君たちはどう生きるかのレビュー・感想・評価
全741件中、201~220件目を表示
予想外にわかりやすい作品。ただ主人公に魅力なく共感は得られず
遅ればせながら、話題の映画『君たちはどう生きるか』を観てきました。
巷では難解でわかりにくいという噂だったので、私もちょっと構えていったのですが、フタをあければ拍子抜け。個人的には驚くくらいわかりやすい作品でした。
ほとんど説明もなく異世界に行くような流れに慣れてない人はともかく、アニメ、特に現在のアニメでは、どこにでもある設定なので、そういったところはまったく気にならないし不思議にも思わない。
そして異世界でのキリコもすぐに一緒に消えたお婆さんだとわかったし、ヒミも最初に登場した時点ですぐに眞人のお母さんだとわかりました。おそらく宮崎駿もまったく隠す気はなく、ほとんどの人がそう思ったことでしょう。
私はもっと不条理に満ちていたり、理解困難な理念を提示されたりするものと予想していたのですが、そういうことはほとんどなく(アオサギやペリカン、インコの存在が不条理だと思う人もいるかもですけど、そういうのも不思議の国のアリスから延々と描かれ続けているものなので、どうということもない)、完全に寓話としてのお話。
あちこちに込められた、散りばめられた、ひとつひとつの暗喩や意図がすべてわかるとは言わないし、そこにものすごい深淵な寓意が潜んでいるのかもしれない。
ただ私は、古今東西を問わず物語の基本中の基本、少年の成長譚、大人になるための通過儀礼を丁寧に美しく描いた作品だと理解しました。
少年の成長譚の基本といえば、父超え(父殺し)と母との別れ。ガンダムもまどか⭐︎マギカもこれをしっかり描いているから歴史的名作足り得た。
「君たちはどう生きるか」に登場する父親は俗物に過ぎず、乗り越えるべき畏怖する存在としては描かれていない。ここでは母との別れが物語の中心をなす。
ナツコは母の面影であると同時に、眞人の初恋の存在でもある。そして異世界でヒミと会うことにより、絶対的な存在であった母を相対化することができ(母が自分の母親である前に、ひとりの女性であるということを、目の前につきつけられるわけだから)、今生の別れを覚悟することができる。
物語当初、石で自分の頭を傷つけたのは、自身の弱さ・幼さが表出した自傷行為であると同時に、それは結果として、大人になるためのイニシエーション(通過儀礼)となった。それは異世界でのキリコの頭にも同じ傷があることからもわかる。これも物語の基本であると同時に、古来より人類の風習でもある。
父が毛が伸びたら隠れるから大丈夫と言ったことも、時の経過とともに消失してしまう少年期の一時のものであることを暗示している。またラストにアオサギが異世界の出来事を忘れてしまうと言う場面も同様だろう。
つまりこの映画が描くのは、少年が大人になるときの葛藤を描いたモラトリアムの寓話であり、大人になったら記憶から薄れてしまうような類のもの。忘れてしまうかもしれないし、大人になったら必要はないものかもしれないけど、それがとても重要で意味のあるものであることは変わらない。必要がなくても、大事なものはこの世の中にいくらでもある。
宮崎駿は以前、自分たちが作るアニメなんて、二、三回見たあとは全部忘れて大人になって欲しいって公言していた。たぶん今も同じ思いで、この作品を作ったんじゃないかと思う。
大おじが目指したものについては、これはあくまで個人的な見立てだけど、多くの人がこのように思うのではないか。
宮崎駿の背景からも、大おじが目指したものは、戦後民主主義的なるものであり、「下の世界」が崩壊したのは、その挫折をそのままに描いたのではないか、と。
もっと直截にいえば、学生運動や社会主義革命の挫折。大おじの跡を継ぐものがいない、血縁のある眞人すら拒否するというのも、当時の思想が現在ではすっかり大衆から否定されていることをなぞっている。元いた世界では大人しいインコも、その異世界では人食いインコと化すのも、普通の学生たちが狂気に走ったことを重ねているように僕には映る。インコの大王は森恒夫か重信房子か。
…と、このような感じで、私にはものすごくわかりやすい作品でした。先に述べたように、あちこちに散りばめられた暗喩や意図がすべてわかったわけではないけど。
だから…というわけでもないけど、そこまで面白いと思ったり、深い印象が刻まれる作品でもなかった。また主人公の眞人も作中の努力が足りず、ご都合主義的に周囲に助けられるばかりで、あまり共感できる存在には感じなかった。千と千尋の千尋の方がよっぽど頑張っていて共感できた。
私は世間ほどジブリが好きではなく、実はあんまり観ていなくて、限られた中では、もののけ姫のほうがよっぽど胸に刺さったかな。
まあ当時は自分もまだ若かったし、感受性ももっと敏感だったろうから、そう思うのも仕方ないか。それに何より、宮崎駿もさすがに年老いて、当時のようなエネルギッシュな作品は作れないのだろうし、こういう寓話になってしまうのは必然なのだろう。
若い人がこの映画を観て、どう思うのか?
