ジョーカー フォリ・ア・ドゥのレビュー・感想・評価
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ヒース・レジャーのカリスマ性に抗う後日譚
1. Heath Ledgerの功罪
Jokerは1940年にアメコミのBatmanに登場した悪役(villain)であり、設定等は時代と共に変遷するも、実写化以前から最強の天敵。そこにカリスマ性を与えたのが2008年の "Dark Night"。C. Nolanが監督した2作目のBatman映画。何より話題になったのが、H. Ledgerが体現したJoker。喜々として悪の限りを尽くし、どちらの知人を助けるかBatmanに究極の選択をせまる。滑稽さは微塵もなく99%の狂気に、漂う1%の哀しみ。どんなに悪事を尽くしても満たされない自分。自分が最も自分を諦めれている哀しみ。2008年のJokerは演者の容姿も相まって、得も言われぬ魅力があり、カリスマ的な人気を博した。更にH.Ledgerが急性薬物中毒で公開前に亡くなった事で、遺作は伝説になった。
この伝説は2つの意味で罪深くもある。軽めの罪としては、Jokerを演じるハードルが上がり過ぎた事。2016年の"Suicide Squad"では、2013年にアカデミー助演男優賞を受賞した J. Leto が演じたが、酷評が殺到した。Jokerには奥深い役作りと、シリアスで切実な演技が必須になった。
より重い罪は、Jokerがアンチヒーロー化した事。魅力的過ぎるvillainは一部の人間にとっては、罪を犯すハードルを下げかねない。この問題が2019年の"Joker"で拍車がかかり、2024年の本作につながる。
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2. "Joker" が "The Dark knight" の前日譚じゃなくても
前作の "Joker" の鑑賞時、自分は何となく "Dark knight" の前日譚だと誤解していた。同様に混乱した人の中には、前作で悪に目覚めたjokerが何故 H. Ledger が遺したカリスマ性を再現しないのか!と不満を抱きそう。しかし調べると、前作のwikiにもDCユニバースとは独立した作品であり、"Dark knight" の前日譚ではないと明記されていた。
とは言え、前作"Joker"が"Dark knight"と無関係と言い張るには無理がある。Jokerを主役とする(事実上の)スピンオフの企画が通ったのも、160億円(世界興収)稼げたのも、H.Ledgerが遺したカリスマ性なしにはは語れない。しかも、虐待された妄想男が”Joker"として目覚める過程を説得力をもって描いた2019年の前作は、Jokerのカリスマ性に必然性(正当性)を与えた。敢えて言えば、模倣犯が出やすい状況形成に加担していた。
そして2021年、日本で模倣犯が出現した。ハロウィンの夜の京王線。Jokerの仮装をした男が特急列車の中で刃渡り30cmのナイフを手に暴れ、17人を負傷させた。数ヶ月前に福岡から上京した男は、供述調書でJokerへの憧れを語っている。
町山智浩さんの取材では、だからこそ T. Phillips監督は本作で主人公Arthurを断罪したようだ。生い立ちがどんなに不幸でも、現状がどんなに惨めでも、人から命を奪っていい理由にはならない。自分の前作に対するレビューでも、一部正当防衛にあたるケースもあるが、他の殺しに正当性は見いだせない。そんな犯行を映画が劇的な演出で正当性を与えるのは危険過ぎる。スーパーマンのマネして、地面に水平に飛び出して怪我した子供もいる。京王線で暴れる阿呆の出現も想定の範囲内。T. Phillips監督が責任を感じても不思議じゃない。
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3. 殺し屋の悲惨な末路は、コンプラ以前からの伝統
