ジョーカー フォリ・ア・ドゥのレビュー・感想・評価
全737件中、381~400件目を表示
全然悪くない!!個人的には好きだった
ジョーカーフォリアドゥはなかなかの酷評だと言われていますが、恐らくアメコミのなかのジョーカーやヒース・レジャーのジョーカーを求めていたからだと思います。このジョーカーの世界線にはハービー・デントはいてもバットマンはいませんでした。(一作目のジョーカーでブルースはまだ幼かったため次回作があれば登場するかもしれませんが…)このことからもアメコミやこれまでのバットマンシリーズのジョーカーと比較したり、ジョーカーとはこういうものだっ!という先入観を持って観るのは少し違うような気がします。作中でもアーサーは悪のカリスマという感じではなかったですしね。そういう意味ではトッドフィリップス監督のジョーカーは今までのジョーカーを知らないほうが楽しめるかもしれません。総括として、ジョーカーフォリアドゥはストーリーとして
はドロドロのミュージカルですが前作さえ観ていれば一定以上は楽しめる作品だと思いますし、ガガ様の歌唱シーンはとても見応え聞き応えがありますし、ホアキン・フェニックスの演技の素晴らしさからちょっとした仕草でジョーカーとアーサーの中で複雑に絡まる感情を感じることができます。
酷評されているから観に行こうか迷っているというのであれば絶対に観ることをお勧めします。観たあとの世界の見え方が変わります。
最高によかった!!!
カートゥーンがメタファーだったのかも
執拗にピエロメイクを求めてくるリー。メイクをした途端に熱狂し、ジョーカーは居ない、で手のひらを返すフォロワーの皆さん。
たぶん世の中のファンはジョーカーとアーサーがジキルとハイド的二重人格かどうかなんてどうでも良くて、いつ何時も数分も違いなくジョーカーであって欲しいわけで。
これってアイドルの推しメンに勝手に自分の理想を押し付けてそこから外れた行動をすると嫌い通り越して憎いになるのと良く似てて、「昨日のTOは今日のアンチ」を地で行く展開にオタクとしてはわかりみが深い部分があったりなかったり。
副題のフォリアドゥって妄想障害って意味だから、下手するとリーも居ないかも知んねえぞ?裁判中のパフォーマンスもラストシーンも実は無いのかも知んねえぞ?って思うと単なる出来損ないのミュージカルを見せられた感じがして腹すら立ってきた。
あ、ちょっと待って!もしかして世の中に対して自分ではできないことをジョーカーにやってもらった気になって溜飲を下げてた人々も妄想障害ってこと?!
とはいえアカペラからの劇伴の音程が合いはじめて段々伴奏が付いていく感じはとても好みの演出だったし、傘のコントラストとか面会場所のガラス越しのスマイルとか素敵なシーンもたくさんあるし(良いシーンは全部予告編でしたねあるある)、歌われてる曲も懐かしの名曲ばかりで、美メロ懐メロ好きにはちょうどいいのかもしれない。
あと、ホアキンの役者魂すごすぎる。信じられるか?これボーとナポレオンと同じ役者さんなんだぜ?体格も生え際も違い過ぎて凄すぎる…でもどれも強迫性障害の役なんですけど。
最後に、映画について何の情報も入れずに見に行くことを常に自分に課してるんだけど、それがこんなに裏目に出てメンタル的に危険だなんて久しぶり過ぎて一緒に行った相方と帰り道に喧嘩になってしまったじゃない…。映画がつまらな過ぎて喧嘩になることってあんまりない(いやわりとある)からマジで責任とって欲しいかも。そもそも何でこの映画の企画が通ったの?ハリウッド不思議すぎるし、こんなことしてるとNETFILEXにマジで潰されちゃうぞ?
とか何とか言いながら映画は映画館のでかいスクリーンで見ないと映画じゃ無いので、気持ち切り替えてこれからもハバナイスムービー!
