ジョーカー フォリ・ア・ドゥのレビュー・感想・評価
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現実社会に
1作目がとても面白かったので、続編ということで観に行きました。
前作の物語はジョーカーの作り話だったという解釈をしていたので、正直続編は無い方がよいのでは、しかしどのような続編になるのかは気になる、という感じでした。
前作の物語は本当だったようで、その後の収容所生活と裁判が描かれますが、ミュージカル演出のシュールさ、誇張し過ぎな妄想と現実のギャップなど、どこか歪な明るさがやはり絶望感を強くさせます。
光と闇を意識させるカット、シュールな華やかな歌唱シーンなど、映像的にも面白く、ホアキン・フェニックスやレディー・ガガの演技も良かったです。
ジョーカーになりきれなかったアーサーの結末は、なんともやるせないです。
良心が残っていたと感じましたが、そこから本当の自分を認めるものの、その姿は周囲から拒否されるという、絶望感しかない……
結末のあの若者が、いわゆる本当のジョーカーになるということなのかとも。
何かしら救いがあればと思っていたのですが……
映画の中ではなく、リアルに現実社会にジョーカーを真似して犯罪行為を行う人間もいるようなので、ジョーカーはいない、抑圧されていたとしても人の命を奪うような行為には報いがある、ジョーカーを免罪符に使うべきではない、そういうことを伝えているのだろうか、などと考えてしまいました。
アーサーを助けようとする存在は女性だったり、コントのような爆発だったり、この物語も作り話?妄想?というようにも考えてしまいましたが。
これはアーサー・フレックという男の魂を救済する映画である。カッコ悪く、ひたすらに惨めで痛々しい。でも後味はそれほど悪くない。
まず前作とこの作品はバットマンとはあまり関係ない。前作にはブルース・ウェインとその父母、本作にはハービー・デント検事(まだ検事補)が現れるがこれはゴッサムシティの点景というべきものであって、アーサーは街に溢れるピエロ装束の者たちの一人に過ぎず、バットマンシリーズの悪の権化ジョーカーとは別人格である。ただ彼が犯した犯罪(6人殺した)は大きなものであったためヒーローとして祭り上げられてしまった。
一方、前作では、どこまでが現実でどこまでがアーサーの妄想なのか解釈が分かれていた。これについては本作でキチンと整理されており、生放送内のマレー・フランクリン殺害も実際に起こったこととして扱われており、これらの犯罪についての法廷劇となっている。
ところで演出のトッド・フィリップスによると、前作は2019年の作品であり世界はそのあとコロナ禍に見舞われた。企画立案に不自由を強いられるなか、トッド・フィリップスと脚本のスコット・シルバーが気にしていたのは彼らと(そしてホアキン・フェニックスが)生み出したアーサーをこの後、どのように描いていくかであって、コロナの期間、議論を重ねていたとのこと。
法廷では、アーサーとジョーカーの人格乖離があってアーサーには責任能力がないと主張する弁護側と、それを否定する検察側が対立する。ところが不利になることは十分分かっていて、アーサーが弁護士を解任し、ジョーカーのペインティングをした上で自分で弁護を行うことによって法廷は混乱する。さらに、ジョーカーの偶像性を崇拝するリーが関与することによって話はどんどんややこしくなるのである。
だが、最終的には、アーサーが自分のジョーカー性を否定することによってこのストーリーは収れんする。優しく、純粋なこころを持っているアーサーは、偶発的であったり、一時的に怒りをコントロールできなかったりしたとしても、暴力を起こすことに耐えられない。だから恋を失い、クソな世の中に押しつぶされて、最終的に電気椅子に座ることになっても、自分がアーサーであることを選ぶ。トッド・フィリップスらが議論の末たどり着いたアーサーの人生ってそういうものだったのだと思う。
最終シーンは悲しくつらい。ただここでアーサーがジョーカーの扮装をしていないということにはなにか清々しい感じを受けたのである。
〜おまけ〜
裁判所の外側大階段でジョーカーとリーが足を広げたり振り上げたりして踊るシーンは予告編だけのシーンだったのですかね。本編には出て来なかった。ちょっとがっかり。
これが人生だ
大衆に冷水をぶっ掛ける、前作へのアンサームービー