1972~1991年までコンスタントにシリーズ化され、それ以後もSPなどで度々制作される時代劇に必殺シリーズがある。普段は正業に勤しむ殺し屋(刺客)が、金で雇われて町民らの恨みを晴らす人気作。殺し屋は無類の強さを誇り、毎回危なげなく目的を達するが、最終回に悲惨な末路を迎えるのが定番。追い詰められた狙撃者は、火縄の為の火薬を大量に撒いて爆死。特にトラウマになのが、素手で人を殺す念仏の鉄の最期。数人に羽交い締めされて、腕をカマドに入れられまっ黒焦げに焼かれる。即死こそしないが翌日遊郭で目覚め無い。
「ファブル」も「ベイビーわるきゅーれ」も「SPY✕Family」も今は楽しいけど、日本の伝統に則れば悲惨な末路を辿るのかもしれない。
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4. 夢落ち?ニュアンスの戸惑い
本作で一番引っかかるのは、終盤で面会にArthurが刺される場面。刺された瞬間、転換する妄想のシーンで彼はLee (Lady Gaga)に撃たれる。あれっ、この妄想は映画の前半と同じ...つまりArthurが刺されたのは法廷が爆破された後ではなく、前半で面会に来たLeeに会う前なの...? と時系列が混乱する。
もし "Sixth sense" や "Vanilla sky" のように、実なあの場面で既に死傷してましたという意味なら、Leeと面会した以降の映画の3分の2くらいは、Arthurが刺されて息絶えるまで見た走馬灯くらい早い妄想になってしまう。合唱部でLeeと話したのは現実でも、映画で火事を起こした逃走騒ぎも、独房に忍びこんだLeeとのsexも妄想って事に。そもそも、Leeが本当に金持ちだとしても、独房に連れて行ってもらえる程、看守を手懐けられるのか? つまり、Arthurは自分が殺した者たち同様、惨めに殺されただけ。しかも死にゆくArthurに、笑いが止まらない無名の若者の手で...
殺人者が受ける酬いに異論はない。ただ夢オチかちゃうか曖昧なラストは不誠実に感じた。
様々な意味での期待外れ
【ジョークにならない映画】
悪のカリスマとなった男のその後。ホアキン・フェニックスが初の続編に出演した理由の一つ、まさかのミュージカル演出は、物語に効果的に影響。ラストの衝撃も含めて、完成度がジョークにならない。
◆概要
「ジョーカー」('19)の続編であり完結編。第81回ベネチア国際映画祭コンペティション部門出品作品。
【監督】
「ハングオーバー!」シリーズ トッド・フィリップス
【出演】
「ボーはおそれている」ホアキン・フェニックス
「アリー/スター誕生」レディー・ガガ
「オール・ユー・ニード・イズ・キル」ブレンダン・グリーソン
「マルコヴィッチの穴」キャサリン・キーナー
「デッドプール2」ザジー・ビーツ
「ゲーム・オブ・スローンズ」リー・ギル
【製作費】$200,000,000
【公開】2024年10月11日
【上映時間】138分
◆ストーリー
理不尽な世の中で社会への反逆者、民衆の代弁者として祭り上げられたジョーカー。そんな彼の前にリーという謎めいた女性が現れる。ジョーカーの狂気はリーへ、そして群衆へと伝播し、拡散していく。孤独で心優しかった男が悪のカリスマとなって暴走し、世界を巻き込む新たな事件が起こる。
◆
◆以下ネタバレ
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◆アーサーvsジョーカー
