ジョーカー フォリ・ア・ドゥのレビュー・感想・評価
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評価が難しい作品
さて本作!前作が良き作品でしたので楽しみにしていました♪
奇跡的に?笑、友人と見て来ましたが、個人的には微妙でした。
第一印象として、ミュージカルがウザい!と言う方が多いと思います。ただ、私自身は寧ろ好きなので別段苦痛では無かったです。
それよりも、ダラダラなストーリー展開が退屈でした。ガガ様も良いアクセントでしたが、脚本が悪いのか誰でも良かったような…w
友人の評価は深いと言っていましたが、私には理解できず…
結論、ダークナイトのヒース・レジャーとどうしても比較してしまい…っと言った所でしょうか。
それとは別な、ホアキン・フェニックスの良さも充分!に感じていますが難しいですね!!
是非、映画館でご鑑賞ください。
制作者が混乱した映画だったのではと
(完全ネタバレなので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
今作の映画『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』はずっとこの映画を観ていて、一体何を描きたいのか良く分からない作品になっていると、1観客としては思われていました。
するとようやく映画の終盤辺りで、以下の事が描かれていると分かって来ます。
A.主人公・アーサー・フレック(ジョーカー)は、殺人事件の裁判において、多重人格者の精神病者として認定されれば、死刑の有罪を免れられる
B.主人公・アーサー・フレック(ジョーカー)は、殺人事件の裁判において、精神病者でなく、全く一貫性ある正常なカリスマとしてのジョーカーそのものの犯行であったと認定されれば、死刑の有罪にはなるが、カリスマのジョーカーとして殉教者になれる
つまり、今作は映画『ジョーカー』で主人公・アーサー・フレック(ジョーカー)が犯した5人の殺人事件(実際は母親を入れて6人の殺人事件)を、裁判で裁く物語だったことがようやく映画の最終盤で分かるのです。
ところが、この映画のトッド・フィリップス監督や制作者が混乱していると私的感じられたのは、この映画を、Aの主人公・アーサーは分裂病者の無罪とも、Bのアーサーは死刑の有罪だがジョーカーとして殉教者になるとも、描かなかったところにあると思われました。
つまり、
C.主人公・アーサー・フレックは、精神分裂病者でもなく、ジョーカーというカリスマでもなく、単なる6人の殺人者として死刑になるという結末
(実際は違う最期でしたが‥)
にトッド・フィリップス監督や制作者がしたのです。
なぜこれで監督や制作者が混乱していると私的感じたかというと、以下が理由になります。
メリーアン弁護士(キャサリン・キーナーさん)は、Aの主人公・アーサー・フレックが精神分裂病の精神病者だとしてアーサーの無罪を勝ち取ろうとしています。
しかし、メリーアン弁護士が、アーサー自身のBのカリスマ性(ジョーカーの存在性)を、Aのアーサーが精神分裂病との主張により失わせようとしていると、主人公・アーサーは逆に激怒して、遂にメリーアン弁護士を解任してしまいます。
そして主人公・アーサー・フレックは、ジョーカーとして本人訴訟の法廷に立ち、いかに自身がカリスマとして存在しているかを法廷でアピールします。
当然この振る舞いは、Bのカリスマ性=ジョーカーの実在性の証明の証言であり、アーサー=ジョーカーの精神は一貫している(精神病ではない)つまり有罪の死刑になる主張であり、しかし主人公・アーサーはジョーカーとして殉教者になる、という主張でした。
ところがこの時の主人公・アーサーのジョーカーとしての法廷証言には、看守のジャッキー(ブレンダン・グリーソンさん)らを侮蔑する内容が含まれており、主人公・アーサーが刑務所に戻ると法廷のTV中継を見ていた看守のジャッキーらに激しく暴行され、挙句はアーサーに影響されて大声で歌い出した若い囚人(コナー・ストーリーさん)が煽りで看守のジャッキーに殺害されてしまいます。
