君たちはどう生きるかのレビュー・感想・評価
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自分には響いた
少年時代の経験としてわかる気がして、
言いたいことが伝わった気がして、
自分としては映画館で見て良かったと思い、⭐️5。
盛り上がりがどこなのか、、(というかない?)という意味で、
今までのジブリと同じ娯楽映画ではないと感じたが、
今日もたくさん来ていた小学生前の子供達には難しく、
楽しくないだろうなと思ってしまった。
トトロや、ラピュタのシーンを連想させる所もあり
(ほかもいろいろあったんでしょうが)
そういう部分を探してみたく、もう一度観てみたいとも思った。
また、改めて宮崎駿監督の他の作品を見てみたいとも感じた。
追記
よく分からない部分は多々あるんだけど、
それ自体が少年の思春期ならではのものだと理解し
深くは追求しないでみてたら、
すーっと、
どう生きるか、というテーマが見えてきた気がした。笑
悪意やうその積み重ねではなく生きたい。
宮崎駿による宮崎アニメ
宮崎駿全部乗せ
生前葬だと思えば明るくていいな
誰も宮崎駿にはなれないし、ならなくてもいい
たとえ世の中が地獄でも、戦後日本はそのようにして始まっているし
観終わって時間が経つごとに、本当に死ぬんだな宮崎駿、という実感がひたひた押し寄せて来た
劇場で初めてラピュタを観た日から、私の人生をちょっと、だいぶ狂わせてくれてありがとう
(ナーバスになる前の所感)
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内容については後日書こうかと思ってますが、さっき思いついて黙ってられなかった部分
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セキセイインコはもしかして、ネット民のメタファーなのかな?
息子にとっては具体的な暴力を意味するが父(駿)にとっては単にやかましくてウンコを引っかけてくる程度の存在でしかない。
それなら現実にはあり得ない赤い羽色のがいたり、あっち側でかわいくなく描かれている(ここ重要)のも納得。
ペリカンは、現代の日本人ないしオールドスクールなアニメファンてとこかな。。
メフィストフェレス役の青サギは鈴木敏夫プロデューサーで、塔はジブリのスタジオ。
うんそれ、入ったらどえらい目に遭うよ、知ってる。
Twitterでペリカンはジブリのアニメーターだと書いてる人がいて確かに!と思った。でも動画のアレクサンドラ・ワエラエフさんは健在だったよ。
以下、内容についてメモ(ネタバレ)
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・大叔父、父、主人公は宮崎駿のようであり、また主人公に吾郎さんを投影してるように見える部分もある
・疎開先で駿と吾郎さんを思わせるキャラクターが出会って友人になる、みたいな話にもできたはずだが、そうはせずに同一キャラクターの中に両者の要素を感じる。
・父と息子を同一視してる?としたらキモいし、メッセージとも矛盾してくる
・もっとキモいのは母との関係
・靴の並び、継母と自分との間に父が割って入る。露骨なエディプス的欲望
・その一方で、ちゃんとお別れを言えなかった実母と再会して、恋人のように大冒険する
・きっかけは母の遺した表題の本。
・彼女は「王国」の崩壊を涙で見送ってくれる
・父は死の商人だし無神経で信用ならない男(キムタクゥ!)だが、息子も青サギを撃退するため武器の開発に血道を上げる。父と子の相似形。
・兵器(アニメ)製造にかまけて息子の屈折に無頓着な父は吾郎さんから見た父、駿?