ジョーカーが自身の影と一悶着するアニメで始まる冒頭。ホアキン・フェニックスは、本作が「アーサーvsジョーカー」の物語だと語っている。あのアニメが示していたのは、本作で描かれる、アーサーが自身に宿るジョーカーと対峙する図式そのものだった。アーサーは妄想の世界で幾度もジョーカーと化し、自身の弁護もジョーカーの力を借りんとばかりにその姿を変える(ジョーカーの姿でも“バカ笑い”が出る際はアーサー、“バカ笑い”がアーサーかジョーカーかを判別するフラグになっていた)。唯一の友人であるゲイリー(妄想の結婚式でも唯一列席していた)に精神的な重荷を背負わせた事に気づくと、ついにアーサーはジョーカーと決別する事を決意する。しかしそれが皮肉にも、愛したリーの熱を冷めさせてしまう、アーサーの理不尽で不幸すぎる運命には本作でもひどく心が痛んだ。
◆リー
そんなリーという存在が登場する事で、一時的にではあるがアーサーの心が安定した事と、ミュージカル調に仕立てるという抜本的なアイデアが生まれた本作。ホアキンは「誰がジョーカーを題材にミュージカル映画を作ろうとするだろうか」とまで語っている。タップダンスまで披露してしまうほど(初めて練習したそう)、アーサーの心の絶頂が伝わるようで、それは逆に決別時の落差に繋がり、効果的な演出になっていた。ガガもやはりシンプルに歌が上手い。あの大階段で別れを告げられるシーンが特徴的。登場人物が連鎖して歌い踊り出すのがミュージカルの通例ながら、歌うのを止めるアーサーと歌い続けるリーという、何気に見たことの無い世界観が本作でしかできない演出だと思った。
◆フォリ・ア・ドゥ
アーサーにジョーカーのメイクを施すリー。面会室ではガラスに赤を塗り、ジョーカーの笑顔を求めた彼女は、結局はジョーカーとしてのアーサー、もしくはアーサーの中に宿るジョーカーを愛していた。サブタイトルの「フォリ・ア・ドゥ」とは、妄想が伝播する精神病を意味するそう。リーはまさに、ジョーカーが発信した悪が伝播した存在だった訳で、その発信元が消えた途端に彼女の病が消え失せるのも頷けた。ラストでアーサーを刺した囚人(記憶の限りでは、劇中で2度ほどアーサーへ羨望の眼差しを向けて登場していた)も同様。“ジョークを思いついた”と、まさに“ジョーカー”になりきろうとしたあの囚人がアーサーを刺した訳こそ不明だが、倒れたアーサーの後ろで囚人が行っていたのは、自らの口をナイフで裂いているように自分には見えた。つまりジョーカーに形からなりきろうとした訳で、直後のタイトルの通り、彼もまた「フォリ・ア・ドゥ」の存在だった。正解は分からないし、いわゆる“委ねる系”のラストではあったが、解釈続きでもう一つ。最後に面会に来たのは誰か。大階段で別れを告げられた時、心から愛した人との決別にアーサーに出て当然の“バカ笑い”が出ていなかった事を考えると、あのシーン全体が妄想である解釈も可能だと思う。もし面会人がリーであったなら…。直前で息絶えたアーサーの、やはり不幸すぎる運命に心が痛む。
◆関連作品
○「ジョーカー」('19)
前作。第92回アカデミー賞主演男優賞、作曲賞受賞作品。 Netflix配信中。
◆評価(2024年10月11日時点)
Filmarks:★×3.4
Yahoo!検索:★×2.8
映画.com:★×3.0
ただただ愛情が欲しかっただけなのに…
求めてたのはこれじゃない
歌上手いジョーカーは必要ない。
レディーガガのビブラートでホアキンフェニックスの演技が一気に冷める。
理想のジョーカーを歌で表現しようとする物語はわかるが、他に方法があったはず。
期待外れでとても残念でした。
ダークナイト知らないなら駄作になる
私が監督だ。
みんなジョーカーの信者がジョーカーとして復活してくれると期待してたのに
最後唯一の理解者ゲイリーがアーサーの目を覚させてくれたから僕はジョーカーではなくアーサーだって言ったから信者が離れていって最後みんなに裏切られて殺されたのかも。リー(ガガ)様も呆れて消えたw
そして後継者が最後アーサーを殺した人って感じかな。
検察官も戻ってこなかったからグルだろうねぇ。
ざっくりと言うとね。
そして結局アーサーは心優しいはずなのに不運を背負う運命。家庭環境が悪すぎた。
結局悪として生きていく事しか運命はなかったんだなぁ。
これはこれで良い話だと思う。
でもみんなが言いたい事もわかる。
