ジョーカー フォリ・ア・ドゥのレビュー・感想・評価
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観客が見たいものが見られなかったまで含めてジョーカーのジョーク?
初見の感想としてはとにかく「え?これで終わり?」に尽きる。エンドロール後も待ってても何もないし肩すかし感が強い。賛否両論とは聞いてたけど、これのどこを賛するんだ?というのが正直な感想。
ただ鑑賞後落ち着いて考えてみると、観客として期待してたもの=悪の権化としてジョーカーが大暴れするなりスカッとする展開=裁判所の周りに集まってたジョーカー信者達が求めてただろうもの、と同じなんだなと。リーもジョーカーを求めていてアーサーには価値がないというし、観客含めみんなジョーカーとしての死には動揺するけどアーサーの死にはたぶん一切興味ない。アーサーをアーサーとして求めてくれる人はどこにもいないというグロテスクな話。
また、色々と解説・考察も読んでみると、ジョーカーの本質とは「殺人含め全てジョークであること」「理解不能で何をしでかすか分からない・予測できないこと」であり、その点今回観客の期待を裏切りつまらない終わり方をするのは、呆気にとられてる観客の後ろから高笑いしたジョーカーが出てきそうという意味で、ある意味「ジョーカー的」なのかもしれない。
さらにそもそもこの映画自体が妄想と現実がないまぜになった信頼できない語り手であるジョーカー視点であり、どこまでが現実なのか分からないという指摘もあってなるほどと思った。最初がアニメから始まっててそもそも全編妄想の可能性もあり、そうなってくると観客はいったい何を見せられたんだ??という気分になってくる。
あと副題のフォリ・ア・ドゥ=二人狂い=一人の妄想がもう一人に感染し複数人で同じ妄想を共有する精神障害、は結局何だったのか。リーに狂気が感染し、アーサーを殺した男に狂気が感染し、アーサー自身は死んでも伝播した狂気=ジョーカーってことなのか・・・?
ただ上の考察も「悪の権化のジョーカーがこんなみじめな死に方するわけないだろ!?」ってところから出てきた考察にも見えるし結局誰もアーサーを見ていない。アーサーの物語としてみたとき、アーサーは幸福だったのか・・・いやどうみても不幸な死に方だったけど、一片の良心が残る男に「ジョーカーとして死ぬ」のは不釣り合いだったという点においてまだマシな最期だったのかもしれない。
とまあ、総合すると色んな分析はできるけど、率直に点数つけると映画としての満足感・爽快感が得られなかったという意味で星3くらいになるかな。でも求めてる爽快感はジョーカー信者が求めてたグロテスクな願望と同じものでなんだかなとも思うしモヤモヤモヤ……。
とりあえず一番の見所として主演のホアキンの怪演は前作に引き続き素晴らしくて引き込まれる。狂ってるジョーカーに、自分も行動にはうつさないだけで似たような狂気をもってるかも…と感情移入してしまう。さらに音楽・映像がまた良くて、ジョーカーの狂気に不気味なざわざわとした感情を引き出してくるのに一役買ってる。
ちなみにオペラ調の演出がつまらないという意見が多く見られるけど、そこは本質ではないというか、単にオペラ的演出に慣れてるかどうかの問題では?と個人的には思うけどなあ。
個人的には面白い!でも、星4つ
前評判では、賛否両論というネット情報を、うっかり見てしまったうえでの鑑賞。
個人的には「面白かった」です。
否定的な意見で目にしたのは「劇中で歌い出してミュージカル化する」というのですが、その部分は個人的にスムースに受け入れられました。前作でもアーサーは妄想シーンが多かったし、現実シーンで歌う時でも、コメディアンやエンターテイナーショーに憧れていたので、違和感は無し。 特に今年初めに見た日本ドラマ「不適切にも程がある」で耐性がついているのは自覚しています。
それ故にハーレイ役のレディーガガは適役。キャラの良し悪しはおいといて、ミュージカルシーンが引き締まるし、格が上がりますね。
そもそも、前作から逮捕後の刑務所と裁判所が舞台なので、エンターテイメント性を上げるためにミュージカルの手法、古のアメリカエンターテイメントの映画やブロードウェイミュージカルの基本演出を踏襲するのは、許容範囲。
うまく表現できないのだけど、個人的に本作は前作の衝撃を超えていない。その理由は本作では「ジョーカーが活躍しない」のだ。
