ジョーカー フォリ・ア・ドゥのレビュー・感想・評価
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虚像と実像
エンディング歌「ザッツ・ライフ」は、前作ではフランク・シナトラ版が使用されたが、今作ではレディー・ガガがカバーしている。「うつむいた日も顔を上げ、私はレースに戻っていくんだ」という歌詞は、レディー・ガガ演じるリーが、ジョーカーという虚像に憧れるようなことはやめ、現実に戻れと訴えかけているようにも聞こえる。
リーは、″ジョーカー″に心酔し、自ら精神病棟に入ることで勾留中のアーサーに接触し、嘘を重ねてその心を掴んでいく。ただ、リーが愛したのは凡人であるアーサーではなく、事件を起こしたカリスマの″ジョーカー″だった。一方、アーサーにとってリーは、はじめて自分を好きになってくれた、もう一人ではないと思わせる女性である。リーとの距離が縮まっていくと、アーサーは生きる活力に満ちていき、自信を取り戻していく。その後の二人の駆け引きはミュージカル仕立てのショーとなって、歌を通した妄想劇が繰り広げられる。
アーサーの起こした殺人事件の裁判が始まると、リーは面会に行き、自分が妊娠したことを告げる。翌日の裁判でアーサーは弁護士を解任し、自分自身で弁護することにした。ジョーカーの扮装をして一人で法廷に立つことにしたアーサーは、裁判をショーに仕立てていくが、唯一の友人に恐怖を与えていたり、慕っていた若者が殺されたりするにつれ、心境に変化が起こる。メイクを取って臨むことになった最後弁論では、陪審員に罪を告白し、ジョーカーはおらずアーサー・フレックしか存在しないと証言する。それを聞いたリーはアーサーの元を離れていく。リーはアーサーが自分の望む存在にはなれないと気付いたのである。
サブタイトルの「フォリ・ア・ドゥとは、フランス語で″二人狂い″という意味で、一人の妄想が複数人に感染していく様を指す。実際、ジョーカーに感染したのはリーだけではない。多くの群衆もアーサーを偶像化し、ジョーカーの解放と再来を求めた。しかし、ジョーカーというのはあくまで虚像であった。実像は孤独ではあるが純粋で心優しきアーサーという人間であった。
人間誰しも多面性を持っている。虚像と実像の違いに悩まされるということは、普通に生活していてもよく起こりうることだ。ザッツ・ライフ、つまり、世の中そんなもんだと思うことにしたい。
ちょっと作り込み過ぎかな・・・・
ホアキン・フェニックスが演じるジョーカーの続編が公開されたので見てきました。
まず、正直な事を言えば、とても内容は作り込まれて大変に良かったです。
前作からホアキン・フェニックスのジョーカー役は本当に板についてきたし、それをレディー・ガガ煽るようにいい演技で攻めています。
しかし、本作品って、「バッドマン」に出て来る敵役のジョーカーだよね、「バッドマン」のスピンオフなんだよね・・・
ちょっと作り込まれ過ぎと言うか、ジョーカーに対して、これじゃ、その後ジョーカーが想像できないような・・・
例えば、ヒース・レジャー、ジャック・ニコルソンのどの役のジョーカーと繋げていけばいいのか・・・・
ちょっと作り過ぎてしまって、本質と違っていないかな・・・・
最後なんて、日本のヤクザ映画みたいで・・・・何とも勘違いのような気がするな・・・・
勿論、1本の映画としては、良く出来ているんだけどね、あのバッドマンの敵役になるジョーカーと想定すると・・・
何とも、イメージしていたジョーカーやこれまで見てきたジョーカーとは異なるかな・・・印象が・・・こうなると、これからバットマンと戦うジョーカーのイメージがね・・・・・成立しないと言うか・・・・
最後のシーンは要らない気がするけどね、あの階段のシーンで終わると、何とか、無理やりでも、バッドマンのジョーカーが想像出来るんだけどね・・・
しかし、レディー・ガガはいいね、歌も歌えて、ハーリーン・クインゼルをしっかり演じていたね、もっとはっちゃけても良かったけどね。
しっこいですが、1本の映画としては大変に素晴らしいですが、「ジョーカー」として、バットマンのスピンオフとしてみたら、どうなんだろう・・・・
美しい音楽、そして映像の映画だった
美しい映画だった。映像も音楽も美しい。
賛否両論ある映画という前評判は見ていたので、自分はどちらなのだろうと思いながら見ていたのだけれど、案外引き込まれていると感じていた。