悪を一種のヒーローとして魅力的に描いた作品は、時に暴力の連鎖を産むことがある。作者が自らの妻が暴行されたことを元に書いた『時計仕掛けのオレンジ』は映画化され、感化されたフォロワーたちがいくつもの暴力事件を起こした。そのうちの1人が悪名高きアラバマのウォレス州知事の銃撃事件を起こし、彼の獄中手記は『タクシードライバー』の原案となり、タクシードライバーを見て影響されたある男が今度はレーガン大統領暗殺未遂事件を起こした。前作『ジョーカー』はもちろんタクシードライバーに強く影響された作品でもある。
ジョーカーを気取って無差別テロを起こした人間がいる(ここ日本にも)。アメリカでは虚言癖の権力者に煽動された大衆が議会を襲撃した。この映画はジョーカーを讃えるような愚かな大衆に対して、バケツで顔面に冷水をぶっ掛けるような、監督自身によるアンチ・カタルシスな前作へのアンサームービーだ。前作で悪のカリスマに祭り上げられたジョーカーを、アーサーという1人の惨めな男に戻すための。
監督が観客の期待を裏切る意図を強く持っていた事は、あの階段のシーンが無いことでも明らかだ。予告編どころか海外ではポスターにも使われていた、ジョーカーとハーレイが裁判所の階段を踊りながら降りるシーンは本編には登場しない。
アーサー・フレックは世間で勝手に醸成された理想のジョーカーのイメージを期待されるが、それによって“アーサー”を慕ってくれた人々を傷付けることになる。そしてジョーカーではなく、アーサーとしての言葉を語ったところで「思ってたのと違う」と言われ周りから捨てられるのだ。この映画を見た観客たちの態度と全く同じ状況である。本作はいきなりルーニー・テューンズ風のアニメーションで始まるが、ジョーカーが自らの影に振り回されて破滅する、という話がすでにそのまま本作の内容を示している。最後の展開はセリフも含めて前作でアーサーがマレーにしたことと同じでもある。
なお劇中で鑑賞される『バンドワゴン』(1953年)はハリウッド黄金期の古き良きスタジオ製ミュージカル映画の最後の傑作とでも呼ぶべき作品。ほどなく社会の変化についていけなかったミュージカル映画は急速に斜陽となり、オリジナル作品は消えてブロードウェイ作品の映画化に取って代わられる。劇中の舞台と思われる70年代末頃には『ニューヨーク・ニューヨーク』や『ワン・フロム・ザ・ハート』がかつてのミュージカル映画の復活を期して製作されたが、興行的には失敗に終わった。バンドワゴンの主人公、忘れられたかつてのスターは周囲の期待に見事応えて愛と称賛を手にするが、人生はミュージカルのように全てがうまくはいかないのだ。
フォリアドゥ(二人狂い)ではなく、つまらないマッチポンプ(一人芝居)
続編として、映画をシリーズ化させること自体は別段、珍しくもなんともない。
だがまさか、あの「ジョーカー」の続編が作られるとは夢にも思わなかった。
しかも内容はミュージカルという、この斜め上からのカウンターには当然、面食らった。
強烈なアナキズムを通して悪の誕生を鮮烈に描き、世界中で大ヒットした「ジョーカー」のまさかの続編。
大きな賛否両論を呼んでいる本作だが、
よく、思っていた物と違う、というニュアンスの例えとして、
ラーメン屋に入ったらラーメンじゃなくて◯◯が出てきた、みたいな言い回しをする事があるが、
例えばこれが、牛丼、とか、カレー、とかならまだ理解しやすいが、
本作の場合は、珍味が出てきた、という感じだろうか。
分かりやすい味とは違う。どう味わったらいいのか困ってしまう。
まさにそういう、困惑を覚えてしまう映画だった。
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」や「シカゴ」を思わせるミュージカルで、このアイデア自体は非常に面白いと思った。
ただ、致命的なのは、そもそもそのミュージカルの出来が大してよくはないと言う事。
ミュージカルを通じて、場面や心情の説明をしているというのは分かるのだが、
ほんの隙間さえあれば逐一にミュージカルを入れてくるので、流石にうんざりしてくる。
しかも本作のミュージカルは、全てが妄想の世界になるため、即ちストーリーの進行が停滞してしまっている。
だから全体のテンポを大きく削いでしまっている。
しかも、刑務所と裁判所を往復するばかりなので、場面転換の少なさなので、絵的にも飽きてくる。
いちいち前作を振り返りすぎるせいで、全体の進展が遅いうえに少ない。
上映時間が138分というのはどう考えても長すぎる。
とどめに終盤は、延々と色んな意味で“戻っていく”という展開なので、
いかんせん、この内容だと、どんどんどんどん盛り下がって、尻すぼみになものになってしまうのは必然だし、
だから観終わっても強いモヤモヤが残ってしまう。
