劇場公開日 2024年10月11日

  • 予告編を見る

「全てが不快」ジョーカー フォリ・ア・ドゥ Bossさんの映画レビュー(感想・評価)

0.5全てが不快

2025年3月21日
PCから投稿
鑑賞方法:その他

難しい

感想

まずこの映画を見るにあたって、殆ど全ての人が1を見ているでしょう。
ジョーカー1があれほどに評価を受けた理由として、過去の作品を意識、模倣するなど、建物で言えば建材や構造への細かな配慮が優れていた点。そしてDCの有名悪役を通して描く人間、社会の難しさを描いた点が挙げられます。
最近では鬼滅の刃に代表されるように、悪役にも過去があり、成り立ちがあり、心理学的素因や家庭環境に起因する歪みなどが受け手にはっきりと表される事が多くなりました。
悪役の背景を描出することで、悪役の深みを感じ同情を誘う事で物語への没入を強めることが可能となります。
ジョーカー1でも悪役をメインに配置しその背景を描く事で、どうしてこの姿になったか、その過程においては自分自身と何ら変わりない状況におかれていたのではないかと想起させました。これにより同一視した視聴者が行動に出る意思を抱くほど影響力が高い作品となりました。
ではジョーカー2はどうか。ジョーカー1との明確な違いは何か。視点にあると考えます。
ジョーカー1はアーサーに共感した大多数とそれ以外の少数がいました。
ジョーカー2ではアーサー視点、社会視点、視聴者視点、自己中心視点の4つに分類されるます。
社会視点は、事情はわかるけど許されることではないかなと感じた視点です。
視聴者視点は、ミュージカルが良かった、悪かったといった独特の表現技法への感受性や耐性を重視した視点です。
そして自己中心視点は、むしろこれが良いという所謂逆張りの視点です。
アーサーの立場になればこの映画は酷評でしょうが、それよりも賛美している側は大体が後者3種に属しています。そして何よりもこの3つの視点がジョーカー1の時点では、ほとんどがアーサー視点に立っていたということが重要です。
ジョーカーと呼ばれる存在がひたすら叩かれる映画を、ジョーカー可哀想、わかると同情していた視聴者が賛美している構造になっています。監督はこの構造がジョーカーぽいと言いたいんでしょうか。

今作はアーサーの攻撃的な限界よりも自棄的な限界をクローズアップしています。
とにかく弱い。とにかく弱者。ここで間違ってはいけません。とにかく悪者ではないのです。監督がアーサーは皆の知ってるジョーカーじゃないよ。だから辻褄が合うよねと言わんばかりのエンディング。アーサーがジョーカーとしてより暴力的に、よりカリスマ的に振る舞う様子を見たかったという気持ちももちろんあります。それにしてもあれほどまでに弱者が痛めつけられている様子を見せつけられ、次作ではより救いがない。とてつもない暴力描写があるわけでもなく、大人から子供まで誰もが知るキャラを使う事でまるでポップ寄りの作品であるかのような面構え。
そこら辺にある拷問映画の方がまだ大事な何かがある。この映画を作る意味とは何なのかが全く伝わってこない。映画における一発屋という表現が全くに当てはまる。
前作の視点による感情表現の示し方や独特とも思わせたライティングや、ある意味一本道なストーリー構成は、キャッチーと十二分に言える要素でした。しかし今作はただの二番煎じ、学校で学んできましたという様な監督の技術発表会でしかありません。
この映画を褒める人に問いたい。本当に面白かったですか。また見たいと思いましたか。この映画を褒める自分を好きなだけではありませんか。
でもここは良かったよねと思われる方もいらっしゃると思われますが、そんな犯罪者が更生したから偉いみたいな評価方法は他の映画を否定することになりませんか。
死ぬほど映画を見た上でむしろこういう映画が良いんだという様な超有名監督の考えも分かりますが、それは限りなく特別なケースであり、そこと同一視するほど自惚れた視聴者に喜んでもらったところで何年後には記憶の深くに消えて無くなるのが落ちです。
とにかく監督の思うジョーカーぽさ、ジョーカーぽい要素を映画っぽく詰め込んだぽい映画です。不快。

コメントする
Boss
PR U-NEXTで本編を観る