ジョーカー フォリ・ア・ドゥのレビュー・感想・評価
全782件中、381~400件目を表示
違和感
大好評で受賞も数々の前作。
その続編を作ると言うことから、
元はバットマンの敵役であるからにして、
行く行くはバットマンと対峙するのでは❓
という妄想を抱きながら、
何故にフライヤーにデカデカと○○様が載ってるんだ❓
と違和感を感じて不安多めで鑑賞。
前作ってそんなに歌ってましたか❓
てくらい終始アーサーとリーが歌いまくる。
ミュージカルなの❓
いやそれにしては周りは全然歌わない。
監督もミュージカルでは無いと言い切っている。
ならばコレは何だろう❓
アニメでは偶に観る事があるな。
ん、アニメ❓
冒頭のアニメがフリだったのか❓
オレはアニメを観ていたのか⁉️
ジョーカーになって裁判やってる時点で、
もうコレはアニメだな‼️
アーサーの時々発作的に出る笑い。
こちらまであの笑いが出てしまうくらい、
脳内バグったまま終わり、
結局バットマンも出て来ず、
(ハービーデントはちょっと嬉しい)
「white room」も流れない、
○○様が高らかに歌い上げるかと言うと
そうでもない。
物議を醸して次作に繋ぐのか❓
でもあのラストは・・・
次作こそ
ダークナイト登場をお願いしたい。
ゴードンレビットあたりで🙏
◆追記
「アリー スター誕生」に
トッドフィリップスがスタッフにいた😱
そーゆーことか😳
前作とは異なる趣き 引き込まれる2人の表現者
前作は本当に圧倒された。筋書・演出、そしてホアキン・フェニックスの演技。
今作も自ずと期待が膨らんでの観賞。
【物語】
5人の殺人容疑で逮捕されたアーサーは裁判を控え拘留されていた。 世間は彼を理不尽な世の中・社会への反逆者、民衆の代弁者ジョーカーとして祭り上げていたが、アーサーの心の内は孤独だった。そんなある日彼の前にリーという謎めいた女性が現れる。アーサーは彼の心の内に寄り添うリーに惹かれ、生きる希望を見出す。
やがて裁判が始まる。弁護士は彼に責任能力が無いことを主張して無罪を勝ち取ろうとするが、そのために境遇の悪さ、低能ぶりを強調する弁論にアーサーは耐えられなくなり、裁判中に弁護士を解任し、自分の弁護は自分で行うと裁判長に申し立てる。次の回の公判からアーサーはジョーカーの出で立ちで裁判に立つ。
【感想】
賛否両論と言われているが、観賞して「なるほどそうか」と思った。
前作は世界的大ヒットとなり、ヴェネチア映画祭、アカデミー賞を初めとして多くの賞を受賞。俺自身も心揺さぶられる作品にレビューでは最大の賛辞を書いた。
つまり、多くの人が前作に感動し、今作に大いに期待していたわけだ。俺もその一人。
でも、期待が大きいがために失望する大ヒット作続編あるあるとは少し違う。作風が前作とかなり違うのだ。監督・主演が同じであるから作品の空気は引き継がれているが、アーサーの妄想がミュージカル調で描かれる。(後述するが)そのシーンはそのシーンで素晴らしい。これが初作であればもっと受け容れられたのではないか。しかし、前作が気に入った人が見に来るわけだから、観客の大多数は前作の作風のまま続編を観たかったはず。戸惑うのも無理は無い。 そういう俺も、「前作の方が良かったな」と思った一人。
一方、作り手は二番煎じの続編を作りたくなかったのかも知れない。冷静に考えても5人も殺して捕まったジョーカーが出所して、再び世間で暴れ回るというのは現実的ではない。そう考えたとき、妄想という形で描くことでジョーカーの心だけを、檻の中から外に出し、“夢”かのようにミュージカル風に仕立てるというのは起死回生のアイデアと言えるのかも知れない。振り返ると、前作ではアーサーの母親は妄想障害を抱えており、同じく精神障害を抱えるアーサーが妄想癖が有ったとしても何の不自然さも無い。
ミュージカル仕立てを取り入れた経緯はともかく、前述通り、これはこれで良かった。何が良かったかと言えばレディー・ガガだ。予告編には歌唱シーンが無かったので、今作では演技だけなのかと思っていたが、ガガの歌唱シーンはふんだんにある。また、単に歌が上手いというだけでなく、“表現者”としての才能に感服した。ホアキン・フェニックスも歌が上手いとは思わないが、その表現力は素晴らしく、2人の歌とダンスには胸に響くものが有った。
