ジョーカー フォリ・ア・ドゥのレビュー・感想・評価
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クソYouTuberとそれを模倣するクソ登録者
が招いた結果がこの「ジョーカー2」である(ものの例えです)。
前作ジョーカー1の模倣に歯止めをかけるべく
「ダメなもんはダメだ!だって犯罪だもの!」
「ジョーカーかっけぇ!俺、真似するわ!
ってヤツに対して
「いやいや、かっけぇとかじゃねぇから!」
と、危ない思考に警鐘を鳴らし、絶対にアーサーに対して微塵も希望を持たせない展開にしたのは制作陣のせいじゃない。
ヤバい鑑賞者のせいだ。
前作ジョーカー1を崇拝するあまり過度な期待に裏切られ、酷評に至ったレビュアーは作品内のジョーカーコスプレイヤーとさほど変わらない。
賛否両論があるのは仕方のないこと。
どの作品だってそう。
ただ、ちょっと、ジョーカーに関しては異質で病的だよね。
おっと、これは作品の感想じゃないな。
ミュージカルを差し込まないと2時間以上なんて重すぎて耐えられないだろう。
ま、「多すぎ!」とも思うが。
レディ・ガガを起用したのは正解だと思う。
歌うまいし、美人すぎないから良い。
俺、思ったんだけど、ダンサー・イン・ザ・ダーク見た時の気持ちに似てるなコレ。
観たあとのズーンて感じ。
ほんと、ホアキン・フェニックスってすげぇ俳優に成長したなぁ。
兄貴が生きてたらどうなってただろう。なんて考えたり。
ほんとはもっともーっと長文で書くことあったけど、自分も読んでる人もダリィしやめとく。
とりあえず1は超えないものの、続編としてすごく納得しました。
見てよかったデス!!
ごめんなさい。
刑務所と裁判所のシーンが行ったり来たりで見どころが…正直無かった。
ミュージカルぽい映画は嫌いじゃないはずなのに、ハッピー感ないので何で歌ってるんだろう…となりました。
もうジョーカー逃げ切るのには裁判所破壊されるしかないだろう、と思ったら破壊された…けど逃げきれなかった。
ワンが良かっただけに消化不良感が半端じゃない。
「何者でもない自分」を生き続けられるか
ハリウッドのリソースでミニシアター映画のような物語をしたから、大衆の支持は得られないだろう。
ただ、人生を描いた感情を揺さぶる良い作品だったと私は思う。
前作の最後で一躍ヒーロー(時の人)になったジョーカー。
何者でもない人生に苦しみ、唯一の救いの手も閉ざされ、孤独に追い詰められた末の飛翔だった。
今作では、時の人になったことで周囲に人は増えるものの、求められるのは偶像としてのジョーカーである。本当の自分に寄り添ってくれる者は居らず、アーサーの孤独は続き救いはなかった。
リーとの関係は、彼の逃避と孤独を増強したのではないか。歌が切なさを感じさせる。
「何者でもない自分」を生き続けることは難しく、SNS時代には余計だろう。だからこそ1作目は共感を呼んでヒットしたのだと思う。
今作は「何者でもない自分を生きる“現実”」を観客に叩きつけるものだった。ウケはしないかもしれないが、これこそ映画だと私は思う。
DCファンとしては、これほどに深い孤独を持つジョーカーを、決して殺すことなく追い続ける者(バットマン)がいたとしたら、2人は躍り続けるだろうなと思った。
ごめんなさいダメでした
鑑賞中に何度も時計を見てしまった
トイレに行きたいとかじゃなく
もう苦痛で早く終わってほしくて
でも結末は気になるからやめることもできず
私にとってはハッキリ言って駄作でした
そもそもジョーカーとは
あのバットマンの敵であったはず
これはそこから離れすぎていて
もはやなんだか分からないキャラクター
あととにかく何がダメって歌の場面が多すぎる
レディーガガを起用したからこうなったのか
こうだからレディーガガなのか知らないけど
ミュージカル映画は嫌いじゃなくても
趣旨が見えなくなるほど多用されたらウザい
0点にしたいくらい苦手だったけど
ホアキンのウエイトコントロールと演技に
さすがにそれはできないので1点だけ
8㎜やグラディエーターの頃から
演技は天才的だったホアキンだけど
ジョーカーのイメージが強すぎる人が多いので
次は全然無関係ないああいう役をやって欲しい
私はハマって大号泣
一般公開日2日目に鑑賞し、感動し号泣。
しかし、世間の評価があまりにも低いので「擁護したい」という気持ちが高まり、映画.comのアカウント作成してまで投稿してます。
個人的には前作「ジョーカー」から一貫して、自己評価と世間の評価に大きな乖離の有るアーサーの物語として見ており、悪のヒーローと思った事は1度もありません。
彼は決してヒーローではなく、本当の悪のヒーローは他の誰かなんだ、と。
その部分に焦点を搾ったのが今回の作品「フォリ・ア・ドゥ」だ。
彼の頭の中には、音楽が流れ、いつか誰かが自分に憧れたり愛される存在になるといつも空想してる。
それはママが好きだった音楽だったり、ママと一緒に観た映画の断片だったりするわけです。
でも現実はどう?