・話は破綻してても構造は残る(冒頭にアクション、終盤にカタストロフィがあるとか)
・いびつではあるけど、意外と筋通ってるなと思ってしまった。宮崎駿のフィルモグラフィとか、ナウシカの原作とか、ネタが揃ってないと意味わからんとは思うけど
・作画的には服のしわ、人物のフォルムなど、絵がシャープ。冒頭の火災からトップギア
・バリバリもう1本くらい作れそうな現役感あったけど、それは本田雄氏ならびに最高の原画スタッフによる画面のおかげかも
・血だのジャムだの表情だの、やたらドロっと過剰で「おかしな」ところが駿で、ジブリらしからぬリアルなところは手が回らなかったのかなーと想像
あとは雑感
・この十数年、吾郎さんや若手を苦しめてきた「ジブリらしさ」とは何だったのか→児童文学や少女マンガを原作にファンタジックな少年少女の出会い?→結局は宮崎駿個人の芸風であって、その王国も間もなく崩壊する。それを継承する必要などないというメッセージなのかな
・若い世代や息子に向けた謝罪と贖罪であり、観客への長年の支持に対する感謝とお別れ(生前葬)
・観客が宮崎駿に期待するものはもはや宮崎駿も作らない、人がその人らしくいられる時間は意外と短いが、個人的にはかえってほのかな希望を感じた
・この先、日本が火の海に包まれることは駿の中では確定事項(新しい戦後)
・エンドロール、製作に吾郎さんの名前を見た時はちょっとホロっと来た。なんだよジブリアニメの主人公かよ(だよ)。
・財務、経理みたいなクレジットがあったのは今まで記憶にないけど、鈴木Pをめぐる醜聞の影響?
・あっちの世界でキリコさんが古代魚をさばく前の死者たち、服が東南アジアっぽく見えたのは向こうの戦死者という示唆なのかな?
映画館でやる意味ある?
宮崎駿ファンのための映画。
多くの映画館で、夏休み時期に大量のスクリーン埋めて上映するには、観客に失礼が過ぎる。2000円払う価値はないので、ライトなジブリファンくらいの方には全くおすすめできません。
これだけ様々な方法でコンテンツを公開できる時代に、劇場公開する意味を考えてほしい。
宮崎駿最後の作品と謳って、1人1万円取ってネットで有料公開して、ファンの熱い要望により単館系で大スクリーンでも見られる、くらいで良かったと思います。もちろん収益は下がるので映像のクオリティは下げざるを得ないと思いますが。
ジブリと宮崎監督がすごいのは、多くの人を魅了する作品を何作も生み出したからです。それっぽいアート系の売れない作品を作れる監督は世間に五万といるし、彼らはファン以外に影響を待ち得ません。多くの人を楽しませる、感動させるべきフィールドで、そんな作品を上映するに至った不誠実さに失望しました。
一方、宮崎駿ファンの方は絶対に劇場で観るべき映画だと思います。何度も足を運んで宮崎監督の最後のメッセージを何度も咀嚼するべき。
作品としては、わかりづらい上に抑揚もカタルシスもなく、これまでやってきたことの詰め込みで、理解できない人が多いのではないでしょうか。
駿、腕落ちたな、というのが正直な感想。残念です。
宣伝を一切行わなかったことも、豪華タレント陣を声優に起用している時点でかなり違和感があります。鈴木Pはこの作品の制作初期に大衆受けしないことに気づいていたと思いますが、ジブリ最大の功労者である宮崎監督に華を持たせてあげたい思いがあったのでしょうか。
もしくは、制作過程で宮崎監督が心変わりし、より多くの人にメッセージが伝わる方向に変わる可能性に賭けたのか。宣伝(多くの人に観てもらうための行為)をしなかったのは、もしかすると鈴木Pの最後の良心だったのかもしれません。
(おそらく回収見込みが立たないため、コスト削減しただけと思いますが)
何度も見返した大好きなジブリ作品もあるので非常に残念でした。
宮崎駿ファン以外の方は、金曜ロードショーを待つことをお勧めします。
『ワレヲ学ビモノハ死ス』
マグリット?ゴッホ?ヒッチコック?そして数々の概視感溢れるシーン 勿論考察サイトにはその解釈や、題名の本、そして参考した児童文学から紐解くテーマは数多ネット上に溢れる そして同時にこのサイトを問わずネット上に囂しい程の極端な賛否両論 その中には直接作品とは関係無い制作陣への人格評価等々、このデジャビュはそうだ、"#私のアリエルを返して"だと合点がいく パヤオはこんな作風じゃなくてもっと夏休みの子供達が喜ぶ様なエンタメに振り切った冒険活劇とファンタジーを提供してくれ、もはや『ナウシカ2』以外に制作することを赦さない的輩からすると、正に"#私のジブリを返して"なんだろう もうそれは単なる自分の欲望を"正義"という鋳型に流して出来た鋳物を、他の賛同者に称賛して貰いたい"承認欲求"のバケモノ以外に見えない
