「ご自分の目を信じてご自分で判断して下さい」ジョーカー フォリ・ア・ドゥ クニオさんの映画レビュー(感想・評価)
ご自分の目を信じてご自分で判断して下さい
下馬評は無視して下さい、傑作です。DCコミックの敵役を神がかり的に高め、些か過大な評価と成果を得た前作、ハリウッドのどうしても避けられない続編要請に応えた結果がこれ。アーサーからジョーカーへ昇華した高揚感をそのまま2作目も引き継いだら、スタジオから3作目の要請も不可避、だからジョーカーからアーサーへ引きずり下ろし、のみならず息の根を止める。多分監督トッド・フィリップスも主演のホアキン・フェニックスもこの展開しか選択肢はなかったのではなかろうか。なによりホアキンが5年ごとに激痩せするなんてそもそも無理でしょ、次回やったら命に係わるのですから。
巻頭のWBcartoonによるアニメションが本作の要約を早々に示し、さらにエンドタイトルに流れる曲「That’s Life」が全てを纏めてますので、その一部和訳を示します。
『人生なんてそんなものだ、誰もが言うだろう
4月は上手く行っていたのに、5月には撃ち落とされる
でも僕がそのリズムを変えてやるさ、6月僕がトップに返り咲いた時にね
僕は傀儡で貧民で海賊で詩人で、ポーンでもキングでもある
人生を上がったり下がったり越えたり出たりする中で
1つ分かったことがある
自分が覇気の無い顔で倒れているとわかったら
自分で起き上がって再び戦いに戻っていくんだ
それが人生なんだよ、そんなもんさ、否定はしない
こんなもの辞めてやるって何度も考えたけど
僕の心は決してそれを許さないんだ
でも7月になっても、心を震わせるようなものが何もなかったら
自分をくるくる巻き上げ大きなボールにして
そのまま死んでやるさ』
哲学的に高められた魂の彷徨の後始末はそれはそれは難作業だったでしょう。そこで編み出されたのが音楽で、前作の高評価の一翼を担ったチャールズ・チャップリンの歌曲「スマイル」の圧巻の扱いを拡張し、ミュージカルの形態を取り入れたのはけだし慧眼でありました。メインは1965年のバート・バカラックによる「What the World Needs Now Is Love」を筆頭に、30年代から60年代に及ぶ名曲をちりばめ、心情は曲に載せ描く。「that entertainment」から「They Long to Be Close to You」まで、心憎い選曲で、ホアキン本人まで歌唱するなんて。そこで相手役の女優には歌える人でレディー・ガガなんですね。
アーサーとジョーカーの二重人格か否かで自分を裁こうとする社会に対し、本人はいたってクールで、感心はそんなところにはない。それどころか本人すら分かっておらず、自分に感心を寄せる女リーの登場と離別によってやっと目覚める節もあるわけで。一躍スターに祭り上げられた者の彷徨を冷徹に作者は暴いて行く。影の部分に脚光があたり、それに翻弄され、社会はその影をさらに大きく期待し、偶像崇拝の域まで勝手に持ち上げられる。そんな恐怖をアメコミの姿を借りて描いたとも言える。アメコミのヒーローに自己懐疑なんてあり得ない、けれど前作でそれに踏み込んでしまった以上、影の姿は収束せざるを得ない。
映画の背景は殆どが刑務所内と法廷に限られ、妄想のミュージカルシーンが原色に彩られ展開する。綿密な画面構成が隙を与えず、緊張感が持続される。流石の豊潤な画創りを堪能できるわけで、第一級の映画の力をまざまざと感じさせる。各シーンの終わりに溶暗を用い、感情のピリオドのように品格を伴う仕掛け。
なにゆえに本国も我が国でも低評価が多いのか、多分それはジョーカーが脱獄でもして民衆の不満解消の大騒動でも期待したのでしょうね。そもそもマーベルがそんな具合でだらだらと続けているのですから。自らの手で葬り去った勇気こそ褒め称えるべきでしょ。とは言え、商売熱心なスタジオはリーのお腹の中のベビーを主役に、21世紀の悪の権現として登場させる手だってありますからね。