世界の底辺で生きてきて誰にも愛されない頭のおかしな、ただのオッサンだ。
今回の作品ではおかしなオッサン・アーサーの頭の中で流れるものに観客は付き合わされる訳ですが、古い音楽で大半の観客はノレません。
なにぶんママの時代の音楽なもんですから~。
そんなアーサーを私は心の底から応援しながら観てしまう。
悲しい存在であるオッサン・アーサーに自分を重ねて観てしまうのだ。
ホアキン・フェニックスの歌声は深く優しく、ダンスはセクシーだ。
そりゃアーサーが妄想する「こうなるはずの自分」だもの。
で、結局ガガ様演じるリーって何なんだという考察は別の評論家さんにお任せし、私はアーサーの物語を全面的に支持したい。
親ガチャにハズレ、なんの才能もなく生まれてきた者に、世間は冷たいのだ。
アーサーの人生のミジメさを全身で受け止めてこそ、この作品に号泣出来るのかもしれません。
ネタバレって程じゃないけど、アーサーの心の味方になってくれる人は、たった1人だけ存在します。
それはとても小さな存在です。
アーサーが現実に向き合えたとしたら、小さな存在を大きく感じられたかもしれません。
喜劇の終焉
1作目の社会の居場所がなく狂気に満ちたジョーカーとしてのキャラクターが確立していたので、2作目は消化不良でした。
個人的にミュージカル要素は嫌いではありませんが、取り入れ方が中途半端かなと思いました。
ミュージカル映画的な方向にするのであれば、
ジョーカーの妄想で実現したい世界・ハーレークイーンとの現実逃避などの場面があれば良いかもしれませんね。
誰でもジョーカーになり得る世界というような終わり方でしたが、あれだけ警備が厳しい環境の囚人がなぜ凶器を調達するのも難しいと思いました。
エンドロール後もなにもない腑に落ちない終わり方でした。
残念
誰もが「アーサー」として人生を知る
前作は現実に虐げられた男がいかにして
「ジョーカー」となったのかを描いた。
本作はそれを前振りに今度は反対に
世間から注目を浴び、神格化された男がいかにして
「アーサー」となったのかを描く。
前作の関心事がどこからどこまでが現実で
どこからどこまで妄想だったのかに余白を残す作りだったのに対して、
本作はその種明かし、そしてより人間ドラマとして完成された作りとなっている。
名物司会者を生放送中に銃殺するという前代未聞の事件から2年後。
閉鎖病棟と法廷を舞台にアーサーは恋をし、
また「ジョーカー」というペルソナをかぶり始める。
もちろん、劇中に挟まれる妄想やバカ笑いなども健在。
ただ、前作とは異なり、本作は
現実と虚構が明確に区分けされている。
これは掃きだめとは言え閉鎖病棟での治療により、
アーサーの精神状態が前作よりも安定したことの表れだろうか?