セルフオマージュと、監督が好きなモノをぶち込んで煮こごりにする手法は、タランティーノがもうやってること 別にそれを否定したり二番煎じと揶揄する道理はない 引退を撤回、声優を使わないキャスティング、別にどうでもいいではないか
実際今作は監督がその全ての人生経験を落とし込んで描いてみせたストーリーテリングだと思うし、そのラストをバサッと呆気なく終わらせるのも彼の気持の代弁を演出したのかもしれない 「色々喋ってきたけど、なんかもうどうでもよくなってきた バイバイ」って感じで・・・ 映画は実写であれアニメであれ、作家性が溶け込んでいないとそれは総合芸術として体を成していない エンタメはあくまで"エクスプロイテーション"を呼び込む手段 面白い、哀しい、恐い、寂しいなんていう感情をコントロールする理性や哲学を訴えたところで、その正しさはいつもいつも世界は、時代はそれを刀で真っ二つにし、プロパガンダで感情を増幅させる 齢82才のアニメーションの神が、自分の老害を厭わずに、後輩アニメーター達を連れ回しながら仕上げた作品 勝手に遺言と受け取れば良いし、いい迷惑だと思うのも自由 馬鹿馬鹿しくも神々しい、繊細で図太い、それは正に"人間"そのものを表現してみせたアニメーションなのだと自分なりに結論付けてみる ヒューマニズムを説く作風は幾らでもある そしてそれは今感じる義務などなく、後から感じる事だってあり得る これだけは言い切れるが、今作は今後も永くに渡り、日本テレビや全国の映画館で上映されるのだ。。。
オジイチャン、ご飯はもう食べましたよ
本当に大切なものを守ったり、手に入れることもない。だから、それを阻む巨悪や巨大な壁も存在しない。
それは、何より、主人公の設定で表現されている。
一時代を築いた巨匠の最期を観に行くべき
宣伝なしは成功では? 鳥トラウマ映画としては上々
冒頭からすごい映像表現だし、サイコホラー感があって引き込まれる。
特筆すべきは、鳥の描写。私は鳥恐怖症なのだけど、鳥のグロテスクさ、気持ち悪さ、不潔さ、気味悪さ、攻撃的な恐ろしさが見事で、ヒッチコックの『バード』以来の鳥トラウマ映画だった。宮崎駿は鳥好きそうだけど、実は鳥恐怖症?それくらい見事に表現されていた。
ところが、中盤にファンタジー世界に入ってからはジブリ的な既視感も強く、何を伝えたいのかもわからず、個人的には失速。
夏子さんのことを主人公が唐突に「お母さん」と呼んだときは、「再びサイコホラーか!?」と期待したけど、あれは和解表現だったのか〜。いや、あの流れで別に和解せーへんやろ!
・『風立ちぬ』を想起させる父親が軍需工場経営者
・『白雪姫』の小人を想起させる老婆7人
あたりは回収されるかと思いながら観ていたけど、特になかった(たぶん)。
全体には、ここ20年くらいの「世界系」とここ数年くらいの「マルチバース」の要素を、ジブリの世界観で包んだような作品。
まあ、お金を払って観て後悔することはないけど、観なくてもいい映画だったかも。少なくともこの映画を観て『君たちはどう生きるか』と問われても、「なんとかこっちはこっちで頑張って生きますわ」としか思わない感じだったかな。
観終わると「宣伝しない」という宣伝戦略は(たとえそこまで観られず終わったとしても)成功だった気がする。普通には宣伝しづらそうだもんね。米津玄師さんEDはジブリに合わない気がするし、もうお腹いっぱいかな〜。
んー結局
タイトルのこれはどういう意味なのか。
色々考察する余地のある映画だけど、結局タイトルの意味が観客みんなに伝わってないと思う。難しければええというわけではないので。
まぁ、まだ何も深く考えるフェーズに入ってないので評価は変わるかも
宮崎駿節
上映日も、内容も全く知らずに観る映画は初でしたが、宮崎駿の映画だと謎の安心感と期待感でワクワクしてました。
内容は正直何回も観ないとちゃんと砕けない感じはあったけど楽しかった!!