そしてこの時の経験により、主人公・アーサー・フレックは、次の法廷でジョーカーの存在性を前回の主張をひるがえして否定します。
その証言によって、(Aの精神病による無罪でもなく、Bのジョーカーとしての殉教者としての死刑有罪でもなく)アーサーはCの単なる6人の殺人犯としての死刑有罪になるのです。
ところが、1観客の私には、例え看守のジャッキーらの激しい暴行を受けたとしても、この時、若い囚人が煽りで殺害されてしまったとしても、主人公・アーサー・フレックが最後の法廷証言で心変わりをし前回までの主張をひるがえして、これまでの幼児虐待の経験などから生まれたジョーカーの存在を自ら否定するには、残念ながら根拠が薄すぎるように感じました。
(例えば、主人公・アーサーはこの時、若い囚人が看守のジャッキーに殺害された声を聴いたと、TV中継ある法廷で証言し、再び社会批判を繰り広げるカリスマのジョーカーとして振舞うことも可能だったはずです。)
すると、トッド・フィリップス監督や映画の制作者が、社会現象にもなったジョーカーの存在を、Aの多重人格者の精神病による無罪での生き延ばせも、Bの殉教者のカリスマとしてのジョーカーの死(死刑)も、外野の影響によって選択できなかった混乱がこの映画にあったのではと思われたのです。
つまり、Cの単なる6人の殺人犯としての死刑有罪の主人公・アーサー・フレックの選択は、映画(の登場人物)の内在的な自然な方向性から出た選択ではなく、トッド・フィリップス監督や映画の制作者が、現実の映画の外野の圧力に屈して歪んで選んだ選択と感じられたのです。
もちろん、リー(レディー・ガガさん)の存在は、ジョーカーのカリスマ性の肯定の象徴であり、しかしそれをずっと主人公・アーサーとのミュージカルシーンなどで描き続けるのは、残念ながら個人的には映画にとっての時間稼ぎであり、今作の本質は最終盤の裁判の場面からでしかなかったと思われました。
仮に今作の映画『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』への批判や不評があるとしたら、映画の内在性が指し示した自然な方向性を、(ジョーカーの存在を肯定するにしろ否定するにしろ)現実社会の映画の外野の圧力によって歪ませてしまった、監督や制作者による映画そのものの自らの内在性の否定から、批判や不評が来ていると思われました。
また今作をわざわざ制作する必要もなかったのではとも思われました。
ただ、アーサー・フレック/ジョーカー役のホアキン・フェニックスさんの演技は相変わらず素晴らしく、リー役のレディー・ガガさんの演技や特に歌のシーンは圧巻ではあったので、今回の点数に僭越ながらなりました。
酷いものを観せられた。
雨に笑えば
暴動煽動映画との謗りを受けた『ジョーカー』の続編である。前作に続いて監督をつとめたトッド・フィリップス曰く、賛否両論は覚悟の上でのお仕事だったらしい。前作で5人(正確には6人)もの人間を殺めた罪で更生施設に収監されたアーサー・フレック=ジョーカー(ホアキン・フェニックス)。そのアーサーが殺人当時心神喪失状態にあったか否かを判断する裁判劇になっている。
なにせDCの版権をがっちり握っているビッグ5のWarnerが配給元になっているせいか、反体制(反民主党)的な映画は兎に角この時期ご法度なのである。前作を夢オチで終わらせたトッド・フィリップスもそのあたりよく御存知とみえて、反体制的なアーサーに今回きっちり引導を渡している。ハーレクインことリー(レディ・ガガ)と共に“山をつくる”=“世界を作り変える”なんて大それた夢を、映画の中でハッキリ諦めさせているのだ。
本人その気もないのに暴動のシンボルとして祭り上げられたジョーカーは、8年前なる気もないのに大統領に当選してしまったトランプとそっくりだ。ピエロの分際で俺たちエリートに歯向かうとは何事かと、(民主党の息がかかった)警察や司法、そしてマスゴミから一斉攻撃を受け刑務所の中でボコボコにされるアーサーは、間違いなく大統領の座を無理やり引きずり下ろされたトランプを意識していたに違いない。