ホアキン・フェニックスについては、今回もまた普通の芝居も素晴らしく、凄い役者だと改めて思う。
前作ファンが観る場合は、“前作とはちょっと違う”を意識して観ればこれはこれで楽しめると思う。
なんとも悲しいアーサーのお話
ジョーカーの続編であるものの、主役はアーサー
続編ということで
その後のジョーカーがどんな殺戮を繰り返すのか少し怖かったのと、ハーレイ・クインはマーゴット・ロビーのイメージが強すぎて、何故レディ・ガガなのだと少々観る気が失せていた
けれどもこれは あのヒース・レジャーのジョーカーだったり、マーゴット・ロビーのハーレイ・クインだったりとは別物であったことには、鑑賞してすぐに気づく
ジョーカーの続編ではあるもののこれはその後のアーサーだ
ホアキン・フェニックスの衝撃の役作り再び
前作より体重落としてるのではないか
アーサーは本来、虐待されて育った過去がありながらも、ひたむきで心優しく、どれだけ虐げられても、ジョークで人を楽しませることを惜しまない
そんなアーサーだ
今回もそんなアーサーだが、リー(ハーレイ・クイン)に出会い、ジョーカーを崇めるリーの影響から、再びジョーカーな面が現れ出す
そこから、アーサーを虐げたり馬鹿にしたり、アーサーの話しを聞こうとしない
者たちへの空想が狂っている
そしてリーもなかなか狂っていてアーサーを助長させジョーカーへと導く
ジョーカーとして自らを弁護するが、証人として呼ばれたゲイリーの悲しくも辛い思いが心に突き刺さる
いつジョーカーとして、殺戮が始まるのかヒヤヒヤしたが、やはりアーサーはアーサーだった
ジョーカーになり切れなかったアーサーの最後が衝撃
あのサイコ野郎は何かしでかすと思っていたが、衝撃のラストだった
今作のラストもなんとも悲し嘆く最後だった
残酷な現実
結末も含めて前作は完璧だった。
それだけに続編が必要なのか疑問だったし、続編をどう作るのか興味もあった。
結果的に、今作は長々と語って元の場所に戻って来たなという感じ。
本作では序盤からアーサーの人物像に違和感を感じた。そして終盤、その違和感は制作者の意図したものであり、そのメッキが剥がされるまでを描いたのが、本作だったことに気づく。
結局アーサーは我々が知ってる前作のアーサーと変わっていなかった。
ある意味それは残酷な現実で、観客にとっても、アーサーに感情移入していればなおのことその現実は受け入れがたいものになった。
バットマンに出てくる"後のジョーカー"の誕生を期待し、そのカタルシスを待ち望んでいたら、突然冴えない現実に放り出されてしまった気分だ。
ジョーカーはいない。本作でも言われたメッセージ。前作ではジョーカーは生まれてしまった(かのように描かれた)。生まれたまま放置されて終わってしまった。
その危険な状態に一区切りをつける必要があったのだろう。それが続編を作った意味なのだと解釈した。
ある意味エヴァンゲリオンの「まごころを、君に」に似たものを感じる。
観客の姿をスクリーンに映して見せ、最後に「気持ち悪い」の一言で熱狂を沈静化させようとしたあの感じだ。
夢で逢いましょう
ジョーカー フォリ・ア・ドゥ。社会現象を引き起こし俺はジョーカーだ!と感化されたバカまで生み出した前作。今回はミュージカルサスペンス。監督のジョーカーといかアーサーへのスタンスは変わらず。妄想部分はミュージカルにし現実との違和感は無し。ガガはハーレークイーンと思いきや全く関係なし。病んでる系。
監督自らが、もう続編は無い!と言わんばかりな悲しいラスト。そりゃ冷静に考えたら6人殺し精神疾患がなく自らを省みる能力があれば、ヴィラン誕生や悪のカリスマなんて無理な話。賛否両論だけど自分は夢が覚めた続編でアーサーなホアキン・フェニックスを堪能出来た!
ホアキン・フェニックスいい役者だな
賛否色々あるのは分かりつつの鑑賞
結論、なんでそんな酷評されるか分かんない
見応えありの良き続編でした
妄想なのか現実なのか、精神疾患なのか正常なのか
アーサーは残忍な罪人だけど、それと同じぐらいクレイジーな世の中
最後の最後、結局一番まともなのはアーサー?
みたいな..
束の間の愛を感じられたアーサーは、ほんのわずかでも幸せだったのか
きれいゴトで終わらないのもありだなと
個人の感想です
アーサーのような悲劇をどう捉える?
メッセージ性?そんな陳腐な投げかけでもないのが
現代的かな..