みんなが求めてたのはイカれ狂ったジョーカーなんだよね!見てる私達もいつの間にかジョーカーの信者になってたんだよね笑
そして前作出していた幼少期のバットマンの事もみんなずっと気にしてたよね。
今回その事に関しては全く描かれていなかったよね。
惜しいょ。
後半のテロ事件で裁判所ぶっ壊した時に脱走したんだからそのまま本物のジョーカーになってハーレークイーンとの本当のゴールを決めて欲しかった。
で、その後にバットマン幼少期が現れたら最高の
ストーリーだったのになぁ。
みんなダークナイトの時のジョーカーを求めてるんだよね。
いいじゃんね。もう絶望の道しかないから本物の悪になったって事にすれば、、、、。
みんなもう信じれない。だから俺はゴッサムタウンを支配する。
それでよかったはずなんだ、、、。
くそっ、、、私が監督やりたかった。笑
人生はトランプ。誰もがジョーカーを押し付けあう。
「配られた(トランプ)カードで勝負するしかないのさ…..それがどういう意味であれ。」
漫画「スヌーピー」に出てくるセリフだが、確かに言い得て妙だ。
トランプゲームには様々な種類があるが、勝負のカギを握るのはジョーカーが多い。つまりジョーカーというのはその場面場面で絶大な影響を及ぼす反面、ある者にとっては好都合、ある者には不都合な、まったく異質な存在として扱われる。
こちらのセリフをあえて現代風に言ってみよう、「人生はジョーカーの押し付け合いである…それがどういう意味であれ」と。
もしも配られた手札に「ジョーカー」があったなら、あなたはどうするだろうか。
前作の「ジョーカー」では抑圧されてきた(ババを引かれた)弱者が暴力による改革により、社会システム(ゲーム)をひっくり返すためのきっかけが描かれた。
主人公アーサーは革命のシンボルとなり、その姿は原作にも忠実な‘‘アンチヒーロー‘‘として大衆(観客)に支持された。
しかし元より、前作の最初に描かれたのは「弱い個人」であり「孤独な人間」であるアーサーだ。アーサーはなりたくてジョーカーになったのではない。ましてや精神が脆くて繊細な人間が、突然強くなったり痛みに鈍くなるはずがない。
本作がジョーカーを持て余す社会にフォーカスしたのは至極当然な成り行きだろうし、逆にこの展開以外にはありえないように思われる。
前作が「抑圧の解放」をテーマとするならば、本作は「隔絶された社会と個人」だろう。
知略に長け、暴虐を尽くす「ジョーカー」なんてものは実際の現実世界には居ない。マンガやドラマの中でのおとぎ話である。
そしてそのような‘‘幻影‘‘を追い求めているような者たちにこの映画はオススメできない。
暴力や派手な展開を望む者は「スーサイド・スクワット」「キック・アス」のようなアクション娯楽映画でも観てればいいのだ。
少なくとも頭空っぽのまま観ることはできない。
アーサー個人の苦悩や取り巻きを描いたからこそ、この映画は我々が生きるこの世界に生々しい傷跡を残す。
アメリカや日本で賛否両論が噴き出すのは間違いなく制作陣の目論見に違いない。
なにせ、すべてを肯定しても否定しても、この世界は「絶望」に転んでしまうのだ。そうなれば戦争や暴力は当たり前のこととして扱われてしまう。暴力社会へのアンチテーゼがここには詰まっている。
社会は思ったより救いようがあるらしい、というのが本作を取り巻く評価に対する私個人の所感だ。
全体的な感想になってしまったので、ストーリーに対する感想を少し。
まず、レディーガガ。
演技、うまい。
歌、うまい。
日本映画界も見習ってほしい。商業的な理由で主演に抜擢される演技へたくそなアイドルよりアメリカのシンガーははるかに高い次元にいる。
それとこの映画の肝心の「歌」の部分だが、
まず「ミュージカル」がうざいとの声がチラホラ聞こえて驚く。
よく考えいてみてくれ、ミュージカル抜きだとこの映画は死ぬほど陰鬱であるし、もう救いようがない。
例えば「ダンサーインザダーク」から歌をとったら何になる? 恐らく目も当てられないくらい退屈で悲惨なものになる。