前作は同じく反体制臭の強い『タクシードライバー』や『キング・オブ・コメディ』からの引用が秀逸だったのだが、今作においては古きよき時代のハリウッド・ミュージカルへのオマージュてんこ盛りで、突如として笑い出すジョーカーの醸し出す狂気が、無毒な笑顔へと中和されている。6人をその手にかけた凶暴性はどこへやら、すっかり去勢されてしまっているのだ。くそ生意気な検事や裁判官てすら、すべて夢の中で殴り殺すのがやっとこなのである。
2021年にアメリカの国会議事堂が襲撃された時は、こりゃついに映画の予言が的中したかに思われたのだが、現実はすでに映画を超える方向へ進みつつあるのだ。バ◯なHarris陣営の度重なる失態により、11月の大統領選挙はどうもトランプ=ヴァンスが地滑り的勝利をおさめそうな雰囲気なのである。不法移民をつかって不正投票を行ったとしても追いつけないほど差が広がっているらしい。“打つてなし”とはこのことなのである。
茶番に過ぎないお決まりの陳述に嫌気が差したトランプならぬジョーカーが(プロンプターなしのアドリブによる)本人弁護を開始したまでは良かったのだが、警察の暴力に簡単に屈したアーサーは、リーにあっさり三行半を突きつけられてしまうのである。2度にわたる暗殺未遂を逆手にとったトランプとは真逆の弱腰ぶりに、明るくなった場内で「よく寝たわー」という声が方々で上がったとしても不思議ではないのだ。
配給元がWarnerではなくA24だとしたら、映画の結末はまた違ったものになっていたのかもしれない。TVカメラを配置した映画内見世物番組としての演出も、今回はまったくの空振りに終わってしまった。それはおそらく、映画が提供する虚構よりも、現実の方がより虚構化・茶番劇化しているからではないだろうか。トランプがハリケーン・ミルトンの被災者をわざとらしく見舞ったり、バ◯なHarrisが「あと32日」という台詞を繰り返す時、我々はそれを嫌でも意識せざるをえないのだ。
トッド&スコット等なりの『ジョーカー』の終結
2024年映画館鑑賞96作品目
10月14日(月)イオンシネマ石巻
ハッピーマンデー1100円
監督と脚本は『スタスキー&ハッチ』『ジョーカー』のトッド・フィリップス
脚本は『8 Mile』『ジョーカー』のスコット・シルバー
吹替版で鑑賞
前回の続編
冒頭なぜかいかにもアメリカなコメディーアニメーション
ミュージカル映画
吹替だがホアキンとガガの歌う場面はオリジナルで字幕
『メリー・ポピンズリターンズ』の反省か
ホアキンの笑い声もオリジナル
これだけ字幕が多いならいっそのこと字幕版で観た方が良い
ミュージカル色が強いアメリカ映画は吹替は向いていない
本職が声当てでも日本語じゃダサい
しかもガガだし
今の声当てで熊倉一雄とか山田康雄とか石田太郎のようなオリジナル以上の俳優はいないし僕は吹替より字幕の方が好きだ
刑務所と裁判所が主な舞台
裁判所が爆発し脱走するもすぐに逮捕される
アーサーは自分の中にジョーカーはいないと証言する
離れていく恋人リー
最後は若い囚人に殺される
炬燵ライターが書いた記事によるとこの作品は賛否両論らしいが賛否両論なんてどの作品いや世の中の全てにおいて言えることだ
世間では『バックトゥザフューチャー』がつまらないと感じる人がいるくらいだから
そもそも世のなか同じ意見じゃ気持ち悪い
そりゃネット民は気に食わないとすぐにブロックしたり削除依頼したり👎したりするから賛否両論が当たり前だと感じないんだよ
安倍晋三は殺されて当然などと山上徹也を英雄視するような連中にはこの作品は向いていない
自分はそういうタイプの人間ではないので前作とはまた違う味わいで楽しめた
僕は日本の典型的左翼が嫌いなだけで別に取り立てて安倍晋三を支持していたわけではないしダークヒーローに魅力を感じるほど幼くない
他人の意見なんてどうでも良い
自分と違う意見が存在することを熟知していればそれで充分
星5の作品として堂々と身近な人に薦めたい
ぶっちゃっけ星1や2の人に対してこれほど「ざまあみろ」と思った作品は他にない
配役
