ジョーカー フォリ・ア・ドゥのレビュー・感想・評価
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仮面を取ったジョーカーの末路
■あらすじ
バットマンの悪役であるジョーカーの誕生秘話の続編。
理不尽な社会への反逆者、代弁者として祭り上げられた、
狂気あふれるジョーカー。
前作で5人(ホントは6人)を殺し刑務所に入っているところから始まる。
そんな彼の前に、リーという女性が現れる。
■レビュー
前作は、途中まで「つまらない」と思いながら見ていたが、
だんだんと狂気に満ちたシーンが続き、「こわっ!」となった。
それがこの作品のすごいところでもあったのだが。。。
今回はその続きなのだが、その狂気が群衆へ伝播していく恐ろしさを
描いていたのだが、どこかおかしい。。
前作ほどの狂気、恐怖がない。
これは・・・ところどころに入れられた、ミュージカル調のせいか?
そして、ジョーカー自身は、刑務所と裁判所を行ったり来たりするのみ。
挙句の果てに、仮面をとったジョーカーの末路は・・・
賛否両論分かれている、と話題になっていたけど、どこを取り上げれば、
良作となるのか、私には難しい。
しいて言えば、ホアキン・フェニックス、レディー・ガガの演技の良さかな。
なんでこんなになってしまったのか
分からんでもないけど
ジョーカーはいないがこの映画の答え
これはジョーカーの映画ではなく、アーサーの映画
ジョーカーがハーレークイーンと暴れ回る映画を期待して観に行くと肩透かしを喰らう。それは、ジョーカーに理想のイメージを抱き過度にジョーカーを持ち上げるゴッサムシティの人々のように、観客が勝手にイメージした肥大した期待感なのだと思う
ジョーカーに憧れて近づき理想と違うから離れていったリーも、観客の気持ちとリンクしていると思った
ストーリーは病棟と法廷が中心で、大きな動きが少ない。つまらないという人が多いことも理解出来た
しかし、こんな風に映画内の人物と同じ気持ちになれるという初めての体験が出来た
これが芸術なのだと思った
前作を観て今作を観た上で肯定的な感想を抱けたのも、今までジョーカーに触れてこなくてイメージするジョーカー像が無かったからかもしれない
孤独を噛みしめる映画
クソYouTuberとそれを模倣するクソ登録者
が招いた結果がこの「ジョーカー2」である(ものの例えです)。
前作ジョーカー1の模倣に歯止めをかけるべく
「ダメなもんはダメだ!だって犯罪だもの!」
「ジョーカーかっけぇ!俺、真似するわ!
ってヤツに対して
「いやいや、かっけぇとかじゃねぇから!」
と、危ない思考に警鐘を鳴らし、絶対にアーサーに対して微塵も希望を持たせない展開にしたのは制作陣のせいじゃない。
ヤバい鑑賞者のせいだ。
前作ジョーカー1を崇拝するあまり過度な期待に裏切られ、酷評に至ったレビュアーは作品内のジョーカーコスプレイヤーとさほど変わらない。
賛否両論があるのは仕方のないこと。
どの作品だってそう。
ただ、ちょっと、ジョーカーに関しては異質で病的だよね。
おっと、これは作品の感想じゃないな。
ミュージカルを差し込まないと2時間以上なんて重すぎて耐えられないだろう。
ま、「多すぎ!」とも思うが。
レディ・ガガを起用したのは正解だと思う。
歌うまいし、美人すぎないから良い。
俺、思ったんだけど、ダンサー・イン・ザ・ダーク見た時の気持ちに似てるなコレ。
観たあとのズーンて感じ。
ほんと、ホアキン・フェニックスってすげぇ俳優に成長したなぁ。
兄貴が生きてたらどうなってただろう。なんて考えたり。
ほんとはもっともーっと長文で書くことあったけど、自分も読んでる人もダリィしやめとく。
とりあえず1は超えないものの、続編としてすごく納得しました。
見てよかったデス!!
ごめんなさいダメでした
鑑賞中に何度も時計を見てしまった
トイレに行きたいとかじゃなく
もう苦痛で早く終わってほしくて
でも結末は気になるからやめることもできず
私にとってはハッキリ言って駄作でした
そもそもジョーカーとは
あのバットマンの敵であったはず
これはそこから離れすぎていて
もはやなんだか分からないキャラクター
あととにかく何がダメって歌の場面が多すぎる
レディーガガを起用したからこうなったのか
こうだからレディーガガなのか知らないけど
ミュージカル映画は嫌いじゃなくても
趣旨が見えなくなるほど多用されたらウザい
0点にしたいくらい苦手だったけど
ホアキンのウエイトコントロールと演技に
さすがにそれはできないので1点だけ
8㎜やグラディエーターの頃から
演技は天才的だったホアキンだけど
ジョーカーのイメージが強すぎる人が多いので
次は全然無関係ないああいう役をやって欲しい
私はハマって大号泣
一般公開日2日目に鑑賞し、感動し号泣。
しかし、世間の評価があまりにも低いので「擁護したい」という気持ちが高まり、映画.comのアカウント作成してまで投稿してます。
個人的には前作「ジョーカー」から一貫して、自己評価と世間の評価に大きな乖離の有るアーサーの物語として見ており、悪のヒーローと思った事は1度もありません。
彼は決してヒーローではなく、本当の悪のヒーローは他の誰かなんだ、と。
その部分に焦点を搾ったのが今回の作品「フォリ・ア・ドゥ」だ。
彼の頭の中には、音楽が流れ、いつか誰かが自分に憧れたり愛される存在になるといつも空想してる。
それはママが好きだった音楽だったり、ママと一緒に観た映画の断片だったりするわけです。
でも現実はどう?
