ミツバチと私のレビュー・感想・評価
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ココ(坊や)と向き合う家族と本当の〝私〟
劇中に音楽などが使われていないので
ドラマティックで感動的な演出はない。
スクリーンを淡々と見つめる作品。
少し退屈で眠気と戦った時間もしばしば。
観終わったあと頭のなかで整理すると
残るものはあったので無駄な時間ではなかったよう。
名前を呼ばれるほどに「性別違和」を感じてしまう。
だから名前を呼んで欲しくない。
そんな悩める彼(彼女)には
心を許して話せるたった1人の友達と叔母がいて
その人と同じ空間のなかでは
本当の自分で居られるのである。
性別違和感になってしまったのは
育て方や環境が悪いわけではなく
自分自身に目覚めたというだけのことなので
本来とすれば騒ぐような事ではないのだが…
そんなふうにさせてしまった、と
自分の存在を否定したくなってしまうのは当然で、
騒いでしまう周囲の反応も当然のことなのだ。
「変化」というものは人を混乱させるものなのだ。
フライヤーに書かれている
「生まれ変わったら女の子になれるかな?」
これに対する叔母の言葉が胸にささった。
「生まれ変わらなくていい、すでに女の子だ。」
言葉でもって受け入れてもらえた喜びの分、
周囲に溶け込めなくなってしまい
耐えきれずついにその場から逃げ出してしまう。
「アイトール」男の子の名前を叫び家族は探す。
この時はじめて彼の苦しみを理解し、
彼のアイデンティティを受け入れ、
心の底から女の子の名前で叫び、
彼女を探すのだった。
ラストシーンは陽だまりのようだった。
わだかまりも棘もそこにはもう存在しない。
彼女の涙、安堵した表情に目を奪われた。
風のように、自由に、
これからの人生を楽しんでほしい。
彼女と、彼女の家族の幸せを願いたい。
トランスジェンダー×バスクのひと夏。ココちゃんの未来に待ち受けるのははたして……。
まあこんだけ可愛かったら、しょうじき男の子だろうが女の子だろうが、もはやどっちだって良さそうな気もするし、ほっといても実際にはめちゃくちゃモテそうだけどね。
僕のなかでは、デビュー当時の牛田智大(ピアニスト)以来の衝撃度だったな……。
個人的にトランスジェンダー界隈に関してはまるで詳しくもなければ、おおむね関心もないのだが、純粋に主役のソフィアちゃんがあまりに美しいので、つい観に行ってしまった。
実際、眼福ではあったけど、お話としてはちょっと地味だったかな?
あまり音楽が掛からないこともあってか、何回かつい寝落ちしてしまった。
最近のトランスジェンダーがらみの言論は、傍目から見ても結構「荒れ気味」の場だったりするので、生半な知識では感想を言いづらい雰囲気がある。
とくに歌舞伎町のジェンダートイレ問題以降は、フェミニズム界隈が真っ二つに分断されて、悪しざまに言い争っている様子はなかなかにえげつなく、同じ女権の信奉者でも、男性への生理的な警戒心が思想のベースにあるかないかで、ここまで意見が正反対になるものかと興味深く見守っている。
なので、旧弊なおじさんである自分は、本作のトランスジェンダー要素については深入りしないことにする、というか、したくとも怖くてできない。
ただ、これだけ可愛い子を主役に据えながら、かならずしもココちゃん(アイトール? ルチア?)に観客が感情移入しやすいようには作られていないという点は、監督のバランス感覚なのかなあ、と。
ココは、我を押し通すし、おおむね機嫌が悪いし、トランスジェンダーが不安定さのいちばんの理由だとしても、結構扱いづらい子だ。
実際の子育てだと、この程度のやりづらさならいちいち気にしてなどいられないだろうが、第三者的視点で映画の登場人物として見ているぶんには、そこそこストレスのたまるキャラだと思う。
要するに、この映画では、トランスジェンダーの子どもの抱えている苦しさを描く一方で、そういう子供を育てていく親御さんの大変さや精神的な疲労感も、きちんと描いているということだ。
この映画で、ココちゃんを「天使のような子」としては描かず、「周囲に軋轢を生みかねない子」として描いている、ある種のフェアネスは、そのままラストにおける「なんとなく不穏な雰囲気」とも直結している。
最高潮にストレスフルな失踪劇のあと、事態はいろいろなゴタゴタを吹っ飛ばして(いくつかの肝要そうなシーンを力業でスキップして)、妙に唐突な感じで収束するのだが、これで本当に事態が収束したのかというと、どうもすっきりしない、というのが個人的な感想だ。