「君たちはどう観たのか」私はそれを聞いてみたいなあ。
この時代だからこそ
タイトルと鳥の絵のポスター1枚。覗き見せず、聞き耳を立てず、思い切ってめくって飛び込んだ先の作品世界への没入体験。
目隠しでスクリーンの前まで連れてこられたような、鑑賞前の時間も含めてエンターテイメントだと思った。
このクオリティの作品を世の中のたくさんの人が事前情報ほぼなしで鑑賞するなんて、なんてワクワクする仕掛けだろう。
設定についていけるよう、集中して見ているうちに、真人と一緒に塔の世界に落ち、不思議な世界をめまぐるしく体験する。
個人的には仕掛けにのっかって大正解だった。
なんでも手の平で調べられる時代、正解を探さずにはいられない時代だからこそ、この作品から受け取れるメッセージは人それぞれ、自分で感じて自分で考えなくてはこの仕掛けの意味がない。
作品の中ではどこからか降ってきた塔がどうしようもなく世界を歪めるけれど、完全なる悪人はでてこなかった。
悪意も善意も入り交じるこの世の中で、善意の石をそれでもコツコツと積み上げていけるのは、勇者でも何者でもないただこの世界に生きる私達1人1人だ。
真人が自分につけた傷、悪意のしるしだと言った傷。自分に向けられた悪意か、自分で自分に向けた悪意か、周りの大人に心配をかけた悪意か。悪意のしるしを認めた上で、前に進む勇気を真人のように持てるか。
鑑賞前と鑑賞後で、タイトルもポスターの絵も見え方が変わった。
素晴らしい体験だった。
あまり刺さらなかった
世界観の説明や分からせようとする気がないのそういう作品だからで解釈したが,感情を表す描写やパーツ.情報があまりに不足していたと感じた.それゆえマヒトが何を考えているかよく分からず,淡々と移り変わっていくシーンをただマヒトが歩いているだけとそんな印象をこの映画から受けた.
最後,世界の主からの頼みを断り”現実”を選ぶシーンも,マヒトがそれを選んだ根拠や感情的なにかが全く見えてこなくて ,はいそうですかと思ったのが正直な感想.
君たちはどう生きるか というタイトルからマヒトが立ち直っていく姿を見せていくものかと思ったが,この話は冒頭からマヒトがすでに概ね立ち直っている.そのため,この映画をどの視点で見ていいものかわからなくなった節がある
あと米津は相変わらずいい歌を書く
子供たちのために!もちろん、「大人になった眞人(あなた)へ」
感動しました!これは未来に残る、泉鏡花のような幻想文学に似せた児童文学…あくまで子供たちへ向けた愛のある映画です。とにかく、難しく考えられるのは、モチーフが難しいことと、放映時間が2時間と限定されているから。でも、無駄がない!
まず、序盤は戦災の悲しみから…この開始5分程度のつかみでぐっとくる!戦災のトラウマをこんなに見てる側に感情移入させるように作るなんて!
此処から入っていく物語…戦争物かと思いきや、謎の美女•夏子登場。木村佳乃さんがはまり役。この時点で、泉鏡花や夏目漱石の小説に出るような妖しい婦人オーラ満載。
「この後妻…というか、眞人の家、普通の家ではないな?」ということに気づき始める。
家の建築もさることながら…昔の日本の幻想文学や民俗学の遺産にあるように、どこか妖しい、戦時中の「非日常」の世界スタート。ここからモチーフ紹介。
アオサギ…青鷺火という民俗学的に実際に存在した日本の伝承と、他国の宗教上のモチーフ(生死の境等、何かと境界を超える存在であるらしい)
インコ…ドイツ?のプロイセンに感じました。王族的であり士族的なもの。しかし、イメージです。このインコの原産国はオーストラリア。なんで日本の地下に?そもそも、「下の世界」は日本ではない可能性が高い…のは、キャラの西洋風の服装等から分かりますね。インコの風景も英語が多く記されている。
ペリカン…キリスト教上の愛のモチーフ。自己犠牲、愛の強い動物。
産屋…昔の日本にあった実在の家屋。穢れ思想、神道にて産屋は何かと「異界」として登場。また母子を離別させる強制力のある存在。(戦時中、母子別離せざるを得ない家庭も)
13の積み木…13はキリスト教圏で忌み数。中国では吉数。やはりキリスト教圏だね、「下の世界」。でも、眞人達は神道の日本の慣習のまま!ヒミ(久子)は洋風になっていて、少女らしくも「下の世界に適応した(少女は西洋の童話的世界、好きだろうな)」から。
悪意のある石…キリスト教で「罪を犯したものだけこの女に石を投げなさい」とある。姦通罪の女を処罰する際のイエスの言葉。姦通罪、夏子(妹で後妻というのはダットサンを乗りこなす洋風の夫とはいえ珍しいのでは)の隠喩か?いわゆる略奪愛と同じで、悪意って何なのかの問いかけ。眞人は怪我すれば何とかなるという下心も。それだけ追い詰められていたわけだけど、ずるをしたのも嘘ではないと内心、考えていて、自らには悪意があると主張。その時点で西洋風の意思の持ち主というか賢い子供。自分で考えて生きていける人。
積み木が墓石の理由…積み木ってそもそも何?子供の頃、積み木遊びは自由で楽しくはなかった?何を作ってもいい。それなのに墓石(それも西洋の)でルールに基づいて世界秩序を守るために積むなんて!インコ大王は騎士(戦士)だから軍人と同じ、ナチスと同じ、「裏切り」と怒るし、13はイエスを裏切ったユダを指す意味もある。まさに裏切り!