前作はアーサーが理不尽な不幸の質量に耐えかねて「この世はクソ喰らえ」とジョーカーが誕生し、テレビを視聴していた「政治や格差に不満を抱える」一般市民の不満に火をつけたカタルシスの爆発が、映画視聴者にもリンクさせる程の作品だったのだが、今回ジョーカーは登場するもジョーカー本人は何も犯罪は犯していない(アーサーが脱獄をします。あれはあくまでアーサー。)・・・・むしろ、アーサーがジョーカーの存在に耐えきれず、諦めてしまう、消化不良な展開が、否定的意見の根底にあるような気がします。
ジョーカーは狂人であり、その彼に惹かれたハーレイも「類は友を呼ぶ」を体現した狂人で、息を吐くように嘘をついたり看守を”抱き込んで”独房に入り込んだりと狂っている。ちっとも感情移入(応援)が出来ないキャラなのだが、それ故に孤独だったアーサーが振り回され、浮かれて歌い出すミュージカルシーンは必要性があると解釈しています。恐らくは「彼女いない歴=年齢」のアーサーが、舞い上がりジョーカーではくアーサーとして彼女との恋愛を育もうと渇望するのはどうしたって自然な演出。ハーレイはジョーカーを愛していて、恐らくジョーカーはハーレイのことは信者の一人としか思っていなくて、アーサーがハーレイを好きになってしまうこの掛け違いの悲恋。。。。
ジョーカーの強すぎる影響力が、アーサーにはコントロールできるはずもなく、今回のラストシーンにも繋がるのだと思うので、前作は超えないけれど「ちゃんとした続編」だとは思います。
それ故に個人的に「次はジョーカーが覚醒し活躍する続編」の可能性を大いに期待してしまう。本作が前フリとなって、予想を超えたカタルシスの爆発があるのではないでしょうか? だって、バットマンと対決していないじゃない。
この作品「タバコ」が象徴アイテムとして、とても良く出てきて・・・出過ぎな程あちこちで喫煙シーンがあるのだけど、1回の視聴ではその意味するところがわかりません。法定でジョーカーを誕生させるためのアイテムだったのかな?「タバコを許したなら、これもゆるしてもしょうがないよねという自由さ」を表現してるのかな???
あと不思議に感じたのがアーサーって全く冴えない、うだつの上がらない中年男性なのだけど、冒頭の無言でいるシーンから、妙にカッコよく見えるんですよね。カッコよく見せようと意図的に撮影しているのか??? 一度ジョーカーとなったことで、ジョーカーを内包しつつも潜在的に隠れているような 表情が、ホアキンフェニックスお見事!!!
前作よりはパワーダウンしているけれど、同じベクトルの映画作品ではないので、これはこれで楽しめました。
現実と妄想が行き来することに加えて、アーサーとジョーカーが行ったり来たりする為に、視聴者も翻弄されるのだと思います。
一言で言うなら「懺悔映画」
前作『ジョーカー』の影響でアメリカのみならず、日本でも社会現象を引き起こした凶作の続編。鑑賞前は酷評の多いとは知っていましたが、「個人的に楽しめれば良い」という視点で述べさせていただきます。
脚本は正直イマイチ。ほとんど刑務所のシーンばかりで物語が前に進まない。
そこを補っているのがアーサーの妄想の世界で、華々しいシーンが多く、退屈させないように気を配っている印象でした。
歌が多いのもストレスに感じてしまってもったいない。台詞で気持ちを表現すればいいのに歌で遠回しに伝えようとしていて、正直じれったいと感じました。
前作で社会風刺に振った分、エンタメ性と現実性に特化した作品でした。
この映画を観て良かったと思えたのは、「カメラワーク」と「レディー・ガガ」でした。アーサーの心情をカメラで表現していて、自意識過剰の部分をピントで表現していて被写体の周りをぼかすことで、自分の事しか見えていない人間を演出していてわかりやすかった。
そして今作はレディー・ガガの演技と歌唱力が素晴らしい。力強い歌声と演技力は一見の価値あり。中でも「ジョーカーとハーレイ」というアーサーの妄想の世界では、ホアキンとデュエットするシーンがありますが、ホアキンが緊張しているのか声がこわばっているしているように見えました。
個人的にはトッド・フィリップス監督による前作からの反省文的懺悔映画。もしくはジョーカー0号の物語とも観れる映画でした。
真っ当なアンサーソングだった
え?賛否なんだ?と噂を聞きつけたが故に観ないつもりが観にきてしまったのだから、賛否っていいもんだと思う。ふと振り返って続編やるような話だっけ?と思いつつ観てみれば、なるほど繋がっていてこうなるより他ないアンサーソングになっていた。