5人殺し(本当は6人)の受刑者でジョーカーとして崇拝されている元道化師のアーサー・フレック にホアキン・フェニックス(平田広明)
アーカム州立病院の音楽セラピーに参加していた精神病患者のハーレイ・リー・クインゼルにレディー・ガガ(村中知)
ジョーカーを崇拝する若い囚人のリッキー・メリーネにジェイコブ・ロフランド(上村祐翔)
アーサーの弁護士のメアリーアン・スチュワートにキャサリン・キーナー(塩田朋子)
アーサーを死刑にするため責任能力の有無で弁護士と対立するゴッサム・シティの新任地方検事のハービー・デントにハリー・ローティー(山田裕貴)
アーカム・アサイラムのドS看守のジャッキー・サリヴァンにブレンダン・グリーソン(斎藤志郎)
証人として出廷したアーサーの元隣人でシングルマザーのソフィー・デュモンにザジー・ビーツ(種市桃子)
証人として出廷したアーサーの元同僚の道化師のゲイリー・パドルズにリー・ギル(越後屋コースケ)
アーサーの精神鑑定を行い証人として出廷した心理学者のヴィクター・ルーにケン・レオン(前田一世)
アーサーの裁判の裁判長のハーマン・ロスワックスにビル・スミトロヴィッチ(角野卓造)
アーサーにインタビューする人気タレントのパディ・マイヤーズにスティーヴ・クーガン(木下浩之)
アーサーを担当する民生委員のデブラ・ケーンにシャロン・ワシントン(伊沢磨紀)
若い囚人にコナー・ストーリー(福西勝也)
そんなに悪くない
前作が好きな人は…
前作を観た感想は、「面白いが、世間が騒ぐほどか?」というものであった。そんな自分にとっては、今作は前作と毛色がかなり違い、ややエンタメ寄りになったな、という感想で、比較的楽しめた。
個人的には、「ジョーカー」、ではなく、「アーサー・フレック」という男に惹かれていたので、そういう人には好まれるのではないかな、と。
前作終盤の彼は、吹っ切れているように見えて、どこか悲しげにも見え、解釈が別れるな、という印象だったが、今作では彼のパーソナリティが掘り下げられ、解像度が増したため、そこを評価したい。
なので、個人的には全体的に結構楽しめた。
ただ一点、明らかに前作のラスト、カウンセラーと対面しているシーンのジョーカーとはキャラ描写的にも、時系列的にもどうやっても繋がらず、そこだけが気になってしまう…。
アーサーとジョーカーと、レディガガ。
何が「現実」で何が「妄想」なのか、その境界全てが曖昧な作品。華々しいジョーカーの活躍を期待した者は、「熱狂的なジョーカーファン」だったということに気付かされます。
オープニングがいきなりアニメから始まり、面食らいます。
ショーに出るジョーカー、
しかしジョーカーの影が本体をロッカーに閉じ込めて
影がショーに出てしまう……というアメリカのカトゥーンよろしく
ドタバタ劇が始まります。
殺人を犯したアーサー・フレックは隔離病院みたいな場所にいます。
弁護士に会うため、職員が傘をさし、
アーサーがずぶ濡れで歩いて行くシーン。
空を見上げたアーサーを上から見るシーンがありますが
カラフルな傘の色は一体何を意味していたのでしょう。
全体的に1作目の暗く重々しい空気感はやや薄らいでいたけれど
隔離病院の暗さは陰鬱な気分にさせます。
ミュージカル調でリー(ハーレイ・クインゼル)とジョーカーが躍るシーン、
予告編では全く気付きませんでしたが
途中からアーサーの妄想なんだろうなぁ~と気づきました。
リーはどこまでウソをついていたのか、もしかすると全てがウソだったのかも。
そしてリーが興味を持っていたのは「ジョーカー」でありアーサーではなかったこと。
ガールフレンドを作った事がなかったアーサーはそれに気づく事ができず
何とも哀れな中年男だな……と気の毒に思ってしまいました。
最終的にリーはアーサーの元から去ってしまいます。
アーサーは「アーサー・フレック」ではなく
「ジョーカー」として周囲に見られていた事。
「ジョーカー」は熱狂的なジョーカーファンによって
「悪のカリスマ」に仕立て上げられてしまった事。
気弱で精神的に病んでいるアーサーとはどんどんかけ離れていきました。
そしてアーサーは「『ジョーカー』ではなく『アーサー・フレック』として