悲劇なのか喜劇なのか
「ジョーカー」に魅せられた民衆
影響力に恐れる国家
恋い焦がれてどんな手を使っても近づきたかった女
誰も「アーサー」に興味がない。
そこがとてつもなく悲しくて、でもどこかで自分の知っている「悪の権化ジョーカーとして覚醒しろアーサー!」と期待してしまう自分にもまたアーサーに興味がないのかと落胆してしまう。
あぁなんて悲しい男なのだろう、自分は此処に居ると叫べば叫ぶほど「ジョーカー」として神輿に乗せられてしまう。
誰もアーサーには寄り添ってくれないのだ。
ミュージカルパートは昔観た「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を思い出しました。
現実に救いのない主人公が妄想の中でこうありたい、楽しい現実逃避の美しい歌
歌が美しければ美しいほどに現実の残酷さが際立つ。
ジョーカーという喜劇なのか
アーサーという悲劇なのか
私にとって「ジョーカー」とは名前のない怪物なのだと感じる映画でした。
Will the Circle Be Unbroken 😭
観終わって一息ついて、この続編は前作のすぐ後に続けて撮影されたんだよなぁと思った。
その理由は、
ホアキンがガリガリで、この齢でまた減量するなんて、ヤバいって思ったから。
そんなこんなで
続編はこちらも、もう望みません。
アーサーもほんとにお疲れ様でした。
もう楽になってください。
病院でレディ・ガガとチラッと目が合う最初の場面からカーター・ファミリーで有名な 永遠の絆 Will the Circle Be Unbroken が流れる。
レディ・ガガが歌ってるらしい
あんな境遇でもまだ母ちゃ〜ん、母ちゃ〜んなんだもんなぁ。
フォリ・ア・ドゥは精神医学的には影響の大きかった母親との関係なんだろうけど。
リーは別にハーレイ・クインでないほうが·····マーゴット・ロビーと比べてしまうと、テンションあがらない。
できればさ、獄中結婚してあげて欲しかった。
そのほうがもっと残酷。
弁護士解任のあと、どんどんスベって自滅。自分で幕を下ろしてしまった。弁護士のおばはんいい人だったのに。バカだなぁ。
裁判の終わりの方ではリーは急に冷めて静観して退場。所詮、興味本位のお客様。ショー・ビジネスも止まったらおしまい。ジョーカーだって繋いで繋いで、今何代目?
5年近くも経っているのに、裁判場面をみてると、該当する前作のシーンが鮮明に蘇って来る。
さすがにジョニー・キャッシュ役(ジョニー・キャッシュの奥さんはカーター・ファミリーのジューン・カーター)もやっただけあって、ホアキンの歌もほんとに素晴らしい😎
サントラ買いたい。けどちょっと悲しくなっちゃうからなぁ😥
10月13日の日曜日の夜に観たんだけど、アーサーの人生とは無縁の幸せそうなカップル達はあからさまにシラけた反応。
観に来んなよ💢
失敗したなぁ。
こうゆう映画はさ、
余韻が大切なんだよ。
【追記】
バットマンシリーズのジョーカーとは前作からすでに逸脱しているので、哀れなピエロ、アーサーの物語として観ました。ほとんどすべてのシーンが興味本位のテレビドラマと彼の妄想。リーも音楽療法シーンの出だし以外はすべて妄想。ミュージカル歌謡ショーシーンも妄想。監獄のような病院のテレビ娯楽室でみた夢。木綿のヨレヨレの長袖シャツでわかりました。なかなかうまい仕掛け。
続編にありがちなパターンを踏襲しないところは秀逸。前回のカタルシスを期待した人もバットマンシリーズのジョーカーを期待したヒトもバッサリ。アリースター誕生に次いで レディ・ガガを起用した今作はやはりオジサンにちょっと夢をみさせて落とすパターン😭
アーサーをメッタ刺しにした若い男はどことなくヒース・レジャーに似てたような😎
この世界は、ただの舞台
前作におけるジョーカーの魅力はそのカリスマ性だったと考える。
数多あるヒーローやアンチヒーロー映画において、ここまで明確に弱い主人公はそういない。
そんな中でもアーサーがジョーカーとなり得たのは彼の狂気的なフラストレーションの解放が観衆を惹きつけたからだ。
前作では全ての人が潜在的に抱えている〜やら、共感してしまう〜云々の宣伝やレビューが散見された。
今作のラストはそういった観衆の要望もどきのようなものに引っ張られて、ジョーカーが特別たる個性を全て殺してしまうようなものに思えた。
ただ悪意が伝播するだけならジョーカーである必要はあったのだろうか。
それと当然ミュージカルである必要はない。
妄想と現実が混濁した世界観が前作の解釈の幅を広げていたのに、なぜわざわざミュージカルという枠に収めてしまうのか。
総じて残念。
観客が見たいものが見られなかったまで含めてジョーカーのジョーク?