ミュージカル映画として批判している向きもあったけれど、その音楽、特にガガの歌が美しかった。また、その音楽をバックではなく、前面に出した映像は美しかった。炎、闇、光、そういったものの組み合わせ、描き方が美しかった。また、歌に重なり合う重厚な不協和音とのアンバランスさも良かった。
物語とすると、やはり現実の世界で起こってきたJOKER模倣犯の存在が横たわっていたように、そして、それに対するリアクションという側面はあったように思う。
彼は悪魔そのものではなく、悪魔に囁かれた人間なのだと。
There is no JOKER
そして、人間を堕落させた後、悪魔はその人を離れ、そこにはただその人間だけがいる。
I can’t live without you...
なんて笑えないジョークしか残っていない。
そういった道徳とは言わないまでも、教条的なところはあったように思った。
そういったものを見たいわけではない、そう思った人には不評だったのかもしれない。
ただ、この映画の音楽と映像の美しさは破壊と混乱とカオスの耽美的な美しさを讃えていた。
そこは十分すぎるほど評価できるものだったと思うのだけれど。
前作のオトシマエ的な?
前作上映後の間抜けな騒ぎやら昨今の世界の状況を踏まえて作られた映画なのかな?
前作を観てもろに影響受けてしまった純真な観客が思ったより数多くいて、こりゃ不味いと思ったのだろうか監督さん。
映像全体は素晴らしく、主演二人の歌も素敵で特にホアキンの歌声は頭にこびりついて落ちません。
でもカリスマの否定なら最後まで殺さない方が良かったのかな?とも思うが。
純真に前作に多幸感を感じた人は好きな映画じゃなさそうですが、私は大好きな映画でした監督さんの作話意図に感動です。
まあこれでこの「ジョーカー」は終わり!後は「バットマン&ロビン」の続編をお願いいたします。
歌がね、残念。ガガ様ごめんなさい。
本作はジョーカーよりアーサー・フレックのストーリを描きたかったんだよね、それはわかる。
なんだけど、ミュージカル仕立てにしたのが解せない。リーとアーサーが本作で歌にする意義みたいな、そこが感じられない。で、もうね、肝心な台詞も歌っちゃうから入ってこないんだよ〜〜泣。
辛うじて、ジョーカーらしく次なにか起こすんじゃないかという静かな恐怖が随所に感じられたので星3.5。因みに精神の安定した昼の鑑賞をオススメします。
「歌わないで」というセリフに共感してしまった笑
ハーレイ・クインと同じく、"狂気"をアーサーに求めながら観ている事に気付く。
あの衝撃から気が付けば5年が経ち、その続編である本作は酷評の嵐。だがこの映画、決してつまらない訳ではない。前作からちゃんと引き継がれた、圧倒的な『作品』。
レディー・ガガの歌を含めて、演出、演技は最高。この映画はやはり『娯楽』として観てはいけない。
アーサーからジョーカーに変わっていく前作、
ジョーカーからアーサーに戻されていく今作。
自らメイクをしてジョーカーになっていった前作に対し、リー(ハーレイ・クイン)にピエロのメイク(好意)を施されてジョーカーになり、刑務所ではピエロのメイク(虚構)を落とされる。
鑑賞者はジョーカーに魅せられ心酔したまま5年(作中では2年という設定)。リーや民衆と同じくジョーカーを求め、アーサーの行く末とこれから起こるであろう狂気を期待しつつ、刑務所と裁判、そしてアーサーの妄想を通して"現実"を嫌という程に意識させられる。
リーのジョーカーへの恋と憧れは、正に鑑賞者と同じ視点。だがこの世界線のジョーカーは、バットマンとは戦わないアーサー。
ガリガリでジョークも面白くなく、カリスマ性など本来皆無の精神を病んだオッサンである。
裁判でのアーサーの変化、ジョーカーとしての自覚。垣間見える狂気にワクワクしている自分は、『正常なのか?』と自問自答してしまう。
期待MAXで観ると、淡々とゆっくり進む展開に苛立ちと退屈さが押し寄せてくる。音楽が"人生"と"心の安定"に重要というのはわかるが、少し過剰な押し付けにも感じてしまう。ここに何処まで耐えて、アーサーを理解出来るか。
冒頭のアニメシーン、わざと鑑賞者の記憶に残る様に実写にしなかったんだと思う。
フィリップス監督がこれで『作品』として完結させ、この世界線でさらにもう一つの『娯楽版JOKER』を隠し玉でサプライズ発表してくれたら、心の底から最大級の拍手と称賛を贈りたい。
??????
