「世界の終わりに希望を見出すのではなく、世界の終わりこそが希望なのかもしれない」世界の終わりから グレシャムの法則さんの映画レビュー(感想・評価)
世界の終わりに希望を見出すのではなく、世界の終わりこそが希望なのかもしれない
ラスト直前まで、これはもしかしたら、クリストファー・ノーラン監督の映画みたいに、理系脳フル回転で考えなきゃダメかな?だとすると俺にはムリだ❗️と思ったりしたのですが、エンドロールが終わる頃には、〝いや、そうじゃない❗️これは今の世界の厭世観の映画だ〟と思い直しました。
だから、パラレルワールドとかタイムスリップとかは、単なる道具立てのひとつとして、時系列やら、誰が誰に⁈という意味での理屈合わせ、辻褄合わせは見送り❗️
と自分の中の脳内会議は全会一致で決定(あー、良かった)。
ソ連崩壊や鄧小平の改革開放路線などが始まった頃は、政体はそれなりに違えど、世界全体が大きくは資本主義(=ある程度西側に近い民主化や自由化)で統合されていく⁈と暢気というか能天気に思ってました。
BRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)の発展で世界はますます豊かに共存共栄‼️
中東地域の紛争やアフリカなど発展途上国の独裁政権なども、大国と先進国が多少の利権争いはあるにせよ、国連の旗のもと、まぁそれくらいにしようよ、と時間はかかるかもしれないけれど、平和と安全と人権を希求する方向で動いてくれるはず…
すべて夢でした。
二度の世界大戦を経て、大いに反省したはずなのに。どんな事情、思惑があろうが、武力行使は無駄な死をもたらすだけなのに。
西側世界でも、グローバル化は多くの人に豊かさとチャンスをもたらすというのは幻想に過ぎず、結果的には経済格差の一層の拡大と固定化(運の悪い人は生まれた時からチャンスが限定的)をもたらしただけではないのか、という気がします。自力で打開することのできない閉塞感に覆われて自殺する人が老若男女を問わず増えている。
20年以上前ですが、村上龍さんが『希望の国のエクソダス』でこんなようなことを書いていました。
『この国には何でもある(金さえあれば何でも手に入る)。だが、希望だけがない。』
(今、手元に原本がないので記憶違いによる多少の相違があるかもしれません)
昭和世代は、希望のある時代を知ってます。
(ここで言う希望とは、大それた夢のようなものではなく、年金を貰うまでの安定した生活がイメージできる、という意味合いです)
少なくとも親世代の多くは働き者だったし、自分たちも真面目に働けば、細やかながら家庭や家やクルマを持てると思いながら生きることができました。今思うと信じられないことですが、定職につかず、好きなことをしながらフリーター的に生きてる友だちのほうが格好良く見えたりしたくらいです(安定した生活が割と普通に実現できそうだけど、その分退屈な人生だと自虐的に感じていました)。
→ヒロシよりも寅さんのほうに憧れる…今の若者は寅さんのような生き方はあまりに不安定で、憧れたりしないと思うのですが、違うかな?
強権国家のあまりに身勝手な振る舞いが世界に危機をもたらす一方で、身近な生活や将来設計についてもまったく希望が持てない、そんな閉塞感を持つ人たちの想念が〝世界の終わり〟を求めていることを表している。
世界が終わりに向かう中で、希望の光を見つける映画てはなく、世界の終わりこそが希望なのである。
そういう映画なのではないでしょうか?
うわー、なるほど...。
何度救っても懲りない、救いようのないこの世界。じゃあ、いっその事救わないでおこう。そんな風にしてこのラストにしたのなら、この作品って最高の皮肉映画、社会風刺映画なのかもしれません。紀里谷和明監督、すげぇな...。
クリストファー・ノーランぶりに脳内フル回転でしたね笑 しかしながら、ラストは素晴らしい着地点。世界の終わり“を”救うんじゃなくて、世界の終わり“が”救いなんですね。
「世界の終わりこそが希望なのである」に「なるほど。」だったのですが、「世界同時滅亡は、みんな と一緒になれる究極の救済に見えるのか もしれませんね」というコメントに改めて「なるほど!」でした。おもしろいです!
「メランコリア」一度見てみたいと思いました。