ジョーカー フォリ・ア・ドゥのレビュー・感想・評価
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この続編は必要だった?
この内容だったら、いらなかったんじゃないかと思ってしまった。
裁判での証言を聞いて、アーサーが『自分を信頼してくれた人を裏切って傷つけた加害者だった自分』に気づくシーンがあって。
結果、彼は自分がやったことを認めて責任をとる覚悟をするんだけど…え?で、これ??
本来、語られるべき物語はその後にあるじゃないのか?と思った。
祀り上げられて、共同幻想に巻き込まれて、自分でも勘違いして…でも自分の責任に気がついて…そこからどう生きるかが問題じゃないのか?
うーん、勘違いするとこまでは前作で伝わったと思うけどな。
あとはハーレイクインが好きじゃなかった。
病院に火を点ける?え?逃げられない人とかいない?拘束されてる人とか?
今まで思ってたキャラとは倫理観が違いすぎてついていけなかった。
歌わないで、語りたいんだ、というのを聞いてもらえないアーサーは切なかった。
必要だったかなぁ
1を観返そうかな
日曜日にイオンシネマで
朝9時35分始まり
公開すぐに観ないと変な時間で組まれてしまう
もちろんover55 シニア料金
ありがとうございます
5年前の今頃に前作を鑑賞し絶賛
その後世の中はコロナで大変なことになった
監督は続編を作るつもりはなかったが
ガガ様がハーレイ役ということで翻意したとか
ガガ様はいい役が続くなぁ
アニメスタートでどうなることかと思いきや
前作のテイストに戻った いやぁ重厚だった
アニメの楽屋の壁のデニーロ肖像画はチト笑えた
アメコミとかティムバートンの世界とは異なる
現世と地続きのジョーカー
徹底的にカッコ悪くて惨め
ファムファタールにいいように翻弄される
こっちが断然いい
アカペラで歌い出して音楽が重なるのがたまらない
こういうナチュラルミュージカルもありだなと
タップダンスのシーンが一番好きだ
あいつは最初から後ろの方で異常な目つきしてたな
なんかしでかすとは思っていたんだ
実はこの2時間半は彼がいまわの際で観た走馬燈だった
という解釈もできるかと
あえて復習はしていなかったのだが
1を観返そうかなという気になった
1のオラのレビュー再録しとこ
絶賛で結構いっぱい書いていたんだな
ほぼちょうど5年前で改めてびっくり
imaxで観たらしい 全然覚えていなかった…
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20191014
映画館でおひとりさま
トーフォー(14)の日と祝日が重なりラッキー
この映画館 なんだかんだで結構観ているので
シネマイレージカードをついに導入
クレジットで買い物すると年会費は無料になると…
ケチケチのオラが動いた
で本作 絶対観たかった一作
この間のタラ作同様IMAXでしかも同じ席をインターネット予約
映画秘宝特集号を購入したのも同じ
ハングオーバーの監督だし
タクシードライバーとかキングオブコメディを
敷きにしているというし ロバートデニーロが出てるし
見ない理由がない
あとマーベルより好きなDC絡みだし
ホアキンフェニックスはリバーフェニックスの弟
町山レビューで初めて知った
今や兄貴を知らないヒト忘れたヒトも多かろう
スタンドバイミーの主役じゃ
で これ 最高
この間のタラ映画とどっこい 短い分こっちに軍配か
好きな世界 ダークだが描かれるのはコメディ
超長い階段
よれよれのブリーフ
妄想と現実が適当に混じっている
・シングルマザーとのロマンス
・デニーロ番組出演
お洒落なのは
設定が70~80年代なのに 現在の社会状況にリンクさせつつ
なおDCの世界にピタッとはめこめるところ
続編がダークナイトでも不自然でないと思う
ジャックニコルソンほど明るくなく
ジャレッドレトほどポップでない マーゴットロビーに惚れられない
クリストファーノーランのヒースレジャージョーカーの誕生譚
ジョーカービギニング ブルースウェインとの邂逅
(あら ノーランバットマンは過去ブログに書いていない)
これがアカデミー賞を獲ったら
同じダークヒーローが複数回受賞なんていう珍事だ
助演と主演で さすがにそれはないか
監督とホアキンフェニックス素晴らしい
同年代 うれしい
松本人志が笑いは悲しみと表裏みたいなことを言っていたなぁ
貧乏とかいじめとかリストラとか失恋とか…あとカウンセリングも