眞人達からすれば…。積み木は、キンダーガーデンという幼稚園の遊具。キンダーガーデンとは?フリードリヒ・フレーベル考案の遊具。フレーベルは子供に自由に遊ばせることでその神聖さを守ろうとした。要は子供は大切にという日本人の幼稚園の元となる思想家。その積み木が世界秩序のための墓石…戦時中らしいですよね?まるで機能しない国連か政治思想(全体主義)みたい。大叔父も子供を犠牲にするわけじゃないが、メーテルリンク「青い鳥」のように異界にいるままで本当に幸せなのか…。
久子と夏子…日本神話の女神の姉妹。火に関連する。火=文明。久子と夏子って幻想文学の悪女と似ていて、人間だがどこか当時の日本人らしくない、普通じゃない。戦時中で統制されてる時代なのに?欲望に忠実で抑圧されていない。そもそもこの二人の親、どうして戦時中なのに全く登場しないの?使用人が妙に多く、どうやってこの人たちを養うのか…。夏子は弓矢の名手で、当時の女性にしては相当、戦いなれてる。お嬢様なのに!そもそも「普通じゃない」が、不思議な生命力があり、夫にとっては心の支えになるというのも戦時中だから、なおのこと。西洋という以前に、当時にしては「同調圧力」が全くない「普通ではない家庭」。普通じゃない異様なキャラが異界には多い中、怪異的な怖さがなぜかこの二人には存在しない。言動と背景が普通じゃないのに。夏子は日本文学で異界の者と婚姻する文学に登場する女性の妖しさ、自由さ、綺麗さ、優しさに似ています。
私はこの映画全般に流れる何か怖い空気は、死の匂いが付きまとう全体主義の当時の怖さと似てると思いました。全体主義はそもそもどこから来たのか?これが不明。戦間期にも存在したからです。これが戦争の始まり、原因。大叔父の積み木は正しいことをしているようでいて、なぜか墓石、死の匂いが付きまとうし一日しか持たない秩序。まるで戦時中の日本みたいじゃない。あるいは世界。それは眞人も悪意があるって思うよ。彼は正直に台詞を言うねと使用人からよく言われている。日本人にしては西洋風の洒落た父よりもはっきりした性質で、敵に刀を持つのに最初から迷いがない、アシタカに似た凛々しい人。戦災でトラウマを持つが、その繊細さと壊れやすさ、戦いのさなかに全く見えない姿は、最初から描かれている。子供なのに?いや、そもそもそういう性質の人なんです。
大叔父はハイソなのにどこか死んでる。登場した時から凍ったバラを投げてる。愛もないし生きていないということ。ハイソな割に全体主義、右翼、左翼等と何か変な空気感で抑圧して、その割に欲望と相反するような殺戮は容赦なくやる、戦時中の空気感のおかしさと似てます。そもそもそれが全体主義の持つ変な感じなんです。灰色の狼みたい。荒野みたいな。どこから来てるか不明で、誰が始めたとかじゃないのが、全体主義。戦間期にもあったのだから。心の中の問題なんです。戦後、天皇が人間宣言をして、そもそも何を拝んでいたの?あれは私らの知る前からいた天皇制じゃないじゃん。天皇は今も尊敬するけど、あれ(戦時中の考え)は何だったの??そういうカルトのコンピュータウイルスみたいな違和感と似てるんです。当時、世界中がそれに感染していた。形を変えて。大叔父は国連みたいな、あるいは児童文学者と似たようないい人、実際はハイソな学者ですが、「大叔父様ほんとにそういう人だっけ?あなた私欲に忠実な研究者じゃ?」という違和感があるのも、戦時中のあの空気の違和感と似ているのです。武士道精神とか言って戦いましたが、あれは武士道じゃないでしょ!元の武士道は生きる上で結構好きなように生きてないか!?そういう違和感!
眞人は「いい子」だから清廉で、結果的には、そういう悪意を見抜いてる賢い子。
ベースは難しいモチーフがちりばめられているが、基本的には児童文学、子供のためのものでした。大人向けとしては泉鏡花みたいな幻想文学。ハッキリ意味が分かることはないが、夏休みに見て、どこかへ出かけて遊んで、いつかすると何となく思い出す。その時に意味がわかっていればなおよしという感じ。そもそもそういった普遍的なテーマだと思います。
「大人になった眞人へ」の本の日付は明らかに生まれてないんじゃという年代で、大人ってその後の眞人のこと。大人になって賢く、さらに生きる道を自分で選んで生きていく。そういう子になるに違いないとヒミは分かっていたみたい。あの本は教養文学だからね。旧制高校あたりの。ヒミのような女性が当時、好き好んで読む本ではない。ヒミは未来の眞人を想像していたみたい。この一連のファンタジーを経て眞人のトラウマは別の記憶に塗り替えられ、本当にトラウマ克服となっている。なので、全体的に前向きな話なのです。
当時の全体主義、独裁者っていつも厳しくなかった?人間に対して。それなのに妙に高尚で、批判的で、そこには愛を感じない。眞人達が喧嘩するのと同じ。あれが悪いこいつが悪いとか。子供のための作品と感じたのは、母性愛が背景にありました。キンダーガーデン。愛されていて、自由に生きていったらいい。夏子さんがやっぱり、「まあかわいい!」と自分の感想に正直に笑うような、妙に昔の人らしくない奥さんなんです。宮崎監督らしいと思います。
追記:
2012年、京都に大学生でいた頃、私は将来に悩んで涙したいとき、京都御所の母のような雰囲気の中にある厳島神社にいました。同時に、書店でたまたま見つけた本の中に、北一輝のような当時の軍人や研究者の本があり、読んでいました。その内容は、塔の中の違和感と同じで、何かといつも戦っているような世界観でした。私は正しいとか、認めてほしいとか。
この映画の良いところは、傷ついた人に寄り添うところです。説教くさくない。
映画の入りのタイトルと久石のピアノ「ask me why」で、「どうしてなのか聞いてほしい」ことは当時も今も多くあるはず。どうしてそう思ったの?どうしてそう行動したの?
