ジョーカー フォリ・ア・ドゥのレビュー・感想・評価
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ジョーカー コレ・ハ・ドゥ なの?
中途半端な★3.8
配給会社の煽り文句で、もう少しだけ作品の方角を示してもよかったのではないか。私は公開からしばらくしての鑑賞だったため、当サイトや米国サイトのレビューをチェックしておりガッカリ度ダメージは相当に少なく済んだ。
然るべく、エンタメは常に賛否両論あるもの。とはいえ否定的な評価は受けたいものではないだろう。ならば何故バットマンファンを直球で期待させてしまうような予告に留めたのかとおもう。興行収入へのアプローチとは理解するのだが「衝撃の結末」という訴求はアラートとしては遠回りすぎやしないか。
本作の物語のスジはこうだろう。前作は言ってみれば「ジョーカー0(ゼロ)」で、今作が「ジョーカー0.5」。以上は『アーサー編・ゴッサム犯罪の夜明け』だ。次は無いかもしれないが、あるとしたら「ジョーカー1」(スターウォーズのローグワンの位置)それから「BMビギンズ」「ダークナイト」「DKライジング」ってことですよねえ。思いっきり推測ぐるみはご容赦いただきたい。そんなスジを知らなかったもので、観る前は今作てっきり「ジョーカービギンズ」とばかり思ってしまった。
私も含めてノーラン's バットマンが「至上」と思っているヒトは多いわけだから、今回のがジョーカー0.5だよと判ってさえいれば、大ラスの出来事は非常に衝撃的なものになっただろうし、ヒース・ジョーカーの『何でこんな男が世にでてきたのか』という遥かな疑問への、かなり腹落ち感のあるアンサー作品になり得たはずだと思うのだが。
そんな個人的かつ身勝手な妄想で本作を捉えてみれば、重要なゴッサム史ムービーとして受け止めることができた。デートムービーではなく、激コアなやつ。
文字通り判定をブチ破った大爆破。あーキタキタこれがゴッサムシティのカオス!始まっちまった。ゴッサムのカオスそのものはアーサー、君とアーカム精神病院から生まれたのだと。急げブルース!ああ、そういえばまだ修行中だよな(泣)とね。
まあ…それにしてもだ。せっかくのヒリヒリした恐怖感を、妄想とはいえ甘い歌で中和してしまうことの繰り返しにより全編を冗長なものにしてしまった。アーサーの二面性の表現方法は他にもあったはずだ。カガ起用の副作用はいかにも残念。
アーサーを描くにはこうするしかなかったのかな
気分悪いが見応えがある
社会的弱者がいたぶられる映画なのでストレートに気分悪いです、感情移入しやすく演技が素晴らしいがため胸くそ感も増し増しです。
どんな気分かというと、2時間ずっと辱めを受け、ジョーカーは本当は惨めで弱くて知能が低く童貞で社会に嘲笑される道化、憐れなピエロ、最後には期待を裏切ってしまい、自らも裏切られ、社会に殺される、まさにピエロの中のピエロで、それは理不尽すぎる今の社会を生きる自分たちに向かって、まさにオマエのの物語だよと言われた気分です。
私は見栄を張る人間なので、良い車に乗り、金持ちそうにして、幸せそうに生きる人間ですが、それがメッキを剥がされ続けることに共感し苦しみを感じましたが、またそれとは別に癒やしでもありました、ああこれは本物のピエロを見ているのだという気持ちで、そういう意味ではすんごく鮮烈に記憶に刻まれる映画。現代のみせもの小屋なのかもしれまへん。
しかし、しかし、こういう映画を求めてはなかったので精神的なダメージがあるので、万人には決してオススメなどできません。
幻の「初代ジョーカー」の男のストーリーとも受け取れます
