ジョーカー フォリ・ア・ドゥのレビュー・感想・評価
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恋愛と裁判とエンタメをめぐる承認欲求
2024年。トッド・フィリップス監督。「ジョーカー」続編。承認欲求が満たされずエンタメ業界の底辺で生きることを余儀なくされた男が、社会への復讐として殺人にいたったところ、世間から祭り上げられ、また、追っかけ的に慕ってくる女性と運命の恋に落ちて、「恋愛」と「裁判」という場で「本当の自分」の模索を強制されてグラグラ揺れる話。
ジョーカーが仮面なのか(演技=責任能力あり)二重人格なのか(病気=責任能力なし)を巡って精神科医や弁護士や恋人や元友人があれこれ「診断」するわけだが、彼自身には判断がつかない。だから指摘されるたびにうろたえる。しかも、主人公は他者の意向に沿うことで(自らを笑いものにしながら)承認されたいという欲求が強いので、これはもう地獄だ。
主人公の夢想として挿入されるエンタメシーンのエンタメとしての水準が低いのではないか、主人公が煙草を吸いつつ天を見上げて手を広げるしぐさが多用されすぎではないか、運命の恋の相手の素性が無駄に怪しいのではないか、など気になるところが多々ある。
もやる
評価が分かれる映画ほど、自分の感性を信じて
アーサー
上手い幕引きだなと思う。
オリジナルが死ぬ事で、以降、ゴッサムシティを混乱に陥れバットマンと敵対する「ジョーカー」を模倣犯として切り離せる。
ジョーカーの信者が、あのメイクとあの衣装を身につけて「ジョーカー」を名乗ればいい。
ジョーカーを産んだのはアーサーでも、その後のジョーカーはアーサーでは無いわけだ。
アメコミを知らないから、作中に語られるエピソードは原作にあるものの解釈を飛躍させたものなのかと思って見ていたのだけど、どうにも違和感が拭いきれない。あまりにも狭い主観のような世界観で物語が進んでいく。
1番の違和感は「歌」だ。
コレをどう理解するべきなのか…。
外の世界観はほぼ漏れ聞こえてくるような状態で、熱狂だけが伝わってくる。
時折、挟まれるジョーカーとしての怒り…アレを具現化して第1作がジョーカーのカリスマ性を生み、大衆が感化されていくのだろう。アーサーである時にでも彼を発端に周囲が狂乱していくようなシーンもあって、ジョーカーとしての立ち位置が分かり易いなとも思った。
だが…
「歌」がなぁ…。
それまでのアーサーの人生には無かった感性が「歌」なんだろか?「歌」自体にも含まれるモノはありはするが…アーサーにとっては異質にしか思えない。
彼はずっと周囲に翻弄されてた。
リーには特に。
利用されようとしていたのか、騙されていたのか、恋愛を知らないアーサーが愛に絡め取られていく。
でもさ…アーサーには妄想癖って設定があって、コレがどこで発揮されてたのかと思うと、リーとの時間自体が嘘くさく思えてもくる。
つまりは歌が絡んでくるシーンは、全て彼の妄想とか。とても厄介な構成になってしまう。
そんな事は無いのかもだけど、どうにも作品としても整合性があるような無いようなで、始末が悪い。
どれがホントでどれか嘘なのか?