初見の感想としてはとにかく「え?これで終わり?」に尽きる。エンドロール後も待ってても何もないし肩すかし感が強い。賛否両論とは聞いてたけど、これのどこを賛するんだ?というのが正直な感想。
ただ鑑賞後落ち着いて考えてみると、観客として期待してたもの=悪の権化としてジョーカーが大暴れするなりスカッとする展開=裁判所の周りに集まってたジョーカー信者達が求めてただろうもの、と同じなんだなと。リーもジョーカーを求めていてアーサーには価値がないというし、観客含めみんなジョーカーとしての死には動揺するけどアーサーの死にはたぶん一切興味ない。アーサーをアーサーとして求めてくれる人はどこにもいないというグロテスクな話。
また、色々と解説・考察も読んでみると、ジョーカーの本質とは「殺人含め全てジョークであること」「理解不能で何をしでかすか分からない・予測できないこと」であり、その点今回観客の期待を裏切りつまらない終わり方をするのは、呆気にとられてる観客の後ろから高笑いしたジョーカーが出てきそうという意味で、ある意味「ジョーカー的」なのかもしれない。
さらにそもそもこの映画自体が妄想と現実がないまぜになった信頼できない語り手であるジョーカー視点であり、どこまでが現実なのか分からないという指摘もあってなるほどと思った。最初がアニメから始まっててそもそも全編妄想の可能性もあり、そうなってくると観客はいったい何を見せられたんだ??という気分になってくる。
あと副題のフォリ・ア・ドゥ=二人狂い=一人の妄想がもう一人に感染し複数人で同じ妄想を共有する精神障害、は結局何だったのか。リーに狂気が感染し、アーサーを殺した男に狂気が感染し、アーサー自身は死んでも伝播した狂気=ジョーカーってことなのか・・・?
ただ上の考察も「悪の権化のジョーカーがこんなみじめな死に方するわけないだろ!?」ってところから出てきた考察にも見えるし結局誰もアーサーを見ていない。アーサーの物語としてみたとき、アーサーは幸福だったのか・・・いやどうみても不幸な死に方だったけど、一片の良心が残る男に「ジョーカーとして死ぬ」のは不釣り合いだったという点においてまだマシな最期だったのかもしれない。
とまあ、総合すると色んな分析はできるけど、率直に点数つけると映画としての満足感・爽快感が得られなかったという意味で星3くらいになるかな。でも求めてる爽快感はジョーカー信者が求めてたグロテスクな願望と同じものでなんだかなとも思うしモヤモヤモヤ……。
とりあえず一番の見所として主演のホアキンの怪演は前作に引き続き素晴らしくて引き込まれる。狂ってるジョーカーに、自分も行動にはうつさないだけで似たような狂気をもってるかも…と感情移入してしまう。さらに音楽・映像がまた良くて、ジョーカーの狂気に不気味なざわざわとした感情を引き出してくるのに一役買ってる。
ちなみにオペラ調の演出がつまらないという意見が多く見られるけど、そこは本質ではないというか、単にオペラ的演出に慣れてるかどうかの問題では?と個人的には思うけどなあ。
個人的には面白い!でも、星4つ
前評判では、賛否両論というネット情報を、うっかり見てしまったうえでの鑑賞。
個人的には「面白かった」です。