映画館を出たら自分がジョーカーになった気分になった
いい映画を観たあとの傾向だ
追記
酔っぱらったら さらにジョーカー度が増した
フニャフニャしたDance 自分に重ねてしまう
あと ジョーカー=冗談いう人なんだな
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(ここから映画と無関係)
終了後は映画と真逆の青空
公園ベンチで家から持参の缶ビール
自作弁当でhappy
等身大
鑑賞前から全米から異様に評価が低かったので逆に気になって見たくなりました(笑)
評価の別れる理由はこれがDCコミックのジョーカーとして見ると物足りなくて役不足で幻滅してしまいます。ただアーサー・フレックの等身大の物語として視点を変えて見ると面白いかなっと思いました。
アーカムで知り合ったハーレーの影響でアーサーら自分はとてもカリスマ性があって影響力があって偉大な人物だと思い込みます。
現に裁判のシーンでは裁判官やデントや弁護士をおちょくり混沌としていきます。
ただ証人喚問でアーサーの過去を知る隣人のソフィーや同僚のゲイリーの登場で少しずつジョーカーからアーサーに戻り始め、調子乗ったアーサーを看守が3人かがり暴行しリンチされた時はもう元のアーサーに戻ってしまい罪を認めてしまい信者やハーレーを幻滅させて、しまいには最後、盲信していた若い囚人にめった刺しにされて息を引き取ります。
個人的な見所はゲーリーの証人喚問のシーンで「みんな馬鹿にしたけどアーサーだけは優しくしてくれた」と言ってアーサーが正気に戻るシーンが印象的で虚勢でジョーカーを演じて罪悪感があったんだなって思いした。
見た人の評価がかなり分かれる作品なので興味ある人は是非
代弁者だったのに。
女に弱い、ただのオジサン。そんな印象しかなかった。俺を丸ごと受け止めてくれると
喜んでいたアーサー。でも、リーも私と同じように、アーサーではなくジョーカーを求めていたように思う。そんなレディガガも、どこかのインタビューで、ファンの代弁者でいる、と言っていた。そう、私も負け組中の負け組だった。理不尽な世の中で微々たる力でやってきた私としては、弱々しいアーサーが狂気の最中としても、ジョーカーとして産声を上げるあの瞬間、私は心の中で歓喜の声をあげたのだ。大袈裟ではなく。私たちの代弁者としてジョーカーに狂気の沙汰で大いに暴れて欲しかった。
映画だけでも。映画だけでも、弱い奴がヒーローになってもいいじゃないかと。
でもアーサーは、最後はアーサーでしかなかった。痩せ細った、疲れ切ったオジサン。
まるで負け組は負け組で終わっとけよといいたげに作られたこの映画。
こんな映画を作るために、頑張った監督さん、お疲れ様。
アーサーフレックの物語
カウンターカルチャーとしてのミュージカル
「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」、とても良かった。傑作。アイデンティティーの確立に失敗した「ハウルの動く城」みたいな話だった。よく出来ていた。
想像以上に誠実な作りでびっくりした。ジョーカーによる表面的な破壊はあまり見られない作品だろう。だがジョーカーは破壊している。何を?常識、それにまつわる社会や世界を。それも示唆による破壊である。つまりこの映画はジョーカー(=アーサー)の話を聞く作品である。
「ダークナイト」や「ジョーカー(1)」よりも僕は好きな作品である。この作品に〝ジョーカー〟を求める事はアーサー自身のアイデンティティーを認めない事に繋がる。アーサー=ジョーカーの話を聞きたい人には満点の映画である。
欲を言えば、アーサーにもう少し分が有っても良いと思う。そんなに神様は理不尽なものなのだろうか…。そういう点では一作目でのシナリオ構造上の問題が二作目で露呈しているとも言える。それに対して二作目はより誠実に(過度に真面目に)なったと思われる。僕は誠意のある映画が好きなので評価する。
「誰の中にもジョーカーがいる」というよりも、「誰の中にもアーサーがいる」と思った方が良いと感じる。
レディー・ガガさんが過度にハーレクインを演じていないところも演出として正解だったと思う。ハーレクインという存在にガガさん自身の近い部分を寄せていった印象。
ミュージカルもよかった。カウンターカルチャーとしてのミュージカルとしてよく出来ていた。
比率として、
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」度:3
