「概念としてのジョーカー」ジョーカー フォリ・ア・ドゥ かぼさんの映画レビュー(感想・評価)
概念としてのジョーカー
ジョーカーのオリジンを描いて世界的大ヒットした前作は、デニーロを出して確信犯的なスコセッシの『キング・オブ・コメディ』の影響が大き過ぎて、今一つ乗れなかった。
ジョーカーのキャラを使って語る物語としての必然が低い様な気がしたし、いっそのこと『キング・オブ・コメディ』のリメイク撮った方がスッキリするとまで思った記憶がある。
確かにアーサーと云う男が、ジョーカーと呼ばれるまでの経過を、観る者に納得させる悲惨な負のスパイラルを無駄なく表す物語ではあった。
しかしそのジョーカー像は、後にバットマンと対峙するジョーカーとは思えないものだったので、ジョーカーになった時の自己の解放にカタルシスは感じなかった。
ただホアキンの演技は凄いし、評価も高く、ベネチア獲ったりオスカーの主演獲ったりしたので、個人的にはこのジョーカーは始祖の話だと勝手に決めて、納得しようとしてた。
バットマンに対するジョーカーはもっとシンプルで絶対悪な存在だと思ってるので。
その続編「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」は、レディ・ガガが参加してのミュージカル仕立てだと聞き、一体何を観せられるんだろう、ガガちょっと苦手だしなぁと重い腰をやっと上げて鑑賞しました。
結果、物凄く納得しました。
ミュージカル風な部分は全く違和感を感じませんでした。
前作の最後で、アーサーが鼻歌を歌う延長だと思うし、そもそも妄想癖のある人物なので。
ただ画一的なリーの人物像と、リーとアーサーの関係もそれほど深く描く気が無いのか、台詞でドラマを作ろうとせずに歌だったのは、リーはアーサーを取り巻く環境の一部だっただけで、
2人の関係性から前作に無かった何かを描こうとしてるとは、思えませんでしたし、もっと短いシークエンスのものをミュージカルで引き伸ばしたとも、とれました。
前作も含めてジョーカーではなく、ずっとアーサーの話だった訳で、結局ジョーカーを否定して自己確立する所で、物凄く納得しましたし、何よりジョーカーは個人では無く、悪意の概念だと示唆してると思うので、素晴らしい落とし所だと思います。
ゴッサムシティに悪の象徴を産んだアーサーは退場したが、概念としてジョーカーがゴッサムに生まれた訳で、これである意味ジョーカーは、不死性を孕んだキャラクターとなったと思います。
監督のトッド・フィリップスが、自分で描いたジョーカー像の落とし前を見事につけてくれたので、とても良かったです。
アーサーに落胆するリーを含めた信者達の姿と、本作を酷評し興業的に失敗したアメリカの人々が被って見える所は狙ってなかっただろうけど、そう言う所も含めて見事だったと思います。
願わくはフォリ・ア・ドゥで描かれた要素を含めて(ミュージカル部分を省いて簡素にして)、前作で1本にまとまって語り尽くされていれば、凄い映画になったのではと思いました。
共感ありがとうございます。
そういう位置付けの作品なんだと段々納得して来ましたね。ジョーカー=悪、反逆の象徴だとすれば、今後のバットマンシリーズでは複数のジョーカーも現れるかもしれませんね。