「スピンオフとして100点」マッドマックス フュリオサ inoTV IKEさんの映画レビュー(感想・評価)
スピンオフとして100点
2015年に公開され、誰もが認める大傑作となった「マッドマックス 怒りのデスロード」の9年振りとなる新作「マッドマックス フュリオサ」は前作の世界観を活かしつつ語り口が180°変わった、全く新しいマッドマックスであった。
そもそも、前作「怒りのデスロード」の語り口とは、常にアクションで語るというものであった。アクションシーンがとてつもないことは言うまでもないが、その上深みのあるキャラクターを説明し過ぎず、アクションによって浮かびあがらせる事で、見てる側も体験型アトラクションに参加しているような、いい意味で振り回されるような映画である。アクションの裏にそびえ立つ大きな世界観、読みとりがいのあるキャラクターの成長という圧倒的ドラマという作りが新鮮で、振り回されながらも圧倒される、私の人生においても印象的な映画体験であった。
そんな特徴的な「怒りのデスロード」とは語り口が180°違う、とはどういうことか。前作が気分あがりっぱなしの2時間、映画内では3日間を描く、とてつもないスピード感のある映画であったとするならば、アガることがあるにしてもその先の虚しさを描くアクション、フュリオサの体感時間を表すような2時間半、映画内で15年という月日を描いたということだろう。つまり言うと、前作と比べて言うならばペースはスローで長く感じる部分もある作品である。だがしかしそれはもちろん意図された作りであり、前作に比べてもより複雑で、単純なアクション大作にはしないぞという思いを感じた。
アガりきらないアクションとは言ったが、もちろん面白いアクションシーンは沢山ある。中でも満場一致で面白いと話題にあがるのはやはり15分間に渡るウォータンクのカーチェイスシーンだろう。前作は2時間ぶっ通しでウォータンクアクションを描いていたので、15分ではあるがある意味その進化版を見ることが出来る。前作になかった空からの襲撃、空中戦、ウォータンクの下を使ったアクション、またボビーノッカーという名前の必殺技など、他の映画のカーアクションシーンでも見たことの無いようなケレン味溢れるシーンだらけで最高だ。またこのアクションシーンはフュリオサとジャックという新キャラクターが初めて心を通わすための場面としての機能も果たしており、「怒りのデスロード」で見られた「アクションを通じての会話」という文法も見られ、さすがはド直球アップデート版と言ったところか。ただこのシーン、個人的には非常に惜しいというか、やはりアガりきらないシーンでもある。こういうアクションシーンで大事なのは、主人公がこのアクションにどんな思いで臨んでいるか、ということがひとつある。前作の「怒りのデスロード」では「イモータン・ジョーの軍隊から逃げる。とにかく逃げる。追いつかれたら死ぬ」ということが逃亡アクションに繋がっている、ということがセリフでなくとも伝わり、視聴者に緊迫感を与えている。しかし本作の15分アクションはどうか。ウォータンクが襲われようが破壊されようが、本来フュリオサ本人にとってはどうでも良いことである、というのが若干ひっかかるというわけだ。もちろん、ここでウォータンクが破壊されてしまえばフュリオサは死んでしまうかもしれないし、砂漠に放り出されてしまうかもしれない。しかし、だからといって本当の敵(イモータン・ジョー)のウォータンクを守りたい、というモチベーションは違和感があり、引っかかる部分であった。
その分、ラストのフュリオサがディメンタス軍を追い詰めるカーアクションは最高である。これぞマッドマックス!なスピード感と、生きているキャラクターのような車の存在、このアクションにはフュリオサがディメンタスに復讐したい、というモチベーションがはっきりあり、それも観客と共有されているので分かりやすくアガるアクションシーンであった。ちなみにラストのラストで遂に復讐に乗り出す主人公、という点では、その相手に訪れる残酷すぎる運命を含めてマッドマックス1作目のような空気も感じられると思った。こういう細かいところからも、本作は「怒りのデスロード」のスピンオフとはいえ、マッドマックス全体の精神を受け継いだ、ジョージ・ミラーの創り上げた世界の1つなんだなと思い知らされる。