自分を見て欲しい」と心のどこかで願っていたのかも。
アーサーは「ジョーカー」であることを装っていたけれど
証人として出廷した隣人のソフィー、元同僚のゲイリーは
アーサーを「ジョーカー」ではなく
「アーサー・フレック」として見ていたのかな、と感じました。
元同僚のランドルを射殺した時、
アーサーは「優しくしてくれたから」とゲイリーを逃がしました。
そして今回ゲイリーは「アーサーだけが自分に優しかった」と証言します。
このゲイリーの言葉でアーサーの心が動いたのかなと。
それが「ジョーカーはいない」というセリフに繋がっていったのかもしれないですね。
それによって更なる悲劇が襲い掛かることになってしまいましたが……。
ジョーカーになったアーサーが華々しく脱走して、
これから悪の象徴として君臨していくのかと思っていたら、意外な結末でした。
ある意味裏切られました。
多分、誰もがそう思ったと。
そういう意味では自分を含めこの映画を観た者たちは
「熱狂的なジョーカーファン」だったということですよね。
アーサーは子供の頃から作り話や妄想ばかりしていました。
だから、この話のほぼ全てが隔離病院にいるアーサーの妄想かもしれません。
いや、もしかすると「ジョーカー」になったのもアーサーの妄想話かも。
何が「現実」で何が「妄想」なのか……その境界が全て曖昧であり
観る者の受け止め方や考え方次第でこの作品の評価は随分と変わります。
実際に賛否両論が凄いことになっているみたいですね。
この騒動を俯瞰的に見つめている者がいたとしたら……
仮にそれが「ジョーカー」という男だったとしたら……
自分を含む観客全てが
その者の手のひらで踊らされていたというのか、転がされていたというのか……。
何とも不気味な映画でした。
いろいろと考えさせられる映画でした。
良いと思うけどな。
そもそも、あんなにしょぼい奴がジョーカーになれるはずないと思っていたので、今回の落としどころに納得。
自分はミュージカルが苦手なので、大好きな「JOKER」とはいえ、続編への期待値が限りなく低かったんだけど、とても良かった。
この作品ってミュージカルを否定しているように感じたんだよね。
現実の苦しみから逃げるための「歌」であり、「エンターテイメント」であって、結局現実と向き合おうとしたアーサーが頼るのは、リーの歌ではなく言葉だった。
劇中に歌われる内容は、ほとんど「妄想」レベルのハッピーであって、「ハッピー」という名をつけられて人生が狂ったアーサーにとって「ゲットハッピー」なんてジョークにしてもきつすぎる。(ツインピークスのリーランドが歌った時も痛々しかったけど)
妄想に逃げてもいつか現実は追いついてきてしまうってメッセージなんで、1でアーサー=ジョーカーという妄想を信じていた人たちには評判が悪いんでしょう。
ボーからアーサーになれるホワキンもどっか狂っているのかも、と思わせる肩甲骨。
身体の中心から狂気があふれでるガガもよかった。
1で出てきた人がみんな再登場もうれしかったし、そういえばトゥーフェイスって検事だったよなとかも。
『ゲットアウト』のお母ちゃんとか、『SAW』のダニーグローバーの相棒とか、『イニシェリン島』の壊れたおっさんとか、脇を固めたみなさんもよかったです。
冒頭のアニメが要約する笑えない冗談
個人的には良作でした
どこにでもいる不幸を背負った一般男性、世間から見向きもされない透明化された社会的地位の低い弱者男性が、突発的に罪を犯してしまった時に偶々ピエロの格好をしていて、それが偶々民衆に受けて熱狂的に崇められた。
これはそんなジョーカーの話でした。
おそらく皆が期待していた悪のカリスマでは全くないです。
すごく惨めに描かれてました。
でもそこが自分には刺さりました。
アーサーは民衆がイメージするジョーカーを演じるけれど、結局その期待には応えられませんでした。
かつての職場の同僚、小人症のゲイリーが法廷で証言するシーンが印象深かったです。
罪を犯してしまったけれど、アーサーは本来心優しい性格のはず、、、アーサーの事を見てくれていた人は身近にいたんだなあと。