ジョーカーってキャラの本質を問うてるようにも思うけれど、作品としてはホアキンの芝居も相まって高尚すぎてタチが悪い。
ホアキンは流石であった。
ホントに。
ジョーカーであるアーサーも
アーサーであるジョーカーも
しっかり背負ってた。
冒頭、収監され痩せこけたアーサーからは、ジョーカーの片鱗なんか微塵も感じない。
が、その佇まいが異様で、居るだけで異様だ。
無気力な瞳、生気のない体つき…ジョーカーの燃えカスみたいだった。このアーサーを作り上げた時点で、本作におけるホアキンの仕事の8割は終わったんじゃないかと思える。
そして、あの笑い方…あんな声量で笑うのに、なんとも寂しくてやるせなくて、ホントによくぞアレに辿り着いたと賞賛の雨霰である。
アーサーの最期なんかは、息を呑む。
ボロ雑巾みたいに朽ちていく。
俺の中でホアキンと言えば、必ず出てくるカットになった。
ガガは…なんなんだろなぁ。
あんま彼女である事に必然性は見出せなかった。
ホアキンのジョーカーは、これで見納めだろう。
めでたくバットマンシリーズへの橋渡しも無事に終え、「ジョーカー」の名前と存在だけが1人歩きしていく。
狂人の如きジョーカーはアーサーではなく、突如笑い出す奇病も持ち合わせてはいない。
冒頭のアニメにはたまげたけれど、思い返してみるとアレはプロットみたいなもんだったのだな。
ジョーカーってタイトルで、アーサーを克明に描いた作品だったのだな。
2回目の鑑賞で気づきました
前作とのあまりの違いに“肩透かしを食らった”と酷評した後、何かモヤモヤとした気持ちが残り2回目の鑑賞をしました。
なるほど、そういうことか。
まんまとミスリードされていました。
前回のレビューを撤回し削除しました。
共感して下さった皆さん申し訳ありません。
アーサー・フレックの振る舞いや、ジョーカーを信奉する連中に、バットマンが登場しないジョーカーの世界にあって、鑑賞者である自分はヒーロー気取りで嫌悪し批判的な気持ちになり、法廷での最終的な展開に彼らに対して“ざまあみろ”的な眼差しを向けていたはずなのに、最終的なアーサー・フレックの境遇には落胆してしまいました。
切ない終わりではあったものの、ジョーカーが消えることに安堵やハッピーエンドには思えませんでした。
「ジョーカーは?これで終わり?」前作で勢い良く振り出したバットは空振り?
自分も法廷から去っていった信奉者と同じくジョーカーに何かを期待していたのです。
いや、期待させられていたのです。
ミュージカルシーンも、心のどこかで「こんなのいらないから、もっとジョーカーなアーサー・フレックが見たい」と。
知らぬ間にジョーカー信奉者になっていました。
そして新たに生まれてくるであろうジョーカーに一抹の期待も、、、
真のジョーカーは、この作品を見る者の心を操ったトッド・フィリップス監督かも。。。
ご自分の目を信じてご自分で判断して下さい
下馬評は無視して下さい、傑作です。DCコミックの敵役を神がかり的に高め、些か過大な評価と成果を得た前作、ハリウッドのどうしても避けられない続編要請に応えた結果がこれ。アーサーからジョーカーへ昇華した高揚感をそのまま2作目も引き継いだら、スタジオから3作目の要請も不可避、だからジョーカーからアーサーへ引きずり下ろし、のみならず息の根を止める。多分監督トッド・フィリップスも主演のホアキン・フェニックスもこの展開しか選択肢はなかったのではなかろうか。なによりホアキンが5年ごとに激痩せするなんてそもそも無理でしょ、次回やったら命に係わるのですから。
巻頭のWBcartoonによるアニメションが本作の要約を早々に示し、さらにエンドタイトルに流れる曲「That’s Life」が全てを纏めてますので、その一部和訳を示します。
『人生なんてそんなものだ、誰もが言うだろう
4月は上手く行っていたのに、5月には撃ち落とされる
でも僕がそのリズムを変えてやるさ、6月僕がトップに返り咲いた時にね
僕は傀儡で貧民で海賊で詩人で、ポーンでもキングでもある
人生を上がったり下がったり越えたり出たりする中で
1つ分かったことがある
自分が覇気の無い顔で倒れているとわかったら
自分で起き上がって再び戦いに戻っていくんだ
それが人生なんだよ、そんなもんさ、否定はしない
こんなもの辞めてやるって何度も考えたけど
僕の心は決してそれを許さないんだ
でも7月になっても、心を震わせるようなものが何もなかったら
自分をくるくる巻き上げ大きなボールにして
そのまま死んでやるさ』