なにを見せられたんだろう?
ジョーカーが無双する所が見たかったのに、急に歌いだしたり、踊りだしたり……
配信で「異世界スーサイド・スクワッド」を見てたから、ジョーカーに惚れる女の子がハーレイ・クインである事しか分からなかった。
ジョーカーとハーレイのコンビで「悪のカリスマ」に駆け上がる話なのかと思ったら、裁判で「ジョーカーなんて居ない」とか言い出すし…
しかも、唐突な場面の変更ばかりで本気で訳わからなくなる。
あのラストは、もうジョーカーが出る事は無いのか…
役者を変えるのか…
いきなり歌い出す所の吹き替えがどうなってるのか、吹替版でもう一度見てみたいけど、この、盛り上がらない微妙な気持ちに変化は有るのだろうか…
悪の救世主の誕生
面白かった。最後は賛否両論ありそうだけど、なぜこの結末になったのか、深読みしがいがあって面白い。
前作と本作のストーリーを素直に解釈すると、
前作:アーサーがジョーカーとして覚醒(変身)する物語
今作:ジョーカーがアーサーに戻る物語
ということになる。
リーが言うように、アーサーは「ジョーカーなどはじめからいなくて、アーサーただ1人だ」、ということを認めてしまった。
しかし今作を深読みすると、実はこの物語は「真のジョーカー」の誕生を描いている、という解釈が可能なのではないか、という気がする。
前作では、ジョーカーに人々は社会的不満と怒りを投影させ、悪のヒーローとして祭り上げた。これは、アーサーを媒体としてジョーカーという偶像としてのヒーローが「受肉」したともいえる。
しかし、卑小な、何の特別な能力も持たないただの人間であるアーサーは、人々が理想とする悪のヒーローになりきることができなかった。コメディアンとして成功したい、という願いはかなえられず悪に転落し、転落した悪の道でもヒーローになりきることができずに二重に挫折する、というアーサーのどこまでも哀れな悲劇の人生。
アーサーは全く報われずに死んだ。しかし人々のジョーカーを望む声は消えない。アーサーはいなくなっても、第二、第三のジョーカーが現れるのでないか。ジョーカーはジョーカーを望む人々がいなくならない限り、現れ続けるのではないか。
これは、アーサーをきっかけとして受肉したジョーカーが、アーサーという仮の媒体を脱ぎ捨て、ジョーカーという「概念」に昇格したということだ。
アーサーが「ジョーカーなどいない」と言っても、人々の理想通りのジョーカーではなかったとしても、もはや関係ない。「ジョーカーの概念」はこれからも次々といろいろな「媒体」を乗っ取り、何度死んでも何度でも復活する、不滅の存在になった。
もう少し妄想をふくらませると、ジョーカーが仮の肉体を捨て、不死の存在に昇格したのは、人間であるイエスが神となった経緯に似ているようにも思う。イエスは罪人として裁かれ、処刑され、復活し、神となった。ジョーカーも、裁判を受け、罪人とされ、死ぬことで不滅の悪の救世主となった。ジョーカーが不滅の存在になるためには、アーサーの死が必要だった。人間としてのイエスの死が神としてのイエスの誕生に必要だったように。
この物語におけるリーとは、「ジョーカーという悪の救世主を信奉する人々の声」の象徴だろう。ジョーカーは、突然変異的に発生した悪ではなく、不平等な社会と人々の願望が具現化して生まれた。
リーが愛したのは人間としてのアーサーではなく、自身の願望を投影した偶像であるジョーカーだった。