「ショーシャンクの空に」度:1
「カッコーの巣の上で」度:1
「カラマーゾフの兄弟」度:1
「新約聖書」度:3
「マクロス」度:1
アメリカンニューシネマで始まり、アメリカンニューシネマで終えたような作品だった。
(そういう意味では)至極真っ当な作品だったと思う。
今作には隠れたテーマとして紛争、戦争の事も入っていると感じた。
1人の人間の心の平安の無さが、世界にどれだけの不安定を齎すのかというメッセージを想う。
余談を書けば、「ジョーカー2」はつまり「1」と「2」で綴られた〝ジョーカー〟の話で無くても良いという事だと思う。つまりは、ホアキン・フェニックス版〝ジョーカー〟の話であって、〝ジョーカー〟という存在は、街や世界で認められなかったアイデンティティーの集積値の存在なのだと思う。
冒頭のアニメーションも分かりやすく表現されていた。(影を無くした)ピーターパン症候群であり、アダルトチルドレンの問題から暴走した影によって自身が翻弄されている(されていた)表現であり、この問題はアーシュラ・K・ル=グィンの「ゲド戦記」などに見られる〝自己確立〟の課題と重なります。
余談の余談になるものの「ハウルの動く城」で宮崎駿さんがやりたかったのは男女の恋愛を介しての「ゲド戦記」だったのだと思う。ハウルは大きな魔力を手に入れる為に心臓と自己を二分させながら行先の見えない戦いをしています。ソフィーという存在がハウルの自己認識の根源を見つけることで癒します。
(おそらく)宮崎駿さんの中には〝一人の人間の中の呪解がもたらす世界の平和〟という考えがあります。
それは僕も最もな考えだと思います。
「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」に於いては、一人の人間の呪解は…、という形です。
これは東洋的思想かもしれませんが、「ハウルの動く城」を超えた作品では無かったのは、監督に力量が無かった為では無いと思います。宮崎駿さんが異次元に行っているだけだと思います。
寄り添うように誠実に作られていました。
あとあのキスは何だったのかという事ですね。あれは自己統一性が保てないまま愛を持って生きようとしたアーサーの影の暴走ですね。人との境界が分からないまま愛を大事にしようとしたアーサーの影による行動です。
それは序盤のオープニングアニメでも描かれていますね。
終盤の階段を登るシーンはゴルゴダの丘なのでしょう。
贖罪の物語でしたね。
ハーレクインについて。彼女がアーサー、ジョーカーに求めたのは彼の持つエンターテイメントです。なのでアーサー自身がジョーカーをやめる、ピエロをやめるという事に絶望した訳です。アーサーはエンターテイメントよりも自己のアイデンティティーを優先しました。(それ自体は)正しい判断でした。
これは編集による為なのか、元々の脚本や撮影が多かった為なのか分からないのですが、ハーレクインは逆にアーサーのどこに可能性を感じていたのでしょうか。生き延びる可能性です。あのまま影の暴走を願っていたのでしょうか。それにはアーサーは強過ぎました。
リー、つまりハーレクインがアーサーにジョーカーのメイクをするシーンでは映画「ブレイブハート」のような革命戦士を思わせます。彼女が望んでいたのはジョーカーが世界に伝染することだったのでしょう。しかしアーサーはそれを拒みました。傷ついた幾人ものジョーカーを生み出す事はしませんでした。
この物語ははっきり言って悲劇です。
終わり(結末)には悲しみがあります。
しかし何故悲しみがあるのかの理由は、アーサーが二作目において英雄的決断(と言ってもいい)をしているからです。それは罪を認め、自己のアイデンティティーに向き合う事を選んだからなのです。物語の中の唯一の希望です。
ジョーカーが助かる方法がひとつだけありました。それは「アイドル」になることです。無責任の象徴であるピエロに対して責任的象徴として人を楽しませる存在、それは「アイドル」です。仮にジョーカーの逆転劇、生存戦略として可能性があった方法としては自分自身のアイドル化です。そこにはアイデンティティーの回復に伴った形で支援を募る状態でありつつ、自身だけに収まらない世の理不尽を利他の精神で訴えながら愛される戦略です。
ただひとつの方法です。
僕はその可能性が作品内に残されていたことを示唆します。
ジョーカー史上1番彼の人間性にフォーカスされた作品だったと思う。
〝ジョーカー〟は何処へ?
