「悪の救世主の誕生」ジョーカー フォリ・ア・ドゥ SP_Hitoshiさんの映画レビュー(感想・評価)
悪の救世主の誕生
面白かった。最後は賛否両論ありそうだけど、なぜこの結末になったのか、深読みしがいがあって面白い。
前作と本作のストーリーを素直に解釈すると、
前作:アーサーがジョーカーとして覚醒(変身)する物語
今作:ジョーカーがアーサーに戻る物語
ということになる。
リーが言うように、アーサーは「ジョーカーなどはじめからいなくて、アーサーただ1人だ」、ということを認めてしまった。
しかし今作を深読みすると、実はこの物語は「真のジョーカー」の誕生を描いている、という解釈が可能なのではないか、という気がする。
前作では、ジョーカーに人々は社会的不満と怒りを投影させ、悪のヒーローとして祭り上げた。これは、アーサーを媒体としてジョーカーという偶像としてのヒーローが「受肉」したともいえる。
しかし、卑小な、何の特別な能力も持たないただの人間であるアーサーは、人々が理想とする悪のヒーローになりきることができなかった。コメディアンとして成功したい、という願いはかなえられず悪に転落し、転落した悪の道でもヒーローになりきることができずに二重に挫折する、というアーサーのどこまでも哀れな悲劇の人生。
アーサーは全く報われずに死んだ。しかし人々のジョーカーを望む声は消えない。アーサーはいなくなっても、第二、第三のジョーカーが現れるのでないか。ジョーカーはジョーカーを望む人々がいなくならない限り、現れ続けるのではないか。
これは、アーサーをきっかけとして受肉したジョーカーが、アーサーという仮の媒体を脱ぎ捨て、ジョーカーという「概念」に昇格したということだ。
アーサーが「ジョーカーなどいない」と言っても、人々の理想通りのジョーカーではなかったとしても、もはや関係ない。「ジョーカーの概念」はこれからも次々といろいろな「媒体」を乗っ取り、何度死んでも何度でも復活する、不滅の存在になった。
もう少し妄想をふくらませると、ジョーカーが仮の肉体を捨て、不死の存在に昇格したのは、人間であるイエスが神となった経緯に似ているようにも思う。イエスは罪人として裁かれ、処刑され、復活し、神となった。ジョーカーも、裁判を受け、罪人とされ、死ぬことで不滅の悪の救世主となった。ジョーカーが不滅の存在になるためには、アーサーの死が必要だった。人間としてのイエスの死が神としてのイエスの誕生に必要だったように。
この物語におけるリーとは、「ジョーカーという悪の救世主を信奉する人々の声」の象徴だろう。ジョーカーは、突然変異的に発生した悪ではなく、不平等な社会と人々の願望が具現化して生まれた。
リーが愛したのは人間としてのアーサーではなく、自身の願望を投影した偶像であるジョーカーだった。
この物語で強烈に連想したのは、フェスティンガーの「予言が外れるとき」。予言者の予言が外れた時、信者たちとその教団はどうなるのか、ということを、実際の宗教団体に潜伏することで調査するという内容。予言が外れた時、その教団は信仰の求心力を失って衰退する、と考えてしまうが、実際にはむしろより信仰心を高め、強固な宗教に変わっていくのだという。そこでフェスティンガーは有名な「認知的不協和理論」を導いた。
アーサーがジョーカーの信奉者たちにとって理想的なジョーカーでなかった、となっても、ジョーカーへの信仰心は消えるどころか、むしろ強固になる。
アーサーは個人の中での認知的不協和のためにジョーカーを生み出したが、ジョーカーは集団的な認知的不協和のために不滅のジョーカーに昇格した。
この映画の本当の主人公はリーだろう。リーの狂気に近いジョーカーへの望み。リーの妄想とアーサーの妄想が響き合い、悪の救世主としてのジョーカーが完成した。逆説的だが、実は望みをかけられる者は望みをかけるものに支配されているのではないか。