反対にガガの演じるリーは、アーサーの中のジョーカーにしか興味がなくて、ジョーカーに気に入られたくて不幸アピールするけど実は全部嘘だったり、自身の境遇でジョーカーになってしまったアーサーとは正反対のただのヤバい人で上手く対比されていました。
みんなが期待していたジョーカーとは違ったかもしれないけれど、これはこれで良い作品だと個人的には感じました。
色々と考えられていて、こちらも色々考えさせられます。
法廷でアーサーが「ジョーカーはいない」と発言したことで、民衆は失望すると同時に理想のジョーカー像を膨らませて、真のジョーカーが誕生する、、、といった感じでしょうか。
アーサーが引き起こしたジョーカー騒動が引き金になって後にバットマンと対峙することになる、視聴者が期待するようなジョーカーを生み出した。
そういう展開を妄想したりして、鑑賞後も浸っています。
あらすじが間違っている
誤)
理不尽な世の中の代弁者として時代の寵児となったジョーカー
正)
ジョーカーとして時代の寵児となったアーサー・フレック
これを履き違えてる勢がけっこういて賛否両論になってるっぽい。ゴッサムの不満を代弁する形となった彼のカリスマ性に期待が集まりながらも、彼の真の精神をミュージカル調で描写して行くのが本作。
前作が正直リピートする気にならないくらい悲痛で、事件を起こした時のカタルシスがこの作品の中心ではないと思っていたので、今回もそういう趣旨に傾いていたことはある意味安心したというか…。
たとえば本作でまったく説明されてないけど、アーサーが情動調節障害を患ってることは忘れてはいけなくて、彼のその笑いは何の感情なのか慎重に観る必要があるんだよね。
一緒に観た奥さんはミュージカル映画も観るし、しかもレディー・ガガ好きだったのだけど、歌が上手いリーに対してアーサーがそうでもないところが余計に惨めらしさを感じて辛かったとのこと。
that's entertainment
事前評価で大不評なんて聞いていて、確かに批判される感じはよくわかるけど、個人的にはアーサー、ジョーカーのその後として割と受け入れられた印象。
ただこのシリーズはこれで終わりにしてほしいし、そうじゃなきゃ本作を作った意味がなくなりそう。
まぁ評判的にアナザーストーリーとかでも続編等はないか。
「カートゥーンアニメ」
冒頭の何から始まるかと思えばまさかのカートゥーンで前作で起きたことの振り返りかつ、アーサーがジョーカーになった、アニメではジョーカーという影に乗っ取られたのがサクッと表現されていて良かった。
人によってはこの始まり方の時点で今回思ったたのと違うかもと思うかも。
思ってたのと違うとは思わなかったけど、意外な始まりは楽しかった。
「アーサーの初恋」
初恋ではないかもしれないけどそんな感じ。レディガガ演じるハーレークインとのこんな恋愛劇的なものが見させられるとは思ってなかった。アーサーが恋に浮かれてる感じはなんだか、アーサーにも春きたじゃん!良かったじゃん!って気もしたけど…まぁ結末はね…
「ハーレークイン」
ジョーカーの狂った狂気に飲み込まれて利用されていくようなのがハーレークインという印象だったけど、本作ではむしろアーサーが恋心と共に飲み込まれてしまった印象。
レディガガのハーレークインってどうなの?って思ってたけど、なんだか可愛らしい気もして想像よりも良かった。
また歌唱シーンはまぁ言わずもがな流石の歌声でした。
「良くも悪くも本来の自分以上のものになってしまったアーサー」
荒んだ奴らのシンボル的な存在になれたアーサーことジョーカーだけど、支持する人たちの中ではきっとアーサーという名前は認知されてないんだろうなぁ。
そしてジョーカーとしての振る舞いもなんだか前作のような感じはしなかった気がする。
アーサーがなんとか作り上げてるジョーカーというか…
はじめていろんな人に支持され注目を浴びスターのようになったアーサーは途中まで満更でもなかったんだろうけど、狂気を使い果たしてしまったというか…
ジョーカーがこんな形で支持されるなんて想定外だろうし…
どんな形であろうとスターであり続けるのも楽じゃないって事かな?