哲学的に高められた魂の彷徨の後始末はそれはそれは難作業だったでしょう。そこで編み出されたのが音楽で、前作の高評価の一翼を担ったチャールズ・チャップリンの歌曲「スマイル」の圧巻の扱いを拡張し、ミュージカルの形態を取り入れたのはけだし慧眼でありました。メインは1965年のバート・バカラックによる「What the World Needs Now Is Love」を筆頭に、30年代から60年代に及ぶ名曲をちりばめ、心情は曲に載せ描く。「that entertainment」から「They Long to Be Close to You」まで、心憎い選曲で、ホアキン本人まで歌唱するなんて。そこで相手役の女優には歌える人でレディー・ガガなんですね。
アーサーとジョーカーの二重人格か否かで自分を裁こうとする社会に対し、本人はいたってクールで、感心はそんなところにはない。それどころか本人すら分かっておらず、自分に感心を寄せる女リーの登場と離別によってやっと目覚める節もあるわけで。一躍スターに祭り上げられた者の彷徨を冷徹に作者は暴いて行く。影の部分に脚光があたり、それに翻弄され、社会はその影をさらに大きく期待し、偶像崇拝の域まで勝手に持ち上げられる。そんな恐怖をアメコミの姿を借りて描いたとも言える。アメコミのヒーローに自己懐疑なんてあり得ない、けれど前作でそれに踏み込んでしまった以上、影の姿は収束せざるを得ない。
映画の背景は殆どが刑務所内と法廷に限られ、妄想のミュージカルシーンが原色に彩られ展開する。綿密な画面構成が隙を与えず、緊張感が持続される。流石の豊潤な画創りを堪能できるわけで、第一級の映画の力をまざまざと感じさせる。各シーンの終わりに溶暗を用い、感情のピリオドのように品格を伴う仕掛け。
なにゆえに本国も我が国でも低評価が多いのか、多分それはジョーカーが脱獄でもして民衆の不満解消の大騒動でも期待したのでしょうね。そもそもマーベルがそんな具合でだらだらと続けているのですから。自らの手で葬り去った勇気こそ褒め称えるべきでしょ。とは言え、商売熱心なスタジオはリーのお腹の中のベビーを主役に、21世紀の悪の権現として登場させる手だってありますからね。
ミュージカル&法廷劇(?)
私にとっては「バットマン」のジャック・ニコルソンのジョーカーが「ジョーカー」なので、どうにもピンとこなかった。
題名が「アーサー」だったら、印象は全く違ったかも。
ジョーカー コレ・ハ・ドゥ なの?
中途半端な★3.8
配給会社の煽り文句で、もう少しだけ作品の方角を示してもよかったのではないか。私は公開からしばらくしての鑑賞だったため、当サイトや米国サイトのレビューをチェックしておりガッカリ度ダメージは相当に少なく済んだ。
然るべく、エンタメは常に賛否両論あるもの。とはいえ否定的な評価は受けたいものではないだろう。ならば何故バットマンファンを直球で期待させてしまうような予告に留めたのかとおもう。興行収入へのアプローチとは理解するのだが「衝撃の結末」という訴求はアラートとしては遠回りすぎやしないか。
本作の物語のスジはこうだろう。前作は言ってみれば「ジョーカー0(ゼロ)」で、今作が「ジョーカー0.5」。以上は『アーサー編・ゴッサム犯罪の夜明け』だ。次は無いかもしれないが、あるとしたら「ジョーカー1」(スターウォーズのローグワンの位置)それから「BMビギンズ」「ダークナイト」「DKライジング」ってことですよねえ。思いっきり推測ぐるみはご容赦いただきたい。そんなスジを知らなかったもので、観る前は今作てっきり「ジョーカービギンズ」とばかり思ってしまった。
私も含めてノーラン's バットマンが「至上」と思っているヒトは多いわけだから、今回のがジョーカー0.5だよと判ってさえいれば、大ラスの出来事は非常に衝撃的なものになっただろうし、ヒース・ジョーカーの『何でこんな男が世にでてきたのか』という遥かな疑問への、かなり腹落ち感のあるアンサー作品になり得たはずだと思うのだが。
そんな個人的かつ身勝手な妄想で本作を捉えてみれば、重要なゴッサム史ムービーとして受け止めることができた。デートムービーではなく、激コアなやつ。
文字通り判定をブチ破った大爆破。あーキタキタこれがゴッサムシティのカオス!始まっちまった。ゴッサムのカオスそのものはアーサー、君とアーカム精神病院から生まれたのだと。急げブルース!ああ、そういえばまだ修行中だよな(泣)とね。
まあ…それにしてもだ。せっかくのヒリヒリした恐怖感を、妄想とはいえ甘い歌で中和してしまうことの繰り返しにより全編を冗長なものにしてしまった。アーサーの二面性の表現方法は他にもあったはずだ。カガ起用の副作用はいかにも残念。
アーサーを描くにはこうするしかなかったのかな
気分悪いが見応えがある
社会的弱者がいたぶられる映画なのでストレートに気分悪いです、感情移入しやすく演技が素晴らしいがため胸くそ感も増し増しです。