どう言う展開になるか想像つかないのがまた観ていて楽しいのかも。
何回も観て内容ちゃんと把握したくなる感じ。
出てくるキャラクターも個性豊かでところどころのシーンにハウル、千と千尋感など感じれた。
少年時代の思い出
この映画で描かれた事を細かくどうこう書こうと言う気にはならない。
鑑賞中に思った事は、この映画で描かれた事が自分が子供時代にみた夢の様だという事だった。もちろん具体的な記憶があるわけでは無いが、不思議と共感できるというか、納得できる内容だった。
この映画で描かれた内容が、宮崎駿という映像作家が創ってきたものの集大成である事は間違いないと思う。細かい内容の是非を問う人もいるかもしれないが、私は好きだ。評価が割れるのもよくわかる映画なのは間違い無い映画なので、簡単には他人に薦められないが私は好きだ。
そういう映画です。
宮崎駿の「生前葬」心地よく甘美な「悪夢」
是非観た方々と語り合いたく、初めてこういうものに投稿します。
私は泣きました。そして、宮崎駿氏の13作品が大好きなんだと改めて気がつかされました。いつも傍に、あの作品たちがいたのだということを再認識した次第です。この映画では、「未来少年コナン」「ルパン三世カリオストロ」「ナウシカ」「ラピュタ」「トトロ」「魔女の宅急便」「紅の豚」「もののけ姫」「千と千尋」「ハウル」「ポニョ」「風立ちぬ」「君たちはどう生きるか」以上、13の積み木すべてが現出しています。13の積み木は、ファシズム的象徴もしくは死の暗喩によって崩れ、宮崎駿という塔は崩落します。そして、登場人物たちはそれぞれの人生へと、「生きる」扉を開ける。これこそ、「君たちはどう生きるか、もう君たちの時代だ。」という強い宮崎駿氏のメッセージなのだと痛感しました。
そして宮崎駿氏には「弟さん」がいたのですね。ハッとしました。ポスターにもなった彼、アオサギは一体、現世では誰になったのか。最終シーン、一瞬だけ映り込む「弟」...その顔はあのずる賢いアオサギと瓜二つ...これには脱帽しました。兄弟たちはいつもお互いをけん制しながら親たちの愛を取り合います。醜く、ずるくて、自分のことしか考えない。人間なんてそんな欲深いものです。でも、愛し合う。協力し合う。愛おしい私たち人間。そして、子どもってズルい生き物だもの。宮崎駿氏の本音を邪推するならば「僕、正直子ども、あんまり好きじゃないんだよね苦笑 だから君たち、早く大きくなりなさいな!」でも、そういう子どもの狡さを肯定し、見せつけてくれる宮崎駿氏の度量の深さにも心打たれました。
きっと、宮崎駿氏は本当にこれ以降作品を作ることはしないと思います。積み木が、もう若い私達世代に託されているのだから。だからこそ、彼が生前葬として、塔を自ら木っ端微塵にするのは、彼だからこそなし得る技だと、脱帽の思いでした。
久石譲さんの音楽も、今回中間部でガムラン音楽的要素が取り入れられています。キリコさん、良い女だったんだなあと。老いた人が最初から老いている訳ではない、人に歴史あり。前半嫌な感じのばあさんだなと思ったけれど、後半で見事に覆されるのも、なんとも愛おしい。こういう人間を見るまなざしの暖かさも、宮崎駿氏の真骨頂だと感じます。
長く書いてしまいましたが、宮崎駿氏に心から感謝の言葉を伝えたいです。
この映画を劇場で観れることを幸せに思いました。
君たちはどう生きるか?
付け込まれ、蹂躙され破壊され尽くして降参した日本
この日本に生まれ、ないならつくれば良いじゃないかと
つくり続けて失われていくものも見失ってしまった日本
この日本で作品と共にありし日の日本を紡いできたよと
宮崎駿さんは言いたいのだろうか?なんて想像を巡らせ
観た本作。随所随所にジブリ作品の象徴が織り込まれ
エンディングへと向かう中、不覚にもエンディング手前で
ぼく個人は涙を抑えることができなかった😭
君たちはどう生きる?と問われたので返答すると
僕は三文政治家がキャッチのように連呼した
日本を取り戻す。を彼とは違う意志と思いを持って
しっかり腰据えてやり切ります。
と返答いたします!