虚構は一流のエンターテナーであるレディー・ガガにより、一層華やかに、
現実は一流のアクターであるホアキン・フェニックスにより、一層痛々しく、
描かれた。
虚構はずっと見ていたくなるが、現実は目をそむけたくなるばかり。
虚構は持ち上げ、現実はたたきつけてくる。
劇中主題歌の歌詞のように。
ドット・フィリップス監督は「ジョーカー」の根っこを描きたかったのではなく、
「アーサー」というキャラクターを描くために「ジョーカー」を使った。
結局は「ジョーカー」というキャラクターが放つ呪いともいえるものに耐え切れなくなった
男は「アーサー」に戻ることになる。
その姿から「ああそもそも生きるってこういう事だ。人間だって他の生き物と変わらない。
力が弱ければ踏みつぶされるし、頭が悪ければ飢え、擬態を辞めれば、それにだまされていたやつらに食われる」
前作の方が浮遊するような面白さはあったが、本作はまた別の「引力」を感じるような
趣深さがあった。
そんな煙草の量がより一層増えた今宵。来月の健康診断が楽しみだ。
恋愛と裁判とエンタメをめぐる承認欲求
2024年。トッド・フィリップス監督。「ジョーカー」続編。承認欲求が満たされずエンタメ業界の底辺で生きることを余儀なくされた男が、社会への復讐として殺人にいたったところ、世間から祭り上げられ、また、追っかけ的に慕ってくる女性と運命の恋に落ちて、「恋愛」と「裁判」という場で「本当の自分」の模索を強制されてグラグラ揺れる話。
ジョーカーが仮面なのか(演技=責任能力あり)二重人格なのか(病気=責任能力なし)を巡って精神科医や弁護士や恋人や元友人があれこれ「診断」するわけだが、彼自身には判断がつかない。だから指摘されるたびにうろたえる。しかも、主人公は他者の意向に沿うことで(自らを笑いものにしながら)承認されたいという欲求が強いので、これはもう地獄だ。
主人公の夢想として挿入されるエンタメシーンのエンタメとしての水準が低いのではないか、主人公が煙草を吸いつつ天を見上げて手を広げるしぐさが多用されすぎではないか、運命の恋の相手の素性が無駄に怪しいのではないか、など気になるところが多々ある。
もやる
評価が分かれる映画ほど、自分の感性を信じて
アーサー
上手い幕引きだなと思う。
オリジナルが死ぬ事で、以降、ゴッサムシティを混乱に陥れバットマンと敵対する「ジョーカー」を模倣犯として切り離せる。
ジョーカーの信者が、あのメイクとあの衣装を身につけて「ジョーカー」を名乗ればいい。
ジョーカーを産んだのはアーサーでも、その後のジョーカーはアーサーでは無いわけだ。
アメコミを知らないから、作中に語られるエピソードは原作にあるものの解釈を飛躍させたものなのかと思って見ていたのだけど、どうにも違和感が拭いきれない。あまりにも狭い主観のような世界観で物語が進んでいく。
1番の違和感は「歌」だ。
コレをどう理解するべきなのか…。
外の世界観はほぼ漏れ聞こえてくるような状態で、熱狂だけが伝わってくる。
時折、挟まれるジョーカーとしての怒り…アレを具現化して第1作がジョーカーのカリスマ性を生み、大衆が感化されていくのだろう。アーサーである時にでも彼を発端に周囲が狂乱していくようなシーンもあって、ジョーカーとしての立ち位置が分かり易いなとも思った。
だが…
「歌」がなぁ…。
それまでのアーサーの人生には無かった感性が「歌」なんだろか?「歌」自体にも含まれるモノはありはするが…アーサーにとっては異質にしか思えない。
彼はずっと周囲に翻弄されてた。
リーには特に。
利用されようとしていたのか、騙されていたのか、恋愛を知らないアーサーが愛に絡め取られていく。
でもさ…アーサーには妄想癖って設定があって、コレがどこで発揮されてたのかと思うと、リーとの時間自体が嘘くさく思えてもくる。
つまりは歌が絡んでくるシーンは、全て彼の妄想とか。とても厄介な構成になってしまう。
そんな事は無いのかもだけど、どうにも作品としても整合性があるような無いようなで、始末が悪い。
どれがホントでどれか嘘なのか?