眞人も石を自分でぶつけたときはそうでした。それから「君たちは…」の本を読んで涙する。どうしてそうしたのか受け止めたのだと思います。
本を読んでいると共感できる、一人になるときのやさしさがある。母が母性愛で包み込んでくれるように。その愛がないとき、いつも戦ってけんかをしてる。本当はそういう戦いがつらいはず。この映画はそういう青年期に寄り添うやさしさに似ています。もちろん、お石様に連れていかれる夏子は、もしかしたら戦時に流行った新興宗教かもしれないし。日本の維新後から戦前まで、新興宗教が非常に流行しました。
維新の頃に巨石が降ってきたというが、証拠がない。あくまで伝承の中の伝承で、劇中、それが口伝になる。戦時中は国家神道だから、眞人達みたいな日本人は、お石様は信じられないはずです。もちろんこれは仮定かもしれませんが、なぜ下の世界が西洋風でおそらくオーストラリアなのに、石は和風に聞こえるのだろう。昔から神隠しは産中の女性がなりやすいもので、それは精神的に不安定だからだとされました。
今の時代も人には言えない本当の気持ちがあると思います。この映画はそういう浄化の映画です。だから、千と千尋に似ているようで、豪奢な感じが全くありませんでした。眞人は本を読める子ですが、本を読むことで自分でがんじがらめになって戦っていた、当時の軍人とは異なる性質の子でした。この映画はそうした人の精神に寄り添う映画。
テーマパーク感
母をたずねて異世界冒険ファンタジー
宮崎駿バージョンの不思議の国のアリスみたいな感じだった。
主人公の眞人は何を考えてるのかよくわからない。転入した学校に馴染めず自傷行為をしたと思ったら、冒険がはじまると刻々と変化する異世界に驚きもせず淡々と順応していく。カエルや鳥に襲われてるのにびくともしない、変なやつ…。選ばれた人みたいな特別感だしてる変なやつ…。
ちっちゃくて可愛いばーちゃんたち
先輩肌の姉御
こだまみたいな群衆
等々
テーマパークみたいに宮崎駿世界を楽しんだ。
大きくなりすぎたジブリ・ブランド……
ジブリ作品を好きな方はたくさんいらっしゃると思います。私もそのうちの一人。
今作は、前半パートが長く、後半パートが短い印象で異世界の世界観に浸かれず、後半退屈になってしまいました。
千と千尋の神隠しの様な展開。
タイトルを考えすぎて、観てしまうと?がついてしまう。
キャラクターの仕草や演出が古くさく多々感じてしまった……
もっとジブリの冒険活劇がみたい!と思ってる方がたくさんいらっしゃるかなと……
今作は戦時中じゃなく、現代に置き換え展開していたらまた違っていたのかなぁ(°°)
私の中でのジブリは、千と千尋の神隠しまでかな(+_+)
観たい度✕鑑賞後の満足度◎ 『千と千尋の神隠し』を傑作足らしめた宮崎駿マジックはやや薄らいだように思うが何故か感動した。ある意味集大成かな。『風立ちぬ』がスワン・ソングに成らなくて良かった。
①初めは全く観る気は無かった。題名を見て萎えた。“ほっとけよ。余計なお世話。こちとら結構(60余年)生きてるし、今更説教たらしい話は聞きたくねェ”という気になったから。
ところが海外の試写で絶賛されているという記事を読み、遅まきながら観る気に。舶来ものに弱いねェ、昭和の人間だわ。
②アニメ映画好きの方には悪いが、もともとアニメ映画って基本荒唐無稽な話が多い。
宮崎駿の作品もオリジナルものは殆んどが摩訶不思議な世界の話ばかり。
理屈が通らねェ、とか、何のこっちゃ、とか、意味わかんねェ、とか思う前に映画の中に引き入れてしまう魔力というかマジックがあるのが宮崎駿ワールドだろう(私はそれほど熱心なファンではないけれど)。
③本作も太平洋戦争中の日本が舞台なので、最初は『風立ちぬ』路線かなと思ったが(現代の子供や若い子達はどう受け取るだろう、とそちらの方が気になった。と書きながら私も“♪戦争が終わって僕らは生まれた。戦争を知らない子供たちィ~さァ~♪”の世代ではありますが)、湯婆ン婆ァのミニ版みたいなのがゾロゾロ出てきたくらいから『千と千尋』路線かとボンヤリ思っていたら、アオサギが喋りだしてから一気に『千と千尋』少年バージョンに突入。
姿を消した夏子さんを追いかけてヨコハマ、じゃなくていよいよ摩訶不思議ワールドに足を踏み入れてしまう。
ちなみに、ここ奈良でも一時サギの姿は全く見なくなった。農薬の影響だったろうけど。水がキレイになったのか、ここ十数年来やっと姿を見かけるようになって毎日でも見かけます。大体がシラサギでゴイサギが時々。アオサギは見ないなァ。
ところでサギはペリカン科なんだと。
④結局、こちら路線の映画なのね、というお馴染み感というか安心感というか。
宮崎駿映画群のどこかで観たな、という既視感てんこ盛りだし、色んな世界に通じるドアなんて、今はやりのマルチバースを持ち出さなくても「うる星やつら」等々結構手垢のついた設定だし、石に神性や心性を持たすのも『2001年宇宙の旅』のモノリスから古墳の石室、や世界各地の巨石文明の跡、パワーストーンまで既に馴染み深い世界である。
⑤ただ、脈絡のなさは『千と千尋』の比ではない。
目まぐるしい展開の合間に頭をよぎる疑問の数々:
なぜ真人は本能的にアオサギを敵みたいに思ったのか?