世界の底辺で生きてきて誰にも愛されない頭のおかしな、ただのオッサンだ。
今回の作品ではおかしなオッサン・アーサーの頭の中で流れるものに観客は付き合わされる訳ですが、古い音楽で大半の観客はノレません。
なにぶんママの時代の音楽なもんですから~。
そんなアーサーを私は心の底から応援しながら観てしまう。
悲しい存在であるオッサン・アーサーに自分を重ねて観てしまうのだ。
ホアキン・フェニックスの歌声は深く優しく、ダンスはセクシーだ。
そりゃアーサーが妄想する「こうなるはずの自分」だもの。
で、結局ガガ様演じるリーって何なんだという考察は別の評論家さんにお任せし、私はアーサーの物語を全面的に支持したい。
親ガチャにハズレ、なんの才能もなく生まれてきた者に、世間は冷たいのだ。
アーサーの人生のミジメさを全身で受け止めてこそ、この作品に号泣出来るのかもしれません。
ネタバレって程じゃないけど、アーサーの心の味方になってくれる人は、たった1人だけ存在します。
それはとても小さな存在です。
アーサーが現実に向き合えたとしたら、小さな存在を大きく感じられたかもしれません。
残念
恋愛と裁判とエンタメをめぐる承認欲求
2024年。トッド・フィリップス監督。「ジョーカー」続編。承認欲求が満たされずエンタメ業界の底辺で生きることを余儀なくされた男が、社会への復讐として殺人にいたったところ、世間から祭り上げられ、また、追っかけ的に慕ってくる女性と運命の恋に落ちて、「恋愛」と「裁判」という場で「本当の自分」の模索を強制されてグラグラ揺れる話。
ジョーカーが仮面なのか(演技=責任能力あり)二重人格なのか(病気=責任能力なし)を巡って精神科医や弁護士や恋人や元友人があれこれ「診断」するわけだが、彼自身には判断がつかない。だから指摘されるたびにうろたえる。しかも、主人公は他者の意向に沿うことで(自らを笑いものにしながら)承認されたいという欲求が強いので、これはもう地獄だ。
主人公の夢想として挿入されるエンタメシーンのエンタメとしての水準が低いのではないか、主人公が煙草を吸いつつ天を見上げて手を広げるしぐさが多用されすぎではないか、運命の恋の相手の素性が無駄に怪しいのではないか、など気になるところが多々ある。
もやる
評価が分かれる映画ほど、自分の感性を信じて
ご自分の目を信じてご自分で判断して下さい
下馬評は無視して下さい、傑作です。DCコミックの敵役を神がかり的に高め、些か過大な評価と成果を得た前作、ハリウッドのどうしても避けられない続編要請に応えた結果がこれ。アーサーからジョーカーへ昇華した高揚感をそのまま2作目も引き継いだら、スタジオから3作目の要請も不可避、だからジョーカーからアーサーへ引きずり下ろし、のみならず息の根を止める。多分監督トッド・フィリップスも主演のホアキン・フェニックスもこの展開しか選択肢はなかったのではなかろうか。なによりホアキンが5年ごとに激痩せするなんてそもそも無理でしょ、次回やったら命に係わるのですから。
巻頭のWBcartoonによるアニメションが本作の要約を早々に示し、さらにエンドタイトルに流れる曲「That’s Life」が全てを纏めてますので、その一部和訳を示します。
『人生なんてそんなものだ、誰もが言うだろう
4月は上手く行っていたのに、5月には撃ち落とされる
でも僕がそのリズムを変えてやるさ、6月僕がトップに返り咲いた時にね
僕は傀儡で貧民で海賊で詩人で、ポーンでもキングでもある
人生を上がったり下がったり越えたり出たりする中で
1つ分かったことがある
自分が覇気の無い顔で倒れているとわかったら
自分で起き上がって再び戦いに戻っていくんだ
それが人生なんだよ、そんなもんさ、否定はしない
こんなもの辞めてやるって何度も考えたけど
僕の心は決してそれを許さないんだ
でも7月になっても、心を震わせるようなものが何もなかったら
自分をくるくる巻き上げ大きなボールにして
そのまま死んでやるさ』
哲学的に高められた魂の彷徨の後始末はそれはそれは難作業だったでしょう。そこで編み出されたのが音楽で、前作の高評価の一翼を担ったチャールズ・チャップリンの歌曲「スマイル」の圧巻の扱いを拡張し、ミュージカルの形態を取り入れたのはけだし慧眼でありました。メインは1965年のバート・バカラックによる「What the World Needs Now Is Love」を筆頭に、30年代から60年代に及ぶ名曲をちりばめ、心情は曲に載せ描く。「that entertainment」から「They Long to Be Close to You」まで、心憎い選曲で、ホアキン本人まで歌唱するなんて。そこで相手役の女優には歌える人でレディー・ガガなんですね。