この物語で強烈に連想したのは、フェスティンガーの「予言が外れるとき」。予言者の予言が外れた時、信者たちとその教団はどうなるのか、ということを、実際の宗教団体に潜伏することで調査するという内容。予言が外れた時、その教団は信仰の求心力を失って衰退する、と考えてしまうが、実際にはむしろより信仰心を高め、強固な宗教に変わっていくのだという。そこでフェスティンガーは有名な「認知的不協和理論」を導いた。
アーサーがジョーカーの信奉者たちにとって理想的なジョーカーでなかった、となっても、ジョーカーへの信仰心は消えるどころか、むしろ強固になる。
アーサーは個人の中での認知的不協和のためにジョーカーを生み出したが、ジョーカーは集団的な認知的不協和のために不滅のジョーカーに昇格した。
この映画の本当の主人公はリーだろう。リーの狂気に近いジョーカーへの望み。リーの妄想とアーサーの妄想が響き合い、悪の救世主としてのジョーカーが完成した。逆説的だが、実は望みをかけられる者は望みをかけるものに支配されているのではないか。
現実と妄想の垣根を越える映像のシュールな夢幻性が特徴となる本作には、思考をまひさせる不条理な展開が多々つづき、とてもアーサーに感情移入する暇を与えてくれません。但し…
2019年の第76回ベネチア国際映画祭で金獅子賞、第92回アカデミー賞で主演男優賞を受賞するなど高い評価を得たサスペンスエンターテインメント映画『ジョーカー』の続編。 前作に続いてトッド・フィリップスが監督し、ホアキン・フェニックスがジョーカーを演じるほか、ジョーカーが出会う謎の女リー役でレディー・ガガが出演します。ガガが参戦し、ミュージカルシーンもあると聞けば、期待のハードルが天高く上がってしまうのも無理はないでしょう。
●ストーリー
理不尽な世の中で社会への反逆者、理不尽な世の中の民衆の代弁者として祭り上げられたアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は、ピエロ姿のジョーカーとなって殺人を犯し、逮捕されました。
そして本作は、その2年後。精神鑑定のためアーカム州立病院で、5人を殺害した罪で裁判が行われるかどうか結論を待っている状況にいました。病院の外ではジョーカーを巡る不穏な騒動が続いていましたが、アーサーは従順でおとなしく、非人道的な扱いにも抵抗しません。
そんな日々の中、看取の勧めでアーサーは病院内の合唱サークルに出向いたところ、そこには放火で捕らえられた囚人リー・クインゼル(レディー・ガガ)も参加していたのです。彼女はジョーカーに心酔していて、一瞬でふたりは意気投合します。そんなリーと恋に落ちたアーサーは、求められるままに法廷でもショーカーとして振る舞うようになるのでした。
注目の集まった裁判でも、リーの熱いまなさしに支えられ、彼はジョーカーとして法廷を攬乱します。しかしジョーカーが世間に及ぼす影響と、本来のアーサーの狭間で人格は次第に引き裂かれていきます。一方ジョーカーの信奉者たちは彼を解放するための運動を始めます。
ジョーカーの狂気はリーへ、そして群衆へと伝播し、拡散していきます。やがてジョーカーの信奉者の狂気は膨張してゆき、彼を奪還しようとする大事件が起こるのです。
●解説
原作コミックや過去の映画で描かれてきたジョーカーは、裏社会の犯罪王にしてバットマンの宿敵です。“負け組”のコメディアン志望のアーサーは、悪のヒーロー“ジョーカー”として祭り上げられました。格差社会に蓄積した鬱屈が暴力として噴出するまでの物語が現実と重なり、アメコミ原作ものとは思えぬ衝撃作だったのです。