アオサギは真人の大伯父の使いであることは前半でほぼ分かるが何故に池の鯉やガマガエルまで?
夏子さんは何故矢を放った?
しかもその後しばらくしてから何故一人で森に入った?
真人は何故に夏子さんが自分の意思で森に入ったのではないと分かったの?
私は『千と千尋』は映画館で連続四回観て、その後DVDでも何回も観ているが絵解きが目的ではなくて「あの」世界に浸りたかったから。
本作はそんなに浸りたいとは思わないので、万人向きで作ったのでないのかも。
⑥真人が足を踏み入れた世界は大伯父が作ったようだが:
何故「ポワン」ちゃん(本当の名前、忘れちゃった)が熟して上の世界に行って人間になるようにした?
なのに何故「ポワン」ちゃんを食べるペリカンを放置している?
そのペリカンを退治する役目のヒナちゃんは大伯父の親戚らしいけど…なんか回りくどくね?等々
ここで立ち止まって真剣に考えては行けません。はい、そこで脱落…
次々とやってくるイマジネーションの波にただ身を任せていなければ…上に書いたように凡人のイマジネーションの範囲のようなものも多いけど、そこはあまりにも突飛なら更についてこれない人が増えると忖度したか…
⑦大伯父さんは本を沢山読む博学の人でそのうち頭がおかしくなって失踪した、と言われているけれども、博識の結果きっと平和・博愛を望む人になったのだろう。
だが時は幕末を経て明治維新から海外の列強の仲間入りを目指す富国強兵の時代、変人と思われても不思議ではない。
確かに大伯父が作った世界は平和には違いないがやや歪で博愛精神は有るのかどうか…
ヒナちゃんはこの世界では禁忌であるのを分かりながら真人を夏子さんに会いに行かせて(ここは夏子さんの深層心理が表面化し、それを理解した真人が初めて夏子さんを“お母さん”と呼ぶ重要なシーンであるが)結局捕まっちゃうし。
ヒナちゃんは真人の世界では真人のお母さんで、でも火の女神(だから「火姫」)だから冒頭の火事で死んだわけでなく違う世界へ行っただけ(妹に“男”を譲るため?)
夏子さんが大伯父の作った世界で子供を生みたいというのもよく分からないし…
⑧この解釈はマルチバースの世界に近いけれど、石の塔は全ての世界にあって各世界で石の何らかの意思・意図を反映している?…
⑨大伯父は自分の作った平和で博愛に満ちた(?)世界を維持する為に真人を呼んだわけだが、真人は結局夏子さんを連れて自分の世界へ戻っていくことを選ぶ。大伯父に「憎しみと怒りに満ちて、いずれ火の海になる世界だぞ」と言われながらも。
これが本作で宮崎駿が言いたかったことかも知れない。
⑩『千と千尋』では異世界から元の世界に戻った時は千尋のかの地での記憶は消えていたが紙留めだけは現実の世界に帰っても付いていたという意味深なラストで終わっている(だから余韻が深くいつまでも心に残る)が、本作では1947年の真人は異世界のことをまだ覚えているのかどうか。
宮崎駿は四人になった一家の姿を描くだけてそこまでは描かない。
追記:ところでラストクレジットに流れる歌が良いね。米津玄師という人とか(最近の邦楽、聴かないもん😅)。プロフィール見たら背ェ高ッ!
『シン・ウルトラマン』の主題歌は心に残らなかったけれど、この歌は良い。
山本有三・吉野源三郎
「君たちはどう生きるか」吉野源三郎作ですが、初めは山本有三先生が関わった作品。有三は病気になり、吉野源三郎さんに依頼したようです。山本有三ファンとしては封切りの日から3回見ました、、この本は息子小6の時に塾の先生からいただきました。小6には難しいだろうと思いましたが読んでました。映画の中で、君たちはどう生きるかをめくるシーンがあり、初版のみ山本有三の名前が出ている話が裏付けされました。瞬きしてはだめ。しっかり見て欲しい。どのシーンも瞬きはダメ。全部よし。一回では理解できないかしら。「サバカン」の時みたいに.6回観たらわかるかな。本当に楽しみです。近代文学を児童文学に繋げた作品を、オリジナルではありますが、「君たちはどう生きるか」と名付けてくれて、スタジオジブリと宮崎駿さんに感謝です。何回みてもわからなかくても、あたりまえとおもい、私はまだまだ、見に行きますよ。東京にて、息子32と見ました。20年前にいただいた本が映画になった。嬉しくて嬉しくて、まだまだ、みたりないかんじ。山本有三と、吉野源三郎の連盟のべーじが、なにより、楽しみな私です。皆様も、よろしければー。
ジブリで宮崎駿の作品だったとしか
正直に言うと、自分にとっては可もなく不可もなくくらいな印象。
主人公の成長物語で中盤に乗り越える1つの呼び名と、最終盤での自己の告白が試練となってるのだろうが、一通りの葛藤描写はあるものの、感情表現を抑える主人公というのがどうしても波として弱い。
それが味と言えば味なのだろうけど、青年が主人公だった風立ちぬでも戦時中でももう少し感情表現があったから、「この主人公だからこそ見せられるシーン」が何だったのか、俺には分からなかった。
雑な感想としては、ゲド戦記と思い出のマーニーを足して3で割ったような。
映像と音楽は良かった。
懐かしい漫画映画 長靴をはいた猫を思い出す。
大学生、高校生の息子2人と3人で鑑賞。嫁ちゃんはレビューを見て行くの止めました。