この作品にガッカリした人々の気持ちも分からなくはありません。美しく色気たっぷりの赤いスーツのジョーカーが完全ヴィランとして楽しそうに踊りながらも、一方で暴力や殺戮に走り街を混乱に陥れる内容だと期待した人も多いと思います。確かに私もそういう世界線を見てみたかった思いもあります(アーサーの妄想の中でチラッと「そういう世界線」も一応描かれてはいますし、タップを踊るジョーカーは格好良いです)。しかし、この作品はかえってそういう路線に行かないことがむしろ良かったのかな?とも感じます。反発が来ることを怖れずこの内容にした監督や俳優、スタッフらに敬意を表します。米国では酷評とのことですが、アメコミや原作バットマンにそこまで深い思い入れがない日本人の方がこの「情緒・わびさび」のある人間ドラマを理解できるような気がします。
映画の最後で確かにアーサーは亡くなりました。しかし「ジョーカー」という概念はほかの人物の体を借りて、永遠に生き続けることとなりました。アーサーを匿おうとしたジョーカーコスプレ兄さんや、アーサーを最後あんな目に遭わせたサイコ男など、アーサーが「ジョーカーとして生きるのを止める」と決意しても、別のジョーカーが生まれる土壌は既に出来てしまっている。ある意味アーサーは、「完全な悪にはなり切れなかったが、確実に初代ジョーカーだった」と言えるのではないでしょうか。もしかしたら二代目になるのはサイコ男やコスプレ兄さんかもしれない。そして二代目ジョーカーが、大人になったブルースウェインと対峙することになるのかもしれない。そうすればバットマンの本来の世界とも繋がる。
日頃ほとんど映画を見ない私が、ホアキン主演のジョーカー映画2本だけはチケットを買って見に行きたいと思ったほどの魅力ある作品でした。批判の多いミュージカル部分も、色彩のないアーカムの生活にカラフルな色を添えていて、衣装を変えて新たな魅力をふりまくジョーカーが見られて良かったです。こういう人が現れたらそりゃ人々は熱狂するよなあ…と思わせる説得力があります。
前評判が良くないという理由だけで「見るの止めた」と決めるのはもったいないような気がします。
かわいそうなおじさんの話の続き
アイコン
面白かった、というと語弊がある気もするけど、もう一回、もう二回観たくなる。
おそらくジョーカーとは誰でもいい。あの若い囚人が引き継いでも良いし、町に溢れるジョーカー信者のひとりでも良い。アイコンとなった美しいジョーカーの陰で、やっぱり孤独なままのアーサーが悲しすぎる。誰か一人でも、彼に声をかけてあげてほしい。元同僚のゲイリーだけかな。アーサーに気づいてたのは。
多重人格というものでもない。似ているけど違う。違う、という叫びは誰にも届かない。お母さんにも、リーにも、医者にも弁護士にもアーサーは見つからない。観客にさえ、こんなジョーカーはジョーカーでないと突き放される、そんな映画。
ミュージカルは苦手だけど、これは逆説的な音楽の使い方だから、各シーン納得がいく。アーサーが必要としているときに音楽がはじまる。cross to youはとても美しかった。
それにしても、ナポレオンの時も思った、やっぱりホアキンはすごい。立ってるだけでアーサーとジョーカーを演じ分ける。ものすごくゴージャスでエレガント!冒頭の背中の説得力、確かにここに時間をかけたくなるよね。
いろんな意味で記憶に残る
やっと公開されましたが、酷評されすぎているのが余計そそられる。
STORYは地獄の様な監獄の中で妄想癖のあるアーサーはリーと出会い歌を通して心を通い、眠っていたJOKERが開花していく。そして裁判劇へと…
ん〜今作JOKERもありかなと思う。一作目ではインパクトがあり過ぎて期待されていたが、やっぱり自分には無理ゲーだったと言うストーリーもあっても良いのでは?