駿さん、最後の最後に本当に良い作品を
ありがとうございます◎
追記
駿引退はジブリの経営からの引退。後継への移行でしょ。
筋違いな批評には笑止千万だわw
宮崎駿の物語 ネタバレ
宮崎駿の身内ネタ同人誌
生い立ち、後継者問題、クリエイター(インコ)の開放
アオサギは死を世界的に意味するのに対し、ジブリの終わりを表したのかな?
面白かったです。
人によって感想が違うと思います。
最初の戦争の表現はジブリにしかできないと思いました。
ありがとうございます。
『生きろ』という宮崎駿からのメッセージ
映画を鑑賞してから一晩が経ち、自分なりの考えが少しまとまったためレビューします。
ここでのレビューを見ると様々な意見がありますね。これこそがまさに『君たちはどう生きるか』なんだと思います。
宣伝無し、あらすじなどの前情報無しで大衆に作品を見せる戦略はとても面白い試みだと思いました。
私が鑑賞した上で感じたポイントは以下の2点です。
・眞人少年の成長と、大叔父は宮崎駿
・作中登場する鳥は現代社会の暗喩と隠されたメッセージ
まず、眞人少年は冒頭で母を火災でなくすことで、現実逃避します。
東京という現実から田舎に疎開することになり、東京育ちの眞人少年はその中で古い塔やアオサギという幻想を発見します。
次第に幻想に惹かれていく眞人は、学校という現実から逃避するため、あるいは塔の中へ入るために喧嘩で怪我をしたように見せかけ石で頭を打ち、転んだだけだと嘘をつきます。
父親からすると喧嘩で怪我をしたと思うのは当然。そんな学校(現実)は行かなくていいと父親に言わせるための行動だったのでしょう。
大叔父が作った幻想の世界に入った後、新しい生き物が登場します。
一つは白い体に黒い点で構成された生き物で、幻想から現実へ登っていく、紙とペンを暗喩。
ペリカンはそれを食べる(物語を消費している)人々を暗喩。昔は食べ物を食べていたのに今は消費することしかできない。
眞人はここで自然界の食物連鎖を学ぶ。
パンのシーンでの母の子を思う愛情。
幻想世界でのナツコの言葉の裏に隠された家族を思う気持ち。
など冒険を通じて生きることの意味を見出し、
現実世界で生きたいと思うようなった眞人。
終盤登場する大叔父は、この幻想の世界を継がないかと眞人を誘います。
家族を守りたい、現実で生きたい眞人はこの誘いを断ります。幻想との訣別、現実と向き合う、もう現実から逃げないという強い意志が感じられます。
これは、自分のように幻想に取り憑かれないで現実を『生きろ』という宮崎駿監督からのメッセージなのではないでしょうか。
この作品はまさに少年の成長物語であり、今まで宮崎駿監督が制作してきた『少年少女の冒険活劇』です。
また、13個の積み木を3年に一回積みなさいと言うセリフがあるが、この前のシーンで大叔父は全ての積み木を積んでいました。
(つまり39年、ジブリは今年創立39年目です)
また、13という数字は宮崎駿が監督した映画作品とも重なります。
幻想の世界で今までの作品のオマージュが出てくることから、大叔父は宮崎駿やジブリであると言えます。
もう一点は、作中に登場する鳥には、それぞれ現代社会に存在するあるものを象徴しているということです。
アオサギは悪意や嘘の象徴
ペリカンは必死に生きる家族の姿(生物としての本来の姿)
セキセイインコは扇動される一般大衆
言い換えると、
フェイクニュースを伝えるメディアや悪意のある人たち
信念を持ち自分らしく生きる人たち
思考停止で何も考えずに騙される人たちあるいは、何も考えず頭ごなしに否定する人
あなたはこの中のどれですか?と宮崎駿監督は投げかけています。
アオサギは生物である青鷺そのものの姿と人のような姿を持つが、これは嘘偽りのないものに擬態した悪意が内包されていることの比喩。
ペリカンは、嘘偽りのない真の姿。
セキセイインコは人間のように振る舞っているが、思考停止しているその姿は醜い。(みんな目がイっちゃってるのは思考停止の比喩?)