事前情報が、蒼鷺を被る人らしき者。君たちはどう生きるかという戦争中の小説から題を取っている事。この二つ。そのお陰で映画に没入することが出来た。
小さな子供の頃に見た「長靴をはいた猫」という漫画映画があったが、その時の感動を思い出した。東映まんがまつりだ。東宝チャンピオンまつりもあったな。入替え制がなく、友達数人と朝から晩まで一日中映画館にいた。飽きたらロビーや階段で遊び、見たいシーンを何度も見た。その頃だ。
ストーリーは小さな子供でも分かりやすいかといえばそうでもなく、あとで大人が説明して納得するかも。実際、わからなくとも楽しい。色んな見たことあるシーンも見られおじさんには懐かしい。
登場人物だが主人公眞人は宮崎監督。蒼鷺の中身がオッサンなのは想定外だった鈴木P。大伯父は高畑勲。インコの王は庵野監督。それぞれの生き方がキャラクターに反映されているのかな~
普通に
斜めに構えるとつまらなくなるよ
まずタイトルが紛らわしい
誰かを助けに行く冒険映画として見るべし
所々に駿らしい場面、風景、作画、キャラ
途中の哲学的なセリフは家に帰って考えれば良い
むしろすっ飛ばしでいい
良かった、楽しかったでいいと思います
ママは貴方を産んだんだよ
だから一生懸命に生きて欲しい
という感じかな
自分の境遇も忘れて
この世界観を感じる
盛りだくさんのセルフオマージュ
81歳でこの作品作るバイタリティ
観終わったあとじわじわと感動しました
母が亡くなってから父が叔母とすぐに結婚は
眞人の気持ちを考えると辛いですが
この頃は普通だったと思うのと
生きるために人は強くいなくてはいけなかった
命はこうして今日に繋がっているのだなと思いました
大叔父様が守ってきた世界を継がなかった眞人
悪意でいっぱいのこの世でも
人間の可能性、素晴らしさを信じたい
そんなメッセージを感じました
ヒミがやさしい眞人に出会うために元の世界に戻るラスト
ジブリに出てくる女の子はまっすぐな瞳で芯がある
その強さに、やはり感動する
現実を生きる私たちはこんな摩訶不思議な世界はなく
残酷で汚い心を持つ人間と共存する世界で生きるか
命を終わらせるかの2択しかないんですよね
残りの人生の生き方、考え方を問いかけられた終わり方は
ノマドランドのようでした
小説は読んだことがないので読んだらまた違う解釈になるかもしれないです
事前情報の少ない今回の作品
私は本当に正解だったと思います
このキャラクターがなんて名前で
キーを握るとかそんなことしなくていい
どいつが仲間で敵なんだとか
先入観なく作品に出会い浸る
本来映画とはこう出会うべきなのかもしれない
この宮崎駿監督の世界観をただ受け止める
この世界で知能を与えられた人間は
その頭で考えて生きていくべきなのだと私は思いました
壊れた作品
宮崎駿さんのアニメはアニメーターデビューした最初から好きだった。
1978年にNHKで放送された「未来少年コナン」は当時まだ珍しかった家庭用ビデオデッキで全話録画し何十回も繰り返し見た。「ルパン三世カリオストロの城」も劇場で観た。「風の谷のナウシカ」と「天空の城ラピュタ」は初日舞台挨拶で宮崎駿監督を直接見た。「天空の城ラピュタ」の舞台挨拶では「白蛇伝」の監督の藪下泰司さんの訃報について語っていたのを覚えている。更に時代を遡れば「太陽の王子ホルスの大冒険」も大好きだし「ガリバーの宇宙旅行」の殻を脱いで素顔になった紫の星の王女(宮崎駿担当シーン)も大好きであった。
そのようにほとんど最初からの宮崎駿ファンの私だが「君たちはどう生きるか」は初日に観てがっかりした。一言で言えば「映画になっていない壊れた作品」だった。
風の谷のナウシカのラストで腐った巨神兵が登場するが「君たちはどう生きるか」はあの腐った巨神兵に思えた。
ストーリーも滅茶苦茶、説明も無し。ドキドキハラハラも無し。伏線の回収も無し・・・というか伏線自体無かった。
面白い場面も、美しいシーンも無かった。食べ物を美味そうに描くのが得意な宮崎監督だったがパンにイチゴジャムを塗るシーンのパンが美味そうには見えなかった。
宮崎駿監督の得意とした気持ちの良い飛行シーンも無かった。
本田雄作画監督の力で作画力だけは高いが肝心の作品の骨格が滅茶苦茶なので面白くもなんともない退屈で記憶に残らない映画になっていた。
宮崎駿監督は現在82歳。「君たちはどう生きるか」を作り始めたときは70歳過ぎだが、セオリーで映画を作る監督ではなく動物的勘で映画を作る人なので知力体力の衰えがそのまま映画の完成度に反映されてしまうのだろう。「風立ちぬ」で長編アニメからは引退しておくべきだった。創作意欲がある限り「めいとこねこバス」のようなジブリ美術館用の短編アニメを作り続けるのが良いと思う。宮崎駿監督は、もう長編アニメを作るのは無理であろう。
凡人の考察(妄想)
観賞直後は
「うわージブリが芸術作品になっちゃったよ」
と思わせ、時間が経つにつれて
「あれってこういう事だったのかなぁ‥‥」
とふと思わせてくれる作品。
個人的には最終的に
「宮崎駿と若きクリエーターたちを描いた作品なのではないか?」
という結論に行きついている。