前作が“序章”なら、その続編だから今回のジョーカーはとことん大暴れし、悪の限りを尽くすのでは?そんな、さらなる暴力と混沌を予想された人も多かったのではないでしょうか。でもトッド・フィリップス監督は全く別方向にかじを切ったのです。
本作はそんな予想を根こそぎ覆し、ジョーカーとして覚醒したはずのアーサーの精神的混乱をさらに掘り下げました。
映画は意外な方向へと進んでゆきます。一つはミュージカル。集会室で自分のニュースを見ていたアーサーは妄想の中で歌い出すのです。リーが現れてからはデュエットとなり、2人は生き生きと愛を歌い上げ、舞い、アーサーとリーの結びつきの強さを示します。
とはいえ多幸感とはまったく無縁です。死刑を恐れるアーサーの恐怖と焦燥は募り、リーとの関係に逃避して妄想と現実の境目がぼやけてゆきます。寒色系の色調と病的に痩せたフェニックスの鬼気迫る姿で、前作同様、画面は沈鬱で重苦しいままなのです。
そしてミュージカルのシーンはアーサーの、そして彼の狂気に感応したリーの妄想内の出来事にすぎません。彼らの歌や交わされるかすれ声の会話は、狂気を分かつ二人の間にしか共有されないものだったのです。そしてジョーカーを熱烈に信奉するリーに対し、ロマンチックなアーサーという微妙な差異のように、曲の導入部や曲の終わりのアレンジは、不協和音によって言い難い不穏さを醸し出していたのでした。
タイトルにつけられた「フォリ・ア・ドゥ」は、妄想や幻覚を共有する精神障害の一つだそうです。フランス語で「二人狂い」という意味で、一人の妄想がもう一人に感染し、複数人で同じ妄想を共有する精神障害のことではありますが、それを現実世界とわざと区別せずシームレスに一体化してしまう演出は、本作を難解なものにしています。
なので、本作はおそらく非常に観客を選び、賛否両論が激しいものとなることでしょう。
●感想
現実と妄想の垣根を越える映像のシュールな夢幻性が特徴となる本作には、思考をまひさせる不条理な展開が多々つづき、とてもアーサーに感情移入する暇を与えてくれません。但しそれでも視覚的な愉楽と、ガガの佗しい存在感とフェニックスの魂を賭した演技、そして観客の感情をうねりに巻き込んでいく音楽が、ラストの一点めがけて集約されていくところは圧巻です。極めつけは、それまでのモヤモヤさせる消化不良な妄想シーンを吹き飛ばす驚愕の出来事が続けて用意されていました。ジョーカーシリーズを締めくくるのに相応しいラストシーンには、ビックリ仰天するしか内でしょう。刑務所と法廷を舞台にした室内劇でありながらも圧巻です。
そして2作目の中心を成すのはジョーカーの周囲の群衆でしょう。高揚感と息詰まる歌唱シーンの連打に苦しさを感じましたが、アーサーの存在が次第に希薄になっていく展開こそが、続編の核心ではでしょうか。)
ところでホアキン・フェニックスのジョーカーは、これまでこの役を演じてきた誰よりも、痛々しさを感じさせてくれました。フェニックスは役作りで前作以上に減量したとみえ、骨の浮き出た身体には恐ろしさすら感じたのです。
●最後にひと言
本作の冒頭には、まるでディズニー映画かと思うアニメ版のジョーカーがおまけ映像としてつけられています。ジョーカーの影と本人が「ジョーカー」の座を競い合うもので、至って軽いギャグの応酬の中に、哲学的な深いものを感じました。
全然悪くない!!個人的には好きだった