作中鍛冶屋の家に入る前のシーン、アオサギがセキセイインコを誘導する姿はまさに嘘が大衆を煽動している現代への暗喩なのだと感じました。
また、セキセイインコについては様々な考察ができると思う。
ジブリや宮崎駿作品を思考停止で崇めるファンの暗喩ではないか。
自分たちの意見以外は認めない。自分が崇めるものは崇高なんだという考えは愚かで醜い。
お前たちは何もわかっちゃいないんだという皮肉のようにもみえる。
作中登場するセキセイインコのなんでも群がって食べて無くしてしまうその習性はまさに、『自分たち以外』にマウントをとったり誹謗中傷で排除する現代人(SNS)そのものだと思います。
細かいところの考察はまだできていませんが、
様々な考察ができる本作を、ただ説明不足やつまらないで終わらせないでほしい。
この映画は、自分で考え、自分で『生きろ』という宮崎駿監督からのメッセージなのです。
ネタバレ云々無しで普通の気持ちで見てほしい!
何にも情報もないまま公開される作品とは、どれだけぶっ飛んだ作品で、果たして自分に理解できるのか?不安な気持ちで鑑賞しましたが…
ジブリ感満載で最初のシーンから物語に引き込まれました!真人が服を着るシーン、あぁこの感じ、人の動きの細やかさをちゃんと表現するこの感じ、ジブリだよなぁとネタバレ回避が云々だった作品というのは頭から完璧に離れました。背景は本当に美しいし、あれ?この世界どのジブリ作品で見たっけ?的なtheジブリな設定も本当に楽しい!
神秘的だったアオサギが本当はあんなにお茶目なキャラだったのが驚きだったし、(そこちょっと思わせぶりすぎたかな?とも思った)
異世界がどんどん出てきて、なぜ?ここでペリカン?インコ?とか思ってると置いてかれます。物語の本質はそこじゃない、私たちが生きてるこの世界はただ一つの世界ではなく、たくさんのドアの中の世界の一つに過ぎないって事。邪悪なものなんて一つもない世界ではなく、悪もあるいろんな世界を飛び越えて母に会い、継母を助けるのは本当に胸熱だし、子供時代の母がまたドアの向こうの世界に戻って、いつか真人に会う、そのラストが本当に胸に沁みました。こう言ってはいけないのかもしれないけど、人生終盤の宮崎駿氏だからこそ描けた世界とも思います。
途中、あ!これはオームみたいじゃん!じゃむぱん美味そう!カリオストロの時計の塔の中のシーンみたい!と幾つもジブリ作品思い出すのもまた楽しかったです✨
一つ難を言うならば、なぜあんなにネタバレ回避にしてる?それが宣伝になってしまうと言うのがちょっと解せないです。普通に予告編作って宣伝して十分売れる作品だと思います。長々失礼しました
造り手たちは老いた
ジブリ作品が好きな家族に、面白かったら皆でそろって行こうね、と言って偵察がてら一人で観に行った。
家族は怖い話は嫌だと言ったが、いずれにせよ、監督の思いの詰まった集大成的な作品になるのだろうと、長い間にわたり人生の様々な場面で触れてきた過去の作品に思いを馳せ、期待と不安の入り混じった気持ちで映画館に向かった。
映画の内容がどのようなものであれ、見終わったその夜は、余韻にひたり思索にふけり、自分の人生を顧みるとともに今後を考えながら過ごすことになるものと思っていた。
今思うと少し期待しすぎていたのかもしれなかったが、見終わった感想としてはなんとも言えないものだった。
言葉を選ばずに書かせて頂くと、主人公達がどう生きようとしているかのメッセージが明確に伝わってこず、タイトル倒れの感が否めない。説教臭い話にならないようにしたのかもしれないが、軸の定まらないストーリーを過去何度も見たようなファンタジーアクションで味付けしただけの映画にすぎないと感じた。ファンタジーアクションにしても二番煎じ感しかない。