本作は沢山の魅力的なキャラクターが登場するが、その中でも特に印象的なのはクリス・ヘムズワース演じるディメンタスである。本作のいわゆるメインヴィランで、マッドマックスシリーズお馴染みの頭のおかしい奴ではあるのだが、強烈なカリスマ性のあるヒューマンガスやイモータン・ジョーとはまた違った種類の悪役で、とても深みのあるキャラクターであった。詰まることこのキャラクターは過去のマッドマックスヴィランと違ってとても人間くさいのである。セリフからもわかる通り、世界が崩壊していく中彼は妻と娘を失い、娘の形見であろうかクマの人形を常に持っている、というキャラクターだ。映画の中でも彼が遠くを見つめて何かを思っている、というシーンが多く描かれていたり、フュリオサとジャックを処刑するシーンでは「もういい!飽きた...」などと呟いてしまう始末。またガスタウンを占領しイモータン・ジョーのシステムに食い込む、という本作の事件も、
単に強欲だから、頭がおかしいからという理由ではなく、この崩壊した世界で部下を従えながら放浪するディメンタスがなんとか安定を取るならこう!という理由でやった事のような気もする。ちなみにガスタウンを占領して十数年、やけに疲れたディメンタスが暴れ回るガスタウンの住民にうんざりしている、というのもなかなか人間くさい。そして幼少期フュリオサに対する態度である。フュリオサはを彼憎むが、ディメンタスはというとフュリオサを娘と重ねてみており、イモータン・ジョー軍との初戦では彼女を助けるシーンが目立って描かれる。この崩壊した世界で、なんとかクマの人形もとい娘に生きる意味を見ていたディメンタスにとって、本当はフュリオサに生きる意味を見ていたのではないか。そう考えると必死にフュリオサを助けるディメンタス、娘だと言い張るディメンタスに切なさを覚えて仕方ない。繰り返すがディメンタスはヒューマンガスやイモータン・ジョーのようなカカリスマ性を持つ訳では無いが、観客にとっては人間臭く共感の得られる、「マッドマックス フュリオサ」という映画が特別に感じられるひとつの要因となっていた。
ラスト近く、ディメンタスとフュリオサには長い長いやり取りのシーンがある。ついにディメンタスを追い詰めたフュリオサは彼を殺そうとするが、そんなことをすると俺と一緒になるぞと迫られる。復讐心に駆られて相手を殺す、という結果になればそれはこの世界に住む悪役と同じになるし、まさにそこの善人、悪役構造があやふやになるというテーマを描いたのがマッドマックス1作目であった。フュリオサは長い長い葛藤の末、ディメンタスを生かし、ある役目を与えて生き地獄を見させるのであった。ディメンタスはフュリオサに「俺と同じになってしまうぞ」とは言っていたが、本当にそうであろうか。この物語における主人公フュリオサと悪役のディメンタスの違いとはなんなのだろうか。私は、この二人の考えの決定的な違いは、この狂った世界において「自分以外の他人を見捨てる」という行動をとるかどうか。といったころにあると思った。フュリオサの母親がディメンダス軍に敗北した時、ジャックが弾薬畑で取り残された時には自分の危険を顧みず、戦いに戻るという決心をする。その結果どちらとも戦いに敗北するが、それがフュリオサの信念であり彼女の生き方なのであろう。それに対しディメンタスは、ガスタウンに攻め入る際に同盟を組んだチームを裏切ったり、弾薬畑では味方を盾に使ったりなど、戦況や自分のためなら他人の命を惜しまない人間である。ラストのイモータン・ジョー軍から逃げる際に乗り物を変更し、影武者を立てたのもその考えの元であろう。これらが彼らの決定的な違いであり、むしろフュリオサが自分の命のために他人を見捨てる人間であったならディメンタスのような残虐極まりない人間になっていたという可能性も考えられたのだ。
「マッドマックス フュリオサ」について長々と語ってきたが、結論は本当によく出来たエンタメ映画になっているということである。「怒りのデスロード」で上げたハードルを同じ方法でなく、違う語り口ながら堅実に語りながらも、見終わったあとにはさらに「怒りのデスロード」がより深く、より良くみえるような、スピンオフ作品として100点と言わざるをえない作品なのではないだろうか。