周りの大人に「この問題を粗雑に扱ったら大変なことになりかねない」という強烈なインパクトを与えることには成功したのだろうけど……。
根本的な問題は何も解決していないだけでなく、ココちゃんのなかでもいろいろなことがぐるぐると渦巻いたまま、家族はバスクでのひと夏を終えてフランスに戻っていくことになる。いろいろな問題は先送りになっていて、宙ぶらりんの状態は変わらない。
見過ごせないのは、次の3点だ。
●ココちゃんのなかでは、すでに希死念慮が生まれている。
(生まれ変わったら女の子になれるのではと純粋な気持ちで考えている)
●思い切った行動を取れば、周りの大人を慌てさせられることを知った。
●基本的に自分を曲げない性格だし、かなりの癇癪持ちである。
さらに、今はまだ中性的なルックスで美貌に恵まれているからいいけど、お父さんのむくつけき外見から考えても、そのうちどこかのタイミングで身体はぐっと骨ばってくるし、むしろ男性的な特徴が強く出てくる可能性のほうが高いのではないか。
そうすると、ココちゃんは今どころではない真のアイデンティティ・クライシスと、いつの日か向き合わなければならなくなる。
それらを踏まえたうえで、エンディングのクレジットロール後半でさらさらと聴こえてくる河の水音のことを考えるとき、これが単なる美しいバスクの自然を彷彿させるだけの環境音のように、僕には思えないのだ。
これは、死を誘うオフィーリアの水音だ。
ココちゃんはふとしたきっかけで、水際を踏み越えてしまう子かもしれない。
たとえいまの危機を乗り越えても、次の危機は乗り越えられないかもしれない。
僕にはこの水音が、ココちゃんのこれからの未来に待ち受ける暗い影を想起させる、とても怖くて不吉なBGMにしか聴こえなかった……。
それと、もう一点、気になる点がある。
主演のソフィアちゃんもまた、トランスジェンダーだってことでいいのだと思うが、まだ第二次性徴も現れていないうえ、自我がどこまで固まっているかもわからない子に、こういう「性自認のあやふやな」役どころをやらせて、周囲との激しい軋轢を追体験させるのって、本人になにか悪い影響が出たりはしないのだろうか?
ただでさえ、内側に、壊れやすい繊細な部分を抱えている子たちだ。
こういう「啓蒙的」な映画に出演させることで、却って心のなかの大事なところを壊してしまったら、それこそ元も子もないというか、本末転倒もいいところだと思うんだが、ちゃんとケアしながら作ってるんだよね?
あと、「裸を見られたくない」って設定の子どもの入浴シーンとか水浴シーンとかが何度も何度も出てくるんだけど(ぎりぎりバストトップはガードされてたような気もするが)、「観客サーヴィス」としては100%正しいとしても、ソフィアちゃん的には大丈夫だったのかな?(まあこの映画では、女優さんは中年から婆さんまで、分け隔てなく容赦なく脱がされてるんだけどねw)
本人の境遇に近ければ近いほど、純粋な子供はそのぶんキャラクターとの同化も容易になるし、作品から受ける影響も大きくなる。ソフィアちゃん自身が気づかないような心の傷を負っていなければいいのだが。監督その他スタッフが、しっかりケアして作品づくりをしていてくれたことを信じたい。
その他、ちょっと思ったことなど。
●おばあちゃんとルルベル叔母さんの見分けがあんまり付いていなくて、途中までかなりストーリーラインを誤解して観ていました(反省)。
●8歳でおねしょというのも、メンタル的にはけっこう心配かも。それとも性による尿の仕方の違いとか、なにか関係しているのか?
●ミツバチの生態や性分担を、トランスジェンダーを扱った映画で家族や人間社会のメタファーとして出してくるのは、けっこう危なっかしい気もするなあ。ハチって、女王バチの生殖活動を支えるためだけに、群れがひとつの生命体として奉仕する生物だし。こういう「個」がまったく尊重されないうえに性差に極端な役割差のある昆虫を、家族や人間社会と安易に重ねていいものなのか。
●芸術家を目指す娘ですら、お父さんが地元の女性たちの裸を写真に撮っていたことを気に病んでいるのか。そういうものなのかな? しかもその生成物としての作品『シルフィード』を自分の作品と偽って審査に提出するという歪みよう。ただ、ココと家族の物語という流れでは、ちょっと余分なエピソードだった気もする(監督は敢えてワンテーマに絞らなかったと言っているが)。
●いくら子供のほうも乗り気だからとはいえ、その子の性自認を明確にするようなドレス姿を、いきなり予備動作もなく親族全員が集まるダンス・パーティでお披露目するってのは、個人的にはなんぼなんでもやっちゃいけないと思うんだけど、僕の考え過ぎか?