バットマンのいない世界線で・・・・
気弱で恵まれない社会のLoser『アーサー』であった
2019年アカデミー賞を独占した歴史に残る名作『Joker』。
その続編が『レディーガガ』を巻き込んでどんな凶悪カップルの誕生か?の期待とワクワクが公開まで止まらなかった作品。
結論言えば非常に残念。
でもこの残念さこそがこの作品の意味を成していると考えると非常に深い。あのジョーカーの鮮烈デビューは映画内の大衆のみならず映画を観る我々観衆にも衝撃を与え、凶悪への憧れや期待さえも抱かせ、宗教的に取りつかれた。
でもその終焉はレディガガのみではなく大衆も我々観衆も失望させた。
彼は腐った世の中を破滅、恐怖に陥れる凶悪な大衆・観衆をも魅了した『ジョーカー』ではなく、気弱で恵まれない社会のLoser『アーサー』であったということ。あとミュージカルは無駄(邪魔)と思ったのは自分だけではない気がする。
人生はエンターテイメントじゃない
前作の終わり方だと、みんなが知ってるジョーカーの過去はこんな風だったんだ‥と思ってたけど、今回のであのジョーカーとは全く別なんだ、コレはジョーカーになりきれなかったアーサーの物語なんだ…
最初に出てきたホアキン・フェニックスの背中があまりにも骨ばってて小さくてびっくりしたんだけど、あれってCG?違うよね?
ジョーカーになる事で、世の中への怒り、不満を吐き出すことができてヒーローにさえなれたアーサーだけど、それはアーサーが本当になりたかった姿ではなく、虐げられた人々の作り上げた偶像に過ぎないところが悲しかった…
最愛の人と思っていたレディガガ(ごめんなさい役名忘れちゃった💦)さえも…。
あの終わり方は賛否両論あると思うけど、私はとても人間臭くて好きでした
決して駄作じゃないです
拒否反応起こしてる人は、ミュージカル的な演出のせい?
でも、ダンサーインザダークを彷彿とさせるそれらのシーンは、あくまでも
ジョーカー自身の記憶や憧憬や恋心を表現したものであって、決してミュージカルではなく、一個の人間としての彼の心と同期するには最適な手法だと思います。
かつ、監督が敬愛するワンフロムザハートに於ける音楽の使い方や、色合いや照明の変化も見て取れて、ロマンティックでさえありました。ラスト近くの階段のシーンの街灯なんて、もろそれでした。
とても余談ですが、長い間ワンフロムザハートは自分の中でも最高の映画のひとつだと思いながらも、誰も賛同してくれなかったんだけど、ここにきてようやく報われた気がします。
思ったより
期待は裏切らない
悲劇は喜劇
ジョーカーとなってしまった男アーサーが堕ちる所まで堕ちる姿が面白かった。
ジョーカーの化粧がみるみる剥がれ落ちていくようにアーサーは終盤になるにつれ心身ともにボロボロ、初めての彼女ができて調子に乗るけどボコボコ、さぁ次はどんな転落が待っているのかと身構えると最期にあの結末、逆張り展開大好き捻くれ野郎の私はいい意味で予想を裏切られ笑ってしまいそうになった。
彼の人生は主観では悲劇そのものであるが、観客から客観的に観たこちらからすれば喜劇の様な映画。
アーサーの人生が道化そのものであったのが皮肉が効いてて楽しかった。
ただこれがジョーカーとしての映画でやる意味があると言われればそうでもないし、かといってジョーカーだからこそ笑えると言う複雑な気持ちはある。
ジョーカーなのかアーサーなのか
ジョーカーとして世間から神格化されたアーサー。
レディーガガ演じる女性も急接近して絶好調で裁判をのらりくらりと立ち回るまさに道化師。
今作には前作のような、虐げられたものの覚醒を描いた痛快感も全く無いからとにかく鬱。
それでミュージカルというか、歌唱シーンが多い。がこれが正直面白くない。
終盤、裁判の証人で出てきた同僚。
誰も彼もがアーサーを見捨てたわけでは無いこと、皆んながジョーカーとして見てる中、彼だけアーサーとして見てくれていること。この人の存在があったからこそ、最後は
アーサーとして生きることになったから、あまりのやるせないラストではなく、まあ良かったんじゃないかと思えた。
“It's a show time!” by T.P.
映画史に残るmaster piece “Joker” 第一作を盤石のbaseにして、Todd Phillips が仕掛けたentertainment show。歌姫Lady Gagaを迎えての今作、musical show としては、極めて中途半端、監督も想定内だろう。
だが、やはり圧巻のホアキン・フェニックスの演技、やや暑苦しいLeeの存在感ではあるが、流石の歌唱力で観る者を黙らせるレディ・ガガ。秀作である事に異論は無い。
導入パートのcartoon animeで、Jokerが自身のshadowに呑み込まれてしまう展開は、今作の全ての伏線となっている。
アーサーの骨の浮き出た悲しい背中を見つめ、“Comon Comon”で、でっぷりと中年太りのおじさんだったホアキンは、一体どれだけストイックに減量したんだろう、と目を見張る。
話題になっている、切り取られたアーサーの大笑いのシーン。私は、“この胸にヒリヒリと痛む哀しい笑いを、まとめて大売り出ししないで!” と心で叫んでいた。
裁判で証言台に座るゲイリーが、見て辛い。それまで、アーサーを被害者目線で見ていた我々も、まさにアーサーも、彼もまた、非力な弱者を力で威嚇する加害者であったことにハッとする。
第一作Jokerを10回観て尚、ホアキンの一挙手一投足、貧乏ゆすりにさえ、その度色褪せしない深い感動を覚える私だが、さて、今作では如何なものか?