ジョーカーフォリアドゥはなかなかの酷評だと言われていますが、恐らくアメコミのなかのジョーカーやヒース・レジャーのジョーカーを求めていたからだと思います。このジョーカーの世界線にはハービー・デントはいてもバットマンはいませんでした。(一作目のジョーカーでブルースはまだ幼かったため次回作があれば登場するかもしれませんが…)このことからもアメコミやこれまでのバットマンシリーズのジョーカーと比較したり、ジョーカーとはこういうものだっ!という先入観を持って観るのは少し違うような気がします。作中でもアーサーは悪のカリスマという感じではなかったですしね。そういう意味ではトッドフィリップス監督のジョーカーは今までのジョーカーを知らないほうが楽しめるかもしれません。総括として、ジョーカーフォリアドゥはストーリーとして
はドロドロのミュージカルですが前作さえ観ていれば一定以上は楽しめる作品だと思いますし、ガガ様の歌唱シーンはとても見応え聞き応えがありますし、ホアキン・フェニックスの演技の素晴らしさからちょっとした仕草でジョーカーとアーサーの中で複雑に絡まる感情を感じることができます。
酷評されているから観に行こうか迷っているというのであれば絶対に観ることをお勧めします。観たあとの世界の見え方が変わります。
最高によかった!!!
カートゥーンがメタファーだったのかも
執拗にピエロメイクを求めてくるリー。メイクをした途端に熱狂し、ジョーカーは居ない、で手のひらを返すフォロワーの皆さん。
たぶん世の中のファンはジョーカーとアーサーがジキルとハイド的二重人格かどうかなんてどうでも良くて、いつ何時も数分も違いなくジョーカーであって欲しいわけで。
これってアイドルの推しメンに勝手に自分の理想を押し付けてそこから外れた行動をすると嫌い通り越して憎いになるのと良く似てて、「昨日のTOは今日のアンチ」を地で行く展開にオタクとしてはわかりみが深い部分があったりなかったり。
副題のフォリアドゥって妄想障害って意味だから、下手するとリーも居ないかも知んねえぞ?裁判中のパフォーマンスもラストシーンも実は無いのかも知んねえぞ?って思うと単なる出来損ないのミュージカルを見せられた感じがして腹すら立ってきた。
あ、ちょっと待って!もしかして世の中に対して自分ではできないことをジョーカーにやってもらった気になって溜飲を下げてた人々も妄想障害ってこと?!
とはいえアカペラからの劇伴の音程が合いはじめて段々伴奏が付いていく感じはとても好みの演出だったし、傘のコントラストとか面会場所のガラス越しのスマイルとか素敵なシーンもたくさんあるし(良いシーンは全部予告編でしたねあるある)、歌われてる曲も懐かしの名曲ばかりで、美メロ懐メロ好きにはちょうどいいのかもしれない。
あと、ホアキンの役者魂すごすぎる。信じられるか?これボーとナポレオンと同じ役者さんなんだぜ?体格も生え際も違い過ぎて凄すぎる…でもどれも強迫性障害の役なんですけど。
最後に、映画について何の情報も入れずに見に行くことを常に自分に課してるんだけど、それがこんなに裏目に出てメンタル的に危険だなんて久しぶり過ぎて一緒に行った相方と帰り道に喧嘩になってしまったじゃない…。映画がつまらな過ぎて喧嘩になることってあんまりない(いやわりとある)からマジで責任とって欲しいかも。そもそも何でこの映画の企画が通ったの?ハリウッド不思議すぎるし、こんなことしてるとNETFILEXにマジで潰されちゃうぞ?
とか何とか言いながら映画は映画館のでかいスクリーンで見ないと映画じゃ無いので、気持ち切り替えてこれからもハバナイスムービー!