ジョーカーってキャラの本質を問うてるようにも思うけれど、作品としてはホアキンの芝居も相まって高尚すぎてタチが悪い。
ホアキンは流石であった。
ホントに。
ジョーカーであるアーサーも
アーサーであるジョーカーも
しっかり背負ってた。
冒頭、収監され痩せこけたアーサーからは、ジョーカーの片鱗なんか微塵も感じない。
が、その佇まいが異様で、居るだけで異様だ。
無気力な瞳、生気のない体つき…ジョーカーの燃えカスみたいだった。このアーサーを作り上げた時点で、本作におけるホアキンの仕事の8割は終わったんじゃないかと思える。
そして、あの笑い方…あんな声量で笑うのに、なんとも寂しくてやるせなくて、ホントによくぞアレに辿り着いたと賞賛の雨霰である。
アーサーの最期なんかは、息を呑む。
ボロ雑巾みたいに朽ちていく。
俺の中でホアキンと言えば、必ず出てくるカットになった。
ガガは…なんなんだろなぁ。
あんま彼女である事に必然性は見出せなかった。
ホアキンのジョーカーは、これで見納めだろう。
めでたくバットマンシリーズへの橋渡しも無事に終え、「ジョーカー」の名前と存在だけが1人歩きしていく。
狂人の如きジョーカーはアーサーではなく、突如笑い出す奇病も持ち合わせてはいない。
冒頭のアニメにはたまげたけれど、思い返してみるとアレはプロットみたいなもんだったのだな。
ジョーカーってタイトルで、アーサーを克明に描いた作品だったのだな。
2回目の鑑賞で気づきました
前作とのあまりの違いに“肩透かしを食らった”と酷評した後、何かモヤモヤとした気持ちが残り2回目の鑑賞をしました。
なるほど、そういうことか。
まんまとミスリードされていました。
前回のレビューを撤回し削除しました。
共感して下さった皆さん申し訳ありません。
アーサー・フレックの振る舞いや、ジョーカーを信奉する連中に、バットマンが登場しないジョーカーの世界にあって、鑑賞者である自分はヒーロー気取りで嫌悪し批判的な気持ちになり、法廷での最終的な展開に彼らに対して“ざまあみろ”的な眼差しを向けていたはずなのに、最終的なアーサー・フレックの境遇には落胆してしまいました。
切ない終わりではあったものの、ジョーカーが消えることに安堵やハッピーエンドには思えませんでした。
「ジョーカーは?これで終わり?」前作で勢い良く振り出したバットは空振り?
自分も法廷から去っていった信奉者と同じくジョーカーに何かを期待していたのです。
いや、期待させられていたのです。
ミュージカルシーンも、心のどこかで「こんなのいらないから、もっとジョーカーなアーサー・フレックが見たい」と。
知らぬ間にジョーカー信奉者になっていました。
そして新たに生まれてくるであろうジョーカーに一抹の期待も、、、
真のジョーカーは、この作品を見る者の心を操ったトッド・フィリップス監督かも。。。
ご自分の目を信じてご自分で判断して下さい
下馬評は無視して下さい、傑作です。DCコミックの敵役を神がかり的に高め、些か過大な評価と成果を得た前作、ハリウッドのどうしても避けられない続編要請に応えた結果がこれ。アーサーからジョーカーへ昇華した高揚感をそのまま2作目も引き継いだら、スタジオから3作目の要請も不可避、だからジョーカーからアーサーへ引きずり下ろし、のみならず息の根を止める。多分監督トッド・フィリップスも主演のホアキン・フェニックスもこの展開しか選択肢はなかったのではなかろうか。なによりホアキンが5年ごとに激痩せするなんてそもそも無理でしょ、次回やったら命に係わるのですから。
巻頭のWBcartoonによるアニメションが本作の要約を早々に示し、さらにエンドタイトルに流れる曲「That’s Life」が全てを纏めてますので、その一部和訳を示します。
『人生なんてそんなものだ、誰もが言うだろう
4月は上手く行っていたのに、5月には撃ち落とされる
でも僕がそのリズムを変えてやるさ、6月僕がトップに返り咲いた時にね
僕は傀儡で貧民で海賊で詩人で、ポーンでもキングでもある
人生を上がったり下がったり越えたり出たりする中で
1つ分かったことがある
自分が覇気の無い顔で倒れているとわかったら
自分で起き上がって再び戦いに戻っていくんだ