●ラストの失踪シーンは、完全にビクトル・エリセ監督、アナ・トレント主演の『ミツバチのささやき』を意識したものだろう。何より、同じバスクが舞台だし。邦題も含めて、「美貌の子役×バスク」ということで「なるべく寄せていこう」としてるのは伝わってくる。もうすぐビクトル・エリセの新作も久しぶりに公開されるしね。
●ただ、あのシーン、個人的には今ひとつ受け入れがたかった。そこまでの抑制した作劇をかなぐり捨てて、唐突に「あざとい」名前呼びイベントを力業で発生させていて、そこのギャップというか、「ここだけ作り手のやりたいギミックが剥き出しになってる」のがどうも居心地悪いというか。やるぞやるぞと観客が息をのんで待ち受けるような「仕掛け」が、そう巧いものだとは、僕は思わない。
●パンフ読んでると、ふつうに役としてのココちゃんや演者としてのソフィアちゃんは、全部「彼女」表記なんだね。ふむふむ。
●やたら逆光のシーンが多くて、(せっかくの)ココちゃんの顔も陰になってることが多い映画で、最後はまばゆいばかりに光が順光で当たって、その美しい顔をきらめかせている。
そこには、ルチア(光)という「真名」とともに、監督の「祈り」のようなものがこめられているのだろう。
僕もまた「彼女」の人生に幸い多からんことを切に祈ります。
心と体のズレ。
自分の性自認が分からない8歳少年の話。
周りの家族や友達からの「少年」扱い、普段の生活に違和感、居心地の悪さを感じ心を閉ざすアイトール、ある日養蜂場を営む叔母の家に遊びに行った事から徐々に心境の変化が…。
フライヤー、予告の雰囲気で気になってる1本だったけど、ちょっと思ってた感じと違った。てか、解説、あらすじを先に読んでおいた方が分かりやすかったのかと!結果論。
ある程度の大人なら自分の気持ちを自己処理、コントロールできるかもだけど、8歳の少年だし性自認とも分かってないしで、大変なんでしょうね、周りにも相談しづらいだろうから。にしても、オヤジの頭ごなしな感じと、理解力のなさは観ててちょっと鬱陶しかった。
あとアイトール君の美少年ぶりは凄いし美少女と言われても違和感なし。ある程度、あらすじとストーリーが分かった上でもう一度観たら評価はいい方に違ってると思う!
配役が絶妙で説得力が凄く、ルチアのみならず毒親アネも相当のハマり役でした
2024.1.11 字幕 京都シネマ
2023年のスペイン映画(128分、G)
ある夏のバカンスを舞台に性的自認に悩む8歳の子どもを描いた青春映画
監督&脚本はエスティバリス・ウレソラ・ソラグレン
原題は『20.000 especies de abejas』、英題は『20,000 Species of Bees』で、ともに「2万種類のミツバチ」という意味
物語の舞台はフランスのバイヨンヌ
そこに住む8歳のアイトール(ソフィア・オテロ)はその名前で呼ばれるのを嫌い、周囲は仕方なく「坊主、小僧」を意味する「ココ」と呼んでいた
だが、アイトールはココすらも拒絶していて、彼は「8歳にして性的自認について悩んでいる」存在だった
母アネ(パトリシア・ロペス・アルナイス)はアイトールの扱いに悩み、父ゴルカ(マルチェロ・ルビオ)はアネの教育が悪いからだと断罪している
アイトールには弟のエネコ(ウナス・シャイデン)、義妹ネレア(アンドレ・ガラビエタ)がいたが、彼らはアイトールの悩みの理由を理解できなかった
ある日、親戚が住むスペインのバスク地方ラウディオに向かった彼らだったが、そこでもアイトールの性的自認問題は深刻だと捉えられてしまう
だが、そう思っているのはアネだけで、アイトールの叔母にあたるルルデス(アネ・ガバラン)はアイトールの話を傾聴し、彼が抱えている悩みを知っていく
また、いとこのニコ(Julene Puente Nafarrate)はそういった問題をさほど気にする様子もなく、普通に女の子だと思って接していた
アネは彫刻家として活動していたが、教職の免許を取るための作品をこの地で完成させようと考えていた
アイトールは親戚たちと一緒に過ごす時間が増え、ルルデスが営んでいる養蜂場に足を運んだりする
そこで母の子ども時代の話を聞いたり、地元の神父マルティーナ(Manex Fuchs)の話を聞いたりするアイトールは、聖ルチアの物語に興味を示し、自分のことを「ルチア」と呼ぶようになっていた