悲劇なのか喜劇なのか
「ジョーカー」に魅せられた民衆
影響力に恐れる国家
恋い焦がれてどんな手を使っても近づきたかった女
誰も「アーサー」に興味がない。
そこがとてつもなく悲しくて、でもどこかで自分の知っている「悪の権化ジョーカーとして覚醒しろアーサー!」と期待してしまう自分にもまたアーサーに興味がないのかと落胆してしまう。
あぁなんて悲しい男なのだろう、自分は此処に居ると叫べば叫ぶほど「ジョーカー」として神輿に乗せられてしまう。
誰もアーサーには寄り添ってくれないのだ。
ミュージカルパートは昔観た「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を思い出しました。
現実に救いのない主人公が妄想の中でこうありたい、楽しい現実逃避の美しい歌
歌が美しければ美しいほどに現実の残酷さが際立つ。
ジョーカーという喜劇なのか
アーサーという悲劇なのか
私にとって「ジョーカー」とは名前のない怪物なのだと感じる映画でした。
Will the Circle Be Unbroken 😭
観終わって一息ついて、この続編は前作のすぐ後に続けて撮影されたんだよなぁと思った。
その理由は、
ホアキンがガリガリで、この齢でまた減量するなんて、ヤバいって思ったから。
そんなこんなで
続編はこちらも、もう望みません。
アーサーもほんとにお疲れ様でした。
もう楽になってください。
病院でレディ・ガガとチラッと目が合う最初の場面からカーター・ファミリーで有名な 永遠の絆 Will the Circle Be Unbroken が流れる。
レディ・ガガが歌ってるらしい
あんな境遇でもまだ母ちゃ〜ん、母ちゃ〜んなんだもんなぁ。
フォリ・ア・ドゥは精神医学的には影響の大きかった母親との関係なんだろうけど。
リーは別にハーレイ・クインでないほうが·····マーゴット・ロビーと比べてしまうと、テンションあがらない。
できればさ、獄中結婚してあげて欲しかった。
そのほうがもっと残酷。
弁護士解任のあと、どんどんスベって自滅。自分で幕を下ろしてしまった。弁護士のおばはんいい人だったのに。バカだなぁ。
裁判の終わりの方ではリーは急に冷めて静観して退場。所詮、興味本位のお客様。ショー・ビジネスも止まったらおしまい。ジョーカーだって繋いで繋いで、今何代目?
5年近くも経っているのに、裁判場面をみてると、該当する前作のシーンが鮮明に蘇って来る。
さすがにジョニー・キャッシュ役(ジョニー・キャッシュの奥さんはカーター・ファミリーのジューン・カーター)もやっただけあって、ホアキンの歌もほんとに素晴らしい😎
サントラ買いたい。けどちょっと悲しくなっちゃうからなぁ😥
10月13日の日曜日の夜に観たんだけど、アーサーの人生とは無縁の幸せそうなカップル達はあからさまにシラけた反応。
観に来んなよ💢
失敗したなぁ。
こうゆう映画はさ、
余韻が大切なんだよ。
【追記】
バットマンシリーズのジョーカーとは前作からすでに逸脱しているので、哀れなピエロ、アーサーの物語として観ました。ほとんどすべてのシーンが興味本位のテレビドラマと彼の妄想。リーも音楽療法シーンの出だし以外はすべて妄想。ミュージカル歌謡ショーシーンも妄想。監獄のような病院のテレビ娯楽室でみた夢。木綿のヨレヨレの長袖シャツでわかりました。なかなかうまい仕掛け。
続編にありがちなパターンを踏襲しないところは秀逸。前回のカタルシスを期待した人もバットマンシリーズのジョーカーを期待したヒトもバッサリ。アリースター誕生に次いで レディ・ガガを起用した今作はやはりオジサンにちょっと夢をみさせて落とすパターン😭
アーサーをメッタ刺しにした若い男はどことなくヒース・レジャーに似てたような😎
この世界は、ただの舞台
前作におけるジョーカーの魅力はそのカリスマ性だったと考える。
数多あるヒーローやアンチヒーロー映画において、ここまで明確に弱い主人公はそういない。
そんな中でもアーサーがジョーカーとなり得たのは彼の狂気的なフラストレーションの解放が観衆を惹きつけたからだ。
前作では全ての人が潜在的に抱えている〜やら、共感してしまう〜云々の宣伝やレビューが散見された。
今作のラストはそういった観衆の要望もどきのようなものに引っ張られて、ジョーカーが特別たる個性を全て殺してしまうようなものに思えた。
ただ悪意が伝播するだけならジョーカーである必要はあったのだろうか。
それと当然ミュージカルである必要はない。
妄想と現実が混濁した世界観が前作の解釈の幅を広げていたのに、なぜわざわざミュージカルという枠に収めてしまうのか。
総じて残念。
観客が見たいものが見られなかったまで含めてジョーカーのジョーク?