否定的な意見で目にしたのは「劇中で歌い出してミュージカル化する」というのですが、その部分は個人的にスムースに受け入れられました。前作でもアーサーは妄想シーンが多かったし、現実シーンで歌う時でも、コメディアンやエンターテイナーショーに憧れていたので、違和感は無し。 特に今年初めに見た日本ドラマ「不適切にも程がある」で耐性がついているのは自覚しています。
それ故にハーレイ役のレディーガガは適役。キャラの良し悪しはおいといて、ミュージカルシーンが引き締まるし、格が上がりますね。
そもそも、前作から逮捕後の刑務所と裁判所が舞台なので、エンターテイメント性を上げるためにミュージカルの手法、古のアメリカエンターテイメントの映画やブロードウェイミュージカルの基本演出を踏襲するのは、許容範囲。
うまく表現できないのだけど、個人的に本作は前作の衝撃を超えていない。その理由は本作では「ジョーカーが活躍しない」のだ。
前作はアーサーが理不尽な不幸の質量に耐えかねて「この世はクソ喰らえ」とジョーカーが誕生し、テレビを視聴していた「政治や格差に不満を抱える」一般市民の不満に火をつけたカタルシスの爆発が、映画視聴者にもリンクさせる程の作品だったのだが、今回ジョーカーは登場するもジョーカー本人は何も犯罪は犯していない(アーサーが脱獄をします。あれはあくまでアーサー。)・・・・むしろ、アーサーがジョーカーの存在に耐えきれず、諦めてしまう、消化不良な展開が、否定的意見の根底にあるような気がします。
ジョーカーは狂人であり、その彼に惹かれたハーレイも「類は友を呼ぶ」を体現した狂人で、息を吐くように嘘をついたり看守を”抱き込んで”独房に入り込んだりと狂っている。ちっとも感情移入(応援)が出来ないキャラなのだが、それ故に孤独だったアーサーが振り回され、浮かれて歌い出すミュージカルシーンは必要性があると解釈しています。恐らくは「彼女いない歴=年齢」のアーサーが、舞い上がりジョーカーではくアーサーとして彼女との恋愛を育もうと渇望するのはどうしたって自然な演出。ハーレイはジョーカーを愛していて、恐らくジョーカーはハーレイのことは信者の一人としか思っていなくて、アーサーがハーレイを好きになってしまうこの掛け違いの悲恋。。。。
ジョーカーの強すぎる影響力が、アーサーにはコントロールできるはずもなく、今回のラストシーンにも繋がるのだと思うので、前作は超えないけれど「ちゃんとした続編」だとは思います。
それ故に個人的に「次はジョーカーが覚醒し活躍する続編」の可能性を大いに期待してしまう。本作が前フリとなって、予想を超えたカタルシスの爆発があるのではないでしょうか? だって、バットマンと対決していないじゃない。
この作品「タバコ」が象徴アイテムとして、とても良く出てきて・・・出過ぎな程あちこちで喫煙シーンがあるのだけど、1回の視聴ではその意味するところがわかりません。法定でジョーカーを誕生させるためのアイテムだったのかな?「タバコを許したなら、これもゆるしてもしょうがないよねという自由さ」を表現してるのかな???
あと不思議に感じたのがアーサーって全く冴えない、うだつの上がらない中年男性なのだけど、冒頭の無言でいるシーンから、妙にカッコよく見えるんですよね。カッコよく見せようと意図的に撮影しているのか??? 一度ジョーカーとなったことで、ジョーカーを内包しつつも潜在的に隠れているような 表情が、ホアキンフェニックスお見事!!!