完全に前作と逆の流れになっており、挙げ句の果てにあの結末では、そりゃあ前作のファンが激怒するのも無理はない。
終盤にアーサーが受ける、ある暴力のシーンを変にカットしたのも酷い。
寧ろ、あの暴力のシーンは、アーサーを絶望のどん底に追い込む流れの為にも、ストレートに見せるべきだと思った。
上手くやれば、「1」の証券マンたちとのシーンの対比として見せる事にも出来たかもしれないのに。
そもそも看守たちがそこまで悪質に思えなかったのも問題。
粗暴と言えば粗暴だが、ジョークが成功すれば煙草をくれるし、
上下関係を逸脱した行為には暴力を振るうが、それは当然の事。終盤の凶行だってアーサーが原因。
「スリーパーズ」みたいな最悪レベルの看守ならまだしも、そこまでではないという、この中途半端さもダメだった。
他のレビューによると、この映画自体が、一種のメタ的なものだと解釈が成されているようだが、確かにその意図は意図は分からんでもないが、
じゃあそれが面白いのかというと、自分にはさしてそうは思えなかった。
その辺りのテーマ性の云々以前に、単純に、いち映画として作りが下手だと思った。
だいたいこのフォリアドゥ(二人狂い)という題名だと、
いかにもジョーカーとハーレイクインが、混沌を引き起こしていくような展開を予感させるが、ところが実際は…という、これも肩透かし。
寧ろつまらないマッチポンプ(一人芝居)に思えた。
トッド・フィリップス監督は、本作は「ミュージカルではない」とわざわざ否定しているが、しかし実際には、明らかにミュージカルという形式。
こんな中途半端な姿勢で始まっているのだから、そりゃあ出来も中途半端なのものになるのは無理はない。
あと…予告編の、とあるシーン、本編に無かったですよね…?
監督が強烈なアイロニーを投げかけているのであれば超傑作
「生まれて初めて、俺は1人じゃないと思った」。理不尽な世の中の代弁者として時代の寵児となったジョーカー。彼の前に突然現れた謎の女リーとともに、狂乱が世界へ伝播していく。孤独で心優しかった男の暴走の行方とは?誰もが一夜にして祭り上げられるこの世界…彼は悪のカリスマなのか、ただの人間なのか?(公式サイトより)。
わたしたち映画ファンは「エンターテインメント」がクソみたいな現実を緩和してくれる効力をよく知っているわけだが、前作「JOKER」は、クソみたいな現実を破壊しても、「エンターテインメント」さえ付与すれば免罪されるという完全な倒錯と、クソみたいな現実を破壊できない人びとが人身御供を祭り上げ、自ら煽動されに行く衆愚と、それでも埋めきれない圧倒的な孤独を見事に描ききって、世界的な大ヒット作となった。
今作では「エンターテインメント」に力点を置き、引き続き、「クソみたいな現実」と「孤独」に、副題となっている「フォリ・ア・ドゥ:フランス語で「二人狂い」という意味で、一人の妄想がもう一人に感染し、複数人で同じ妄想を共有する精神障害のこと」というモチーフを加え、前作のテーマを踏襲している。
が、全体をミュージカルテイストにするという謎に果敢な挑戦ゆえに、歌唱力をもつレディー・ガガをキャスティングした意図は理解できるが、これが全体を壊していると言わざるを得ない。残念ながら演技力が極端に低く、目線、立ち姿、表情、振る舞いどれをとっても個が立ちすぎて、二人狂いする相手役としては不十分であるばかりか、下手すれば結末が見えてしまうほどである。要所要所でホアキン・フェニックスの「さすが」という演技で、「さあ、ここからか!?」と期待させるところはあったものの、結局、最後まで肩透かしが続く。
監督が、裁判所前に群がるにわかや生中継を見守るテレビ視聴者と、この映画の観客であるわたしたちを重ね、「お前らは、JOKERにいったい何を期待していたんだい?」と、強烈なアイロニーを投げかけているのであれば超傑作ではあるが、どうやらそうでもなさそうである。
点と点がつながった
続編というより上下巻みたいな
ひとりの人間に起こった出来事が完結した、そんな物語で良かった。
私は前作に対して、親近感と、同族嫌悪と、嫉妬を抱いた人間なので、今作の死亡エンドは、展開に驚いたけれども、ハッピーエンドではない点において溜飲の下がる思いだった。
ただ、判決を下されて刑務所で過ごすエンドではなく、他人から殺され、その人は次のジョーカーになるかのようなエンディングは、ちょっと「物語的」で「特別な感じ」で、「ジョーカーは不滅」感があって良かった。
ひとりの男は死んだけど、ジョーカーは生き残ったみたいな。
ガガ最高だったよ!!!!