アーサーは刑務所内では模範囚で、前作のラストでのJOKERの姿は微塵も感じられず、ジョークすら言えないアーサーになってしまい、見るに耐えない。
本当に心の底から『アーサーよ、ギブアップしろ!』と思いつつ時間的にもしんどい作品だった。
世間では勝手にドラマ化し熱狂的になっているファンがいるが、アーサーは決して煽るわけではなく強く賢い人間ではない事をとことん映し出し、リーに操り人形のように素直に行動するアーサーはもはやただの犯罪者だと、見せ付けられている。
JOKER1と一つの作品として鑑賞した方がいい、アーサーと言う人間の悲しいSTORYになってしまった。そりゃ〜意見も分かれても仕方が無いと思える。
監督が自分が悪者になって酷評しろ!と挑発している様にも受け取れる。
しかし、私は嫌いな作品ではなく、ホアキンの演技・ガガの歌は素晴らしく、映像も圧巻です。
ガッツリミュージカル作品では無いのが逆に良かった。
ラストも、私には納得できる衝撃でした。
主人公のアーサーをJOKERと言う呪縛から解放していく作品は逆に新鮮でもあった。
間違いなく映画館で観るべき傑作、ネット評のせいで観ないのは損
アーサー・フレックという一人の男を人間に戻そうとする人々と怪物に成らせようとする人々が綱引きする映画。中心にいるアーサーを引き裂いても止まらない、狂っているのは周りの人々の方。
怪物にならなければ愛して貰えない。でも例え怪物になったとしても、愛されている「それ」は自分ではなかった。アーサー自身も狂ってしまえたらいっそ楽だったのかもしれない。
前作が「弱者は暴力によってしか世界と繋がれない」事を描いた作品だったとしたら、今作は「弱者は暴力に頼ってすら、結局は世界に居場所を見付ける事ができなかった」っていう更に更に救いようのない現実を突き付ける作品だった。それはもうミュージカルにでもしないと辛くて観ていられないくらいに。
アーサーを離れて、ジョーカーという影だけが激しく踊りだして、やがてアーサーそのものを必要としなくなっていく。そして影は次の誰かを飲み込んで、ジョーカーという幻想だけが引き継がれていく。
冒頭のアニメで映画の全体を全部説明してくれてるんだけど、それがホアキン・フェニックスとレディー・ガガの名演で繰り広げられると胸をえぐられてどうしようもなかった。
アーサー本人を、一人の人間として、たった一人だけ見ていてくれた存在は、同じく最も弱い境遇にあった小人症の彼だけだった。
(多分最後に面会に来たのも彼だったんじゃないかと思う。)
ジョーカーフォロワーと見せかけたガガ様が、実は最も強烈にアーサーを奈落に引きずり込もうとしている楽園の蛇の役割で、その声音と目線があまりにも蠱惑的でたまらなかった。
二人で踊っているんじゃなく、ガガ様に呪いをかけられて、死ぬまで踊り続けることを強いられているだけのアーサー。
ラスト手前、愛した人に殺してすら貰えない、アーサーの悲哀が極まってた。
アーサーの狂気が人々に伝播していくんじゃなく、アーサーの虚像に狂った人々の妄想が、アーサーを死ぬまで苦しめる。そう意味でのフォリ・ア・ドゥだった。
前作があまりにも成功してしまったために、世界にまかれてしまった「弱者がこの世界を抜け出せる唯一の道は暴力なんだ」という幻想、呪い。
それを解くための今作で、無事にアーサーは人間に戻って、それでよかったはずで、なのに…という所で映画は終わる。
世界に必要なのは愛なんだとどれだけ繰り返し歌っても、それは決して世界に響くことなく、暴力という希望だけが更に更に伝染していく。
これまで描かれてきたどんな「悪」よりも怖い。そう感じたのは自分だけなんだろうか。怖い怖い映画だった。
やりたいことはわかるんだけど、そうじゃない
マクドナルドに行って買いたいのはハンバーガーでありポテトである。
健康志向のサラダや減塩ソースではない。
JOKERの前作では強力な社会的不遇から、幸運にも悪のカリスマへの変貌できた異常者のスト―リーだった。
その公開当時は全世界で強烈なメッセージを与えたものであり、日本においてもジョーカーの恰好をして電車に乗っていただけで警察に連れていかれたというエピソードまで出てきた。
※もちろん「ジョーカーの恰好をして電車で他人を害した」という実害のある事件もあったので警察の対応は一概に映画のせいだけではない。