アーサーとジョーカーの二重人格か否かで自分を裁こうとする社会に対し、本人はいたってクールで、感心はそんなところにはない。それどころか本人すら分かっておらず、自分に感心を寄せる女リーの登場と離別によってやっと目覚める節もあるわけで。一躍スターに祭り上げられた者の彷徨を冷徹に作者は暴いて行く。影の部分に脚光があたり、それに翻弄され、社会はその影をさらに大きく期待し、偶像崇拝の域まで勝手に持ち上げられる。そんな恐怖をアメコミの姿を借りて描いたとも言える。アメコミのヒーローに自己懐疑なんてあり得ない、けれど前作でそれに踏み込んでしまった以上、影の姿は収束せざるを得ない。
映画の背景は殆どが刑務所内と法廷に限られ、妄想のミュージカルシーンが原色に彩られ展開する。綿密な画面構成が隙を与えず、緊張感が持続される。流石の豊潤な画創りを堪能できるわけで、第一級の映画の力をまざまざと感じさせる。各シーンの終わりに溶暗を用い、感情のピリオドのように品格を伴う仕掛け。
なにゆえに本国も我が国でも低評価が多いのか、多分それはジョーカーが脱獄でもして民衆の不満解消の大騒動でも期待したのでしょうね。そもそもマーベルがそんな具合でだらだらと続けているのですから。自らの手で葬り去った勇気こそ褒め称えるべきでしょ。とは言え、商売熱心なスタジオはリーのお腹の中のベビーを主役に、21世紀の悪の権現として登場させる手だってありますからね。
アーサーを描くにはこうするしかなかったのかな
かわいそうなおじさんの話の続き
アイコン
面白かった、というと語弊がある気もするけど、もう一回、もう二回観たくなる。
おそらくジョーカーとは誰でもいい。あの若い囚人が引き継いでも良いし、町に溢れるジョーカー信者のひとりでも良い。アイコンとなった美しいジョーカーの陰で、やっぱり孤独なままのアーサーが悲しすぎる。誰か一人でも、彼に声をかけてあげてほしい。元同僚のゲイリーだけかな。アーサーに気づいてたのは。
多重人格というものでもない。似ているけど違う。違う、という叫びは誰にも届かない。お母さんにも、リーにも、医者にも弁護士にもアーサーは見つからない。観客にさえ、こんなジョーカーはジョーカーでないと突き放される、そんな映画。
ミュージカルは苦手だけど、これは逆説的な音楽の使い方だから、各シーン納得がいく。アーサーが必要としているときに音楽がはじまる。cross to youはとても美しかった。
それにしても、ナポレオンの時も思った、やっぱりホアキンはすごい。立ってるだけでアーサーとジョーカーを演じ分ける。ものすごくゴージャスでエレガント!冒頭の背中の説得力、確かにここに時間をかけたくなるよね。
いろんな意味で記憶に残る
やっと公開されましたが、酷評されすぎているのが余計そそられる。
STORYは地獄の様な監獄の中で妄想癖のあるアーサーはリーと出会い歌を通して心を通い、眠っていたJOKERが開花していく。そして裁判劇へと…
ん〜今作JOKERもありかなと思う。一作目ではインパクトがあり過ぎて期待されていたが、やっぱり自分には無理ゲーだったと言うストーリーもあっても良いのでは?
アーサーは刑務所内では模範囚で、前作のラストでのJOKERの姿は微塵も感じられず、ジョークすら言えないアーサーになってしまい、見るに耐えない。
本当に心の底から『アーサーよ、ギブアップしろ!』と思いつつ時間的にもしんどい作品だった。
世間では勝手にドラマ化し熱狂的になっているファンがいるが、アーサーは決して煽るわけではなく強く賢い人間ではない事をとことん映し出し、リーに操り人形のように素直に行動するアーサーはもはやただの犯罪者だと、見せ付けられている。
JOKER1と一つの作品として鑑賞した方がいい、アーサーと言う人間の悲しいSTORYになってしまった。そりゃ〜意見も分かれても仕方が無いと思える。
監督が自分が悪者になって酷評しろ!と挑発している様にも受け取れる。
しかし、私は嫌いな作品ではなく、ホアキンの演技・ガガの歌は素晴らしく、映像も圧巻です。
ガッツリミュージカル作品では無いのが逆に良かった。
ラストも、私には納得できる衝撃でした。
主人公のアーサーをJOKERと言う呪縛から解放していく作品は逆に新鮮でもあった。
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