だから正直なくたっていい話の続きなので珍しいものを観ている感じはする。他にやりやうもないわけではないだろうが、今度は冒頭のカートゥーンアニメからはじまって、妄想ミュージカルで繋いでトドメまで、って感じなのだけど、そのミュージカルも『ララランド』的なクレバーでアクロバティックなハマり具合ではなく『ワンフロムザハート』的なダラダラと展開と閉塞感を深めていくのでこの辺が悪評なのか? 同じ趣向なら『X』シリーズのタイウエストの『パール』のほうがクレバーなミュージカルオマージュをかましていたと思うが、本作を悪く言えないのはレディガガがいいからである。初っ端からファムファタールでございます、という登場なのだけど、目つきがとても良く、せっかくならもうひと暴れして欲しかったくらい。
にしても、前作で象徴的だったあの階段が出てくると切なくなるな、と思った。そしてあまりにもあってるビリージョエルの「マイライフ」…
トッドヘインズは連続する作品を作家としてまとめきったと思う。でも世間の期待するエンタメはこれじゃない、という感じなのかな。なんか黒沢清監督の『cloud』を思い返した。
鑑賞動機:前作7割、ブレンダン・グリーソン3割
やっぱりワーナーは続編作ったねえ、と思ったら、ブレンダン・グリーソンも出演ということで、一気に鑑賞する方へ気持ちが動く。
「いきなりアニメ?!」とちょっと驚いたが、後からじっくり考えてみると、この2部作のジョーカーの本質を表現している…かもしれない。
自分で建てた家を自分で解体していくイメージ。流石のワーナーも今度は「続編作ろうぜ」、とは言い出さないはず。言い出さないよね。言い出すなよ。
妄想ミュージカルと裁判とか何か色々と『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を連想してしまうのは、私の妄想か。
ホアキンが意外と歌えてるのが発見だったけど、前作のインパクトをもとめてしまうとね。リーとか最後のあの人同様に「裏切られた…」となると…。やっぱり一歩引いて冷めた目で観て良かったのか。
ブレンダン・グリーソンのジャッキーは、アーサーとならそれなりにやっていけると思っていたのに、ジョーカーの言動に対しては、こちらもある意味裏切られた感じで爆発したのか。
素晴らしい。アメリカ現代文学作品の文脈
Tennessee WilliamsとJohn Steinbeckのテーマを現代の文脈に巧みに織り込んだ作品といえる。Williamsの描くキャラクターたちは、しばしば精神的に崩壊し、孤独や人間関係の歪みによって破滅する。アーサーの内面の葛藤や、社会からの疎外によって狂気に陥る姿は、Williamsの『A Streetcar Named Desire』のBlanche DuBoisや『The Glass Menagerie』のAmanda Wingfieldのようなキャラクターたちの精神的脆さを想起させる。特に、前作アーサーの幻想的な人間関係(隣人との妄想的な恋愛)や母親との複雑な関係は、Williamsの作品に登場する家庭内の緊張や壊れた関係性と強くリンクしている。
一方で、Steinbeckが描くアメリカ社会の厳しさと、貧困や不平等が個人の精神に与える圧力も、アーサーの物語に色濃く反映されている。『The Grapes of Wrath』や『Of Mice and Men』では、Steinbeckのキャラクターたちは、社会的な構造や経済的困難に立ち向かう中で、次第に追い詰められ、希望を失っていく。アーサーもまた、経済的困窮や精神的な問題を抱えながら、無関心な都市社会に取り残され、やがて暴力的な形でその怒りと絶望を爆発させる。この点で、Steinbeckが描くような社会的無力感と、アーサーの行動は強く結びついている。
Tennessee Williamsの描く内面的な崩壊とJohn Steinbeckが追求した社会的テーマの双方を取り込み、現代の社会問題や個人の精神的な崩壊を深く掘り下げた前作と今作。アーサー・フレックが狂気に陥っていく過程は、Williamsの繊細な人間描写とSteinbeckの社会批判の融合と言える。孤独、疎外、そして不平等に苦しむ現代の人間像を鮮烈に描き出している。
存在と死
現実への影響も含め前作へのケリ付けに来たぞ。
日本でも有ったよね、電車内でジョーカー事件とか、安倍晋三銃撃とか。ドナルドトランプのQアノンもそれに見えたり。
あまりに話題の問題作になってしまっての事か今作ジョーカーが法で裁かれる映画。
俺も当時、ほとんど話もした事無いような職場の先輩がジョーカー見た。とか聞いて、うわ!「あのジョーカーは俺らですよね?」って社の飲み会で珍しく語っちゃったもん、横席の上司気にせずにw
てまあ、前作のホアキンジョーカーには心重ねたモンですよ。
で、今作そのホアキンジョーカーが裁かれる、責任能力が有るのか?精神異常者なのか?