現在の日本、あるいは世界のストレスを抱えた層にものすごくクリティカルヒットしたのだ。
それでは今作はどうだったかというと、多少はそれらしい風を装っているものの前作とはまったく逆のアプローチが行われている。
映画にこめたいメッセージ、映画を通してやりたかったことはわかる。少なくともわかる気がする。数々のギミックも凝られている。
もしかしたら為政者側からそういう映画は困るから次回作では…という何かしらの打診があったのではと下衆の勘繰りをしてしまうくらいの健康的なメッセージだ。
前作を好きになった人が求めているのはこれではない。
前フリ的な意味ではこれでもいいのかもしれないけれど、欲しいのはこの物語ではない。
===
最初からこの味付けを求めてきた人、あるいは前作がそれほど刺さらなかった人には悪くないと思います。映画単体として見た時の完成度は非常に良い。
非常に細かく作られているし、ちゃんと枠も練られている。わかるひとにはニヤっとできるシーンも数々ある。
しかし、前作のような脂ぎった辛酸を期待していた人にヘルシーな野菜料理をお出ししてみたところ「コレジャナイ」とそっぽを向かれた。それが低評価の原因だと思います。
映画それそのものだけで思いなおすと決して悪くなかったためです。
「これが、あのジョーカーの続編だよ!」としてお出ししてしまったばかりに欲しいものはこれではない、という反感が残った。
それが前作がクリティカルヒットした「ストレスを抱えた層」に、ストレス再来という形でフラストレーションだけ残したための低評価、悪印象を残した状況だと分析します。
自分的には歌いすぎとタバコ吸いすぎが気になりました。
そこで思い出したのがシンゴジラ、あと最近の自分的なヒットであるサユリです。
ゴジラを見る時はゴジラが無限に暴れまわるのを期待するし、ホラー映画を見る時はオバケが怖いことを期待するはずなのに、期待を完全に裏切ってそれでも面白かった両者と、
期待を裏切って、裏切られたフラストレーションを残した今回のジョーカーとの違いは何なのでしょうね。謎です。
映像美
監督は主人公に愛がない
「ウエスト・サイド・ストーリー」や「オペラ座の怪人」、「シカゴ」など名だたるミュージカルの名作は多々あるが、今作のミュージカル“風”映画は中途半端過ぎた。制作側もやるならきちんとミュージカル作品の見せ方を勉強してからやるべき。
ガガにはかつてのような勢いや、ピッチピチの鮮魚店の鮮魚のような活きのよさもない。
ホアキン・フェニックスの役への没入は凄かった。だからこそ俳優ホアキンが気の毒。
ガガありきの企画だったのかもと想像。ガガはガガ以上にはなれなかった。「え!これがあのガガ?」っていう意外性を見せてくれてたら…。
ストーリーもなく、単純に面白くはない。ジョーカーじゃなくアーサーなんだよと言われても…。ジョーカーの看板掲げてるしな。
ラストも容赦がない。監督は夢を見る余地を全て打ち砕き、主人公・前作を全否定した。そこまでやらんでも…。
オッペンハイマーや、マッドマックス最新作、今作を観ていると、ずっと音が次々に鳴り響き、映像も凝っている。IMAXや音響の良い映画館を使って欲しいのだろう。
が、のべつ幕なしだと正直うるさい。一体誰をターゲットにしてるのか分からないですが、この「次から次へ」を映画会社や配給元に言われてるっていうのもあるんだろう。
トッド・フィリップスとスコット・シルバーへの今までの賛辞が…。
次回作で巻き返しましょう!
カタルシスは皆無だけど傑作
悪への目覚め
評価が難しい作品
さて本作!前作が良き作品でしたので楽しみにしていました♪
奇跡的に?笑、友人と見て来ましたが、個人的には微妙でした。
第一印象として、ミュージカルがウザい!と言う方が多いと思います。ただ、私自身は寧ろ好きなので別段苦痛では無かったです。
それよりも、ダラダラなストーリー展開が退屈でした。ガガ様も良いアクセントでしたが、脚本が悪いのか誰でも良かったような…w
友人の評価は深いと言っていましたが、私には理解できず…
結論、ダークナイトのヒース・レジャーとどうしても比較してしまい…っと言った所でしょうか。
それとは別な、ホアキン・フェニックスの良さも充分!に感じていますが難しいですね!!