それが人生なんだよ、そんなもんさ、否定はしない
こんなもの辞めてやるって何度も考えたけど
僕の心は決してそれを許さないんだ
でも7月になっても、心を震わせるようなものが何もなかったら
自分をくるくる巻き上げ大きなボールにして
そのまま死んでやるさ』
哲学的に高められた魂の彷徨の後始末はそれはそれは難作業だったでしょう。そこで編み出されたのが音楽で、前作の高評価の一翼を担ったチャールズ・チャップリンの歌曲「スマイル」の圧巻の扱いを拡張し、ミュージカルの形態を取り入れたのはけだし慧眼でありました。メインは1965年のバート・バカラックによる「What the World Needs Now Is Love」を筆頭に、30年代から60年代に及ぶ名曲をちりばめ、心情は曲に載せ描く。「that entertainment」から「They Long to Be Close to You」まで、心憎い選曲で、ホアキン本人まで歌唱するなんて。そこで相手役の女優には歌える人でレディー・ガガなんですね。
アーサーとジョーカーの二重人格か否かで自分を裁こうとする社会に対し、本人はいたってクールで、感心はそんなところにはない。それどころか本人すら分かっておらず、自分に感心を寄せる女リーの登場と離別によってやっと目覚める節もあるわけで。一躍スターに祭り上げられた者の彷徨を冷徹に作者は暴いて行く。影の部分に脚光があたり、それに翻弄され、社会はその影をさらに大きく期待し、偶像崇拝の域まで勝手に持ち上げられる。そんな恐怖をアメコミの姿を借りて描いたとも言える。アメコミのヒーローに自己懐疑なんてあり得ない、けれど前作でそれに踏み込んでしまった以上、影の姿は収束せざるを得ない。
映画の背景は殆どが刑務所内と法廷に限られ、妄想のミュージカルシーンが原色に彩られ展開する。綿密な画面構成が隙を与えず、緊張感が持続される。流石の豊潤な画創りを堪能できるわけで、第一級の映画の力をまざまざと感じさせる。各シーンの終わりに溶暗を用い、感情のピリオドのように品格を伴う仕掛け。
なにゆえに本国も我が国でも低評価が多いのか、多分それはジョーカーが脱獄でもして民衆の不満解消の大騒動でも期待したのでしょうね。そもそもマーベルがそんな具合でだらだらと続けているのですから。自らの手で葬り去った勇気こそ褒め称えるべきでしょ。とは言え、商売熱心なスタジオはリーのお腹の中のベビーを主役に、21世紀の悪の権現として登場させる手だってありますからね。
ミュージカル&法廷劇(?)
私にとっては「バットマン」のジャック・ニコルソンのジョーカーが「ジョーカー」なので、どうにもピンとこなかった。
題名が「アーサー」だったら、印象は全く違ったかも。
ジョーカー コレ・ハ・ドゥ なの?
中途半端な★3.8
配給会社の煽り文句で、もう少しだけ作品の方角を示してもよかったのではないか。私は公開からしばらくしての鑑賞だったため、当サイトや米国サイトのレビューをチェックしておりガッカリ度ダメージは相当に少なく済んだ。
然るべく、エンタメは常に賛否両論あるもの。とはいえ否定的な評価は受けたいものではないだろう。ならば何故バットマンファンを直球で期待させてしまうような予告に留めたのかとおもう。興行収入へのアプローチとは理解するのだが「衝撃の結末」という訴求はアラートとしては遠回りすぎやしないか。
本作の物語のスジはこうだろう。前作は言ってみれば「ジョーカー0(ゼロ)」で、今作が「ジョーカー0.5」。以上は『アーサー編・ゴッサム犯罪の夜明け』だ。次は無いかもしれないが、あるとしたら「ジョーカー1」(スターウォーズのローグワンの位置)それから「BMビギンズ」「ダークナイト」「DKライジング」ってことですよねえ。思いっきり推測ぐるみはご容赦いただきたい。そんなスジを知らなかったもので、観る前は今作てっきり「ジョーカービギンズ」とばかり思ってしまった。
私も含めてノーラン's バットマンが「至上」と思っているヒトは多いわけだから、今回のがジョーカー0.5だよと判ってさえいれば、大ラスの出来事は非常に衝撃的なものになっただろうし、ヒース・ジョーカーの『何でこんな男が世にでてきたのか』という遥かな疑問への、かなり腹落ち感のあるアンサー作品になり得たはずだと思うのだが。