前作よりはパワーダウンしているけれど、同じベクトルの映画作品ではないので、これはこれで楽しめました。
現実と妄想が行き来することに加えて、アーサーとジョーカーが行ったり来たりする為に、視聴者も翻弄されるのだと思います。
一言で言うなら「懺悔映画」
前作『ジョーカー』の影響でアメリカのみならず、日本でも社会現象を引き起こした凶作の続編。鑑賞前は酷評の多いとは知っていましたが、「個人的に楽しめれば良い」という視点で述べさせていただきます。
脚本は正直イマイチ。ほとんど刑務所のシーンばかりで物語が前に進まない。
そこを補っているのがアーサーの妄想の世界で、華々しいシーンが多く、退屈させないように気を配っている印象でした。
歌が多いのもストレスに感じてしまってもったいない。台詞で気持ちを表現すればいいのに歌で遠回しに伝えようとしていて、正直じれったいと感じました。
前作で社会風刺に振った分、エンタメ性と現実性に特化した作品でした。
この映画を観て良かったと思えたのは、「カメラワーク」と「レディー・ガガ」でした。アーサーの心情をカメラで表現していて、自意識過剰の部分をピントで表現していて被写体の周りをぼかすことで、自分の事しか見えていない人間を演出していてわかりやすかった。
そして今作はレディー・ガガの演技と歌唱力が素晴らしい。力強い歌声と演技力は一見の価値あり。中でも「ジョーカーとハーレイ」というアーサーの妄想の世界では、ホアキンとデュエットするシーンがありますが、ホアキンが緊張しているのか声がこわばっているしているように見えました。
個人的にはトッド・フィリップス監督による前作からの反省文的懺悔映画。もしくはジョーカー0号の物語とも観れる映画でした。
真っ当なアンサーソングだった
え?賛否なんだ?と噂を聞きつけたが故に観ないつもりが観にきてしまったのだから、賛否っていいもんだと思う。ふと振り返って続編やるような話だっけ?と思いつつ観てみれば、なるほど繋がっていてこうなるより他ないアンサーソングになっていた。
だから正直なくたっていい話の続きなので珍しいものを観ている感じはする。他にやりやうもないわけではないだろうが、今度は冒頭のカートゥーンアニメからはじまって、妄想ミュージカルで繋いでトドメまで、って感じなのだけど、そのミュージカルも『ララランド』的なクレバーでアクロバティックなハマり具合ではなく『ワンフロムザハート』的なダラダラと展開と閉塞感を深めていくのでこの辺が悪評なのか? 同じ趣向なら『X』シリーズのタイウエストの『パール』のほうがクレバーなミュージカルオマージュをかましていたと思うが、本作を悪く言えないのはレディガガがいいからである。初っ端からファムファタールでございます、という登場なのだけど、目つきがとても良く、せっかくならもうひと暴れして欲しかったくらい。
にしても、前作で象徴的だったあの階段が出てくると切なくなるな、と思った。そしてあまりにもあってるビリージョエルの「マイライフ」…
トッドヘインズは連続する作品を作家としてまとめきったと思う。でも世間の期待するエンタメはこれじゃない、という感じなのかな。なんか黒沢清監督の『cloud』を思い返した。
鑑賞動機:前作7割、ブレンダン・グリーソン3割
やっぱりワーナーは続編作ったねえ、と思ったら、ブレンダン・グリーソンも出演ということで、一気に鑑賞する方へ気持ちが動く。
「いきなりアニメ?!」とちょっと驚いたが、後からじっくり考えてみると、この2部作のジョーカーの本質を表現している…かもしれない。
自分で建てた家を自分で解体していくイメージ。流石のワーナーも今度は「続編作ろうぜ」、とは言い出さないはず。言い出さないよね。言い出すなよ。
妄想ミュージカルと裁判とか何か色々と『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を連想してしまうのは、私の妄想か。
ホアキンが意外と歌えてるのが発見だったけど、前作のインパクトをもとめてしまうとね。リーとか最後のあの人同様に「裏切られた…」となると…。やっぱり一歩引いて冷めた目で観て良かったのか。