前作で本当の自分になれたといった結末でしたが、本当にそれって本当の...
興行的に安全な方向を敢えて捨てた監督の思いきりと勇気に拍手
前作が世界的大ヒットとなり1500億円もの興収を上げた『ジョーカー』の続編です。うまく人と馴染めないコメディアンが徐々にジョーカーという人格に呑み込まれ人をぶっ殺し始めるという狂気性が強い印象を残した前作を受けての作品。実は、僕には危惧する点がありました。あれだけ強烈な映画の続きとなると、狂気の振り幅をより大きくしてより凄惨な方向に向かわざるを得なくなるのではないか。でも、そうした映画は大抵失敗します。より刺激的により刺激的にと舵を切ると無理に無理が重なり物語が破綻するという事は数々の映画で証明されて来ました。案の定と言うべきか、先に公開したアメリカでは本作への非難が渦巻いているとの評判が聴こえてきました。どこが不興を買ったのでしょう。でも、それも配給会社の宣伝戦略なのかもと身構えて映画館に向かいました。
そして、観終えて納得しました。前作の発展形を期待した人々はこれでは期待外れに違いありません。でも僕は、とてもいい作品だと思いました。今回は、ぶっ殺し場面などは殆どなく、彼は元コメディアンのアーサーなのか、狂気のジョーカーなのか、それが一つの人格の中に眠る「フォリ・ア・ドゥ(いわゆる二重人格)」なのか、或いは演技にすぎないのかが裁判と彼の妄想の中で掘り下げられます。その触媒となるのがジョーカーに憧れるリー(レディ・ガガ)です。場面の殆ど全ては刑務所内或いは裁判所の室内であり、全ての場面でアーサー(ジョーカー)が登場するという閉鎖的・内省的な造りだからなのでしょう、突如ミュージカル仕立てになり意表を衝きます。でも、僕にはそれが不自然には思えませんでした。
作品冒頭のアニメ "Me and My Shadow" (恐らく、アーサーとジョーカーのこと)で作品のテーマを提示し、終盤でオールディーズの名曲 "That's entertainment" と "That's life" で締める造りも狙いが明らかです。この救いの無さは心にザックリ食い込みました。そして、前作の狂気性の拡大を求めて劇場に来たであろう観客をも突き放す意志の強さは見事でした。もう少し切れ味を鋭くして欲しいかなとは思いますが、興行的にはより安全な方向を敢えて捨てたトッド・フィリップ監督の思いきりと勇気に拍手を送りたいと思います。
刺さらなかった
光と影
ホアキン・フェニックスとレディー・ガガの演技と歌唱はもちろんのことながら、場面一つひとつの隙のない美しさに魅了されました。
光と影がつくる映像が生み出す緊張感とその合間を埋めるあたたかな歌声とハーモニーが、アーサーの心の浮き沈みが落とした影のようでもありました(脱獄を試みたときに歌っていたのは、三谷幸喜さんの「THE有頂天ホテル」でYOUさんが熱唱した曲でした)。
自分を必要とする人に出会えたときの高揚感、それをきっかけとした盲目的な日々、相手が夢を捨てたように見えてしまったときの失望とその失望が生む絶望。
腐った社会のなかで、もがくように必死に生きる男女の出会いからその締めくくりまでをみせられました。
失意の中で起こるウソのような奇跡、それを機に疾走しながら目指すのは当然あの人と約束した場所。そこで待ち受けていたのは思っていたものではなく、また元の暗い影が落ちた生活に戻ることになる。影に操られながら生きているんだと自分を理解させながら過ごしていたときに不意に面会の人が訪れる(もしかしたら面会は作り話か?)。あの時、彼は誰の面会を想像していたんでしょうか。
最後にみせたホアキン・フェニックスの表情は言葉にならないくらい見事でした。
アーサー物語
ジョーカーではなくアーサー。
ふと、ジーザス・クライスト=スーパースターを思い出した。誰も本当のジーザスを知らず、知ろうともせず、祭り上げたかと思えば偽物だったのかと石を投げる。群衆は浅はかで恐ろしい。
アーサーも同じ。
群衆は熱狂的にジョーカーを崇拝する。リーも同様。群衆の熱は簡単には冷めない。ヒーローを信じる事が唯一の希望だから。しかし、リーは違う。もっと冷静だ。
リーはマグダラのマリアではなかった。リーもジョーカーの中のアーサーには気づいていた。弱いアーサーが強いジョーカーとして覚醒するのを最前列でみたかったのだ。群衆よりも遥かにその期待は大きかった。