そして彼は罪をただの犯罪と認め、情け無く振る舞い周囲を夢から醒めさせ大きく落胆させてしまう。
ジョーカーは俺たちのカリスマじゃ無かったのか?
女にも捨てられ全て無くした彼はボロ雑巾のようだった、あの長い階段で。
そして最後にはしょうもないチンピラに刺されてしまう。
優作の探偵物語最終回みたいに。
ジョーカーはあそこで死んだのかも知れない、終わったのかも知れない。
じゃジョーカーは居なくなるの?いやジョーカーは死なないだろう、ホアキンジョーカーが殺されたとしても。
何故ならジョーカーは僕達そのものの意思で有り、僕達がジョーカーの存在を望むから。
そもそもバットマンのライバルにして、そちらに行ってしまっただけのバットマンだぞ、消える訳が無い。
たぶん100年後もジョーカーは語られて居るだろうな、僕達が望む限り存在し続けるんだ。
例えば知ってる?ミッキーマウスがデビューしたのほぼ100年前なんだよね、未だ僕等はミッキーマウスを知って居る、愛している。
キャラクターは死なないんだよ、例え生みの親が死んでも、あのダミ声が聞けなくなっても死なないんだ。
僕達が存在を求める限り、そこに居続けるんだ。
ドラえもんみたいに、優作みたいに。
賛否両論わかる!
レディ・ガガは歌要員でキャスティングされたのか、さすがホアキンの怪演に負けない歌声。アーサーの妄想世界など歌の場面が多かったけど、まあアーサーやハーレーの気持ちの表現として良かったかな。
と思いつつ観ていたら、衝撃のどんでん返し。アーサーはジョーカーじゃないんかい!ホアキンがつくったジョーカーの新たな深掘りイメージがひっくり返ったよ笑。アーサーを殺したサイコパスが偽?ジョーカーになるんだよね(口角をナイフで切ってたし)。まあ、それはそれで、イカれたジョーカーといえばジョーカーである。つまり今シリーズは結局はアーサーのストーリーだったんだな。そう考えるとホアキンは、悲しいアーサーを上手く演じたと思う。
独りぼっちではない「孤独」
5人の殺害容疑のため刑務所で過ごすアーサーに裁判の日が迫る。
刑務所内で出会ったリーとの妄想は、世の中の弱者、反逆者たちへ伝播する。
今回のアーサーは独りぼっちではない。
常に周りに人がいる。
そのため前作のような終始閉塞感で逃げ出したくなるような絶望は薄い。
なぜならアーサーはもう、弱者のヒーローであり、民衆の代弁者であり、憧れの存在だからだ。
社会的弱者視点で共感した前作を、そのまま期待して観ると裏切られる。
世間から「つまはじきにされる孤独」が前回なら、今回は世間から「祀(まつ)られる孤独」。
アーサーの境遇から生まれた「ジョーカー」は世に一人歩きを始め、アーサーは「ジョーカー」であることを求められていく。
「あなたは僕の話を聞いていない」というインタビューでのアーサーの言葉が印象的だ。
みんなが見たがっているのはあのメイクで、素顔のアーサーではないのだ。
ある意味今回の孤独のほうが、救いがないかも知れない。
ミュージカルシーンが多すぎるという声はその通り。
ガガに乗っ取られた感が否めないのでこの点数で。
サブタイトル詐欺
フォリ・ア・ドゥとは、「感応精神病」のこと。このことを知って、私はジョーカーとハーレイが一緒に暴れまわる作品を期待した。ジョーカーの妄想がハーレイに伝染して、ゴッサムを混乱に陥れる的な。だが実際にはそんなことはなかった。期待とは違う結末が描かれたので、あまり評価はできない。海外で酷評なのも頷けるなと思った。
本作の大まかな流れは、①前作で収監されたアーサーの様子→②ハーレイとの出会い→③裁判→④裁判所からの脱出→⑤アーサー死亡である。ジョーカーは暴れません。
①から③で、自分はアーサーかジョーカーか揺れ動きながら妄想が伝染したハーレイのおかげでジョーカーだと認めればよかったものを、最終的に出した答えは「自分はジョーカーではない」という答え。そもそもこの答えに至った理由もよく分からなかった。直前に監獄仲間が看守に殺されてしまう展開があったので、前作と同様に虐げた者への復讐をするんだなと思ったのでそう強く感じた。そうじゃないだろ。今こそジョーカーになるべきだと。