どんな気分かというと、2時間ずっと辱めを受け、ジョーカーは本当は惨めで弱くて知能が低く童貞で社会に嘲笑される道化、憐れなピエロ、最後には期待を裏切ってしまい、自らも裏切られ、社会に殺される、まさにピエロの中のピエロで、それは理不尽すぎる今の社会を生きる自分たちに向かって、まさにオマエのの物語だよと言われた気分です。
私は見栄を張る人間なので、良い車に乗り、金持ちそうにして、幸せそうに生きる人間ですが、それがメッキを剥がされ続けることに共感し苦しみを感じましたが、またそれとは別に癒やしでもありました、ああこれは本物のピエロを見ているのだという気持ちで、そういう意味ではすんごく鮮烈に記憶に刻まれる映画。現代のみせもの小屋なのかもしれまへん。
しかし、しかし、こういう映画を求めてはなかったので精神的なダメージがあるので、万人には決してオススメなどできません。
幻の「初代ジョーカー」の男のストーリーとも受け取れます
この作品にガッカリした人々の気持ちも分からなくはありません。美しく色気たっぷりの赤いスーツのジョーカーが完全ヴィランとして楽しそうに踊りながらも、一方で暴力や殺戮に走り街を混乱に陥れる内容だと期待した人も多いと思います。確かに私もそういう世界線を見てみたかった思いもあります(アーサーの妄想の中でチラッと「そういう世界線」も一応描かれてはいますし、タップを踊るジョーカーは格好良いです)。しかし、この作品はかえってそういう路線に行かないことがむしろ良かったのかな?とも感じます。反発が来ることを怖れずこの内容にした監督や俳優、スタッフらに敬意を表します。米国では酷評とのことですが、アメコミや原作バットマンにそこまで深い思い入れがない日本人の方がこの「情緒・わびさび」のある人間ドラマを理解できるような気がします。
映画の最後で確かにアーサーは亡くなりました。しかし「ジョーカー」という概念はほかの人物の体を借りて、永遠に生き続けることとなりました。アーサーを匿おうとしたジョーカーコスプレ兄さんや、アーサーを最後あんな目に遭わせたサイコ男など、アーサーが「ジョーカーとして生きるのを止める」と決意しても、別のジョーカーが生まれる土壌は既に出来てしまっている。ある意味アーサーは、「完全な悪にはなり切れなかったが、確実に初代ジョーカーだった」と言えるのではないでしょうか。もしかしたら二代目になるのはサイコ男やコスプレ兄さんかもしれない。そして二代目ジョーカーが、大人になったブルースウェインと対峙することになるのかもしれない。そうすればバットマンの本来の世界とも繋がる。
日頃ほとんど映画を見ない私が、ホアキン主演のジョーカー映画2本だけはチケットを買って見に行きたいと思ったほどの魅力ある作品でした。批判の多いミュージカル部分も、色彩のないアーカムの生活にカラフルな色を添えていて、衣装を変えて新たな魅力をふりまくジョーカーが見られて良かったです。こういう人が現れたらそりゃ人々は熱狂するよなあ…と思わせる説得力があります。
前評判が良くないという理由だけで「見るの止めた」と決めるのはもったいないような気がします。
かわいそうなおじさんの話の続き
アイコン
面白かった、というと語弊がある気もするけど、もう一回、もう二回観たくなる。
おそらくジョーカーとは誰でもいい。あの若い囚人が引き継いでも良いし、町に溢れるジョーカー信者のひとりでも良い。アイコンとなった美しいジョーカーの陰で、やっぱり孤独なままのアーサーが悲しすぎる。誰か一人でも、彼に声をかけてあげてほしい。元同僚のゲイリーだけかな。アーサーに気づいてたのは。
多重人格というものでもない。似ているけど違う。違う、という叫びは誰にも届かない。お母さんにも、リーにも、医者にも弁護士にもアーサーは見つからない。観客にさえ、こんなジョーカーはジョーカーでないと突き放される、そんな映画。
ミュージカルは苦手だけど、これは逆説的な音楽の使い方だから、各シーン納得がいく。アーサーが必要としているときに音楽がはじまる。cross to youはとても美しかった。
それにしても、ナポレオンの時も思った、やっぱりホアキンはすごい。立ってるだけでアーサーとジョーカーを演じ分ける。ものすごくゴージャスでエレガント!冒頭の背中の説得力、確かにここに時間をかけたくなるよね。
いろんな意味で記憶に残る
やっと公開されましたが、酷評されすぎているのが余計そそられる。
STORYは地獄の様な監獄の中で妄想癖のあるアーサーはリーと出会い歌を通して心を通い、眠っていたJOKERが開花していく。そして裁判劇へと…
ん〜今作JOKERもありかなと思う。一作目ではインパクトがあり過ぎて期待されていたが、やっぱり自分には無理ゲーだったと言うストーリーもあっても良いのでは?
