「原作を読んでみたい」ノック 終末の訪問者 SP_Hitoshiさんの映画レビュー(感想・評価)
原作を読んでみたい
若干評判が良くないことが気がかりながらも、シャマラン監督の作品ということで鑑賞することにした。
この映画は、「結局監督はこの映画で何を言いたかったのか?」とか、「自分ならこの話のオチをこうする」などの話題のネタを提供できる、という意味では優れた映画だと思う。
しかし、映画そのものの出来を評価するなら、残念ながらあまり他人にすすめられるほど面白くはない。というか、個人的にはやや不快(拍子抜け)なオチだと感じた。
原作小説は評価が高いようなので、機会があれば読んでみたい。
「ヨハネの黙示録」をモチーフにした話で、休暇を楽しむ3人の仲良い家族のもとに訪れた4人の訪問者の突拍子もない話が、本当なのか、嘘なのか、ということをずっと考えながら見る感じ。
自分が3人家族の立場ならどうするか、ということを考えさせられるという意味では、常に緊迫感が感じられ、スリラー作品としては評価できると思う。
4人の訪問者は、3人家族のうち一人を犠牲にしないと全人類が滅ぶという。当然そんなことは信じられるわけもなく、カルト宗教の類だろうと、3人家族も思うし、映画を観ている我々もそう思う。
しかし、テレビの映像や訪問者たちの真剣な思いに徐々に心が揺らいでくる。この辺までの展開までは僕も面白いと思って観ていた。テレビの映像はトリックでも可能なので、「訪問者たちの主張が本当なのかそうでないのか?」ということに疑念があり続け、それが物語のオチの期待へのヒキになるからだ。
しかし終盤、舞台である小屋の外でも、人智を超えた天変地異の証拠である飛行機の墜落や、カミナリの大量発生が見られ、「訪問者の話が本当である」ことに疑いの余地がなくなってくる。
いやいや、訪問者の話が(疑いの余地なく)本当の話なんだったら、この映画のストーリー全然面白くないじゃん…。
まあ、シャマラン監督だし、最後の最後ですごいドンデン返ししてくんのかなー、と思いつつ、最後まで「本当だった」で終わり、なんだこのひねりのない終わり方…、と唖然としてしまった。
明らかにドンデン返しが必要な構成なのに、ドンデン返しが無いということが逆にドンデン返しという…。倒錯してる。
個人的には「宗教」と「信仰」をテーマにした作品はかなり
好みで、たとえば「コンタクト」という映画は、原作小説も含めて、宗教とは何か?を考えさせられるという意味で非常に名作だった。
この映画の舞台設定もとても魅力的で、おそらく原作小説もこの舞台設定を存分に活かして、宗教の本質を問うようなものになっていたのではないかと推測する。
でもこの映画は、「ヨハネの黙示録」に予言された人類の終末が現実になったら、あなたならどうしますか?みたいな、それこそなんかの宗教団体が自分のとこの宗教が正しいという前提で作ったみたいな陳腐な主張の映画みたいになってしまったように思う。
キリスト教の存在感が大きいアメリカ人ならもっとこの映画への感じ方が違ったのかもしれない。でも、キリスト教は多種多様な宗教のうちの一つ、という感覚の日本人からすれば、この映画の世界観はかなり違和感がある。
この映画のテーマをストレートに解釈するなら、「愛する家族の命と全人類の命を秤にかけたら、あなたならどちらを選びますか?」ということだと思う。
もちろんほとんどの人は、「家族の命」を守る方を選択するだろうし、映画の主人公たちもはじめはそう考える。でも、徐々に、(家族である)娘の未来のために、「自分の命」を犠牲にして、「全人類の命」を選ぶべきである、という結論に変わっていく。
この考え方に何か既視感があるように思ったのだけど、なんかこれは「温暖化に代表される、環境保護の取り組み」の話に似ている。
化石燃料の使用や快適な生活を続けることで、近い未来に不可逆的な環境破壊に至り、未来の破滅の原因になる、とずっと言われ続けているけど、多くの人はこの話をそれほど本気には考えていない。少なくとも、今の快適な生活を捨ててまで環境に配慮した生活をしようとは考えていない。
「温暖化」の影響として言われている未来予測は、海水面の上昇による陸地の減少、台風の大型化、津波や洪水、森林火災の増加、伝染病の拡大、農地の減少による食料生産の減少など、まるで終末予言だ。
この映画の裏テーマは環境保護だ、とは思わないけど、この映画のように、目の前で人が殺される、くらいのことが起きない限りは、環境保護の取り組みに人々が本気になるようなことはなく、人類は茹でガエル的に滅びていくのかなあ…、などと思ってしまった。
あと、この映画の設定の理由について考察してみる。設定に意図などないのかもしれないけど、推測するのが好きなので…。
3人家族がゲイカップルと養女だったのはなぜなのか。もし家族が男女の夫婦と血のつながった娘だったとしたら、4人の訪問者の突きつけた選択の意味が変わってきてしまうからではないか。
訪問者は、3人家族のうちの1人の命と、全人類の命と、どちらかを選べ、という要求をした。家族が男女の夫婦だったら、もし人類が滅びても、夫婦が生き残ることでも人類は存続できる(現実には近親相姦を繰り返す必要があるので、ある程度の集団でないと無理だろうけど、聖書の世界観で考えれば)。でもゲイカップルだったら、ここで人類の歴史が終わってしまい、娘の未来を奪うことになる。だから、3人家族には選択の余地がなくなり、映画のテーマがより明確になる。
冒頭で、娘がバッタを集めていたのはなぜなのか。単に「ヨハネの黙示録」を暗示しているだけとも思えるけど、深読みしてみる。娘は、バッタ一つ一つに名前をつけて、友達に対するように話しかけたり、特徴を記録したりしていた。また、単に遊びで集めているのではなく、「研究」のために集めているとも言っていた。
また、最後につかまえたバッタに対して、「ビンの中でオナラをしちゃダメよ。そんなことをしたらみんなから嫌われちゃう」みたいなことを言っていた。
もしかしたら、娘とバッタとの関係は、神と人類との関係を暗示しているのではないか。神は、人類が善良なのかどうかを研究している。そして、人類が自らの過ち(環境破壊=オナラ)で滅びないように警告している、とか。
改めてレビューを読ませて頂き、ゲイカップルが選ばれたことによる、生物的な滅亡への切迫感があったから、終盤のエリックの死に繋がったのかも知れないと感じました。
フォローと共感を有り難うございました。