そして信者やファンが増えると期待に応えられなくなった時、恨みを買ってしまうんだなぁ…
「現実とミュージカルの妄想」
前作では現実とアーサーの妄想?の境があやふやでだからこそ、あれこれ考察なんかでも盛り上がったけど、
本作では現実と妄想(脱獄しようとするところは違うけど)の境が妄想や誇張部分はミュージカルで表現されているので、本当のことなのか?という考察の余地がない作品になっている。
また前作であやふやであった部分も法廷で全て答え合わせがされてしまうので、前作のような魅力はなかったのかも。
でもはっきりしているぶん割とスッキリ感はあったかなー
本作ミュージカル映画と言われるけど、分量的にそうなだけで、ミュージカル映画と言われるとなんか違うかなぁという気もする。
「前作の影響力をフィクションの中に収めさせるような作品」
前作は現実社会にも悪い影響を与えてしまうようなエネルギーやメッセージ性が、おそらく想像以上に生まれてしまった作品だったように思う。
ある意味落とし前をつけるではないけど、本作はそのある意味映画というフィクションから飛び出してしまったものを再び劇中に引き戻すような作品だったように感じた。
だからこそ、悪の権化のようなジョーカーやどこまでも落ちていくアーサー、荒れていくゴッサムシティなんかを期待していた場合には、本作はあまりにも期待外れな作品だと思うのも無理はないかと…
おそらく制作側もみんなが見たいジョーカーってこれじゃないと思ってそうだけど…
観客が求めるものじゃないのであれば、別に本作作らなくても良かったのでは?という気もする…
「結局悲劇だったのかも」
前作では人生が悲劇か喜劇なのか、何が正しいのか、自分で考えて決めろといったような感じがあり、そしてアーサーの人生は喜劇だったんだ!となったが、
ジョーカーからみるアーサーの人生は喜劇だったのかもしれないけど、結局アーサー自身の目線からは悲劇だったなぁと…
冒頭のアニメのようにジョーカーという影に乗っ取られてしまった自分をやっと取り返したと思ったらこれだもんなぁ。
でも最後に
「ラストの面会は」
あれは本当に誰かが面会に来ていたんだろうか?来てくれてるんだとしたら、ゲイリーだったらいいなぁ…
でもいつになっても看守が早く来いって戻ってこない事考えると誰も来てないし、看守もナイフ男もグルなのかな…
ナイフ男は次のジョーカーになるのかな…?
「総括」
作品の評価が芳しくない事は制作側もある程度折り込み済みなんじゃないかなと思う作品。(そんなことあるのか知らんけど)
ただそこまでして(?)ある意味アーサーをジョーカーからある意味救出したのかもしれない。
ただそれはジョーカーファンは望んでなかったんだなぁ…それは劇中の支援者、ハーレークインもしかり。
レビュー全体的になんだかなぁ…というテンションの内容になってしまったけど、1作目でジョーカーへとなってしまった、アーサーという男のその後の話という事だけで言えば、そんなことがあったんだね…って感じで個人的には別に期待はずれでも、嫌いでもない作品でした。
狂気に満ちたジョーカーもそれはそれで魅力的だけど、この物語のシリーズにおいて自分はどちらかと言うとアーサーのことが気になっていたんだろうなぁ。
ジョーカーが見たい人が見ると多分満足は出来ないと思うけど、アーサーの事が気になる人が見る分にはそれなりに楽しめるんじゃないかなと思う。
前作がthat's lifeに対してthat's entertainmentと言って、あくまで前作含めエンタメだから!と言われた感。
酷評する人が多いが
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