ジメジメとして薄暗い刑務所(閉鎖空間)に花を添える意味でもミュージカルを取り入れたのは正解だ。ましてや1シーンごとに短く挿入されるため、繋ぎとしても完璧である。
そしてその歌詞にスポットを当てるならば、ある意味底抜けに絶望な人生へのアーサーのせめてもの反抗だし、捨てきれない愛のための讃美歌だろう。
しかしそれも最後には打ち砕かれてしまった。
「歌」とはその者が生きている「証」だし、生きている限りに続く「音」でもある。
歌うのを拒んだアーサーは最後、たとえ殺されなくても既に死んでいたのである。
いや、先にジョーカーが死に、最後にアーサーとして死んだのは彼にとって救いだったのかもしれない。
しかし彼の中のジョーカーは言う。「息子に跡を継いでほしかった」。
彼は知っていたのだ、たとえ血が繋がってなかろうとジョーカーがこの世から消えることはないということを。
アーサー
現実社会に
1作目がとても面白かったので、続編ということで観に行きました。
前作の物語はジョーカーの作り話だったという解釈をしていたので、正直続編は無い方がよいのでは、しかしどのような続編になるのかは気になる、という感じでした。
前作の物語は本当だったようで、その後の収容所生活と裁判が描かれますが、ミュージカル演出のシュールさ、誇張し過ぎな妄想と現実のギャップなど、どこか歪な明るさがやはり絶望感を強くさせます。
光と闇を意識させるカット、シュールな華やかな歌唱シーンなど、映像的にも面白く、ホアキン・フェニックスやレディー・ガガの演技も良かったです。
ジョーカーになりきれなかったアーサーの結末は、なんともやるせないです。
良心が残っていたと感じましたが、そこから本当の自分を認めるものの、その姿は周囲から拒否されるという、絶望感しかない……
結末のあの若者が、いわゆる本当のジョーカーになるということなのかとも。
何かしら救いがあればと思っていたのですが……
映画の中ではなく、リアルに現実社会にジョーカーを真似して犯罪行為を行う人間もいるようなので、ジョーカーはいない、抑圧されていたとしても人の命を奪うような行為には報いがある、ジョーカーを免罪符に使うべきではない、そういうことを伝えているのだろうか、などと考えてしまいました。
アーサーを助けようとする存在は女性だったり、コントのような爆発だったり、この物語も作り話?妄想?というようにも考えてしまいましたが。
これはアーサー・フレックという男の魂を救済する映画である。カッコ悪く、ひたすらに惨めで痛々しい。でも後味はそれほど悪くない。
まず前作とこの作品はバットマンとはあまり関係ない。前作にはブルース・ウェインとその父母、本作にはハービー・デント検事(まだ検事補)が現れるがこれはゴッサムシティの点景というべきものであって、アーサーは街に溢れるピエロ装束の者たちの一人に過ぎず、バットマンシリーズの悪の権化ジョーカーとは別人格である。ただ彼が犯した犯罪(6人殺した)は大きなものであったためヒーローとして祭り上げられてしまった。
一方、前作では、どこまでが現実でどこまでがアーサーの妄想なのか解釈が分かれていた。これについては本作でキチンと整理されており、生放送内のマレー・フランクリン殺害も実際に起こったこととして扱われており、これらの犯罪についての法廷劇となっている。
ところで演出のトッド・フィリップスによると、前作は2019年の作品であり世界はそのあとコロナ禍に見舞われた。企画立案に不自由を強いられるなか、トッド・フィリップスと脚本のスコット・シルバーが気にしていたのは彼らと(そしてホアキン・フェニックスが)生み出したアーサーをこの後、どのように描いていくかであって、コロナの期間、議論を重ねていたとのこと。