それ故に最後の階段のシーンは2人にとって切ない。ジョーカーが『誕生』したあの階段でジョーカーは『死んだ』。部屋で銃口を自分に向けていたリーは夢から醒め、リーに決別し、ある意味『死んだ』。ジョーカーに見切りを付けたリーは後にハーレイ・クインが『誕生』したのだろう。
唯一ゲイリーだけが本当のアーサーの一部を知っていた。そして彼の証言が虚勢ジョーカーを元のアーサーに戻した。そしてあの最終弁論に繋がる。
ラストのアーサーの表情。ジョーカーではなく小さな小さなアーサー。悲しく虚しいけれど穏やかにも見えた。
1作目はそんなに好きじゃなかった。ジョーカーは理解不能で猟奇的であって欲しかったから。トラウマがジョーカーを生んだ、というくだりがありきたりでしっくりこなかった。
しかし本作を観てトッド・フィリップスの思惑が見えたようで腑に落ちた。彼はもともとジョーカーに興味はなかったのだ。理解不能な極悪人ジョーカーなんていない。いたのは理解されない普通の人、アーサーだけ。彼の切ない人生の物語。そしてアーサーを通じて我々群衆の恐ろしさを描きたかったのかも。2作品観て良かった。スッキリ。
それを観客が観たかったか。
ミュージカルで観たかったか。
それは話が別。
賛否両論(つまりは酷評)の理由は分かる気がする。
だって観客も群衆であり、リーと同じくジョーカーを求めていたんだから。
※メモ
・採点は『アーサー』として。『ジョーカー』としては★1.5
・裁判所爆破→リーが助けに来る→復讐大量殺戮の始まり…って流れを一瞬でも期待した人いるよね?
・ミュージカル場面ちょっと多すぎかな
・キャサリン・キーナーは歳を重ねて雰囲気変わったけどそれがまた素敵
・ホアキンの演技が上手すぎる。最初の歌唱ダンスシーンがお見事
・リーが高らかに歌うほどガガになる。ピアノの弾き語りなどガガそのもの。現実に引き戻される。その意味でミスキャスト。もっと歌唱シーン少ない方がガガがリーになれたかもね
観客の反応に対する作り手の責任
休日のレイトショーにて鑑賞。レイトショーにしては混んでおり、意外とカップルが多く恋愛映画なのかなぁと感じながらの鑑賞スタート。
結論から言うと観たいジョーカーでは全くなかった…
また、何故ミュージカル風にしたのかな…
前作は映画に感化された犯罪が世界各地で多発(日本でも京王線刺傷事件が発生)したこともあり作り手が意図していたものと違った観客の反応になったため、本作では敢えてリアルと引き離すためにもミュージカルベースにし、苦悩する一人の人間としてジョーカーを描いたのではないか。前作と違って本作においてジョーカーの承認欲求を満たすようなシーンは殆ど出てこない
でも、やっぱり狡猾で、知的で、狂気な悪のカリスマとしてのジョーカーを観たかった。
作り手はどこまで観客の反応に配慮すべきなのか、少し考える機会になったということは良かった。
これはもうスモーカー
前日に無印観て予習して、
無印はほとんどアーサーの妄想、空想で構成されてる派の自分からしたら、2もそうなんじゃないかと妄想オチが冷めるタイプなので、不安になってしまっている自分がいた。
joker2をいざみてみると、
もうずっとタバコ吸ってるホアキンフェニックス。
もう2/3のシーンはスモーカーしてたんじゃないかってくらい。
自分も喫煙者だから映画館で吸いたくなってしまう。
きっとミュージカルと喫煙のシーンは、
アーサーの妄想や空想劇の最中なんだろうな。と解釈。
ラストのシーンで、本来何者でもなかったアーサーが、何者でもない青年に刺殺されたのは因果応報で、マーレーを射殺した時とシンクロしてたのは解った。
考察で見た、後のバットマンと対峙したジョーカーは、アーサーではなくこの初代ジョーカーを刺殺し、己の口を裂いた次世代ジョーカー。
この考察はとても好き。
ハロウィン前に上映してどんな影響をもたらすか気になっていたが心配には及ばなそう。
個人的にはジョーカーに大暴れするシーンがひとつやふたつあればもっと満足できたと思う。
無印のラストシーンから勝手に期待してしまった。
勝手にイメージしてしまいテンポも悪くて退屈気味に感じた。少し残念。
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