アーサーは刑務所内では模範囚で、前作のラストでのJOKERの姿は微塵も感じられず、ジョークすら言えないアーサーになってしまい、見るに耐えない。
本当に心の底から『アーサーよ、ギブアップしろ!』と思いつつ時間的にもしんどい作品だった。
世間では勝手にドラマ化し熱狂的になっているファンがいるが、アーサーは決して煽るわけではなく強く賢い人間ではない事をとことん映し出し、リーに操り人形のように素直に行動するアーサーはもはやただの犯罪者だと、見せ付けられている。
JOKER1と一つの作品として鑑賞した方がいい、アーサーと言う人間の悲しいSTORYになってしまった。そりゃ〜意見も分かれても仕方が無いと思える。
監督が自分が悪者になって酷評しろ!と挑発している様にも受け取れる。
しかし、私は嫌いな作品ではなく、ホアキンの演技・ガガの歌は素晴らしく、映像も圧巻です。
ガッツリミュージカル作品では無いのが逆に良かった。
ラストも、私には納得できる衝撃でした。
主人公のアーサーをJOKERと言う呪縛から解放していく作品は逆に新鮮でもあった。
間違いなく映画館で観るべき傑作、ネット評のせいで観ないのは損
アーサー・フレックという一人の男を人間に戻そうとする人々と怪物に成らせようとする人々が綱引きする映画。中心にいるアーサーを引き裂いても止まらない、狂っているのは周りの人々の方。
怪物にならなければ愛して貰えない。でも例え怪物になったとしても、愛されている「それ」は自分ではなかった。アーサー自身も狂ってしまえたらいっそ楽だったのかもしれない。
前作が「弱者は暴力によってしか世界と繋がれない」事を描いた作品だったとしたら、今作は「弱者は暴力に頼ってすら、結局は世界に居場所を見付ける事ができなかった」っていう更に更に救いようのない現実を突き付ける作品だった。それはもうミュージカルにでもしないと辛くて観ていられないくらいに。
アーサーを離れて、ジョーカーという影だけが激しく踊りだして、やがてアーサーそのものを必要としなくなっていく。そして影は次の誰かを飲み込んで、ジョーカーという幻想だけが引き継がれていく。
冒頭のアニメで映画の全体を全部説明してくれてるんだけど、それがホアキン・フェニックスとレディー・ガガの名演で繰り広げられると胸をえぐられてどうしようもなかった。
アーサー本人を、一人の人間として、たった一人だけ見ていてくれた存在は、同じく最も弱い境遇にあった小人症の彼だけだった。
(多分最後に面会に来たのも彼だったんじゃないかと思う。)
ジョーカーフォロワーと見せかけたガガ様が、実は最も強烈にアーサーを奈落に引きずり込もうとしている楽園の蛇の役割で、その声音と目線があまりにも蠱惑的でたまらなかった。
二人で踊っているんじゃなく、ガガ様に呪いをかけられて、死ぬまで踊り続けることを強いられているだけのアーサー。
ラスト手前、愛した人に殺してすら貰えない、アーサーの悲哀が極まってた。
アーサーの狂気が人々に伝播していくんじゃなく、アーサーの虚像に狂った人々の妄想が、アーサーを死ぬまで苦しめる。そう意味でのフォリ・ア・ドゥだった。
前作があまりにも成功してしまったために、世界にまかれてしまった「弱者がこの世界を抜け出せる唯一の道は暴力なんだ」という幻想、呪い。
それを解くための今作で、無事にアーサーは人間に戻って、それでよかったはずで、なのに…という所で映画は終わる。
世界に必要なのは愛なんだとどれだけ繰り返し歌っても、それは決して世界に響くことなく、暴力という希望だけが更に更に伝染していく。
これまで描かれてきたどんな「悪」よりも怖い。そう感じたのは自分だけなんだろうか。怖い怖い映画だった。
やりたいことはわかるんだけど、そうじゃない
マクドナルドに行って買いたいのはハンバーガーでありポテトである。
健康志向のサラダや減塩ソースではない。
JOKERの前作では強力な社会的不遇から、幸運にも悪のカリスマへの変貌できた異常者のスト―リーだった。