法廷では、アーサーとジョーカーの人格乖離があってアーサーには責任能力がないと主張する弁護側と、それを否定する検察側が対立する。ところが不利になることは十分分かっていて、アーサーが弁護士を解任し、ジョーカーのペインティングをした上で自分で弁護を行うことによって法廷は混乱する。さらに、ジョーカーの偶像性を崇拝するリーが関与することによって話はどんどんややこしくなるのである。
だが、最終的には、アーサーが自分のジョーカー性を否定することによってこのストーリーは収れんする。優しく、純粋なこころを持っているアーサーは、偶発的であったり、一時的に怒りをコントロールできなかったりしたとしても、暴力を起こすことに耐えられない。だから恋を失い、クソな世の中に押しつぶされて、最終的に電気椅子に座ることになっても、自分がアーサーであることを選ぶ。トッド・フィリップスらが議論の末たどり着いたアーサーの人生ってそういうものだったのだと思う。
最終シーンは悲しくつらい。ただここでアーサーがジョーカーの扮装をしていないということにはなにか清々しい感じを受けたのである。
〜おまけ〜
裁判所の外側大階段でジョーカーとリーが足を広げたり振り上げたりして踊るシーンは予告編だけのシーンだったのですかね。本編には出て来なかった。ちょっとがっかり。
これが人生だ
大衆に冷水をぶっ掛ける、前作へのアンサームービー
悪を一種のヒーローとして魅力的に描いた作品は、時に暴力の連鎖を産むことがある。作者が自らの妻が暴行されたことを元に書いた『時計仕掛けのオレンジ』は映画化され、感化されたフォロワーたちがいくつもの暴力事件を起こした。そのうちの1人が悪名高きアラバマのウォレス州知事の銃撃事件を起こし、彼の獄中手記は『タクシードライバー』の原案となり、タクシードライバーを見て影響されたある男が今度はレーガン大統領暗殺未遂事件を起こした。前作『ジョーカー』はもちろんタクシードライバーに強く影響された作品でもある。
ジョーカーを気取って無差別テロを起こした人間がいる(ここ日本にも)。アメリカでは虚言癖の権力者に煽動された大衆が議会を襲撃した。この映画はジョーカーを讃えるような愚かな大衆に対して、バケツで顔面に冷水をぶっ掛けるような、監督自身によるアンチ・カタルシスな前作へのアンサームービーだ。前作で悪のカリスマに祭り上げられたジョーカーを、アーサーという1人の惨めな男に戻すための。
監督が観客の期待を裏切る意図を強く持っていた事は、あの階段のシーンが無いことでも明らかだ。予告編どころか海外ではポスターにも使われていた、ジョーカーとハーレイが裁判所の階段を踊りながら降りるシーンは本編には登場しない。
アーサー・フレックは世間で勝手に醸成された理想のジョーカーのイメージを期待されるが、それによって“アーサー”を慕ってくれた人々を傷付けることになる。そしてジョーカーではなく、アーサーとしての言葉を語ったところで「思ってたのと違う」と言われ周りから捨てられるのだ。この映画を見た観客たちの態度と全く同じ状況である。本作はいきなりルーニー・テューンズ風のアニメーションで始まるが、ジョーカーが自らの影に振り回されて破滅する、という話がすでにそのまま本作の内容を示している。最後の展開はセリフも含めて前作でアーサーがマレーにしたことと同じでもある。
なお劇中で鑑賞される『バンドワゴン』(1953年)はハリウッド黄金期の古き良きスタジオ製ミュージカル映画の最後の傑作とでも呼ぶべき作品。ほどなく社会の変化についていけなかったミュージカル映画は急速に斜陽となり、オリジナル作品は消えてブロードウェイ作品の映画化に取って代わられる。劇中の舞台と思われる70年代末頃には『ニューヨーク・ニューヨーク』や『ワン・フロム・ザ・ハート』がかつてのミュージカル映画の復活を期して製作されたが、興行的には失敗に終わった。バンドワゴンの主人公、忘れられたかつてのスターは周囲の期待に見事応えて愛と称賛を手にするが、人生はミュージカルのように全てがうまくはいかないのだ。
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