是非、映画館でご鑑賞ください。
制作者が混乱した映画だったのではと
(完全ネタバレなので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
今作の映画『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』はずっとこの映画を観ていて、一体何を描きたいのか良く分からない作品になっていると、1観客としては思われていました。
するとようやく映画の終盤辺りで、以下の事が描かれていると分かって来ます。
A.主人公・アーサー・フレック(ジョーカー)は、殺人事件の裁判において、多重人格者の精神病者として認定されれば、死刑の有罪を免れられる
B.主人公・アーサー・フレック(ジョーカー)は、殺人事件の裁判において、精神病者でなく、全く一貫性ある正常なカリスマとしてのジョーカーそのものの犯行であったと認定されれば、死刑の有罪にはなるが、カリスマのジョーカーとして殉教者になれる
つまり、今作は映画『ジョーカー』で主人公・アーサー・フレック(ジョーカー)が犯した5人の殺人事件(実際は母親を入れて6人の殺人事件)を、裁判で裁く物語だったことがようやく映画の最終盤で分かるのです。
ところが、この映画のトッド・フィリップス監督や制作者が混乱していると私的感じられたのは、この映画を、Aの主人公・アーサーは分裂病者の無罪とも、Bのアーサーは死刑の有罪だがジョーカーとして殉教者になるとも、描かなかったところにあると思われました。
つまり、
C.主人公・アーサー・フレックは、精神分裂病者でもなく、ジョーカーというカリスマでもなく、単なる6人の殺人者として死刑になるという結末
(実際は違う最期でしたが‥)
にトッド・フィリップス監督や制作者がしたのです。
なぜこれで監督や制作者が混乱していると私的感じたかというと、以下が理由になります。
メリーアン弁護士(キャサリン・キーナーさん)は、Aの主人公・アーサー・フレックが精神分裂病の精神病者だとしてアーサーの無罪を勝ち取ろうとしています。
しかし、メリーアン弁護士が、アーサー自身のBのカリスマ性(ジョーカーの存在性)を、Aのアーサーが精神分裂病との主張により失わせようとしていると、主人公・アーサーは逆に激怒して、遂にメリーアン弁護士を解任してしまいます。
そして主人公・アーサー・フレックは、ジョーカーとして本人訴訟の法廷に立ち、いかに自身がカリスマとして存在しているかを法廷でアピールします。
当然この振る舞いは、Bのカリスマ性=ジョーカーの実在性の証明の証言であり、アーサー=ジョーカーの精神は一貫している(精神病ではない)つまり有罪の死刑になる主張であり、しかし主人公・アーサーはジョーカーとして殉教者になる、という主張でした。
ところがこの時の主人公・アーサーのジョーカーとしての法廷証言には、看守のジャッキー(ブレンダン・グリーソンさん)らを侮蔑する内容が含まれており、主人公・アーサーが刑務所に戻ると法廷のTV中継を見ていた看守のジャッキーらに激しく暴行され、挙句はアーサーに影響されて大声で歌い出した若い囚人(コナー・ストーリーさん)が煽りで看守のジャッキーに殺害されてしまいます。
そしてこの時の経験により、主人公・アーサー・フレックは、次の法廷でジョーカーの存在性を前回の主張をひるがえして否定します。
その証言によって、(Aの精神病による無罪でもなく、Bのジョーカーとしての殉教者としての死刑有罪でもなく)アーサーはCの単なる6人の殺人犯としての死刑有罪になるのです。
ところが、1観客の私には、例え看守のジャッキーらの激しい暴行を受けたとしても、この時、若い囚人が煽りで殺害されてしまったとしても、主人公・アーサー・フレックが最後の法廷証言で心変わりをし前回までの主張をひるがえして、これまでの幼児虐待の経験などから生まれたジョーカーの存在を自ら否定するには、残念ながら根拠が薄すぎるように感じました。
(例えば、主人公・アーサーはこの時、若い囚人が看守のジャッキーに殺害された声を聴いたと、TV中継ある法廷で証言し、再び社会批判を繰り広げるカリスマのジョーカーとして振舞うことも可能だったはずです。)
すると、トッド・フィリップス監督や映画の制作者が、社会現象にもなったジョーカーの存在を、Aの多重人格者の精神病による無罪での生き延ばせも、Bの殉教者のカリスマとしてのジョーカーの死(死刑)も、外野の影響によって選択できなかった混乱がこの映画にあったのではと思われたのです。
つまり、Cの単なる6人の殺人犯としての死刑有罪の主人公・アーサー・フレックの選択は、映画(の登場人物)の内在的な自然な方向性から出た選択ではなく、トッド・フィリップス監督や映画の制作者が、現実の映画の外野の圧力に屈して歪んで選んだ選択と感じられたのです。