そこに、世の人々をあっと言わせるような新しい映像表現や価値観の提示はなく、もはや造り手たちにそれを産み出すアイデアの引き出しやイマジネーションがなくなってしまったように感じた。多くのアーティストたちが晩年そのような途をたどり、過去のヒット作品を演じるいわゆる名人芸のプレイヤーとなっていくように。ジブリ映画のユニークな画面構成やアニメ表現は、その名人芸的なもので健在だと感じさせられたが、それだけでは映画は成り立たないと思う。気の抜けたコーラ、冷めたピザ、クリープのないコーヒー?、何というのが適切か難しいが、重要なものが欠落しているように自分には感じられた。
昨日訪れた映画館は満員御礼で、いつにない活況を呈していた。スタッフさんたちも嬉しそうだった。若い人たちが多く、楽しんでみられたのならいいことだと思う。しかし、宮崎駿監督の最後の作品は風立ちぬで良かったと自分は思った。
頑張ってね、って
これからこの世を去っていく人はその人で戦前戦後、バブルと現代を生き抜いて大変だったけど、その後生まれてきた人は、今後も予測できない大変な世の中を生きていくんだろうね。その中で君たちはどう生きるか、想像力と精神力を働かせて頑張ってね。
…そのように、足りない頭で解釈しました。いや、こんなメッセージなのでは?という受け取り方と感じ方と言うべきでしょうか。
最近の作品を見ると、今夏の作品でも、過去作のリメイク、オマージュ、時間遡行、巻き戻してやり直す、別世界・異世界が舞台の作品が多いですね。「新しくて面白いものを作り出すのはもう無理。」そんな声が聞こえてきそうです。そりゃそうだよなとも思います。化け物級の傑作と興行収入だの何だので比べられるのは、作り続ける側もしんどいでしょう。
話は逸れましたが、
この作品のメッセージをどう解釈するかは全くの自由でいいと思います。ただし自分で考えていくだけの力は身に付けていきたいですね。年齢や立場が変われば、過去に見たものの捉え方はいくらでも変わると思いますし。ひとつの見方だけではなくて、学び続けていかないとダメなんだと。
解釈とか感想とか、自由勝手に拡散して貰いたいのかもしれないですね。その手法で大ヒットした作品も多い。
しかしながら、あっちの世界ではインコって食人族なんですねぇ〜。
納得いく答えが見つかった。 何に納得がいかなかったのか? あの宮崎...
納得いく答えが見つかった。
何に納得がいかなかったのか? あの宮崎駿の映画なのに今まで一度も感じた事がない程の薄っぺらい内容だったという事。それが不思議でならなかった。ぽにょの時も多少の不満はあったものの、観終えた時にドッと押し寄せる感動はさすが宮崎駿作品だなと感じた。ぽにょも、ハウルも、ととろも、風立ちぬも、初期ほどではなくても感動があった。そしてどの宮崎駿作品の主人公も好感度が非常に高かった。しかし今回は違う。主人公にまったく好感が持てない。観終えた時の感動もない。「何度でも観たくなる」のが宮崎駿作品の特徴だと思ってたのに、もう一度観たいとさえ思えなかった。こんな事は初めてだ。とても宮崎駿の作った映画とは思えない・・そう、「宮崎駿じゃない」のでは? それなら好感を持てない主人公、薄っぺらい内容、過去作品を思わせる数々のシーン(ご本人の性格的に恥ずかしくてやらないと思われる)にも納得がいく。人はどんなに才能(アイディア)が尽きてもセンスそのものが悪くなる事はない。この映画はあらゆるシーンに御本人とは思えない違和感を感じた。
【考察】本音で生きろ、という宮崎駿監督からのメッセージ
つまりはどんな物語?
→母を亡くし、また思春期で心のバランスが整っていないマヒトが、自らの心に潜り無意識の自我(青鷺)と共にトラウマ(死んだ母との別れにケジメがついてないこと、母の妹との確執)に対峙することで、その原因の理解と克服に取り込みそれを果すことで、人生の新たな一歩を踏み出す物語。
キャラクターは何を象徴している?