ブレンダン・グリーソンのジャッキーは、アーサーとならそれなりにやっていけると思っていたのに、ジョーカーの言動に対しては、こちらもある意味裏切られた感じで爆発したのか。
素晴らしい。アメリカ現代文学作品の文脈
Tennessee WilliamsとJohn Steinbeckのテーマを現代の文脈に巧みに織り込んだ作品といえる。Williamsの描くキャラクターたちは、しばしば精神的に崩壊し、孤独や人間関係の歪みによって破滅する。アーサーの内面の葛藤や、社会からの疎外によって狂気に陥る姿は、Williamsの『A Streetcar Named Desire』のBlanche DuBoisや『The Glass Menagerie』のAmanda Wingfieldのようなキャラクターたちの精神的脆さを想起させる。特に、前作アーサーの幻想的な人間関係(隣人との妄想的な恋愛)や母親との複雑な関係は、Williamsの作品に登場する家庭内の緊張や壊れた関係性と強くリンクしている。
一方で、Steinbeckが描くアメリカ社会の厳しさと、貧困や不平等が個人の精神に与える圧力も、アーサーの物語に色濃く反映されている。『The Grapes of Wrath』や『Of Mice and Men』では、Steinbeckのキャラクターたちは、社会的な構造や経済的困難に立ち向かう中で、次第に追い詰められ、希望を失っていく。アーサーもまた、経済的困窮や精神的な問題を抱えながら、無関心な都市社会に取り残され、やがて暴力的な形でその怒りと絶望を爆発させる。この点で、Steinbeckが描くような社会的無力感と、アーサーの行動は強く結びついている。
Tennessee Williamsの描く内面的な崩壊とJohn Steinbeckが追求した社会的テーマの双方を取り込み、現代の社会問題や個人の精神的な崩壊を深く掘り下げた前作と今作。アーサー・フレックが狂気に陥っていく過程は、Williamsの繊細な人間描写とSteinbeckの社会批判の融合と言える。孤独、疎外、そして不平等に苦しむ現代の人間像を鮮烈に描き出している。
存在と死
現実への影響も含め前作へのケリ付けに来たぞ。
日本でも有ったよね、電車内でジョーカー事件とか、安倍晋三銃撃とか。ドナルドトランプのQアノンもそれに見えたり。
あまりに話題の問題作になってしまっての事か今作ジョーカーが法で裁かれる映画。
俺も当時、ほとんど話もした事無いような職場の先輩がジョーカー見た。とか聞いて、うわ!「あのジョーカーは俺らですよね?」って社の飲み会で珍しく語っちゃったもん、横席の上司気にせずにw
てまあ、前作のホアキンジョーカーには心重ねたモンですよ。
で、今作そのホアキンジョーカーが裁かれる、責任能力が有るのか?精神異常者なのか?
そして彼は罪をただの犯罪と認め、情け無く振る舞い周囲を夢から醒めさせ大きく落胆させてしまう。
ジョーカーは俺たちのカリスマじゃ無かったのか?
女にも捨てられ全て無くした彼はボロ雑巾のようだった、あの長い階段で。
そして最後にはしょうもないチンピラに刺されてしまう。
優作の探偵物語最終回みたいに。
ジョーカーはあそこで死んだのかも知れない、終わったのかも知れない。
じゃジョーカーは居なくなるの?いやジョーカーは死なないだろう、ホアキンジョーカーが殺されたとしても。
何故ならジョーカーは僕達そのものの意思で有り、僕達がジョーカーの存在を望むから。
そもそもバットマンのライバルにして、そちらに行ってしまっただけのバットマンだぞ、消える訳が無い。
たぶん100年後もジョーカーは語られて居るだろうな、僕達が望む限り存在し続けるんだ。
例えば知ってる?ミッキーマウスがデビューしたのほぼ100年前なんだよね、未だ僕等はミッキーマウスを知って居る、愛している。
キャラクターは死なないんだよ、例え生みの親が死んでも、あのダミ声が聞けなくなっても死なないんだ。
僕達が存在を求める限り、そこに居続けるんだ。
ドラえもんみたいに、優作みたいに。
賛否両論わかる!