このあたりは宗教的な側面が強い内容になっていて、さらっと説明されるものの、意味不明のままスルーしてしまいそうになる部分であるように思えた
映画は、性徴が起こる過渡期による自分探しのようになっているが、これは子ども時代に自分で鏡を見たときに感じる違和感に似ていると思う
個人的にも男か女かわからない時期があったが、その揺らぎは時間の経過とともに無くなり、第二性徴が起こった段階で消えていた
彼にもその時が来ると思うが、それを超えてもなお続くかどうかは不透明な部分が多い
親としては心配する時期ではあるものの、過剰に反応しているのは、アネが安定していないからのようにも思える
世間体と自分の価値観を前面に押し出して、目的のためには手段を問わない姿勢でいる限り、子育てというものも自分の型に嵌めようとしてしまうのは弱さと無理解ゆえなのかなと感じた
いずれにせよ、配役が絶妙でなので説得力が凄いのだが、それだけの映画ではないのは周知のところであると思う
バスク地方におけるミツバチとの関係、聖ルチアの逸話など、教養を必要とするシーンは多いが、最後の行方不明のアイトールを探すシーンに凝縮されていると感じた
最後にアネは「ルチア」と呼ぶものの、ゴルカは最後まで呼ばないので、その後が予感できるような気もする
要所において、アネは自分の価値観とリズムで動いていたので、ぶっちゃけると子育てをする親には向いていないのだろう
それでも自分の状況を考えずに子どもを三人持ち、家庭環境に配慮しないところを見ると、なかなかの毒親だったのかなと感じた
自前の洗礼、自前の信仰、自前の名前
性別に違和感を持つ8歳の主人公は、バカンスで母の故郷を訪れる。おちんちんをきれいした後の男児への授乳、身体的な成長への言及、自己紹介、プールになど性別を明らかにしないといけないシチュエーションが続き、プールのトイレで母親に怒りを爆発させる。
ベッドに入るたび不安を吐露し、自分には名前がないと大叔母に告げた彼女が、「女の子のペニス」を肯定してくれるが大叔母や友人のニコとの自前の洗礼を経て、信じるものを確信する自前の信仰を得て、「ルシア」という自前の名を獲得する。
ともすれば自己を抑圧しかねない宗教から、信仰という力を抜き出し、自分を解放するというところに感動させられた。
また、世間体だけを気にする父親、「性別は関係ない」という一見リベラルな言葉で子供の性別違和から目を逸らす母親に、失踪という実力行使で「ルシア」という本当の名を呼ばせ、巣箱のハチに対して「ルシア」と自己紹介するシーンは特に素晴らしかった。
悩みを打ち明けず閉じこもるシーンではじまり、「パパみたいになりたくない」「なんで私はこうなの」「私の妊娠中に何か問題があった」の」という自分の存在への不安、ラストシーンの母親への微笑みへと、節目節目をベッドでの告白シーンでつないでいたのも印象的。
名前を呼んで欲しいだけなのに。
どうして私達は「生きているだけ」を受け止められないのだろう。
性自認に悩む子供。
オトナの言葉ではその一言で片付けられるし、それだけでなんとなく分かった気にもなってしまうけど、そんな言葉を持たないまだ8才のアイトール、ココ、ルシアは、名前を呼んでほしくないとか、その服は着たくないとか、プールはイヤ、ママと一緒に女子更衣室が良い、かわいい水着が着たいとか、そんな行動でアピールするしかない。
私達はわかっているから、自分でも処理し難い感情をぶつける先が無いし、上手く言葉にできずぐずるしかないんだろうなと、引いて見ることができても、親や親戚という立場だったらやっぱり、なんでなんでと問い詰めてしまうし、そんなものは子供の一過性の感情なんだからまともに受け止めるなと言ってしまうかもしれない。
でもたった一言、みんなが「ルシア」と呼んでくれたら、それだけで、もしかしたら、救われるのかもしれない。
性が求める外観を押し付けられ、それに抗いながら成長してきた自分には、なかなか辛い映画だった。
この先、現実世界でもこのような例は増えていくだろうし、なんなら一緒に育った子供達の方が性の壁をふわりと乗り越えていくのかもしれない。
死んだら女の子に生まれ変われるか?と聞いた子に、あなたはもう女の子、しかもとびきり可愛い、と言ってくれたおばさんに、心の中でスタンディングオベーションを送っていた。
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