→
マヒト=人、一個人
館=自らの心の砦、精神世界
母=母なる土壌、生への渇望
キリコ=心の守護者、防衛本能
青鷺=無意識の自我。理性で押さえ込んでも抑えられない無意識下の本音。
ペリカン=死への渇望。死をもたらすもの。
インコ=論理性。理性。
先祖=論理を超えた無意識にバランスをもたらす根本。
物語の展開をどう考察するか?
→
▼序盤
マヒトは母の死に目に会えず、また遺体も見てないことで、母の死に対し心にケジメがついてない。
そこに母の妹が新たな母として入り込み、新たな家を提示される。(その瞬間、無意識下でそれを拒絶し助けを求める青鷺が現れる)
マヒトは現実から逃れるため自傷する。その瞬間、ウソの理性(賢しく生きる術)が心を支配しそれと青鷺の対立が暫し続くが、母が贈った「君たちはどう生きるか」を読み、清く本音で生きる尊さに感動する(この時点で有意識は本音で生きるマヒトになっている。
(妹は本心では望まない結婚と妊娠(それを語る際常に彼女の顔が緊張していることがそれを示唆している)、そしてマヒトとの不和により精神を病み自死を試み森に消える)
なので妹を助けに危険な場所(森)に迷いなく足を踏み入れが、無意識下では自己との対立が続いている。
そしてマヒトは自己の心の砦(館)と入る。
▼中盤
精神の底に降りたマヒトは最初に巨大な墓=「死」と対峙し危うく引き込まれてそうになるが、守護者であるキリコの存在に救われる。
(墓の外観がアルノルト・ベックリンの絵画「死の島」とそっくりなことがそれを示唆する)
キリコと共に心の中の生と死の生態系(ペリカンと白いやつ(名前忘れた)の食う食われるの関係。そしてペリカンは死を誘うものなので、成長期の身体が生に満ちた環境では彼にとってそこは地獄となるか?)
マヒトは、マヒトと青鷺の関係は無意識下の本音とウソ(表裏一体)という関係に気づき(嘘つきの青鷺は本音しか言わないというやりとり(矛盾)がこれを示唆する)、共に妹を探しより心の深みへ潜る。
▼終盤
インコ=論理の世界では無意識の本音は抑圧される。なのでインコはマヒトを食おうとする。それを母=生への渇望、が助ける。
母と共に確執の原因(妹)を取り除く(理性の砦から解放する)が、理性の攻撃に返り討ちに合う。
インコの王(理性の支配者)は祖先に母を差し出すことで、心の支配権を理性に委ねるよう迫る。(無意識下の生への渇望に従って生きるのではなく、理性で生きようとすることで)
マヒトと祖先が対峙する。
祖先は石の積み木(科学技術に基づくもの。自然科学的信奉の象徴か)で精神のバランスをとっている。
先祖はそれを受け継がせようとするがマヒトはそれを拒み、木の積み木(自然を土台とした精神)的なバランスを主張する。彼は母の贈った本によりそれに気づいた。それにより生まれた自傷行為への恥が、傷を見せるシーンで示唆される。
そこへ理性が積み木を一刀両断し精神のバランスが一気に崩壊する。それを脱出し、木の積み木的生き方を選んだ事、自らの心に母が生きていること(母は死ぬことが分かりつつ、マヒトを生む道を選んだことをマヒトが知ったこと)を通して、心の砦から確執の根本を取り去り(妹を救い出し)、マヒトは現実世界にもどる。
バランスを取り戻したマヒトから青鷺は去っていく。
その時アドバイスを残す。バランスはいつ崩れるか分からない。その時は守護者(自分の心を守る行為。キリコが象徴)と理性(石の積み木、自然科学)を思い出せと。
劇場版ポスターは青鷺が描かれる。
鋭い目で我々を見つめる彼は、「君たちは無意識の自己と対峙しているか?本音で生きているか?君たちはどう生きるか?」という、問いかけに思える。
エンディングテーマの地球儀。これは日本人だけへのメッセージでは無論なく、人類全ての人に対するメッセージという意味を感じる。
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