その公開当時は全世界で強烈なメッセージを与えたものであり、日本においてもジョーカーの恰好をして電車に乗っていただけで警察に連れていかれたというエピソードまで出てきた。
※もちろん「ジョーカーの恰好をして電車で他人を害した」という実害のある事件もあったので警察の対応は一概に映画のせいだけではない。
現在の日本、あるいは世界のストレスを抱えた層にものすごくクリティカルヒットしたのだ。
それでは今作はどうだったかというと、多少はそれらしい風を装っているものの前作とはまったく逆のアプローチが行われている。
映画にこめたいメッセージ、映画を通してやりたかったことはわかる。少なくともわかる気がする。数々のギミックも凝られている。
もしかしたら為政者側からそういう映画は困るから次回作では…という何かしらの打診があったのではと下衆の勘繰りをしてしまうくらいの健康的なメッセージだ。
前作を好きになった人が求めているのはこれではない。
前フリ的な意味ではこれでもいいのかもしれないけれど、欲しいのはこの物語ではない。
===
最初からこの味付けを求めてきた人、あるいは前作がそれほど刺さらなかった人には悪くないと思います。映画単体として見た時の完成度は非常に良い。
非常に細かく作られているし、ちゃんと枠も練られている。わかるひとにはニヤっとできるシーンも数々ある。
しかし、前作のような脂ぎった辛酸を期待していた人にヘルシーな野菜料理をお出ししてみたところ「コレジャナイ」とそっぽを向かれた。それが低評価の原因だと思います。
映画それそのものだけで思いなおすと決して悪くなかったためです。
「これが、あのジョーカーの続編だよ!」としてお出ししてしまったばかりに欲しいものはこれではない、という反感が残った。
それが前作がクリティカルヒットした「ストレスを抱えた層」に、ストレス再来という形でフラストレーションだけ残したための低評価、悪印象を残した状況だと分析します。
自分的には歌いすぎとタバコ吸いすぎが気になりました。
そこで思い出したのがシンゴジラ、あと最近の自分的なヒットであるサユリです。
ゴジラを見る時はゴジラが無限に暴れまわるのを期待するし、ホラー映画を見る時はオバケが怖いことを期待するはずなのに、期待を完全に裏切ってそれでも面白かった両者と、
期待を裏切って、裏切られたフラストレーションを残した今回のジョーカーとの違いは何なのでしょうね。謎です。
映像美
監督は主人公に愛がない
「ウエスト・サイド・ストーリー」や「オペラ座の怪人」、「シカゴ」など名だたるミュージカルの名作は多々あるが、今作のミュージカル“風”映画は中途半端過ぎた。制作側もやるならきちんとミュージカル作品の見せ方を勉強してからやるべき。
ガガにはかつてのような勢いや、ピッチピチの鮮魚店の鮮魚のような活きのよさもない。
ホアキン・フェニックスの役への没入は凄かった。だからこそ俳優ホアキンが気の毒。
ガガありきの企画だったのかもと想像。ガガはガガ以上にはなれなかった。「え!これがあのガガ?」っていう意外性を見せてくれてたら…。
ストーリーもなく、単純に面白くはない。ジョーカーじゃなくアーサーなんだよと言われても…。ジョーカーの看板掲げてるしな。
ラストも容赦がない。監督は夢を見る余地を全て打ち砕き、主人公・前作を全否定した。そこまでやらんでも…。
オッペンハイマーや、マッドマックス最新作、今作を観ていると、ずっと音が次々に鳴り響き、映像も凝っている。IMAXや音響の良い映画館を使って欲しいのだろう。
が、のべつ幕なしだと正直うるさい。一体誰をターゲットにしてるのか分からないですが、この「次から次へ」を映画会社や配給元に言われてるっていうのもあるんだろう。
トッド・フィリップスとスコット・シルバーへの今までの賛辞が…。
次回作で巻き返しましょう!
カタルシスは皆無だけど傑作
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