〝我々含め、皆がジョーカーの存在を期待する。〟
という仕組みがこの作品の本質だと思う。
悪のカリスマたるジョーカーはとても好きなキャラなので、また彼に劇場で会えることに胸を膨らませて映画館へ向かった。
しかし、前作で誕生した〝ジョーカー〟はこの作品では登場しない。
作中の世界で放送されているというドラマやアーサーの頭の中の妄想に、〝彼の〟片鱗は感じるものの、何かがずっと物足りない。
そうして迎える、アーサーという一人の人間の呆気ない最期。
ああ、アーサーはジョーカーではなかったんだ。
我々はアーサーに、自分の中のジョーカーを投影していただけだったんだ。
リーがジョーカーに恋をしたように、前作でジョーカーに恋をした私のような人間には、酷く期待外れな映画に映るだろう。
しかし、それこそがトッド・フィリップス監督の狙いだとしたら。
「普段、平穏に、当然のように、社会的な生活をしているあなた達も、ジョーカーの誕生、その存在に期待していたんだろう?残念、アーサーは違いました!」
「一杯食わされた、アッパレ!」
私はそう言わざるを得ない。
言いたいことはわかるが……
観客と映画に出てくる「JOKER」に期待する大衆を重ね合わせていることは理解できる。前作の暴力的で華美なJOKERの世界への転身から、アーサーに戻ってくる姿を描写したかったのだろうと感じた。
が、あまりにも盛り上がり所がない。前作にあったアーサーの陰鬱さ、危うさや色気のような部分がとことん削がれており、そこに何か新しい魅力が追加されることは無かった。ひとりのつまらなく悲しい男を描くにしてももう少しやりようがあったのではないだろうか。
シチュエーションがほぼ刑務所と裁判所、あと妄想のステージだけなのも単調さを助長している。前作の昼、路地裏、夜と街灯、シャワー、電車のホーム、のように様々な自然光と人工灯に照らされてクルクル変わる印象的だった雰囲気が、ほとんど屋内の光で完結しており全体的に霧がかっていた。映像作品としても前作と比較してイマイチ。ただ、序盤の煙を吐き出しオレンジに変わるシーンだけは前作を感じられて高揚した。ちなみに予告されていたハーレイとの階段ダンスはない。
期待に応えられないようなつまらない人間には誰も見向きをしない悲しさ。言いたいことはそんな感じだと思うが、まあ、その通りでつまらない。特に見てよかったなとは感じない作品。
鑑賞した人の多くが思うのはゲイリーに幸せになって欲しい、ただそれだけだと思う。
ラ・ラ・ランドとダンサー・イン・ザ・ダークの愛の讃歌
個人評価:4.0
レディー・ガガをキャスティングした理由。なるほどそういう事か。
ダークサイドの中の愛の讃歌。追い詰められ時に始まる音楽。まさに悲しみの淵のビョークを連想させ、2人のダンスはラ・ラ・ランドが頭をよぎる。本作ジョーカーに期待した演出ではないが、見応えのあるショーである。
前作からこの物語はDCコミックのジョーカーではなく、アーサーというコメディアンを目指す1人の純粋な男を描いていると感じ、そのスタンスは今回も変わらず、アーサーの個人的な物語として見る事が出来た。
ホアキンの演技も今回も素晴らしく、5年の時を経てもアーサーそのものであった。
それにしても2人の関係は未完なので、これは続編あるな。
JOKERは名前だけ?