胸のつっかえが晴れやかに解き放たれたような前作とは異なり、今回は胸にモヤモヤが残るending。
LeeとJokerの幻想的シーンは、確かに美しい。
監督トッド・フィリップスは、今回は、不条理社会へのアンチテーゼなどではなく、観て聴いて、心昂り、心乱され、心奪われるentertainment作品を意図したのだろう。
誰かの期待通りじゃ無くても、とても良い映画です。
細かい箇所は、もう既に他レビューにたくさんあるので割愛させてもらいます。
ジョーカーが悪の権化として数々の悪業を行うさまは、それぞれがカタルシスを感じるには充分過ぎる対象なのでしょう。しかしこの映画は、歌の歌詞や監督、俳優の意図として、そのようなものは存在しない。
愛や平和こそが大切な全てなんだ。と分かり難いながらも、伝えて来る。
劇場での他映画の予告編を観れば、どの映画も戦いや戦争、悪の存在や、果ては学校での殺し合いなど、
こんな映画の数々を観て妙な快感を得て、果たしてそれでこの世界は良くなるんだろうか?といつも疑問に思ってしまう。
実際にJOKER1を観て、世界で、この日本でも、
様々な模倣した事件が起こった。
もしあなたがその事件の被害者家族、遺族だったとしても、同じようにこのJOKER2に悪業の限りを求めるだろうか。その「快感」を、期待するだろうか?
映画と現実は違う。
だけど私は、だからこそ映画には、
今の現実にはまだ無いような素晴らしい世界や、暖かい世界が描かれていて、それに憧れて、いつしか本当に自分のまわりが映画みたいに素晴らしい世界になったら良いな、と思っています。
Joker Folie à Deux、で明かされるのは、
JOKERは存在しない、もうこの世界には必要無い。
というメッセージかも知れない。
だけど、アーサーは今も存在していて、
同じような気持ち、境遇の人もたくさんいる。
だからと言って、
誰かを傷付けて良い訳では無い。
誹謗中傷して快楽を得て良い訳では無い。
この映画は、観る人を、私たちを試しているような、
私たちが観られているような、
そんな不思議な感覚がありました。
最後になりますが、この映画がアメリカでたくさんの否があろうとも、私には関係ありません。
ホアキンフェニックスの演技も、レディガガの歌も、映像も、音楽も、本当に素晴らしい。
また来週もIMAXでもう一度観に行きます。
【追記】
早速、グランドシネマサンシャイン池袋にて、
IMAX レーザーGTの超大画面にて2回目を観覧しました。
まず大画面になった事で、表情が巨大なビルくらい迫って来るので圧が凄かったですが、それに耐え得る主演2人の表情に見応えを感じました。
また1回目はJOKERを期待して観に行ったのですが、
2回目はどちらかというと「アーサー」を観に行った感覚に近く、その感覚で観た時の、後半の知人のくだりなどはより名シーンに感じました。
シーンの動きこそ少ない本作ですが、やはりその狭いシチュエーションの中での細かな演技が随所に光っており、その表情の細かさは大画面で観るに限る!といった所でした。
そして結局2回観ても、
私は本作が好きな事に、なんら変わりはありませんでした。
前評判など気にせず、是非劇場で観る事をオススメします。
美しく儚い名作
ラスト、"後ろの男"を見ろ。
アーサーがジョーカー?こんな気弱な男が?策士でもなければ大してクレイジーでもない。
『こんなジョーカーは認めない』
そんなジョーカーファンは、今作のラストシーンを注意深く見ていれば膝を打ち納得するだろう。手に持った”それ”で彼が何をするのか、気づければ。
フォリ・ア・ドゥ、まさしくこれは共鳴により生まれる真のジョーカーの誕生秘話である。
おそらくこのシリーズは今作で完結だろう。
何故ならば、続編があるとすればそれはもうバットマンであり、完成されたジョーカーが出てくる作品になるであろうから。
最高の評価を受けた前作の世界観や解釈に囚われず、見事にDCバットマン映画のジョーカーに繋げる落とし前をつけたトッドフィリップス監督に最大の賛辞を捧げたい。そしてあえてお膳立て役を引き受けたホアキンフェニックスにも。
全782件中、381~400件目を表示