レディ・ガガは歌要員でキャスティングされたのか、さすがホアキンの怪演に負けない歌声。アーサーの妄想世界など歌の場面が多かったけど、まあアーサーやハーレーの気持ちの表現として良かったかな。
と思いつつ観ていたら、衝撃のどんでん返し。アーサーはジョーカーじゃないんかい!ホアキンがつくったジョーカーの新たな深掘りイメージがひっくり返ったよ笑。アーサーを殺したサイコパスが偽?ジョーカーになるんだよね(口角をナイフで切ってたし)。まあ、それはそれで、イカれたジョーカーといえばジョーカーである。つまり今シリーズは結局はアーサーのストーリーだったんだな。そう考えるとホアキンは、悲しいアーサーを上手く演じたと思う。
独りぼっちではない「孤独」
5人の殺害容疑のため刑務所で過ごすアーサーに裁判の日が迫る。
刑務所内で出会ったリーとの妄想は、世の中の弱者、反逆者たちへ伝播する。
今回のアーサーは独りぼっちではない。
常に周りに人がいる。
そのため前作のような終始閉塞感で逃げ出したくなるような絶望は薄い。
なぜならアーサーはもう、弱者のヒーローであり、民衆の代弁者であり、憧れの存在だからだ。
社会的弱者視点で共感した前作を、そのまま期待して観ると裏切られる。
世間から「つまはじきにされる孤独」が前回なら、今回は世間から「祀(まつ)られる孤独」。
アーサーの境遇から生まれた「ジョーカー」は世に一人歩きを始め、アーサーは「ジョーカー」であることを求められていく。
「あなたは僕の話を聞いていない」というインタビューでのアーサーの言葉が印象的だ。
みんなが見たがっているのはあのメイクで、素顔のアーサーではないのだ。
ある意味今回の孤独のほうが、救いがないかも知れない。
ミュージカルシーンが多すぎるという声はその通り。
ガガに乗っ取られた感が否めないのでこの点数で。
サブタイトル詐欺
フォリ・ア・ドゥとは、「感応精神病」のこと。このことを知って、私はジョーカーとハーレイが一緒に暴れまわる作品を期待した。ジョーカーの妄想がハーレイに伝染して、ゴッサムを混乱に陥れる的な。だが実際にはそんなことはなかった。期待とは違う結末が描かれたので、あまり評価はできない。海外で酷評なのも頷けるなと思った。
本作の大まかな流れは、①前作で収監されたアーサーの様子→②ハーレイとの出会い→③裁判→④裁判所からの脱出→⑤アーサー死亡である。ジョーカーは暴れません。
①から③で、自分はアーサーかジョーカーか揺れ動きながら妄想が伝染したハーレイのおかげでジョーカーだと認めればよかったものを、最終的に出した答えは「自分はジョーカーではない」という答え。そもそもこの答えに至った理由もよく分からなかった。直前に監獄仲間が看守に殺されてしまう展開があったので、前作と同様に虐げた者への復讐をするんだなと思ったのでそう強く感じた。そうじゃないだろ。今こそジョーカーになるべきだと。
④は実に雑な展開だった。裁判所が突如爆破され、アーサーは脱出できたが、爆破された理由が「どこかの誰かが仕掛けた爆弾のおかげ」。それはないだろうと。ハーレイが適当に爆弾魔を抱きかかえて指示したとかの方がまだマシだった。
で、最後の⑤。監獄でジョーカーに憧れてたらしい自称サイコパスが失望して刺殺する展開。死ぬ直前にアーサーはミュージカルで「自分の思想を子供に継がせたかった」と吐露したが、え?そうなの?としか思えなかった。そのサイコパスが次のジョーカーになるのを匂わせてたらまだ許せたけど、ぽっと出のキャラにいきなり殺されるのは実に残念だった。演技が良かっただけに本当に残念。
アーサーの物語
冒頭の子どもに見せられないアニメ
ジョーカーらしく私は結構好きです
傘とかピエロメイクの配色が綺麗なのとても好きです
アーサーは相変わらず最後まで魅力的ですね
とても悲しくて
凡人は悲惨な結末を迎えるのですね
私はアーサーを愛したかったです
リーの歌は素敵で力強い感じ
不安とか悲しみは感じなかったけど
虐待を受け、自宅に放火した女性はあんなに強いものですか?
気になったのは裁判のシーンがかなり長く感じたこと、妄想のミュージカルシーンももっと短くても良いような気がしました
最後に出てきた彼が2代目?真の?ジョーカーですか?
楽しげにザクザク刺してましたね
予想外の展開でしたが、色々メッセージや内容について考えさせられて私は好きでした
山田裕貴の宣伝の時点で嫌な予感はしていた
全737件中、381~400件目を表示