ミュージカル?違うって言っても18曲以上の曲が…
エンディングのロールで挿入曲を数えてみたら、18曲以上の曲が。(最初数え間違えた。2回目では数え損ねたけど、それ以上はあった)しかも、ホアキン・フェニックスにレディー・ガガが結構な曲を歌っていた。
レディー・ガガがキャストに見た時、音楽映画にするのか?と思っていたけど、そのとおりになっていた。
前作と映画の種類が変わったなって感じでした。それはそれで、悪くはなかった。けど、裁判にかけられたり、弁護人解雇して自分で弁護したりと、そんなことより逃げて悪の所業をしてもらった方が楽しめたかなって感じでした。
レディー・ガガが良かったので、もっと二人で外の世界で楽しんで欲しかった。
追記、予告か何かで公開前に見たジョーカーとリーが階段で二人で踊る場面は本編にはなかった(はず、見落としてないはず)のはガッカリというか重要なシーンとして使って欲しかった。何かそんなことが観る者の期待を裏切っていったのかな。
曲は昔聞いたことがある名曲を二人が歌うので、懐かしくて良かったけど、若い観客はどう感じたのだろうか?
前作よりは好き嫌いは出る映画。(よっぽど裏切られた内容だったのか終わる10分前くらいに前の方にいた背の高い男性が立ち上がり、かがむ様な後ろの観客を気にする仕草もせずにトイレに行き、帰ってきたらエンドロールが始まったらすぐ連れと3人でやはり後ろは無視で出ていった客がその最たる例だった。)
2回目に観て、劇中最後の曲の歌詞に自分の息子に引き継いでやってもらいたいとあったので、続編あり!レディー・ガガのリーが母親の息子が出て来て、リーが新しいジョーカーに創り上げる話になるかな。
賛否両論(否が大分優勢ですが)ある映画ですが、鑑賞後グランドシネマ...
切ないフォリア2の作品
魔法がとけて、本当の自分に戻るやすらぎ。
「ジョーカー」の衝撃は、すごかった。
アーサーの現実と妄想の区別がつかず、その衝動性で次に何が起こるのか分からなくて、ただただ怖かった。
内容が頭に入っている2回目、今年の3回目の鑑賞でも、何回か体がぴょんと跳ねた。
そんなことは夜中にテレビを観れなくなった貞子に出会って以来だ。
今回の「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」は、ジョーカーの仮面を脱いだアーサーの物語。
社会のルールに適応できなくて排除される異物の悲哀に、やるせなさを感じた。
同時に、私は彼と友だちにも、隣人にも、顧問弁護士にもなれないと思った。
今作も、私のダークサイドを根底から揺さぶるという意味で、観た甲斐があった。
母から愛をもらえず、恋をして、ただ一人の人を求め、けれどその人が欲したのはアーサーではなくジョーカーで、振られてしまう。
ジョーカーとして崇拝されるのではなく、アーサーとして愛される経験を持って欲しかった。
「ジョーカー」と同じく、今作もラストのシーンが尾を引く。
最期に、彼は何を想い、何を見ているのだろうか。
魂にひりひりと悲哀を感じさせる音楽は、相変わらずよかったし、全く楽しくなさそうなアーサーの笑顔にも笑い声にも、しびれた。
見納めなのだと思うと、寂しいけれど、これ以上アーサーがしんどい目に遭わなくてよかったとも思う。
「ジョーカー」・「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」は、発火装置な気がする。
本当は、そこここで既に小さな火が燃え始めていて、大きな炎に繋がっていくかもしれない。
怖いと同時にワクワクしている私は、自分の中のジョーカーとうまく付き合っていきたい。
何やっとんねん
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