初見の感想としてはとにかく「え?これで終わり?」に尽きる。エンドロール後も待ってても何もないし肩すかし感が強い。賛否両論とは聞いてたけど、これのどこを賛するんだ?というのが正直な感想。
ただ鑑賞後落ち着いて考えてみると、観客として期待してたもの=悪の権化としてジョーカーが大暴れするなりスカッとする展開=裁判所の周りに集まってたジョーカー信者達が求めてただろうもの、と同じなんだなと。リーもジョーカーを求めていてアーサーには価値がないというし、観客含めみんなジョーカーとしての死には動揺するけどアーサーの死にはたぶん一切興味ない。アーサーをアーサーとして求めてくれる人はどこにもいないというグロテスクな話。
また、色々と解説・考察も読んでみると、ジョーカーの本質とは「殺人含め全てジョークであること」「理解不能で何をしでかすか分からない・予測できないこと」であり、その点今回観客の期待を裏切りつまらない終わり方をするのは、呆気にとられてる観客の後ろから高笑いしたジョーカーが出てきそうという意味で、ある意味「ジョーカー的」なのかもしれない。
さらにそもそもこの映画自体が妄想と現実がないまぜになった信頼できない語り手であるジョーカー視点であり、どこまでが現実なのか分からないという指摘もあってなるほどと思った。最初がアニメから始まっててそもそも全編妄想の可能性もあり、そうなってくると観客はいったい何を見せられたんだ??という気分になってくる。
あと副題のフォリ・ア・ドゥ=二人狂い=一人の妄想がもう一人に感染し複数人で同じ妄想を共有する精神障害、は結局何だったのか。リーに狂気が感染し、アーサーを殺した男に狂気が感染し、アーサー自身は死んでも伝播した狂気=ジョーカーってことなのか・・・?
ただ上の考察も「悪の権化のジョーカーがこんなみじめな死に方するわけないだろ!?」ってところから出てきた考察にも見えるし結局誰もアーサーを見ていない。アーサーの物語としてみたとき、アーサーは幸福だったのか・・・いやどうみても不幸な死に方だったけど、一片の良心が残る男に「ジョーカーとして死ぬ」のは不釣り合いだったという点においてまだマシな最期だったのかもしれない。
とまあ、総合すると色んな分析はできるけど、率直に点数つけると映画としての満足感・爽快感が得られなかったという意味で星3くらいになるかな。でも求めてる爽快感はジョーカー信者が求めてたグロテスクな願望と同じものでなんだかなとも思うしモヤモヤモヤ……。
とりあえず一番の見所として主演のホアキンの怪演は前作に引き続き素晴らしくて引き込まれる。狂ってるジョーカーに、自分も行動にはうつさないだけで似たような狂気をもってるかも…と感情移入してしまう。さらに音楽・映像がまた良くて、ジョーカーの狂気に不気味なざわざわとした感情を引き出してくるのに一役買ってる。
ちなみにオペラ調の演出がつまらないという意見が多く見られるけど、そこは本質ではないというか、単にオペラ的演出に慣れてるかどうかの問題では?と個人的には思うけどなあ。
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