作中で言う主人公・真人が次代を担う若者であり、
大きな世界を作り上げた大叔父が宮崎駿なのではなかろうか
観ていた時から変わらないのは
真人という少年が分かりやすい子供でありながらも、嫌悪感は感じない主人公であるという事だ。
大切な母は亡くなり、尊敬する父は母の妹である叔母と再婚、叔母のお腹の中に異母兄弟がいる、知らない土地への引っ越しと転校
キツイ出来事だらけである。
唯一の救いは父も叔母も彼を大切に思ってくれている事だろう。
それでも真人はそれを受け止めきれない。
学校の級友との喧嘩や自傷行為はそんな不満に対する当てつけであり、
だからこそ最後に言った“悪意”なのだろう。
この真人こそが大きな目標と信念を持ちながらも、環境によって雁字搦めになっている若い世代である。そんな環境だからこそ悪意に満ちた表現や、醜悪な創造・行動に走ってしまう。
そして大叔父は変人と呼ばれながらも自らの意思を突き通して、未知の石の中で新たな世界を作り出した人物である。
次なる担い手を欲しながらも中々現れない。
だからこそ自分が世界を守るためにヨレヨレになっても石を積み上げていく。
何故なら、自分にはそれだけの力があるからだ。
宮崎駿監督もまだ主流ではなかったアニメの世界に入り、文字通り時代を切り開いてきた人物である。
老齢に差し掛かり、新たな世代に引き継ぎたい。
しかしそれが中々できない。ならばと新しく自らが創造する。
何故なら、自分にはそれだけの力があるからだ。
そして大叔父が血族でなければ告げない。というように、宮崎駿の後を継ぐのはアニメーターでなければならない。
「早く僕の石(意思)を継いでくれ」
と言っているような気がしたのだ。
しかし、それならばと思う事もある。
なぜ石の世界があれほど窮屈で残酷なのか。宮崎駿監督が作り出して来た世界は美しく壮大なものだったはずなのだ。
もしかしたら時が経つにつれてそれも醜悪なものになるという危機感を抱いているのかもしれない。
さらに劇中に現れる新しい命を食い尽くそうとするペリカンについても、
そのペリカンは自分の作った世界が作り出したものだと思っているのかもしれない。
別考察であったが
『紅の豚』では
「飛べない豚はただの豚だ」
と語っていた男が
「翼が折れた。もう飛べぬ」
と語っている。
そしてそれは正に新しい命を食おうとした報いなのである。
宮崎駿監督はその罪の意識を感じているのではなかろうか?
そしてラストシーン。
真人(新たな世代)は大叔父(宮崎駿)の跡を継がない。
「現実の世界に戻り、新たな友達を作ります」
この回答こそが、宮崎駿の求める
若い世代は新しい世界を作れ
というメッセージなのではなかろうか。
いや、もしかしたら「何で継いでくんねーんだよ!」と思っているのかもしれない、だからこそ真人の背中を押すが祝福はしない。
そして色とりどりのインコを放つが糞まみれにして非常な現実世界へと見送るのだ。
君たちはどう生きる?
この問いかけは
この作品を通じた宮崎駿から若い世代へのメッセージだとするなら、彼がアニメをやめた後、我々はこのアニメという世界をどう扱っていくか。
その答えを宮崎駿監督は求めているのかもしれない。
宮崎駿フォロワーの感想
映画の導入部分と序盤は掛け値なしに素晴らしかった。テンションの高さとコンセプトに向かっている感覚は70歳を越えた作家とは思えない(制作期間7年なので現在は80歳を越えられている)瑞々しさがあった。中盤以降の展開はよく言えば自由奔放なイメージ。別の言い方をすれば取り留めのない複数のアイデアの複合体。私は宮崎監督の代表作品は千と千尋の神隠しだと考えているが(好みは初期のカリ城やラピュタだが)ハウルの動く城から目立ち出した中盤以降の構成の迷走が今作では顕著に出ている。ある種、千と千尋で宮崎監督の中にあったテーマが昇華されて以降の作品は新しいテーマを模索しているとも見れるが、これまた自由なポニョを経て、風立ちぬで再度しっかりした構成の作品を世に出した事に当時は驚いた。
今作を観るにあたって、1番興味があったのは高畑勲亡き後、宮崎駿は誰に向けて映画をつくるのかという事。鈴木P曰く、宮崎駿は高畑勲という1人の観客に向けて映画を作っているのではないか。今作は監督の本意は別にして結果的に自分という観客に向けた内省的な作品になったんだと思う。抽象的な作品はそれはそれで良いのだが、私が宮崎駿に求めていたのは教養とか批評とかネタなんかを内包したままねじ伏せるほど強力な娯楽性、みんながわかって楽しめる物語だった。
多少支離滅裂ですよ人間だもの
駿が描くストーリーじゃなくて
駿をコンテンツにしてみた映画
メタファーがたっぷりなので背景知らないと
なんのこっちゃ感満載。少しでも隠喩の
元ネタ知っておくと面白く見れるかも
例えばこんなポイント
ばあちゃんたちは観客
大おじも、まひとも、どっちもパヤオ
大叔父(今のパヤオ)真人(純真な頃のパヤオ)
戦争の時疎開して、そのあと君たちは〜に出会って
アニメーターになる駿がモチーフ
隕石はアイデア、アイデアの世界を旅して見つけた十三の作品(これまでのジブリ映画)
それをもう一回積む人を探してる
リメイクするの?
