「カウンターカルチャーとしてのミュージカル」ジョーカー フォリ・ア・ドゥ ユートさんの映画レビュー(感想・評価)
カウンターカルチャーとしてのミュージカル
「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」、とても良かった。傑作。アイデンティティーの確立に失敗した「ハウルの動く城」みたいな話だった。よく出来ていた。
想像以上に誠実な作りでびっくりした。ジョーカーによる表面的な破壊はあまり見られない作品だろう。だがジョーカーは破壊している。何を?常識、それにまつわる社会や世界を。それも示唆による破壊である。つまりこの映画はジョーカー(=アーサー)の話を聞く作品である。
「ダークナイト」や「ジョーカー(1)」よりも僕は好きな作品である。この作品に〝ジョーカー〟を求める事はアーサー自身のアイデンティティーを認めない事に繋がる。アーサー=ジョーカーの話を聞きたい人には満点の映画である。
欲を言えば、アーサーにもう少し分が有っても良いと思う。そんなに神様は理不尽なものなのだろうか…。そういう点では一作目でのシナリオ構造上の問題が二作目で露呈しているとも言える。それに対して二作目はより誠実に(過度に真面目に)なったと思われる。僕は誠意のある映画が好きなので評価する。
「誰の中にもジョーカーがいる」というよりも、「誰の中にもアーサーがいる」と思った方が良いと感じる。
レディー・ガガさんが過度にハーレクインを演じていないところも演出として正解だったと思う。ハーレクインという存在にガガさん自身の近い部分を寄せていった印象。
ミュージカルもよかった。カウンターカルチャーとしてのミュージカルとしてよく出来ていた。
比率として、
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」度:3
「ショーシャンクの空に」度:1
「カッコーの巣の上で」度:1
「カラマーゾフの兄弟」度:1
「新約聖書」度:3
「マクロス」度:1
アメリカンニューシネマで始まり、アメリカンニューシネマで終えたような作品だった。
(そういう意味では)至極真っ当な作品だったと思う。
今作には隠れたテーマとして紛争、戦争の事も入っていると感じた。
1人の人間の心の平安の無さが、世界にどれだけの不安定を齎すのかというメッセージを想う。
余談を書けば、「ジョーカー2」はつまり「1」と「2」で綴られた〝ジョーカー〟の話で無くても良いという事だと思う。つまりは、ホアキン・フェニックス版〝ジョーカー〟の話であって、〝ジョーカー〟という存在は、街や世界で認められなかったアイデンティティーの集積値の存在なのだと思う。
冒頭のアニメーションも分かりやすく表現されていた。(影を無くした)ピーターパン症候群であり、アダルトチルドレンの問題から暴走した影によって自身が翻弄されている(されていた)表現であり、この問題はアーシュラ・K・ル=グィンの「ゲド戦記」などに見られる〝自己確立〟の課題と重なります。
余談の余談になるものの「ハウルの動く城」で宮崎駿さんがやりたかったのは男女の恋愛を介しての「ゲド戦記」だったのだと思う。ハウルは大きな魔力を手に入れる為に心臓と自己を二分させながら行先の見えない戦いをしています。ソフィーという存在がハウルの自己認識の根源を見つけることで癒します。
(おそらく)宮崎駿さんの中には〝一人の人間の中の呪解がもたらす世界の平和〟という考えがあります。
それは僕も最もな考えだと思います。
「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」に於いては、一人の人間の呪解は…、という形です。
これは東洋的思想かもしれませんが、「ハウルの動く城」を超えた作品では無かったのは、監督に力量が無かった為では無いと思います。宮崎駿さんが異次元に行っているだけだと思います。
寄り添うように誠実に作られていました。
あとあのキスは何だったのかという事ですね。あれは自己統一性が保てないまま愛を持って生きようとしたアーサーの影の暴走ですね。人との境界が分からないまま愛を大事にしようとしたアーサーの影による行動です。
それは序盤のオープニングアニメでも描かれていますね。
終盤の階段を登るシーンはゴルゴダの丘なのでしょう。
贖罪の物語でしたね。
ハーレクインについて。彼女がアーサー、ジョーカーに求めたのは彼の持つエンターテイメントです。なのでアーサー自身がジョーカーをやめる、ピエロをやめるという事に絶望した訳です。アーサーはエンターテイメントよりも自己のアイデンティティーを優先しました。(それ自体は)正しい判断でした。
これは編集による為なのか、元々の脚本や撮影が多かった為なのか分からないのですが、ハーレクインは逆にアーサーのどこに可能性を感じていたのでしょうか。生き延びる可能性です。あのまま影の暴走を願っていたのでしょうか。それにはアーサーは強過ぎました。
リー、つまりハーレクインがアーサーにジョーカーのメイクをするシーンでは映画「ブレイブハート」のような革命戦士を思わせます。彼女が望んでいたのはジョーカーが世界に伝染することだったのでしょう。しかしアーサーはそれを拒みました。傷ついた幾人ものジョーカーを生み出す事はしませんでした。
この物語ははっきり言って悲劇です。
終わり(結末)には悲しみがあります。
しかし何故悲しみがあるのかの理由は、アーサーが二作目において英雄的決断(と言ってもいい)をしているからです。それは罪を認め、自己のアイデンティティーに向き合う事を選んだからなのです。物語の中の唯一の希望です。
ジョーカーが助かる方法がひとつだけありました。それは「アイドル」になることです。無責任の象徴であるピエロに対して責任的象徴として人を楽しませる存在、それは「アイドル」です。仮にジョーカーの逆転劇、生存戦略として可能性があった方法としては自分自身のアイドル化です。そこにはアイデンティティーの回復に伴った形で支援を募る状態でありつつ、自身だけに収まらない世の理不尽を利他の精神で訴えながら愛される戦略です。
ただひとつの方法です。
僕はその可能性が作品内に残されていたことを示唆します。