もちろん、リー(レディー・ガガさん)の存在は、ジョーカーのカリスマ性の肯定の象徴であり、しかしそれをずっと主人公・アーサーとのミュージカルシーンなどで描き続けるのは、残念ながら個人的には映画にとっての時間稼ぎであり、今作の本質は最終盤の裁判の場面からでしかなかったと思われました。
仮に今作の映画『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』への批判や不評があるとしたら、映画の内在性が指し示した自然な方向性を、(ジョーカーの存在を肯定するにしろ否定するにしろ)現実社会の映画の外野の圧力によって歪ませてしまった、監督や制作者による映画そのものの自らの内在性の否定から、批判や不評が来ていると思われました。
また今作をわざわざ制作する必要もなかったのではとも思われました。
ただ、アーサー・フレック/ジョーカー役のホアキン・フェニックスさんの演技は相変わらず素晴らしく、リー役のレディー・ガガさんの演技や特に歌のシーンは圧巻ではあったので、今回の点数に僭越ながらなりました。
酷いものを観せられた。
雨に笑えば
暴動煽動映画との謗りを受けた『ジョーカー』の続編である。前作に続いて監督をつとめたトッド・フィリップス曰く、賛否両論は覚悟の上でのお仕事だったらしい。前作で5人(正確には6人)もの人間を殺めた罪で更生施設に収監されたアーサー・フレック=ジョーカー(ホアキン・フェニックス)。そのアーサーが殺人当時心神喪失状態にあったか否かを判断する裁判劇になっている。
なにせDCの版権をがっちり握っているビッグ5のWarnerが配給元になっているせいか、反体制(反民主党)的な映画は兎に角この時期ご法度なのである。前作を夢オチで終わらせたトッド・フィリップスもそのあたりよく御存知とみえて、反体制的なアーサーに今回きっちり引導を渡している。ハーレクインことリー(レディ・ガガ)と共に“山をつくる”=“世界を作り変える”なんて大それた夢を、映画の中でハッキリ諦めさせているのだ。
本人その気もないのに暴動のシンボルとして祭り上げられたジョーカーは、8年前なる気もないのに大統領に当選してしまったトランプとそっくりだ。ピエロの分際で俺たちエリートに歯向かうとは何事かと、(民主党の息がかかった)警察や司法、そしてマスゴミから一斉攻撃を受け刑務所の中でボコボコにされるアーサーは、間違いなく大統領の座を無理やり引きずり下ろされたトランプを意識していたに違いない。
前作は同じく反体制臭の強い『タクシードライバー』や『キング・オブ・コメディ』からの引用が秀逸だったのだが、今作においては古きよき時代のハリウッド・ミュージカルへのオマージュてんこ盛りで、突如として笑い出すジョーカーの醸し出す狂気が、無毒な笑顔へと中和されている。6人をその手にかけた凶暴性はどこへやら、すっかり去勢されてしまっているのだ。くそ生意気な検事や裁判官てすら、すべて夢の中で殴り殺すのがやっとこなのである。
2021年にアメリカの国会議事堂が襲撃された時は、こりゃついに映画の予言が的中したかに思われたのだが、現実はすでに映画を超える方向へ進みつつあるのだ。バ◯なHarris陣営の度重なる失態により、11月の大統領選挙はどうもトランプ=ヴァンスが地滑り的勝利をおさめそうな雰囲気なのである。不法移民をつかって不正投票を行ったとしても追いつけないほど差が広がっているらしい。“打つてなし”とはこのことなのである。
茶番に過ぎないお決まりの陳述に嫌気が差したトランプならぬジョーカーが(プロンプターなしのアドリブによる)本人弁護を開始したまでは良かったのだが、警察の暴力に簡単に屈したアーサーは、リーにあっさり三行半を突きつけられてしまうのである。2度にわたる暗殺未遂を逆手にとったトランプとは真逆の弱腰ぶりに、明るくなった場内で「よく寝たわー」という声が方々で上がったとしても不思議ではないのだ。
配給元がWarnerではなくA24だとしたら、映画の結末はまた違ったものになっていたのかもしれない。TVカメラを配置した映画内見世物番組としての演出も、今回はまったくの空振りに終わってしまった。それはおそらく、映画が提供する虚構よりも、現実の方がより虚構化・茶番劇化しているからではないだろうか。トランプがハリケーン・ミルトンの被災者をわざとらしく見舞ったり、バ◯なHarrisが「あと32日」という台詞を繰り返す時、我々はそれを嫌でも意識せざるをえないのだ。
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