そんな個人的かつ身勝手な妄想で本作を捉えてみれば、重要なゴッサム史ムービーとして受け止めることができた。デートムービーではなく、激コアなやつ。
文字通り判定をブチ破った大爆破。あーキタキタこれがゴッサムシティのカオス!始まっちまった。ゴッサムのカオスそのものはアーサー、君とアーカム精神病院から生まれたのだと。急げブルース!ああ、そういえばまだ修行中だよな(泣)とね。
まあ…それにしてもだ。せっかくのヒリヒリした恐怖感を、妄想とはいえ甘い歌で中和してしまうことの繰り返しにより全編を冗長なものにしてしまった。アーサーの二面性の表現方法は他にもあったはずだ。カガ起用の副作用はいかにも残念。
アーサーを描くにはこうするしかなかったのかな
気分悪いが見応えがある
社会的弱者がいたぶられる映画なのでストレートに気分悪いです、感情移入しやすく演技が素晴らしいがため胸くそ感も増し増しです。
どんな気分かというと、2時間ずっと辱めを受け、ジョーカーは本当は惨めで弱くて知能が低く童貞で社会に嘲笑される道化、憐れなピエロ、最後には期待を裏切ってしまい、自らも裏切られ、社会に殺される、まさにピエロの中のピエロで、それは理不尽すぎる今の社会を生きる自分たちに向かって、まさにオマエのの物語だよと言われた気分です。
私は見栄を張る人間なので、良い車に乗り、金持ちそうにして、幸せそうに生きる人間ですが、それがメッキを剥がされ続けることに共感し苦しみを感じましたが、またそれとは別に癒やしでもありました、ああこれは本物のピエロを見ているのだという気持ちで、そういう意味ではすんごく鮮烈に記憶に刻まれる映画。現代のみせもの小屋なのかもしれまへん。
しかし、しかし、こういう映画を求めてはなかったので精神的なダメージがあるので、万人には決してオススメなどできません。
幻の「初代ジョーカー」の男のストーリーとも受け取れます
この作品にガッカリした人々の気持ちも分からなくはありません。美しく色気たっぷりの赤いスーツのジョーカーが完全ヴィランとして楽しそうに踊りながらも、一方で暴力や殺戮に走り街を混乱に陥れる内容だと期待した人も多いと思います。確かに私もそういう世界線を見てみたかった思いもあります(アーサーの妄想の中でチラッと「そういう世界線」も一応描かれてはいますし、タップを踊るジョーカーは格好良いです)。しかし、この作品はかえってそういう路線に行かないことがむしろ良かったのかな?とも感じます。反発が来ることを怖れずこの内容にした監督や俳優、スタッフらに敬意を表します。米国では酷評とのことですが、アメコミや原作バットマンにそこまで深い思い入れがない日本人の方がこの「情緒・わびさび」のある人間ドラマを理解できるような気がします。
映画の最後で確かにアーサーは亡くなりました。しかし「ジョーカー」という概念はほかの人物の体を借りて、永遠に生き続けることとなりました。アーサーを匿おうとしたジョーカーコスプレ兄さんや、アーサーを最後あんな目に遭わせたサイコ男など、アーサーが「ジョーカーとして生きるのを止める」と決意しても、別のジョーカーが生まれる土壌は既に出来てしまっている。ある意味アーサーは、「完全な悪にはなり切れなかったが、確実に初代ジョーカーだった」と言えるのではないでしょうか。もしかしたら二代目になるのはサイコ男やコスプレ兄さんかもしれない。そして二代目ジョーカーが、大人になったブルースウェインと対峙することになるのかもしれない。そうすればバットマンの本来の世界とも繋がる。
日頃ほとんど映画を見ない私が、ホアキン主演のジョーカー映画2本だけはチケットを買って見に行きたいと思ったほどの魅力ある作品でした。批判の多いミュージカル部分も、色彩のないアーカムの生活にカラフルな色を添えていて、衣装を変えて新たな魅力をふりまくジョーカーが見られて良かったです。こういう人が現れたらそりゃ人々は熱狂するよなあ…と思わせる説得力があります。
前評判が良くないという理由だけで「見るの止めた」と決めるのはもったいないような気がします。
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