でも無理ぽ
昔の自分だって嫌って言うだろうな
(金のため=悪意がある積み木)
白いふわふわはアニメのキャラたち
上の世界(現実に)アイデアの世界から
行こうとするも生まれられるのは一部だけ
ペリカンは売れるようにアニメキャラを
間引く人たち(代理店?)金に縛られてる
キリコさん(観客の一部)が世の出る手助けを
している。
アイデアの世界で石(アイデア)を拾うと夢中になる、
だから敏夫(アオサギ)に触んな言われる
でも一個、純真な自分はまだ持ってる
力弱いけど
敏夫も多分力貸せないけど(宣伝してないし)
まだなんかやるかもな
監督からの愛に溢れたバトンと解釈しました
退屈なシーンなど、どこにもなかったです。
シンプルに感動しました。
宮崎 駿監督の人生最後に伝えたい思いみたいなものがじわじわと伝わってきて、
途中から涙してしまいました。
私は過去に何度も流産を経験し、その後大変な思いで出産もしました。
ここ数年で両親を病気で失い、死を身近に感じたこともあり、
監督が訴えている 命の尊さ が痛いほど胸に突き刺さりました。
監督のような素晴らしい人でも大叔父のように年老いて、
いつかはこの世を去らねばならない悲しい現実。
それが生きるということ。
また人間はその尊い他の命をいただかなければ生きてはいけない事も
魚を捌いたり、また時には鳥にさばかれそうになったり、というシーンの対比で表現されています。
大切なのは感謝の気持ちと、いただいた「命」の連鎖として、与えられた「命」を大切にすること。
そしてタイトル通り、その尊い命で君たちはどう生きるのか、というのが一番のテーマではないでしょうか。
主人公は最後に「与えられた無垢の石で新しい世界を築く」という用意された道を拒否し
「元の世界に戻って友達と協力して生きていく」ことを自分で決めます。
嘘や隠蔽などでいっぱいのこの世の中で「自分で考えて生きること」が大切だと訴えているように思いました。
継承したい事は沢山あるが、「自分で考えて生きること」が大事という
監督からのエールのような、願いのようなバトンを、
是非若い世代の人たちに受け取って欲しいです。
今はつまらなかったと書いている人たちに、何年か後にもう一度見て欲しいと思いました。
また悪意に満ちた世界でも、救いは友の存在であるとも教えてくれています。
小学生の息子も一緒に楽しんで見られました。
本当に素晴らしい映画でした。
宮崎監督の最後の作品とのこと。自らの作品へのオマージュと、これからの世界を築いていく後進への期待とで詰まった作品かもしれない。そんな気がしました。
前の作品で一区切りついたと思っていた訳ですが
新作が出来たからには観ない訳には ・_・イカン
…などと、思い詰めて観に行くつもりは無いですが
やはり今までの作品鑑賞とは違った気分がします。
さあ鑑賞。
第2次世界大戦中のリアルなお話。…と思わせて
少年が異世界に行ってしまうお話でした。
母親が入院している病院が火事に。 大変だ。
どうやら母は亡くなってしまったらしい。
母の妹(叔母)と父が結婚する事に。 …展開早くないですか
叔母のお腹には弟か妹がいるらしい …手も早くないですか
母の実家の洋館には別館があり、アオサギが飛んできます。
アオサギに導かれて別館に消えた叔母。
叔母を追って洋館に立ち入る少年。(と湯婆婆みたいな老婆)
この辺りまでは、それなりに楽しく鑑賞。
若返った湯婆婆(みたいな)の一人と
火を操る若く美しい娘が登場。
どうやら異世界のようだ。
擬人化したペリカンやインコがいる。(…可愛くない ・-・;)
そして
この世界を創った男がいるらしい。
この辺りから、アタマに「?」が立ち始めます。
実は、火を操る少女は少年の母親。
この世界を創った男は、実は母親の大叔父で
世界を受け継ぐものを探しているという…。
ああ、そうか。
宮崎監督は
自分のこれまでの作品を自らオマージュしながら
この後に続く世界を後進に委ねようとしているのか
飛び立つ沢山の鳥は、若きこれからのクリエイター達
を示しているのだろうか
などと、そんな事を考えながら帰宅しました。
う~ん。
全くの的外れかも知れませんし,どうなのでしょう。
本当の所は誰にも分からないのかも知れません。
※同じタイトルの「本」を読むと
理解が進むのでしょうか… はて
◇余談
本編上映前の予告編
普通なら「入っている客層」をターゲットにして
また来てくれそうな作品の予告編を流すものと思うのですが、
今作では見事にバラバラでした… ・_・;
・ホラー作品(目を背けたのでタイトル不明 @_@)
・山田洋次監督作品(吉永小百合、大泉洋)
・トランスフォーマー
・クレしん (しんちゃんも3D!)
・すみっこぐらし(3作目。 観ます♡)
etc
シニア層向けから就学前のお子さん向けまで。
「君たちは-」がどんな客層でも対応できるようにとの
そんな予告編のラインナップでした。
※子ども向けの作品なら、予告もアニメ作品が多いとか
あると思うのですが、違ったなぁ、と。
※この作品にどんな客層が入るのか全く予測不能
だったのかもしれませんね。 (と、真面目に考察)
◇最後に
大叔父さんを見ていて
未来少年コナンのラオ博士の最後のセリフが
アタマに浮かんで来ました。
” 君たちの時代が始まるのだ
素晴らしい未来を創っておくれ」
ビジュアル的には全く似ていない二人な訳ですが
何故か、脳裏から消えません。
◇大団円
宮崎監督のこれまでの活躍には「お疲れさまでした」と
感謝の気持ちしかありません。
今までの素晴らしい作品、ありがとうございました。
☆映画の感想は人さまざまかとは思いますが、このように感じた映画ファンもいるということで。
全741件中、201~220件目を表示