなりもいいところ。
なんとなく、ぺろっと出しちゃってる。
こういうことは、アルジェントにはやってほしくなかった。
あとたぶん今回のって、本当は「盲目」という限定状況と掛け合わせる形で、「におい」が謎解きのキーになるミステリーを志向していたんじゃないかと思うんだけど(ちょうど、とある「音」が謎解きのキーになる『スリープレス』と対を成すかのように)、そこがまるでうまくいっていないのが残念すぎる。
アルジェントの最大の魅力は本格ミステリー的な稚気の表出にこそある、というのが30年来変わらない俺の主張で、だからこそ『サスペリアPART2』や『シャドー』を愛してやまないわけで、この辺のミステリー性の劣化はしょうじき辛いなあ。
そのほか、最初の被害者の切られた首が太すぎやしないかとか、犬をああいうやり方で置き去りにするのはあり得ないとか(盲導犬に「お留守番」させるって発想自体がおかしい)、ヒロインが暗闇で利するために電球を割るシーンがあるのに肝心の暗闇で殺人鬼と対峙するシーンが一切ないとか、なんで他の人間はさくっと殺すのにヒロインと少年だけは拉致するのかとか、なんぼなんでもラストの殺人鬼との対決シーンはダサすぎるとか、言いたいことは山ほどある。ラストで明かされる犯人の動機も、ヒロインに執着する前から3人も殺してることを考えると、イマイチ整合性がとれていないような。
音楽に関しても、ゴブリン・ミュージックを軟弱化したみたいなパチもん臭さがあって、俺はぜんぜん受け付けなかった。
こういう脚本上の改善可能な部分や、ビジュアルエフェクトや音楽みたいな外付けの要素は、本当ならきちんとアーシアが目を光らせてブラッシュアップすべきだったし、もっと完成度を高めることは可能だったと思うんだけど……まあ、仕方ないね。
なんにせよ、アルジェントの新作が観られただけで満足って最初の言葉に、偽りはない。
ありがとう、アルジェント。また映画作ってくれて。
(ちゃんと劇場公開してくれた日本の配給元にも、心からの感謝を!)
次作とされるイザベル・ユペール主演映画も、完成が待ち遠しい。
いつまでもお元気で、マエストロ!!!