④は実に雑な展開だった。裁判所が突如爆破され、アーサーは脱出できたが、爆破された理由が「どこかの誰かが仕掛けた爆弾のおかげ」。それはないだろうと。ハーレイが適当に爆弾魔を抱きかかえて指示したとかの方がまだマシだった。
で、最後の⑤。監獄でジョーカーに憧れてたらしい自称サイコパスが失望して刺殺する展開。死ぬ直前にアーサーはミュージカルで「自分の思想を子供に継がせたかった」と吐露したが、え?そうなの?としか思えなかった。そのサイコパスが次のジョーカーになるのを匂わせてたらまだ許せたけど、ぽっと出のキャラにいきなり殺されるのは実に残念だった。演技が良かっただけに本当に残念。
アーサーの物語
冒頭の子どもに見せられないアニメ
ジョーカーらしく私は結構好きです
傘とかピエロメイクの配色が綺麗なのとても好きです
アーサーは相変わらず最後まで魅力的ですね
とても悲しくて
凡人は悲惨な結末を迎えるのですね
私はアーサーを愛したかったです
リーの歌は素敵で力強い感じ
不安とか悲しみは感じなかったけど
虐待を受け、自宅に放火した女性はあんなに強いものですか?
気になったのは裁判のシーンがかなり長く感じたこと、妄想のミュージカルシーンももっと短くても良いような気がしました
最後に出てきた彼が2代目?真の?ジョーカーですか?
楽しげにザクザク刺してましたね
予想外の展開でしたが、色々メッセージや内容について考えさせられて私は好きでした
山田裕貴の宣伝の時点で嫌な予感はしていた
ザッツ・エンターテインメント🎵
ジョーカーにレディ・ガガが出る。
そしてあの完璧な予告篇。
期待値マックス。
賛否あるレビュー、ミュージカル?
予告を超えることはないか。近場の劇場で大丈夫か。
いやいやせっかくなら、
遠くの劇場で夜の回のみのDolby Atomo上映
少し無理して観に行って良かったと心底思った。
ジョーカー完全となる。
予告篇をはるかに超えてきた。
最初のアニメーションが終わってからラストシーンまで、すべての場面が絵になる。
音楽が、音が、歌声が、光が、バカ笑いが、
脳に、胸に、心に突き刺さる。
歌声が、メロディが、歌詞の一言一句が、こんなにも心に染み込んでくるミュージカルは初めてだった。
ジョーカーとハーレィークインのダンスにうっとりする。
アーサーとリーの歌声に涙が止まらない。
こんなにも哀しいザッツ・エンターテインメントがあったろうか。
心が震える。
ホアキン・フェニックスが苦手だった。
前作も、ナポレオンも、ボーも嫌悪感が先に立ってはまらなかった。
今作は最初の痩せこけて突き出た背骨から、魅了された。
アーサーも、ジョーカーも、歌も、タップダンスも、バカ笑いさえもかっこいい。
すごい映画だ。
無敵の人
狂気は伝染する。
ジョーカーの作り出した狂気は伝染する。
それは、民衆の意思表明に。
それは、一人の女を虜に。
それは、囚人たちを熱狂の渦に。
この時は間違いなく、ジョーカーの絶頂期であった。
だが、精神的重圧に耐えかねたアーサーはジョーカーであることを辞めた。
そこからの転落は早かった。民衆から逃げ出し、女から見放され、狂信者に刺される。
そして、新たなジョーカーが誕生する。
もはや一種の宗教と化したジョーカー。
もう止められるものはいない。
光が強いほど影は濃い
今回ジョーカーを引っ張り出すのは、くそみたいな世間ではなく愛する女性だった。
・ミュージカルシーンは作品の世界観を邪魔するものではなく、むしろ「これがアーサーの心象風景か」と腑に落ちた
・他の方も言うように、リーがそのまんまガガに見えた部分は現実に戻ってしまい少し冷めた
・アーサーとリー。お互いに惹かれ合い(?)影響し合う2人の対比の描かれ方が容赦ない(リーがあの階段をスタスタと登っていく姿など)
・承認欲求の塊であるアーサーが、世の中から認められることよりもリーへの愛を優先したのに、リーを含め皆が好きなのは、アーサーの影であるジョーカーの方だった。やるせない絶望感。
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